「あきづき」出港見送り&佐世保遠征 |
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去年10月に、購入したばかりの愛機・ソニーα7Ⅲの試験撮影で訪れて以来の佐世保遠征です。ここは海自・倉橋岸壁の対岸に位置する干尽町の岸壁、倉橋に停泊している海自艦艇を至近距離から撮影できる超定番の撮影スポットです。 佐世保遠征の際には必ず訪れるこの場所ですが、今回はある目的があっての訪問です。実はきょう午前、倉橋岸壁からある艦が中東海域における日本船舶の安全確保に向けた情報収集活動に出航するのです。このような海外派遣任務の出航は平日が多いのですが、今回の派遣では珍しく日曜に出港と聞いて、見送りと撮影を行うべく馳せ参じた次第です。この岸壁から海外派遣の艦を見送るのは2010年12月の第7次ソマリア派遣以来10年ぶり、尊い任務に旅立つ艦と乗組員をお見送りさせていただきます。 |
第5次となる中東派遣任務に就くのはDD「あきづき」です。2012年3月の就役なので艦齢は9年ですが、私のようなオジさんマニアにとっては就役がついこの前のように感じます。もう9年か…光陰矢の如し。登場した時には思わず「変なカタチ!」と叫んでしまったほど違和感バリバリだった艦容も、今ではむしろスタイリッシュにすら思えます。慣れとは恐ろしいものですねぇ(笑) 「あきづき」ですが、海外派遣任務は今回が2回目となります。前回は2015年7月から12月までの間、「さわぎり」と共にソマリア海賊対処の第22次隊としてソマリア沖アデン湾に進出しました。全部で4隻しかいない事もありますが、「あきづき」型DDの海外派遣は珍しく感じます。出国行事は午前10時、出港は午前11時、まだ2時間以上もあるので「あきづき」の艦上に慌ただしさはありません。 |
「あきづき」の出港約1時間半前の午前9時半過ぎ、倉島にある海上保安庁の桟橋から巡視船「ちくご」が出港しました。きょうの「ちくご」は「あきづき」の中東派遣を海上から妨害する人物・団体を排除し、「あきづき」を無事に出港させることが任務なのです。出港後、佐世保港内を微速航行または停泊して、不審な動きがないか目を光らせていました。 |
午前10時になり出国行事が始まったようですが、私がいる岸壁からはその様子は見えません。時折、会場のスピーカーから流れる訓示などが風に乗って僅かに聞こえてくる程度です。地元紙・長崎新聞によると岸信夫防衛大臣の訓示を大西宏幸政務官が代読。ソマリア海賊対処にあたっているジブチの活動拠点で新型コロナの集団感染があったことにも言及し、「気を緩めることなく感染対策を徹底するように」との指示も伝えられたとのことです。艦艇は典型的な密空間なので、いったん感染者が出ようものなら瞬く間に拡大します。ソマリアの海賊に加え、見えないウイルスとも闘わないといけない乗組員の苦労たるや察するに余りあります。 |
出国行事が終了と同時に、倉島岸壁で「あきづき」の後方に停泊している「ありあけ」と「じんつう」のマストに信号旗UWが揚がました。出港する艦を他艦が見送る際の定番、「ユニフォーム・ウイスキー=ご安航をお祈りいたします」です。UWを揚げているのはこの2隻だけではありません。同じ倉島にいる「あまくさ」、さらには立神桟橋の停泊艦など佐世保在泊全艦のマストにUWが揚がっています。 私は初めてこのUW旗を見たのは30年前のちょうど今ごろの時期。1991年4月にペルシャ湾に向けて掃海部隊が出港した時です。その時、呉在泊の全艦がUW旗を揚げている光景を目の当たりにした私は涙が出そうなくらい感動した事を覚えています。初の海外派遣任務、しかも戦死者の発生すら予想されていた任務だけに、派遣部隊指揮官の落合1佐も「非常に嬉しく、勇気づけられた」とのちに語っています。マストに揚がったUW旗を見るたびに30年前の呉の光景が脳裏に甦ります。 |
佐世保港内を巡回していた巡視船「ちくご」が、倉橋岸壁の近くに戻ってきました。一瞬、「おや?もう任務終了なの?」と思ったのですが、「ちくご」は「あきづき」の横で反転し、再び佐世保港内に戻っていきました。どうやら、出港が近づいたので倉島周辺に不審な船舶や漂流物がないか確認しに来たようです。ご苦労さま、そしてありがとう!「ちくご」! こうして見ると、なかなかスタイリッシュかつ美しい船ではないですか!「ちくご」は海保の主力中型巡視船「とから」型の15番船で、現在24隻が全国各地の海上保安部に配備されています。私の地元・大分にも10番船の「やまくに」が配備されており、私も過去に何度か乗船したことがあります。1999年の能登半島沖不審船事案を教訓に建造されたため重武装かつ高速なのが特徴で、特に速力はウオータージェット推進によって35ノット以上を出すことができます。姉妹には「ちくご」以外に「いすず」「よしの」「あぶくま」「ふじ」など、海自艦でもお馴染みの名前の船がいて海保ファンならずとも心が躍ります♪ |
午前11時前、「あきづき」艦上で乗組員が慌ただしく動き始めました。出国行事が終わり、いよいよ出港の時を迎えたようです。 今回の派遣指揮官は第5護衛隊司令の長村1佐、「あきづき」艦長は中澤2佐です。中澤2佐ですが、「中澤候補生」と言えば「あの人か!」と顔が思い浮かぶ人が多いのではないでしょうか?幹部候補生学校における候補生の奮闘をドキュメンタリータッチで描いたDVD「江田島の青春」(2005年発売)の中で、陸戦訓練中に小隊長として疲労困憊の同期生を鼓舞し、極限状態の中でも小隊を統率していたあの候補生です。撮影から18年が経ち、中澤候補生は「あきづき」の艦長となって220人の乗組員を率いて中東に赴こうとしているのです。幹候校で発揮したリーダーシップを今任務でも発揮し、無事に完遂してくれるでしょう。頑張れ!中澤候補生!! |
「あきづき」の艦内スピーカーから「右、帽振れ」のアナウンスが流れ、甲板上の乗組員が帽振れで岸壁にいる見送りの人々に別れを告げます。岸壁には佐世保総監の出口海将をはじめ大勢の自衛隊関係者や乗組員の家族、さらには取材の報道陣がいます。そして自衛官は帽振れ、家族・関係者は手を振って「あきづき」を見送っています。家族にとっては一家の大黒柱が半年以上も不在、しかも日本から遠く離れた中東に赴くのですから、さぞや寂しくかつ不安のお気持ちでしょう。 とはいえ、海自はこれまで数多くの海外派遣任務をこなし、十分な実績をあげたばかりか1人の戦死者も出していません。なので、遠くから眺めているとはいえ、そこまでの悲壮感は感じられません。先に述べた91年4月のペルシャ湾掃海派遣の出港は、初の海外派遣、しかも戦争が終わった直後の地域への派遣ということで、出港風景はすさまじいほどの悲壮感に包まれていました。今生の別れといわんばかりに泣く家族らを目の当たりにして、私は「大戦中の出港時はこんな感じだったのかも…」と思ったほどでした。 |
「あきづき」は倉橋岸壁を離れ、佐世保在泊艦に別れを告げながら港外へと向かいます。今ごろ艦長の中澤2佐は艦橋かウイングで航海の指揮を執っていると思われます。DVDの中で見事なまでのリーダーシップを発揮していましたが、候補生当時そのままに今は「あきづき」の乗組員を一つにまとめあげ、今回の派遣任務を無事に達成してくれることと思います。 |
進路を妨害するような不審な船舶もなく、「あきづき」は順調に航行していきます。岸壁を離れたので曳船はお役御免なのですが、「あきづき」に寄り添うように一緒に航行しています。警備なのか見送りなのかは分かりませんが、湾の出口まで付いて行くようです。 中東派遣任務は防衛省設置法の「調査・研究」に基づくもので、オマーン湾やアラビア海北部で日本関係船舶の安全航行を確保するための情報収集を行います。新型コロナウイルス感染の有無など乗組員の健康観察を実施するため、「あきづき」は出港後2週間に渡って日本近海で各種訓練を実施、その後中東の任務海域へと向かいます。現在、4次派遣隊として大湊の「すずなみ」が任務に就いていますが、健康観察の結果に問題がなければ、「あきづき」は5月下旬に「すずなみ」から任務を引き継ぎます。現地で約4ヵ月間活動したあと6次派遣隊の艦にバトンタッチし、佐世保に戻ってくるのは10月下旬ごろの予定です。 |
「あきづき」を見送った後は鯨瀬埠頭へ、ここから遊覧船に乗って佐世保在泊艦を撮影します。もしかしたら出港した「あきづき」が湾内に停泊しているかもしれません。「あきづき」を海上撮影できるかもという淡い期待を抱きながら、遊覧船の乗り場へ向かいます。 |
遊覧船に揺られながら立神桟橋へ。「こんごう」と「いせ」の姿が見えます。佐世保は所属艦艇の総数をみれば横須賀や呉に遠く及びませんが、護衛艦が全基地中最多の14隻、この中にイージス艦が4隻もいるなど質的な充実ぶりが際立っています。 |
もう1隻イージス艦がいます。3月19日に就役し、13日前に佐世保に到着したばかりの最新鋭イージス艦「はぐろ」です。ミサイル護衛艦としては第6世代、イージス艦としては第3世代となる「まや」型の2番艦で、所属は第4護衛隊群第8護衛隊。この「はぐろ」の就役によって海自のDDGは全艦がイージス艦となりました。イージス艦第1号の「こんごう」の就役が1993年なので、DDGのイージス化に28年を要したことになります。「こんごう」と「はぐろ」が目刺しで停泊…イージス最古艦と最新鋭艦の競演という象徴的な光景です。 並んだ姿を見ると、同じイージス艦とはいえ、両タイプの相違点が明瞭に分かり、なかなか興味深いです。「はぐろ」はもちろんロービジ塗装ですが、通常塗装の「こんごう」と比べ格段に締まりのない艦容(褒め言葉です!)になっていることも分かります。米海軍の艦艇もロービジ塗装ではありますが、それと比べても海自のロービジ化の徹底ぶりは凄いです。 |
「はぐろ」を別の角度から。大きさが「こんごう」よりひと周り大きくなったことに加え、ステルス化が前タイプ「あたご」型よりさらに徹底され、いたる所が尖っています。素手で下手に触るとケガをしそうな雰囲気です(笑) 「こんごう」と比べると、特に煙突まわりを中心に「はぐろ」のエッジが効いたデザインがよく分かります。「はぐろ」と比べると「丸い」とすら感じてしまう「こんごう」ですが、これでも28年前にお目見えした時には「なんて尖った形をした艦なのだろう…」と驚いたものです。 ロービジ艦を締まらない艦容にしている際たる要因は煙突の黒帯廃止です。黒帯は排煙から出る煤による煙突上部の汚れを目立たなくするためのものですが、機関のクリーン化が進んで煤が出なくなったこともあり、ロービジ化の一環として廃止されました。私は艦番号と艦名のロービジ化はまだしも煙突の黒帯は残しても良かったのでは…と思っているのですが、遊覧船のガイドさんも案内の中で同じことを言っていて、私のような考えを持つ人が結構いることが分かりました。海自さん、黒帯は残しませんか…(笑) |
「いせ」の舷側に交通船が…そのマストには三つ星の海将旗が翻っています。この佐世保で三つ星の旗を掲げるといえば総監の出口海将に他なりません。交通船に乗って海上から「あきづき」を見送ったあと、ついでに「いせ」を視察なのでしょうか?私も一緒に視察したいぞ!(笑) ちょうどお昼時なので、視察のあとには士官室で昼食をいただくのかもしれません。ますます一緒に乗艦したくなりました。 思い返せばちょうど10年前、東日本大震災から僅か5日後に「いせ」は就役しました。初代艦長・星山1佐のお招きで自衛艦旗授与式に出席させていただきました。頻繁に余震が続く中での式典は、祝賀行事が中止になるなどやや寂しいものでしたが、自衛艦旗を掲げて出港する「いせ」の姿は、震災による先行き不安を吹き飛ばすほどの力強さでした。あれからもう10年か…。星山1佐は2015年に退官して現在は香川県にある造船会社で働いていますが、実はご自宅は佐世保にあります。私には呉から佐世保に転籍した「いせ」が、自らを精魂込めて作りあげてくれた星山さんを慕って佐世保に移って来たように思えてなりません。 |
「はるさめ」と「はまな」です。DDとしてはかなり大きい「あめ」型ですが、グラマラスな補給艦の隣だと小さく見えてしまいます。私の「推し艦」である「とわだ」型補給艦の末娘(3番艦)「はまな」ですが、就役が1990年3月なので早くも艦齢が31年に達しています。私が大学4年生になる直前、ちょうど就職活動を始めた頃です。ちなみに、長女の「とわだ」は34年、次女の「ときわ」が31年ですが、前型式の「さがみ」は艦齢26年で退役したので、国家財政のひっ迫が要因とはいえ、「とわだ」型は随分なご長寿補給艦ということになります。 「さがみ」の前型式は、海自初の補給艦(当初は給油艦)である「はまな」で、現在の「はまな」はこの栄えある艦名を継承した2代目ということになります。補給艦における「はまな」の名は、護衛艦の「あきづき」、潜水艦の「くろしお」と同様の誉れ高い艦名なのです。 「はまな」の煙突頂部にご注目!排煙による煤で排気筒と煙突本体上部が黒く汚れています。「とわだ」型の主機はディーゼルエンジンなので、現在主流となっているガスタービンと比べ排煙に煤が多いという要因もありますが、見事に汚れております。かつてあった黒帯が汚れをいかに目立たなくしていたかが良く分かります。海自さん、やはり黒帯は残しませんか…(笑) |
佐世保を母港とするもう1隻の補給艦の「おうみ」は、佐世保重工業(SSK)のドッグの中にいます。残念ながら?塗装はロービジに変更されているようです。ただ、「おうみ」(ましゅう型)の主機はガスタービンなので、「はまな」のように煙突上部が真っ黒に汚れることはないと思いますが…。去年10月に訪れた際に既にSSKに入っていたので、4~5年に一度の定期検査を実施していると思われます。 ここは佐世保海軍工廠だった場所で、終戦後に工廠の施設を受け継ぐ形で佐世保重工業(SSK)が設立されました。艦艇のみならず、数々の船舶を世に送り出して来ましたが、経営環境の悪化により来年1月を以て新造船の建造を休止し、経営を艦艇の修繕事業に特化することが既に発表されています。事実上、元の海軍工廠に戻ってしまうのですが、中韓との受注競争で苦境に立つ我が国の造船界を象徴する動きといえます。このような造船所の整理・縮小が、日本の造船技術の劣化に繋がらないことを祈るばかりです。 |
遊覧船がSSKの前を通り過ぎると、しばらくは何も撮る物がありません(笑) 佐世保湾内の海岸線はなかなか風光明媚ではありますが、フェンスに囲まれた数々の米軍施設が点在しているので、むやみに撮影しないようにしています。 ほどなくすると、佐世保湾と外洋(五島灘)を繋ぐ水道が見えてきます。佐世保湾の出入口は、この幅わずか850mの水道1ヶ所しかありません。海自艦艇のみならず、米海軍の艦船、民間船、フェリーなど佐世保港に入る船舶はすべてこの水道を通らなけらばなりません。この事は佐世保が外洋からの攻撃に対して強固な守りが可能な良港であることを示しており、明治の海軍が佐世保に鎮守府を置く最大の決め手となりました。海軍時代、佐世保には戦艦「金剛」「榛名」「霧島」、空母「加賀」「飛龍」といった大型艦が配備されていましたが、皆この水道を通って出撃していきました。そう考えると、この風景はなかなか感慨深いものがあります。眺めていると今にも水平線の向こうから艦が現れそうです。先ほど倉島岸壁を出港した「あきづき」も30分ほど前にこの水道を通過しました。 |
遊覧船は佐世保教育隊がある辺崎地区の沖合へ。そこには退役した「ゆき」型DDの姿がありました。この艦の現役時の名は「あさゆき」、去年11月16日に除籍されました。「ゆき」型の11番艦で1987年2月に就役、以来34年間一度も母港を変えることなく佐世保一筋の生涯を送ってきました。護衛艦が30年以上も艦歴を重ねる中で一度も母港が変わらなのは極めて稀で、「ゆき」型の中では「あさゆき」のみです。同型で最も転籍が多かったのは「しらゆき」(2016年退役)で、横須賀→大湊→横須賀→呉と3度の転籍を重ねました。 艦番号は消され、主砲をはじめとする兵装は全て取り外されていて今は海に浮かぶ鉄の塊に過ぎませんが、現役時代の精悍さをいささかも失っていないのは驚きです。死してなお武人としての威厳を保っているかのような「あさゆき」を目の当たりにして、涙を禁じ得ませんでした。このままスクラップになるなんて悲し過ぎる!できることなら即刻持ち帰って、実家の池に浮かべたいです。 |
退役した艦を見ていつも思うのは、艦上から人影が消えると艦から魂が抜けてしまうということ。退役艦がもの悲しい雰囲気なのは、艦名や艦番号が消されたり、兵装が取り除かれたからではなく、艦から乗組員がいなくなったからなのだと私は思います。 この「あさゆき」、私にとっては思い出深い艦です。「あさゆき」が就役する3日前の1987年2月17日、この日は妹「しまゆき」の就役日なのですが、この日に私は東京・御茶ノ水にある某私立大学を受験しました。「しまゆき」と「あさゆき」の就役を祝うかのように東京は朝から大雪で、私は雪が降りしきるなか試験会場へ。「神様がゆき姉妹の就役を祝っているんだなぁ…」と思いつつ試験を受けたことを昨日の事のように覚えています。残念ながら「しまゆき」「あさゆき」は退役しますが、私の青春の記憶の中で永遠に生き続けます。 |
遊覧船は倉島岸壁へ。先ほどマストにUW旗を掲げて「あきづき」を見送った「ありあけ」を至近距離から撮影します。船体の至る所で塗装が剥げ、錆も盛大に発生しています。これは乗組員が整備を怠っている訳ではなく、ソマリア沖での海賊対処任務から5日前に戻ったばかりだからです。任務のため出港したのが去年9月だったので、この傷だらけの姿は7ヵ月間もの間任務に従事した“勲章”と呼ぶべきものといえます。傷を癒すべく近くドッグ入りすると思われますが、そのタイミングでロービジ化される可能性があります。 実は、「ありあけ」には知人のご子息が乗り組んでいます。そのご子息(3曹)によると、新型コロナの感染防止のため、休日でも乗組員の上陸・外出は許されず、唯一行けるのは岸壁の一角にある集会所のみだったとのこと。日本を長期間離れて任務に就いているのに、休日に息抜きもできないなんて本当に大変だったことと推察いたします。海外派遣任務に就いている艦と乗組員のご苦労によって私たち国民が豊かな生活を送れていることを改めて認識し、その働きに心から御礼を申し上げます。 |
倉島岸壁にはもう1隻艦がいます。DE「じんつう」です。「ありあけ」は立神桟橋の方に泊まっている方が多いのですが、この「じんつう」は特殊な事情がない限り倉島にいます。近年は明確な区分はなくなりましたが、かつて倉橋は地方隊護衛隊(現在の10番台護衛隊)と掃海艇用の岸壁で、15~20年ほど前には「いそゆき」「はるゆき」「あさゆき」(第23護衛隊)、「おおよど」「せんだい」「とね」(第26護衛隊)といった艦の姿をよく見かけました。当時「じんつう」は大湊の艦で、2011年に「おおよど」と母港が入れ替わりました。 大湊時代の「じんつう」は九州人にとっては見る機会が殆どないレア艦で、2008年春の護衛艦隊集合訓練時にこの倉島に泊まっている姿を見て感激した思い出があります。そんな「じんつう」が今は当たり前のように倉島にいるのを見ると、昔の倉島を知る者としては不思議な気持ちになります。逆に「とね」「せんだい」は佐世保の艦という感覚が残っており、今も倉島にいるような気がします。 |
さて、ここでお昼ご飯にします♪ もしかしたら出口総監がご馳走になっているかもしれない「いせ」のカレーをいただきます。佐世保市内でも海自艦艇のレシピに基づいたカレーを提供するお店がありますが、呉とは異なり、陸自水陸機動団と海上保安部も含めて「させぼ自衛隊グルメ」として展開されています。期間限定でスタンプラリーも実施しているようです(今の時期は休止中)。 「いせ」のカレーを提供しているのは「愛山亭」という焼肉店ですが、長崎和牛の専門店なので、「いせ」カレーの中にも大きな長崎和牛が入っています。そしてこのお肉がカレーと見事にマッチ、スパイシーなカレーと長崎和牛のとろけるような風味が口の中で見事なハーモニーを奏でます。お代わり自由&サラダ食べ放題でお代は880円、美味しいだけでなくコストパフォーマンスも抜群です。 |
続いては海軍ゆかりの場所を訪ねます。訪れたのは東山町にある佐世保海軍墓地です。その名の通り、戦前に亡くなった旧海軍軍人の墓地で、現在、個人墓437基、合葬碑(慰霊碑)62基があります。墓地は戦後佐世保市の所有となり、周辺地域も含めて東公園という公園になっています。佐世保海軍墓地保存会という団体によって維持・管理されていて、同保存会や佐世保市、佐世保総監部などが主催する慰霊祭が年間を通じて行われています。佐世保みなとICから車で5分ほどの場所に位置します。 現在、年間2万5000人もの参拝者があり、某ゲームの影響なのか、ここ数年増加傾向にあるとのこと。2016年には日本遺産の鎮守府構成文化財に指定されています。実は私、この墓地を訪れるのは初めて。もっと早くに目を向けなかった己を恥じております…。 |
園内にある主な合葬碑(慰霊碑)をいくつかご紹介します。言うまでもなく、いずれも佐世保を母港にしていた艦艇です。 (左上)駆逐艦「初霜」。数々の激戦をくぐり抜けるも終戦16日前に宮津湾で触雷・擱座。祀っている戦死者は26人。1983年建立。 (右上)空母「瑞鳳」。「瑞鶴」「千歳」「千代田」と共に囮としてエンガノ岬沖海戦で沈没。副長を含め216人が戦死。1978年建立。 (左下)戦艦「霧島」。第3次ソロモン海戦で米戦艦のレーダー射撃のつるべ撃ちに遭い沈没。戦死者212人。1980年建立。 (右下)第27駆逐隊。幸運の艦「時雨」をはじめ「白露」「夕暮」「有明」の戦死者計400人以上を祀る。1992年建立。 |
(左)重巡「羽黒」。ペナン沖海戦にて英駆逐艦の魚雷攻撃を受け沈没。艦長・杉浦少将をはじめ約400人が戦死。1971年建立。 (右)戦艦「金剛」。レイテ沖海戦後、内地への回航時に米潜水艦の雷撃を受け沈没。艦長・島崎少将ら1250人が戦死。1972年建立。 「羽黒」「金剛」ともに海自イージス艦に名前が継承され、両艦とも佐世保を母港にしている事に「運命的な何か」を感じずにはいられません。先ほど立神桟橋に「はぐろ」と「こんごう」が目刺しで停泊していましたが、同じ並びで慰霊碑が隣接して建っているのを見た時は、出来過ぎた偶然に思わず鳥肌が立ちました。ちなみに「羽黒」の慰霊碑には引き揚げられた?舷窓が埋め込まれています。 |
園内にひと際大きくて目立つ慰霊碑があります。ミッドウエー海戦で奮闘し、3隻の空母が戦闘不能に陥った後も1隻で米機動部隊に反撃を加えた空母「飛龍」の慰霊碑です。2航戦の僚艦・「蒼龍」は母港が横須賀でしたが、「飛龍」は佐世保が母港でした。戦死者800人余りを祀っていますが、この中には艦と運命を共にした2航戦司令官・山口少将と艦長・加来大佐も含まれています。1974年建立。 碑には文章が刻まれています。「在天の山口司令官 加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ あの日のことども ともに語りたい その後のことも 聞いてほしい だが今は それもかなわず としなえに この霊地に み霊安らかに 眠れかしと ただ祈るのみ」。読んで思わず目頭が熱くなりました。 我が国を守るべく佐世保から遠く離れた戦地でお亡くなりになった英霊の皆様、安らかにお眠りください。 |
墓地内を歩き回って早くもお腹が空いたのでカレーを食べることにします(笑) 先ほど佐世保湾内で撮影した「あさゆき」を偲んで、「あさゆき」カレーをいただきます。繁華街にある「蜂の家」という洋菓子店兼喫茶店で食べることができます。このお店は長崎和牛のレモンステーキが名物のようで、お客さんの大半がレモンステーキを注文していました。またショーケースには美味しそうなシュークリームが並んでいて、カレーを食べ終わった後に思わず買ってしまいました。創業70年で、地元でも有名な老舗のようです。 「あさゆき」のカレーは「いせ」と同系統の味ですが、こちらの方がスパイシー。ライスの上に載ったサイコロステーキがカレーの風味を引き立たせます。佐世保はカレー+牛肉というのがトレンドのひとつなのでしょうか?「あさゆき」を偲びながら美味しくいただきました♪ 「あさゆき」は退役しましたが、「あさゆき」の偉業を語り継ぐ意味でもこのカレーは引き続き販売して欲しいものです。 |
本日最後の訪問場所は海自佐世保史料館(セイルタワー)です。ここを訪れるのは随分久しぶりで、5~6年ぶりの訪問となります。 海自三大史料館のひとつで、三つの史料館は水上艦の佐世保、潜水艦と掃海艇の呉、航空機の鹿屋という位置付けになっています。1997年に開館、建物の1階と2階は海軍時代の士官用厚生施設だった佐世保水交社の建物を再利用しています。旧海軍と海上自衛隊に関する史料約4400点を収蔵しており、海軍と海自の歴史と変遷、海上防衛の歴史について学ぶことができます。 新型コロナによって一時公開を中止していましたが、現在は予約制で公開が再開されています。見学の際には見学日前日の正午までに電話による予約が必要です。また、見学の手続きの際に身分証明書が必要になるのでご注意願います。 |
今回私が久しぶりにこの史料館を訪れたのは、ぜひ見学したいある展示物があったからです。それがこちら。2017年に退役したDDH「くらま」の艦橋を再現した展示コーナーです。建物3階のテラスの一角に設けられています。「くらま」は「しらね」型2番艦で1981年に就役、「あさゆき」同様、就役から退役までの36年間を佐世保一筋で過ごしました。まさに佐世保を象徴する艦で、艦艇マニアのみならず多くの市民に長らく愛されてきましたが、その功績と偉業を語り継ぐために史料館内にこの展示が設けられました。 艦艇は退役するとスクラップか実験標的になってこの世から跡形もなく消えてしまうので、このような展示は大変素晴らしいと思います。ちなみに「くらま」は退役の翌年に潜水艦用新型魚雷の標的となり、貴重な試験データを提供して若狭湾に没しました。 |
展示は「くらま」の艦橋を模していますが、艦長席・司令席・操舵装置・速力指示器など「くらま」で使われていた装備品がそのまま使われています。確かに見覚えのある物ばかり、現役時代に見学・撮影した思い出が甦ります。記念撮影で座った司令席、実際に手で触れた操舵輪、乗組員に使い方を尋ねた速力指示器…オールドマニアにとっては涙モノの展示となっています。これらの装備品も退役後は処分される運命だったと思いますが、よくぞ保存し、展示してくれたものです。関係者のご尽力に改めて感謝申し上げます。 このような展示が史料館に設けられた事は、輝かしい働きと功績だけでなく、佐世保市民にこよなく愛された「くらま」を後世に語り継いでいきたいという海自の想いが表れています。言い換えれば、史料館で展示されるほど「くらま」は海自の歴史を語るうえで欠かせない艦だったということに他なりません。私にとっても中学1年生の時に雑誌の表紙で見て以来、愛し応援し続けた艦でした。 |
展示を別角度から、艦長席を望みます。赤いカバーが掛かった艦長席は艦長が1佐であるしるし、初代の鈴木1佐から最後の水田1佐まで、36年間の生涯で22人の艦長がこの席に座りました。心を躍らせながら艦長席を撮影したことを思い出します。 現役時代、「くらま」は精強艦として有名でした。第2護衛隊群は2008年までは全艦が佐世保の艦で構成されていて、横須賀の1群が「広報の1群」だったのに対し「訓練の2群」と例えられ、「くらま」は旗艦として7隻の精強艦たちを率いてました。精強たる逸話は数々ありますが、最も印象的なのは2001年にテロ対策特別措置法に基づいてインド洋に派遣されたこと。ペルシャ湾掃海に続く2回目の海外派遣任務の第1号として、「くらま」が「きりさめ」と共に選ばれました。選定理由は練度高さと乗組員の士気の高さでした。 |
↑の4枚の画像は現役時代の「くらま」の艦橋内部です。退役7ヵ月前の2016年8月に撮影しました。これらの画像と見比べると、史料館の展示が中々いい感じで「くらま」の艦橋の雰囲気を再現していることが分かります。 「くらま」は母港が佐世保ということで、九州各地の港でたびたび一般公開が実施され、私にとっては最も見学と撮影の機会に恵まれた艦でした。科員食堂でカレーをご馳走になったこともあり、たくさんの思い出を作ってくれた艦でもあります。退役から早や4年が経ちましたが、この史料館の展示によって、「くらま」の名前と輝かしい功績は長く語り継がれていくことでしょう。 |
「くらま」の展示がある3階フロアには、海上自衛隊関連の様々な展示品があります。当史料館の展示物は少し前までは全て撮影禁止だったのですが、今は旧海軍関連史料を除いて撮影が可能になっています。3階の海自関連展示は撮影に問題はないので、こうしてご紹介できるようになりました。実は私、当史料館においてはこの3階の展示が最もお気に入りなのです♪ ご覧ください!ガラスケースの中に飾られた大小さまざま&多種多彩な艦艇の精密模型を。DDHやイージス艦、補給艦、潜水艦のほか、練習艦や音響測定艦、海洋観測艦まで…海自艦艇を学ぶ際の格好の教材になること間違いなしです。ぜひとも多くの児童・生徒にこの展示を見てもらいたいです。そして艦艇を好きになり、ひいては海自への入隊を志して欲しいです。模型が余りにも見事なので、もしかしたらモデラ―の道へ進む子も現れるかもしれませんが…。この模型の展示、私には水族館の大回遊水槽のようにも見えます。回遊する魚のように、艦艇たちが海の中を気持ち良さげに泳いでいるように見えるのは私だけでしょうか…? |
もうひとつ、心躍る展示が…海幕長から准尉まで幹部10階級の階級章です。上は夏服に装着する肩章(丙階級章)、下は冬制服の袖口に縫い付ける袖章(甲階級章)です。肩章は地方協力本部などで10個揃った展示を時折見かけますが、袖章まで揃えてるところがさすが佐世保史料館。肩章・袖章両方が10階級揃っている展示はとても煌びやか、圧巻の一言に尽きます。 それにしても将官の階級章の何と眩しいことか…先月舞鶴で伊藤総監(海将)と吉岡幕僚長(将補)にお会いした際には、お二人の袖に輝く「ベタ金」に目がくらみそうになりました。ちなみに自衛隊の将官は将と将補の2階級のみで、海幕長は階級ではなく、海幕長という役職に就いた海将を特別に処遇する階級章です。また将補の肩章の桜が二つなのは、諸外国の上級少将(ツースター)に相当する階級だからです。諸外国では少将の下に准将(下級少将=ワンスター)という階級があり、将官は大将・中将・少将・准将の4階級となっています。日本でも20年ほど前に、時の防衛大臣が准将を創るとの構想を示しましたが、いつしか立ち消えになっています。 |
史料館の敷地内の一角には「くらま」の主錨が展示されています。いかに佐世保で「くらま」が愛されていたかが、ひしひしと伝わってきます。「くらま」と同じく佐世保一筋の生涯を送った「あさゆき」についても、何かの装備品を市内に記念展示して欲しいです。 今回は「あきづき」の中東への出港見送りに合わせて、佐世保在泊の艦を撮影し、艦艇ゆかりのスポットを探訪しました。新型コロナは収束の兆しすら見せず、なお暫くの期間は横須賀をはじめ関東方面への遠征は難しそうなので、今シーズンは佐世保に遠征する回数が増えそうです。九州内の‟近場”ということで、佐世保遠征は滅多にレポートを記してきませんでしたが、呉と同様に戦跡も多々あるようなので、本レポートを契機に佐世保遠征のレポートも積極的に記していきたいと考えております。ご期待ください! |