下関港 DDH「ひえい」最終公開 |
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下関での「ひえい」一般公開は、この数日前にたまたま見た山口地方協力本部のHPで知りました。「ひえい」は今年度末に退役する予定で、12月からは兵装の撤去等の退役準備も始まります。ということは、これが最後の一般公開になるかも知れません。 「ひえい」にお別れをするために、そしてその雄姿を写真に記録すべく下関へ向かいました。 ↑は関門海峡と関門橋です。関門海峡は瀬戸内海と東シナ海を結ぶ海上交通の要衝ですが、幅が狭く(最も狭い所は600m)、潮流も速く、しかも1日に4度も潮流の向きが変わるという、まさに国内随一の海の難所です。去年10月、観艦式から母港・佐世保に帰投中の「くらま」が貨物船と衝突し、炎上したのもこの海域です。 |
午前7時45分。遠くに「ひえい」の姿が現れました。朝もやの中から「ひえい」の重厚な姿が現れた瞬間は、ゾクッとするほどのカッコ良さでした♪気がかりなのは周囲に船が多い事。貨物船など海峡を往来する船舶に加え、海峡で漁をしている漁船がたくさんいるのです。「ひえい」がうっかり漁船を蹴散らして沈めてしまおうものならそれこそ一大事です。「無事に通過してくれ!」。心の中で祈らずにはいられませんでした。 この時「ひえい」は艦首をやや陸地へ向けて航行していますが、これは関門海峡の航路が曲がりくねった複雑な形をしているためです。このため関門海峡を航行する大型の民間船舶には水先案内人の同乗が義務付けられています。 |
「ひえい」は漁船の群れの中を無事通過、関門橋の下をくぐって下関港に向かって航行して来ます。 漁船を蹴散らすこともなく一安心なのですが、次なる不安が私を襲いました。そう、ちょうどこの場所は「くらま」が貨物船と衝突した地点なのです。しかも「ひえい」は右舷側に位置する下関に入港するため、対航する船舶の航路を横切らなければなりません。車に例えると右折して対向車線を横切る必要があるのです。 釣りをしていたおじさんが「ひえい」を見て一言。 「あの船、この前ここで貨物船とぶつかった船やろ?」。確かに「ひえい」と「くらま」は似ていますが…(苦笑) |
運良く対航する船舶はなく、「ひえい」は悠々とあるかぽーと埠頭に近づいて来ました。 それにしても「ひえい」は美しい!!背負い式に配置された2基の主砲、重厚な佇まいの艦橋構造物、そしてマック形状のマスト、これらが見事なまでの造形美を醸し出しています。こんなに美しい艦が間もなく退役だなんて…本当に残念です…。 ただ考えみれば、「ひえい」は艦齢が36に達する相当なお婆さんです。自衛艦の平均耐用年数が25年程度であることを考えると、かなり長生きをしていると言うことができます。「ひえい」は1974(昭和49)年11月に就役、建造した造船所は2002年に閉鎖された石川島播磨重工東京工場でした。 |
下関には下関基地隊という部隊があるので、そこの隊員が舫作業などの入港支援にあたります。 青い作業着の方々が下関基地隊の隊員です。入港2時間前の午前6時ごろから入港のための様々な準備を行っていました。 下関基地隊は関門海峡と周辺海域の警備と防衛を任務とする部隊で、太平洋戦争中に米軍が仕掛けた機雷を除去する下関航路啓開隊として発足しました。今でも時折、関門海峡から戦時中の機雷が発見されることがあり、下関基地隊が爆破処分を行っています。関門海峡は対馬海峡・東シナ海に繋がるため佐世保の警備区で、下関基地隊も山口県にあっても佐世保地方隊の部隊です。 |
「ひえい」が入港後、すぐに艦長の染田一佐(左)が埠頭に降りて来て、下関基地隊司令の内田一佐(右)に入港支援に対するお礼の言葉を述べていました。染田一佐は今年4月から「ひえい」の艦長を務めています。前職は舞鶴地方総監部の防衛部第3幕僚室長でした。「ひえい」最後の艦長として、来年3月に自衛艦旗を返納する役目を担うことになります。 一方、内田司令はこの3ヶ月後の12月1日付けで海将補に特別昇任し、海自を退職されました。朝日が差し込む埠頭に、金線が4本入った肩章を付けた一等海佐が2人もいるとかなり眩しかったです。 |
一般公開は午前9時30分から開始。まずは上甲板を見学です。 背負い式に配置された2基の主砲が「ひえい」の魅力のひとつですが、これは艦の後ろ半分にヘリコプター用の施設を設けるために、2基を前甲板に集中配置したものです。つまり帝国海軍の航空巡洋艦「利根」型と同じ設計思想です。 この砲の名称は73式54口径5インチ単装速射砲です。「たかつき」型から採用され、かつては大型護衛艦の標準装備でしたが、「はたかぜ」型を最後に装備されなくなりました。弾薬庫からの揚弾と砲身への装填が完全自動化され、1分間に40発の射撃が可能です。 ちなみに砲は手前から51番砲、52番砲と呼ばれています。 |
艦橋構造物に入ってすぐの所、艦の玄関に相当する場所に「ひえい」の表札と艦の歴史を記したプレートが飾られています。 プレートには昭和49年11月に就役して第1護衛隊群に配備された事をはじめ、平成7年の呉への転籍、リムパック等の多国間訓練への参加、海外派遣任務、ドックでの定期検査など、36年間に渡る「ひえい」の輝かしい歴史が刻まれています。 驚いたのは、「ひえい」が何度も護衛艦隊の年度優秀艦に選ばれていること。昭和51年を皮切りに、53年、54年、59年、60年、61年、平成元年、2年、3年、6年、14年と、実に11回も栄誉に浴しているのです。 まさに「ひえい」はその艦容だけではなく、実力も素晴らしい名艦であると言えるでしょう。 |
艦橋です。古い艦にも関わらず手入れが行き届いていて本当にキレイです。 海自艦艇はどの古参艦も、その古さを感じさせないほど艦の隅々まで入念に整備して美しさを保っています。「整備が行き届いた艦=精強な艦」という考えがありますが、「ひえい」の古さを感じさせない美しさはまさに精強さを体現していると言えます。 操舵装置や速力指示器、航海用レーダーなどの装備品はみな古いタイプのものばかりですが、それがかえって軍艦の艦橋らしい雰囲気を漂わせています。私は「あたご」や「むらさめ」など最新の航海用機器を備えた艦よりも、「ひえい」や「くらま」といった古い艦の艦橋の雰囲気が好きです。 |
一佐用の真っ赤なカバーが掛けられた艦長席です。 「ひえい」の艦長は一佐職(一)に該当する役職で、場合によっては一佐昇進が間近な古参の二佐が就くこともあります。おととし呉で乗艦した際には艦長が二佐の方だったので、艦長席は赤青二色のカバーが掛っていました。 「ひえい」に乗艦するのが最後になるかもしれないので、普段はあまりしないのですが、艦長席に座って記念撮影をしました。 一般公開では艦長席で記念撮影というのはお馴染みの光景ですが、これは民間人であるが故の特権で、艦長以外の乗組員がこの席に座れば厳罰に処せられます。 |
艦長席から艦橋を見渡すとこんな感じ。まさに艦長の視点です。席に座っていると艦長気分に浸ってしまい、思わず「航海長、面舵一杯だ!」とか「教練、対空戦闘用意!」とか叫んでしまいそうになりました(笑) 左舷側の席は指揮官用の席で、普段は第4護衛隊群司令用の黄色いカバーが掛かっているのですが、この日「ひえい」は群司令以下の司令部スタッフを呉に降ろして個艦で下関に来航しているため、カバーが掛けられていません。 窓から差し込んできた日光が床面で反射しています。いかに艦橋内が美しく磨き上げられているかがお分かりになると思います。 |
艦橋中央にあるジャイロコンパスの直上には、ご覧のような計器が並んでいます。左の3連装の計器は、主機(機関)の回転数と舵の角度を表示するメーターです。その横の黒い計器は速力計、一番右は艦首が向いている方角を示す計器です。 退役近しということで、このような計器類をはじめとして艦橋内の隅々まで写真に収めました。撮影しながら「退役で計器を取り外したらどれか分けてくれないかなぁ…」との思いが脳裏をよぎりました。無理でしょうけど…。3連装の計器には東京・千代田区にある日枝神社の安全祈願ワッペンが貼られています。「ひえい」がかつて横須賀籍の艦だった名残ですね。 |
ヘリコプター格納庫です。対潜ヘリ3機が搭載できますが、かつてはものすごく広く感じたこの格納庫も、最新鋭DDH「ひゅうが」の広大な格納庫を見てしまった今では車庫のようにしか感じません(笑) 「ひえい」(「はるな」型)では、ヘリ搭乗員待機所などがある区画が左舷側にあって、右舷側に奥まで格納スペースがありますが、「しらね」型ではこれが逆になっていて、左舷側が奥まで格納スペースが延びています。この違いは何に由来するのか分かりませんが、興味深いですね。格納庫は公開では格好のサービススペースで、この日も麦茶が提供されたり、海自グッズが無料で配布されていました。 |
格納庫にはご覧のような展示がありました。「ひえい」に実在している隊員の経歴ということで、プロフィールや乗り組んだ艦名、航海で寄港した港名、参加した海外派遣任務が記されていました。 この隊員は愛知県出身の50歳で、勤務した艦は「たちかぜ」「あさぎり」「さわゆき」「いそゆき」「せとゆき」「ひえい」の6隻。寄港した国内港は函館など50ヶ所、海外派遣はリムパックなど16回という、まさに誇るべきベテラン隊員の経歴です。顔写真は人物が特定されないよう目を黒線で消していますが、この隊員は先任伍長の荻野海曹長です(笑) この洒落っ気たっぷりのセンスは好きだなぁ…。 |
自衛艦旗が風でいい感じではためいていたので関門橋と絡めた構図で撮影してみました。 「ひえい」最後の雄姿を撮影しようと、この公開には当HPでお馴染みのM.Hさんも駆けつけており、氏と自衛艦旗の前に並んで記念撮影もしました。私も含めマニアの方々はそれぞれに「ひえい」とのお別れをしているようでした。 あるかぽーと埠頭は関門海峡と関門橋を見渡せる絶好のポイントということもあり、名古屋港同様、周辺は観光地化しています。画像左端の変わった形の建物は「しものせき水族館・海響館」です。その隣には巌流島や対岸の門司への渡船の乗り場もあります。 |
巌流島行きの渡船に乗って「ひえい」の海上撮影に挑戦しました。 渡船というと海峡をのんびりと航行するイメージがありますが、この巌流島行きの渡船は、ミサイル艇も顔負けの猛烈な速度で関門海峡を爆走します。揺れるの何のって、言葉では表現できないすさまじい揺れでした。 なので、「ひえい」を上手く捉えることができず、捉えることができても手ブレしまくったりと、まったく撮影には不向きでした。それでも何とか数枚だけ撮影に成功しました。↑の画像は、艦にやや近すぎる位置からの撮影ですが、レンズの広角側の効果によって艦首部分が強調され、「ひえい」らしさがよく表れた1枚となりました。 |
重厚感あふれる艦橋構造物が「はるな」型の魅力ですが、これは昭和62年から平成元年にかけて実施されたFRAM(艦齢延長特別改装工事)により現在の姿になりました。 それまでは艦橋上部や煙突周りには殆ど装備がないすっきりとした形状でしたが、FRAMにより衛星通信アンテナやCIWS、電子戦装置(ECM・ESM)、シースパロー発射機などが新設されたほか、射撃指揮装置や各種レーダーが増設されました。 これにより「ひえい」「はるな」は、「しらね」型と同様の高い電子戦能力と情報処理能力を持つ高性能艦に変貌を遂げたのです。 まさに、「はるな」型の美しさ・重厚感は長い年月の中で熟成されたものと言えるでしょう。 |
渡船は出港後わずか7分で巌流島に到着します。 巌流島は至近距離にあるのに、なぜ渡船があれほどまでに爆走するのかまったく理解不能です(苦笑) 巌流島は宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したことで有名な島ですが、島といっても海岸線の総延長はわずか1.6km、面積は10万㎡足らずで、山もないことから埋立地のような印象を受けます。戦後すぐの頃は30世帯程度の民家がある有人島でしたが、1973年以降は無人島になっています。島内の一部は公園として整備されており、武蔵と小次郎の銅像もあるのですが、私とM.Hさんはその公園に行くことなく桟橋に降りた瞬間すぐに帰りの渡船に乗り込んだため、係員から怪訝な目で見られました。 |
巌流島と海峡を挟んだ対岸に三菱重工下関造船所があります。 この日、造船所内には1隻の掃海艇がいました。この艦番号689の掃海艇は「すがしま」型掃海艇の9番艇「あおしま」です。沖縄基地隊の第46掃海隊に所属しており、恐らく定期検査のため下関造船所を訪れていたものと思われます。 下関造船所は三菱重工が擁する3つの造船所のうちのひとつで、主に貨物船や客船、自動車運搬船等を建造しています。数は少ないものの海自艦艇も建造しており、最近では「はやぶさ」型ミサイル艇全6隻がここで生まれました。渡船が猛烈な速度で航行するのは、下関が「はやぶさ」型の生まれ故郷だからでしょうか…? |
帰りの渡船に乗って巌流島からあるかぽーと埠頭に戻ると、時刻はちょうど正午でした。埠頭の近くにファミレスを発見、速攻でそこに飛び込みました。速攻で飛び込んだのは、私がファミレス好きだからという訳ではなく、その場所が「ひえい」の真横だったからです。 窓側の席に陣取ると、予想通り「ひえい」を真横からばっちり眺めることができるではありませんか! その時に窓から見えた「ひえい」が↑の画像です。M.Hさんと一緒に「ひえい」を眺めながらビールを飲み、ココスハンバーグに舌鼓を打ちながら艦艇談義に花を咲かせる…嗚呼、至福のひととき~♪ |
楽しいランチの後、しばらくの間埠頭で「ひえい」を撮影しました。去年、退役直前の「はるな」を撮影した時もそうでしたが、これで最後かと考えると後ろ髪を引かれる思いがして、なかなか艦を離れることができないのです…。 振り返ってみると、「ひえい」は姉の「はるな」同様、私にとっては特別な存在の艦でした。独特の造形美を持ち、帝国海軍の高速戦艦の名を継ぐ「ひえい」と「はるな」は、私が海自に興味を持つ契機となった艦です。特に「ひえい」は呉の艦ということで、最も多く乗艦した愛着いっぱいの海自艦艇です。 さらに先代の戦艦「比叡」には、かつて祖父が乗り組んでいたこともあり、その意味でも私とは深い縁・絆を感じる艦です。 |
1960年代半ばに軽空母の建造を画策した海自は、諸事情により空母を諦め、代わりに世界でも類を見ない「航空巡洋艦」とも言うべき「はるな」型を生み出しました。「ひえい」の退役により「はるな」型は姿を消しますが、それが実質的なヘリ空母である「ひゅうが」型の就役と入れ替わりというのはまさに歴史のめぐり合わせと言えるでしょう。 その独特な設計思想と造形美で海自艦艇史にその名を刻み、さらに猛訓練で培った精強さをもって長年海上防衛の第一線に立ち続けた護衛艦「ひえい」。その美しさと強さを、私たちは決して忘れることはないでしょう。ありがとう「ひえい」。そして、さようなら。 |