船橋港 SHIRASE(旧しらせ)見学 |
初代砕氷艦「しらせ」は現在、船橋港に係留されています。 とはいっても、勝手に船橋港に行って「しらせ」を見学することはできません。見学をするには「しらせ」を所有するウエザーニュース社のHPから見学の申し込みが必要です。(見学は無料) 見学当日はJR京葉線の新習志野駅前に集合、そこから送迎バスで船橋港に向かいます。 集合時間前になると、駅を出て右手側に大型のバスとオレンジ色(しらせ色)の腕章を付けたウエザーニュース社の職員がいるのですぐに分かります。 ちなみに新習志野駅は京葉線の東京駅から11番目の駅で、東京駅からの所要時間は約30分、運賃は450円です。 |
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新習志野駅からバスに乗ること約10分、車窓から「SHIRASE」が見えてきました! 言うまでもなく、「SHIRASE」は先代の砕氷艦「しらせ」です。 1982年11月に就役し、以来25年間に渡って南極への人員と物資の輸送業務、さらには航海中の観測業務に携わってきました。 2008年7月に退役、引き取り先が決まらずに一時は解体の危機に晒されましたが、ウエザーニュース社(WN社)に購入され、2010年5月から同社の気象や自然環境に関する情報発信・研究施設として第二の人生を送っています。 一時は解体も覚悟しただけに、元気な姿を見てホッとしました…。 |
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バスは「SHIRASE」に到着、ラッタルを昇って入場(乗艦)します。 当然ですが、舷門では当直士官や当直の海曹士による出迎えはありません(笑) 見学は1日3回(現在は2回に変更)行われ、1回の見学における定員は20人です。艦内の公開は5月2日から始まり、私が訪問したのはその直後とあって、平日の見学でなければ申し込みができないほどの人気ぶりでした。 「しらせ」を引き取ったWN社ですが、千葉市に本社を置く世界最大の民間気象情報会社です。 企業への気象情報の提供、テレビ局等メディアへの天気予報の配信など、様々な気象コンテンツビジネスを展開しています。 |
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乗艦後、見学者はまず観測隊員公室に通され、そこでWN社の職員から「SHIRASE」の概要や見学上の注意点などについて説明を受けます。 その中で、職員の方が「今日ははるばる大分から見学に来ている人がいま〜す♪」と私を紹介するではありませんか!他の見学者方々から「この兄ちゃん物好きやなぁ」みたいな目で見られてとても恥ずかしかったです…(笑) 観測隊員公室ですが、約60人の観測隊員用の大会議室です。 様々な会議や打ち合わせ、研究報告会などに使用されたほか、「しらせ」乗組員を対象にした勉強会やレクリエーション大会もこの部屋で行われました。 |
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説明終了後、まずは艦首上甲板から見学が始まります。 この位置に立って艦尾方向を見ると、巨大な壁のようにそそり立つ艦橋構造物や幅広の船体など、「しらせ」がいかに巨大な艦であったかを実感させられます。名古屋港で保存されている「ふじ」とは比べ物になりません。というか、「ふじ」が小さすぎ…(笑) 「しらせ」は全長134m、基準排水量1万1600t、船体幅は最も広い場所で28mもあり、補給艦「ましゅう」が就役するまでは海自最大の艦艇でした。 マスト上にある小さな箱のような施設は第2艦橋で、見通しの悪い天候時にはこの施設から操艦できるようになっていました。 |
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「しらせ」は主に艦首部分と艦尾部分の艦内が倉庫区画となっていますが、これは艦首部艦橋構造物寄りにある2番貨物庫と呼ばれる倉庫です。 主に雪上車や大型の物資が積載された場所で、航海中はハッチで閉じられていますが、荷役作業の際にはご覧のようにハッチが開けられ、上甲板上に設置されている大型クレーンを用いて積み降ろしが行われました。 「しらせ」には南極観測業務用に8ヶ所の貨物倉があり、1回の航海で10tトラック100台分の物資を運びました。「ふじ」と比べ砕氷能力だけではなく、物資の輸送力も大きく向上したのが「しらせ」の特徴です。 |
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再び艦内へ。まずは科員食堂です。 幹部とCPOを除く乗組員と観測隊員用の食堂ですが、かなりの人数が使用するので他の海自大型艦の食堂よりも遥かに広く、席の数も多いです。さらに舷窓沿いにはソファーが置かれたサロンのようなスペースもあって、この場所が長期間の航海における憩いの場・オアシスであったことがうかがえます。 私は「しらせ」最後の航海を収録したDVD(海幕広報室制作)を持っているのですが、そのDVDには科員食堂で食事をしたり、お正月用のお節料理を作ったり、元日に獅子舞を舞って新年を祝うなど、乗組員と観測隊員の生き生きとした姿が収録されています。その場所に自分が立っていると思うと感慨深いものがありました。 |
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科員食堂の一角に「しらせ」の艦名の由来ともなった白瀬矗陸軍中尉の写真が飾られていました。 白瀬中尉は秋田県金浦村(現にかほ市)の出身で、51歳だった1912(明治45)年1月28日に南極探検隊を率いて南極大陸に上陸。天候や食糧事情から南極点到達は断念したものの、気象観測や地形調査等を実施して日本の南極観測の礎を築きました。しかし、白瀬中尉には帰国後に南極渡航のために作った借金が重くのしかかり、以後20年以上かけて返済に追われるという悲運に見舞われました。 砕氷艦「しらせ」の艦名は、白瀬中尉の名前を直接付けたのではなく、白瀬中尉が発見した白瀬氷河から命名されました。 |
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科員食堂に隣接する調理室です。 乗組員170人、観測隊員60人の食事をここで作っていました。 調理室も大型艦艇と比べ倍以上の広さがあり、大がまや揚げ物を作るフライヤーなど調理用設備も数が多く充実していました。 南極への航海は長く厳しいだけに、乗組員と観測隊員にとって食事は活力の源であり最大の楽しみでもあります。それだけに給養員には相当な重圧がかかったでしょうし、激しい揺れの中で調理を行うのも大変な苦労があったのではないでしょうか。 「ふじ」のように |
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観測隊員私室です。2人で1部屋を使用します。 ロッカーと一体化した机、二段ベッド、ソファーという構成は新「しらせ」と同じですが、広さは新「しらせ」よりもやや狭いです。 ご覧のように木材がふんだんに使用されており、まるで掃海艇の士官私室のようです。長い航海を強いられるだけに、部屋は温もりのある雰囲気にという配慮でしょうか?(ちなみに新「しらせ」では机やベッドはスチール製です) 「しらせ」には観測隊員私室が30近くありますが、WN社では自然環境や気象を研究したり情報発信する民間のグループへの貸し出しを検討しているということです。 |
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観測隊員私室ですが、こちらは個室です。観測隊長もしくは副隊長の私室と思われます。 観測隊を束ねる隊長と副隊長はこのように別格の待遇です。このほかに「しらせ」で個室を与えられているのは艦長だけなので、観測隊長と副隊長は艦長並みの格を有しているとも言えます。 観測隊は国立極地研究所など研究機関の研究員や職員が大部分を占めており、隊長も代々、国立極地研究所の教授が、副隊長兼越冬隊長は同研究所の准教授が務めています。 観測隊員居住区には、このほか報道記者・カメラマンといった観測隊に同行するオブザーバー用の私室(4人部屋)も用意されています。 |
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観測隊員用の浴室です。洗い場とステンレス製の浴槽があり一般的な海自艦艇の浴室と全く同じです。もちろん、浴槽に張られたお湯は海水だったことでしょう。 南極圏近くの海はすさまじいほどの荒天で、艦も猛烈に揺れるので、そんな時の入浴はさぞかし大変だったでしょうねぇ。 近年、観測隊員には女性もいらっしゃるので浴室はどうしたんでしょうかね?この「しらせ」には女性居住区はないので、時間帯によって浴室を使い分けたか、ここ以外にも浴室があって男性用と女性用に分けたのかも知れません。 このシンプルな浴室を見て、「しらせ」が他の海自艦艇同様“軍艦”であることを感じました。 |
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こちらは「しらせ」乗組員(海曹士)の居住区です。ここにも木材がふんだんに使われています。 よく見るとベッドは二段ベッドです。「しらせ」が建造された頃の海自艦艇の科員居住区はまだ三段ベッドの時代でしたのでかなり異例です。艦が大型なのでスペース的な余裕があったためだと考えられますが、やはり長く厳しい航海を耐えるために居住性に配慮した事もあると思います。 先代の砕氷艦である「ふじ」は当然三段ベッドでしたので、観測隊員だけではなく乗組員の居住性の向上という点も、「しらせ」の大きな特徴と言えるでしょう。 |
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医務室です。 医務室は処置室・手術室・入院室の3つの区画に分かれており、←の画像は手術室です。 どの部屋も殆どの医療機器や薬品等の備品が持ち出されガランとしているのですが、この手術室は天井にある独特な照明と手術台が残っており、ここで医療処置が行われていた面影をとどめています。 退役した艦艇なのでこのガランとした状態が普通なのですが、そう考えると、「ふじ」の今も現役かと見間違うばかりの医務室は、細部にまでにこだわった見事な再現だと改めて驚いてしまいます。見事すぎて少々不気味なのが難ですが…(苦笑) |
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お馴染みの回転灯が回っているのは理髪室です。 「しらせ」も理髪室を有する他の海自艦艇と同様、理容師が乗っている訳ではなく、理髪が得意な乗組員が髪を切ってくれます。 ちなみに、この理髪店は「恐怖の理髪屋・タイガーカットハウスしらせ本店」という名称です。いったい何が恐怖なのでしょうか?もしかしてとんでもないヘアスタイルになってしまうという意味でしょうか?だとすれば怖い…(苦笑) 「乗組員・観測隊員は無料」という貼り紙がありましたが、そもそもこの艦には乗組員と観測隊員しかいないのでは…(笑) 室内は椅子も鏡も撤去されて何もありませんでした。 |
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観測室です。 「しらせ」には観測の内容に応じて5〜6ヶ所の観測室が備えられていますが、ここはその中でも最大の広さを誇ります。 入口に「海洋観測室」との表示があった(ような気がする)ので、恐らく南極圏の海洋生物の研究や海水中に生息するプランクトンの研究などが行われていた部屋ではないかと考えられます。 現在は、WN社のグローバルアイスセンターとなっており、北極や南極をはじめとする世界中の海氷の監視・分析をするとともに、解析情報を世界中に発信しています。 他の観測室にもWN社の機器が設置されており、何らかの観測施設になるものと思われます。 |
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グローバルアイスセンターに設置されたモニターは、世界中の海氷の状態をリアルタイムで表示しています。 観測には人工衛星を使っており、右のモニターは、北極と南極の現在の海氷状態を表示しています。 このグローバルアイスセンターのほかにも、「しらせ」には首都圏のゲリラ豪雨を観測・研究する施設や、地震・津波・火山を分析する施設、テレビスタジオ・研修施設などが設けられる予定で、まさに自然環境や気象変動について研究し・情報を発信する施設に生まれ変わる予定です。 南極の厳しい自然と闘い、なおかつその自然を観測し続けた「しらせ」にふさわしい第二の人生だと思います。 |
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「しらせ」見学の最後は、いよいよ艦橋に足を踏み入れます。 広い!幅が28mもあるので本当に広いです。艦の幅は「しらせ」も新「しらせ」も同じ28mなので、艦橋の広さも新「しらせ」に匹敵するほどです。ただ航海用機器が旧式で小さい分、新「しらせ」よりも広々と感じます。 天井や機器の側面などには艦の動揺時に掴まる手すりが付けられています。南緯40度から60度にかけての暴風圏は南極への航海で避けては通れない場所ですが、そこでは凄まじい暴風雨に遭遇し、「しらせ」のような巨艦も木の葉のように翻弄されます。 2001年の航海では左に53度、右に41度傾き、海自の最高動揺記録を打ち立てました。 |
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艦橋右舷側にある艦長席です。 「しらせ」の艦長は一等海佐の職で、就役から退役までの25年間に14人が艦長を拝命しました。 長期間で、なおかつ暴風雨やぶ厚い氷を突破しなければならない過酷な航海の指揮を執るだけに、どの艦長も操艦が巧みなベテランというだけではなく、若い頃から南極への航海を重ねたスペシャリストでした。 実は、海自には若い頃から南極への航海を重ね、その後に海幕の南極観測支援室に勤務する南極航海の達人ともいうべき幹部がいて、彼らは「ペンギンファミリー」と呼ばれています。「しらせ」の艦長や副長はこの「ペンギンファミリー」から選ばれます。 |
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操舵輪です。 “軍艦”らしからぬこの舵輪は、言うまでもなくダミーです。本物の舵輪は退役の際に記念として海自が取り外したということです。 同じく、艦橋中央部の航海指揮官が立つ場所にあったジャイロコンパスも取り外されていました。 「しらせ」の舵輪とジャイロコンパスは、恐らく横須賀地方総監部の何処かで保存されていると思われます。 「しらせ」の南極への航海ですが、25回中24回成功しました。 唯一辿り着けなかったのは1997年の第39次隊で、この時は接岸地点から40km手前で厚さ4.5mの厚い氷に行く手を阻まれてしまいました。 |
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艦橋に隣接してCICがあります。退役した砕氷艦とはいえ、“軍艦”のCICに立ち入れるのは非常に貴重な機会です。 戦闘艦艇のCICは被弾時の残存性を考慮して船体内部に設けられるのが一般的ですが、「しらせ」にとっての敵は暴風雨やぶ厚い氷など航海を妨げる過酷な自然なので、CICが艦橋に隣接した場所にあるのだと考えられます。レーダ画面を睨みながら過酷な自然と格闘した電測員の姿が瞼に浮かびました。 CICという貴重な場所が見学できた一方で、艦長室や士官室、士官私室、機関操縦室などは公開されていませんでした。せめて「ふじ」並みに士官室や士官私室は公開して欲しかったなぁ…。 |
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艦橋の見学を終え下艦しました。私を含めて皆さん「しらせ」の外観を存分に撮影したあと、見学者全員で記念撮影をしました。 艦が軽くなり浮き上がっているため、本来は水面下にある特徴的な艦首形状が良く分かります。喫水線下の艦首は砕氷効率に優れた21度の角度が付けられています。「しらせ」は厚さ1.5mまでの氷なら航行しながら砕氷が可能で、それよりも氷が厚い場合はチャージングを繰り返して砕氷航行を行いました。 新天地・船橋港で新たな任務に就いた「しらせ」。気象観測施設・情報発信基地としての新たな人生も、砕氷艦時代と同様の大きな成果を挙げることを願いつつ船橋港を後にしました。 |