2021年3月 舞鶴遠征&総監部訪問

緊急事態宣言解除を受け、3月19~21日で舞鶴に遠征しました。私が4年ぶりに舞鶴に向かった理由とは?

コロナ禍によって比較的近距離の呉や佐世保以外の長距離遠征は自粛していたのですが、京都府の非常事態宣言が解除されたことから年度末の代休消化休暇を利用して舞鶴を訪れました。前回、舞鶴を訪れたのは2017年4月の舞鶴教育隊入隊式の取材でした。ということは、丸4年ぶりの舞鶴遠征ということになります。そんなに間隔が空いていたのか…自分でもビックリです。

いま私が立っているのは、北吸岸壁を望む歩道橋の上です。舞鶴所属艦が‟縦列駐車”の如く一直線に停泊している様子が見えます。この景色を見ると「九州からはるばる舞鶴まで来たんだなぁ」という気分になります。岸壁の敷地と歩道を隔てる柵の手前に植わっている木はサクラです。この遠征がもう1週間から10日ほど遅かったら、咲き誇るサクラに彩られた岸壁を撮れたのかも…。

舞鶴到着後、最初に向かったのがこの場所…舞鶴地方総監部です。実は今回の遠征の最大の目的は、去年8月にこの総監部に赴任した旧知の海自幹部にお会いすることなのです。本来ならばもっと早い時期に訪問したかったのですが、新型コロナウイルスの感染拡大と、それに伴う関西地方の非常事態宣言発令によってこの時期までずれ込んでしまいました。非常事態宣言は解除されたとはいえ、海自の各部隊や機関は感染防止のため外部の人を施設内に極力入れないようにしていると聞いていたので「訪問は難しいかも…」と覚悟していたのですが、ありがたいことに短時間であることを条件に訪問と面会を許可していただきました

風格と威厳に満ちた舞鶴地方総監部の庁舎ですが、元々は帝国海軍の機関学校の庁舎だった建物です。機関学校は機関科の士官を養成する学校で、江田島の兵学校、築地の経理学校と並んで海軍三学校のひとつでした。1925(昭和元)年に横須賀から移転開校、1944年に兵機一系化によって名称を海軍兵学校舞鶴分校に変更、終戦3ヵ月後の1945年11月に廃校となりました。


面会した旧知の幹部とは、舞鶴地方総監の伊藤海将です。伊藤海将は去年8月の異動で海自補給本部長から舞鶴地方総監に就任しました。前回お会いしたのは補給本部長だったおととし10月でしたので、約1年半ぶりの再会です。長身で若々しい風貌に変わりないものの、現在は日本海正面の防衛・警備責任者というお立場であるためか、前回以上の指揮官オーラを感じました。とはいっても気さくなお人柄はそのままで、「仕事は上手くいってる?」「健康のためにもっと瘦せた方がいいよ」などと気遣いのお言葉をいただきました。一方、私は総監という職務についた感想や、舞鶴隷下部隊・舞鶴所属艦の新型コロナ対策などについてお話を伺いました。

面会には幕僚長の吉岡将補が同席してくれました。吉岡将補は私と同じ52歳、もし私が防大に入校していたら同期生だった方です。
「まつゆき」艦長だった2009年にお会いしたことがあり、上甲板で一緒に記念写真にも収まっていただきました。今回はその時以来実に12年ぶりの再会で、吉岡将補に「実は12年前に一度お会いしているんです…」と伝えたところ大そう驚かれておりました。
伊藤総監・吉岡幕僚長と一緒に記念撮影…制服の袖に輝くベタ金の階級章に囲まれて目まいがしそうになりました…。

写真(左)は私と伊藤総監が初めてお会いした時(2010年7月)に撮った一枚。場所は「ありあけ」の士官室で、当時の伊藤総監は第7護衛隊司令(1佐)でした。ちなみに一緒に写っている2佐の幹部は「ありあけ」の高田艦長です。そして写真(右)が「まつゆき」の一般公開時(2009年4月)に艦長だった吉岡2佐(当時)と撮った一枚です。この撮影のあと、ご両人は着実に星を増やして(=昇進して)要職を歴任しましたが、私は会社で大して出世もせず、増えたのは体重のみという悲しい状況になっております(苦笑)

これらの写真を撮った時は、この11~12年後に総監幕僚長になられたご両人と舞鶴でお会いすることになるとは思ってもみませんでした。艦艇イベントは艦に乗ることも嬉しいのですが、指揮官や乗組員との出会いがとても嬉しく、それこそが艦艇イベントの醍醐味だと私は考えています。だだ、今はコロナ禍ということで艦に乗ることも、指揮官・乗組員と出会うことも無くなってしまいました。新型コロナによって艦に乗れない事よりも、未来に繋がるような人間関係づくりができない事が残念でなりません

↑の総監・幕僚長と一緒に撮った記念写真、3人の頭上にとんでもなく凄い書があることにお気づきになりましたでしょうか?
達筆な筆遣いで記された「親和」「努力」「明朗」「確実」の文字、そしてその横には「山本五十六」の名が…そう、この書を揮毫したのは連合艦隊司令長官・山本五十六大将なのです。それだけでもかなりの驚きなのですが、書を記した日時にご注目!「昭和17年秋」…ミッドウェー海戦で大敗したのちガダルカナルでの泥沼の戦いに嵌ってしまっていた頃です。そしてこの半年後に山本大将はブーゲンビル上空で戦死します。揮毫した人・書かれた時期・見事なまでの筆遣い…と三拍子揃った貴重な書です。

吉岡幕僚長の説明によると、海軍を退役した兵学校同期生に贈った書とのことで、四つの言葉はその同期生が勤めていた会社の社訓なのだそうです。それぞれの言葉の意味・雰囲気に合わせて書体を変えている点からも山本大将の達筆ぶりが窺えます。戦況が日々悪化していくなか、山本大将がどのような心境でこの書を揮毫したのか…様々な想像が膨らむ書でもあります。


総監部の応接室にはもうひとつ貴重な書が飾られています。こちらは日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎元帥による書です。記されている文言は、バルチック艦隊と対峙する直前に連合艦隊各艦に宛てて発した有名な電文「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」です。東郷元帥は連合艦隊司令長官に抜擢される前は舞鶴鎮守府の初代司令長官を務めていたので、その縁で舞鶴鎮守府に贈られた書が戦後そのまま舞鶴地方総監部に残っているものと考えられます。

東郷元帥は退役後に好んでこの文言を揮毫しており、各地に幾つも同じ書が存在するらしいのですが、吉岡幕僚長の分析によると、総監部にあるこの書は他の書よりも達筆さが際立っており、揮毫の腕前に一層磨きがかかった最晩年の作品ではないかとのことです。


総監部の庁舎は建築から90年以上が経過していますが、行き届いたメンテナンスによってとても美しく保たれています。庁内に一歩足を踏み入れると昭和の海軍の雰囲気を肌で感じることができるのですが、総監部という現役の防衛施設(しかも中枢!)なのでここで内部を紹介することは差し控えます。唯一ご紹介できるのがここ、玄関を入って正面にある階段です。↑は2階から踊り場を写しています。踊り場の壁面には舞鶴所属艦や舞鶴に寄港した艦・部隊から贈られた数多くの記念盾が…「くらま」「きくづき」「もちづき」「くまの」「もがみ」…オールドファンが思わず「懐かしい!」と叫んでしまう艦の名前が多々あります。

手摺の凝った意匠にご注目!優雅というか文化の香りすら漂ってくる素敵な造形です。木製ですが磨き込まれて美しい光沢を放っており、年月を重ねたことによる重厚な佇まいを見せています。下に敷かれたブルーの敷物とのコントラストも美しいですね。総監は毎日この階段を通って登庁・退庁・外出をしています。ベタ金の階級章を纏った総監がこの階段を往来する様子はとても絵になります。


最後に庁舎を出て、海軍記念館を背景にして記念撮影をしました。先ほどと同様、私の両脇には総監と幕僚長、さらに記念撮影用の専用マットまで敷いてくださいました。総監部の公式Twitterでよく見かけるあのマットです。あぁ、感激…一介の海自マニアに対して総監部にここまでしてもらえるなんて…総監・幕僚長をはじめとする総監部の皆様に心から感謝申し上げます

舞鶴地方隊の警備区域は秋田県から島根県までの長大な広さの日本海正面で、対岸には弾道ミサイル開発や工作員の潜入で我が国を脅かし続ける北朝鮮があり、海洋進出の野望を隠さず国際秩序の現状変更を試みている中華人民共和国も近いという地政学的な特性があります。我が国の平和と安定のためには日本海の警備・防衛は非常に重要であり、伊藤総監をはじめとする舞鶴地方総監部の皆様のご奮闘を心からお祈りいたします。日本海の守りをどうかよろしくお願いします!

一夜明けた翌日も良いお天気♪舞鶴各地で撮影を行います。最初に訪れたのは赤レンガパークの駐車場。遊覧船に乗るためにレンタカーを停めに来たのですが、実はこの駐車場に来たのには別の理由も…それが入口に鎮座する錨のオブジェ。かつて「海自の顔」として栄誉ある観艦式観閲艦を何度も務め、舞鶴に転籍した晩年は舞鶴市民にこよなく愛されたDDH「しらね」の主錨です。

「しらね」は2015年3月に退役し、標的艦として海中に没しましたが、舞鶴市民に愛された証としてこの場所に錨が設置されています。「しらね」のラストイヤー(2014年)に開催された舞鶴地方隊の展示訓練で私は「しらね」に乗艦しましたが、前甲板に主砲2門を背負い式に配置したあの美しい姿が、今も鮮明に瞼に焼き付いています。2014年の舞鶴地方隊展示訓練はついこの前のような気がするのですが、もう7年も前の事なのですねぇ。展示訓練自体もこの時以来実施されていませんし…この頃に戻りたいです。


最初の撮影は遊覧船に乗っての舞鶴艦隊の撮影です。乗り場で待っていると程なくして遊覧船が回航されてきました。4年前と変わらぬ佇まいの「あさなぎ」号です。というか、私が初めて舞鶴の遊覧船に乗った13年前から変わっていません

当時の乗り場は三条埠頭にありましたが、そこで乗ったのは紛うことなくこの「あさなぎ」号でした。当時は1回の運航に乗客が数人しかいませんでしたが、いまは乗船前に長い列ができるほどの人気ぶり。運賃収入も当時から大きく伸びていると思われますが、船自体は頑固なくらいにずっと変わらないという点に好感が持てます。莫大な収益があるためか、数年おきに船を更新し、そのたびに大きく立派になるY市の遊覧船とは大違いです(笑)
今や大湊を除く海自基地の地元に観光遊覧船が運航されていますが、海自基地や艦艇が観光資源になるなんて、私が学生だった80年代後半には考えられなかった事です。時代は変わりました…。

舞鶴艦隊最初の登場は掃海艇「あいしま」です。「つのしま」が事故による破損で早期退役となったため、その後釜として去年6月に呉から舞鶴に転籍してきました。私とは転籍直前に呉で会って以来の再会ですが、「あいしま」は私に向かって「舞鶴は雪も多くて呉より寒いけど頑張っていますよ!」と言っているようです。転籍から9ヵ月が経っているものの、もしかしたら乗組員の中にまだ何人か呉の隊員が残っているかもしれません。彼らは初めて経験する舞鶴の雪の凄まじさに面喰ったのではないでしょうか?

「あいしま」は「すがしま」型掃海艇の8番艇ですが、彼女の舞鶴転籍によって12隻が建造された姉妹のうち掃海隊群所属は「みやじま」(10番艇)のみとなり、他の11隻はすべて地方隊隷下の掃海隊所属となりました。「すがしま」型が最新鋭掃海艇として脚光を浴びていた時代を知る者としては、これまた時代の流れを感じざるを得ません。この「あいしま」と「いずしま」「みやじま」の三姉妹で第1掃海隊を編成していた頃が懐かしいです。ちなみに「いずしま」は現在、函館に所在する第45掃海隊に所属しています。

JMU舞鶴事業所の艤装岸壁にDDH「ひゅうが」が泊まっています。4年前の前回遠征時も「ひゅうが」はこの場所にいたので、この時期が定期修理のタイミングなのだと思われます。「いずも」型DDHの登場であまり大きいとは感じなくなってしまった「ひゅうが」ですが、舞鶴においてこの形と大きさは周囲を圧倒するほどの迫力と存在感があります。第3護衛隊群の実質的な旗艦で、整備でJMUに入っていてもマストには二つ星の海将補旗が翻っています。現在の群司令は池内将補、幕僚長の吉岡将補と同期生(防大35期)です。ということは私と同じ歳。舞鶴で“同級生”が幕僚長だけでなく3群司令としても活躍していることも大きな喜びです。

つい最近就役したような感覚がある「ひゅうが」ですが、今年で艦齢12舞鶴に転籍して既に6になります。もう、そんなに…(汗)
「ひゅうが」が舞鶴に来てから一度も展示訓練が開催されていない事がとても残念!もしも、以前のように展示訓練が開催される社会状況が戻ってきたら、夏の美しい若狭湾で「ひゅうが」が躍動する姿を撮影してみたいです。


「ひゅうが」を前方から撮影。それにしても青い空と蒼い海が美しいです!久しぶりの遠征で舞鶴の自然の美しさを再認識しました。
さて「ひゅうが」ですが、今月15日付で艦長が交代しました。補給本部装備計画部企画課長だった竹下1佐が7代目の艦長に就任、前任の松田1は統幕指揮通信システム運用課の指揮通信システム運用班長(長い名の役職だ…)に転出しました。「ひゅうが」は間もなく迎えるであろう整備明けに、新たな艦長のもとで練成訓練に励むことになります。


高校生の私が担任の教師に騙されずに防大入校→海自幹部という道を進んでいたならば、今頃はかなりのベテラン幹部になっていた筈ですが、吉岡将補や池内将補のように将官にはなれなくても、「ひゅうが」のようなDDHの艦長にはなってみたかったです。そう思うのはマニアとしての憧れもありますが、「いせ」初代艦長を務めた星山1佐ら私が知るDDHの艦長経験者が皆「幸せな幹部人生だった」と現役時を回想するのです。これだけの艦を預かるのですから責任重大で、胃が痛む事も多々あると思うのですが、同時に大きなやり甲斐も感じるポストなのでしょう。当HPをご覧になっている若者にぜひ将来の進路として検討して貰いたいです。

JMUには「みょうこう」もいます。こちらは「ひゅうが」と違って様々な装備品が梱包されていたり、作業用の足場が組まれていたりと作業の真っ最中といった雰囲気、まだしばらくの間は修理と整備が続きそうです。思えば「みょうこう」も既に艦齢2520年ほど前だったらそろそろ退役が囁かれるほどの年齢に達しています。そう考えると、国家財政の悪化という要因もありますが、海自艦艇の寿命=使用期間がこの20年くらいの間に飛躍的に延びた(延ばさざるを得なかった)ということが分かります。

「みょうこう」の就役前、舞鶴には「あまつかぜ」という海自初のミサイル護衛艦がいました。唯一無二の独特の艦容と雰囲気を持った艦で、いま思えば、もっと「あまつかぜ」の写真を撮っておけばよかったとしきりに後悔しています。「みょうこう」はその「あまつかぜ」の後継艦・後釜として舞鶴に配備されたのですが、当時老朽艦や他基地からの‟お下がり艦”が大半を占めていた舞鶴に最新鋭イージス艦が配備されたことは大きな衝撃でした。
その8年前の「しまかぜ」配備も驚きましたが…

おぉ、すごい状態の艦がいる…。艦番号も艦名も消され、兵装も大半が取り外されています。ほぼ進水直後の状態にまで戻して徹底的な修理と整備をしているようです。恐らく45年に一度の定期検査を実施していると思われます。

ちなみにこの艦はDE「せんだい」で、当HP出身の海自隊員「もびうす」ことM3曹は、現在のこの「せんだい」に乗り組んでいます。もびうすさんですが、しばらくお会いしない間にめでたく3曹に昇任しておりました。おめでとうございます!今後さらに研鑽を積んで幹部を目指すのか、それとも術科に磨きをかけて先任伍長を目指すのか…もびうすさんの将来も非常に楽しみです

14護衛隊の2が仲良く目刺しで停泊しています。「まつゆき」の艦首にはまだ「130」の艦番号が記されています。良かった!まだ退役していないぞ!(喜) 実は今回の舞鶴遠征は、「まつゆき」にお別れを告げることも目的でした。前日(319日)に呉の「しまゆき」が退役したので、「まつゆき」も既に“ご臨終”になっているのではと戦々恐々だったのですが、幸いにもまだ“存命”でした。「これが最後の撮影になるかも…」。「まつゆき」への感謝と惜別の念を抱きながらシャッターを切り続けました。

隣にいる「あさぎり」の船体の錆が気になります。海自には「艦に恥をかかせるな」という諺があり、船体に錆が浮き出たままの停泊は「恥」だとされています。なので、訓練や航海で船体に錆が浮こうものなら、入港後にすぐさま塗装を行っていました。しかしここ数年は乗組員が塗装作業を行っている光景をめっきり見なくなり、それに合わせて錆が浮いた艦が目立つようになりました。乗組員不足や働き方改革に伴う休日の確保などが影響していると考えられます。これも時代の変化ですかねぇ…。

存在感抜群!「あたご」です。就役は20073月なので、早いもので艦齢は14になります。就役からちょうど1年後、米国での試験帰りに房総半島沖の太平洋で不幸な事故を起こしてしまったのですが、横須賀での長期間の聴取と検証を終えて舞鶴に戻った「あたご」の事が心配で、居ても立ってもいられず会いに行ったことがつい昨日の出来事のように思えます。

満身創痍となって舞鶴に戻った「あたご」ですが、多くの舞鶴市民が「あたご」を我が子のように心配していたのが印象的でした。
母港がある街の住民は地元の艦に愛着を感じるものではありますが、舞鶴は他地域に比べて地元艦への愛着が一層深いようにその時感じました。そんな「あたご」ですが、2016年から17年にかけて実施された改修でBMD能力が付与されました。まさに、「みょうこう」と共に“日本海の盾”というべき存在です。当時の不幸な出来事を知る者としては、「あたご」が悲劇を乗り越えて元気に日本海の守りに就いていることがとても嬉しいです。これからも舞鶴艦隊の主力として頑張っていただきたいと思います。


30分間の遊覧クルーズを終えて下船しました。遊覧船乗り場のすぐ近くには赤レンガ倉庫群があり、海軍時代からの遺産である数多くの赤レンガ倉庫を見ることができます。現在12棟が残っており、このうち5つが博物館・文化施設・イベントスペースなどとして活用されています。残り7棟は海上自衛隊と文部科学省の倉庫として使われています。12棟のうち7棟が国の重要文化財です。

こちらは4号棟、海軍兵器廠の倉庫だった建物で、終戦まで銃砲庫として使われていました。現在は「赤れんが工房」という名称の施設になっていて、創作活動や音楽練習のほか結婚式場としても使われているとのこと。おや?ウエディングドレスを着た女性がいますねぇ…その横にはタキシード姿の男性も。きょうこの4号棟で結婚式を挙げる新郎新婦だと思われます。赤レンガ倉庫での結婚式なんてなかなか素敵ですね♪ 倉庫を背景にウエディング写真を撮影してもきっと素敵な雰囲気に撮れると思います。
お幸せに!

こちらは5号棟の内部の様子。5号棟は倉庫群の中で最大の規模を誇り、その大きさを生かす形でイベント・多目的スペースとなっています。作品展示会音楽演奏会同人誌の即売会など様々な催しに使われているとのこと。私も自分が撮影した艦艇写真の展覧会や著作(まだありませんが…)の販売会をここで開催してみたいです。イベントが開催されていない時はご覧のように何もない状態ですが、他の倉庫のように常設の展示物が無い分、却って赤レンガ倉庫内部の構造や意匠をじっくり観察することができます

5号棟は海軍軍需部が1918(大正7)に建設した倉庫で、終戦まで水雷庫として使われていました。再利用されている5つの倉庫の中で唯一の大正時代建築です。このスペースに多数の魚雷や機雷・爆雷が保管されていたのかと想像すると何だかワクワクします
(笑) 戦後は民間企業の倉庫として使われていましたが、2012年に「赤レンガイベントホール」としてオープンしました。

5号棟の一角は常設のカフェになっていて、コーヒーや軽食を楽しみながら休憩することができます。呉遠征のレポートで度々紹介している海自カレーですが、この舞鶴でも海自カレー事業が展開されています。東舞鶴と西舞鶴の合わせて10店舗が「ひゅうが」「みょうこう」「あたご」など舞鶴艦のカレーを提供しています。実は今回の遠征は舞鶴艦のカレーを食べる事も目的でした。

5号棟カフェが提供しているのは「ふゆづき」のカレーです。濃い茶褐色のルーが特徴で、金属製のお皿が雰囲気を盛り上げてくれます。スパイシーな辛さほど良い酸味がマッチしたカレーで、素揚げジャガイモのカリカリとした食感もナイスです。赤レンガパーク内は2号棟にもカフェがあるので、「ふゆづき」カレーを食べに行った際には間違えないようご注意を。私は間違えました…(汗)

北吸岸壁の背後にある高台の頂上にも赤レンガの建物があります。同じ赤レンガでも先ほどの倉庫群とは外観も構造も異なる建物ですが、この建物は倉庫ではなく水道用の施設なのです。名称を旧北吸浄水場第一配水池といい、海軍が1901(明治34)年に舞鶴鎮守府を開庁するのにあたって、軍港内の施設と艦艇の飲料水を確保するために作った施設です。建物の内部には配水池があり、与保呂川の水源地から引いた水をここで貯水・浄化し、高台の高低差を利用して麓=軍港内の施設や艦艇に給水を行っていました。

内部は非公開で外観を眺めることしかできませんが、イベント開催時など不定期ながらも内部が公開されることがあります。扉の上のアーチ状の意匠をはじめとしてなかなか凝った造りで、明治海軍の並々ならぬ力の入れ具合が窺えます。海軍は鎮守府を開設した全ての地で水源確保と水道の建設を行っていて、軍港内とりわけ艦艇に飲料水を送ることが極めて重要だったことが分かります。

配水池がある高台は北吸岸壁とJMU舞鶴事業所を見渡せる絶好の撮影スポットでもあります。ここで撮影された画像や動画をTwitter上で頻繁に見かけます。私は今回の遠征で初めてこの高台を訪れたのですが、見事なまでの眺望にテンションと血圧が爆上がりしました(笑) ↑の画像は「ひゅうが」「みょうこう」「あたご」という舞鶴艦隊の主力艦3隻を一堂に収めた何とも贅沢な一枚となりました。
高台からこうして眺めると、天然の地形が北吸岸壁と対岸の工廠地区(現JMU)というコンパクトかつ守りに優れた軍港を形成していることが分かり、鎮守府の設置場所としてこの地に目を付けた明治海軍の慧眼に改めて驚かされます。


北吸岸壁に沿って建つ青い屋根が特徴的な建物は、一見すると工場のように見えますが、実はあの建物に3護衛隊群の司令部314護衛隊の事務所が入居しています。東側の半分は舞鶴造修補給の物品庫で、画像には写っていませんが、海に面した壁面には「温かい血の通った真心の補給」という標語が記された造修補給所の看板も掲げられています。

やや距離があるものの、「ひゅうが」を俯瞰する形で撮影できました。美しい山と海に囲まれて停泊する「ひゅうが」の姿はまるでジオラマ模型のようです。ずっと眺めていても飽きない景色と言っても過言ではありません。2009年の就役から6年間は横須賀で「ひゅうが」を撮影しましたが、多くの建物が立ち並ぶ背景よりも舞鶴の豊かで美しい自然の方が「ひゅうが」には似合う気がします。

先ほど私が乗船した遊覧船が「ひゅうが」の至近距離を航行しています。乗船している時もかなり近い位置を通っているとは思っていましたが、遠く離れた場所から見るとその接近ぶりに改めて驚きます。私が乗ったのは午前10時発の便でしたが、これは午前11時の便でしょう。私が乗った10時便よりもさらに多くの乗船客がいるようです。でも運航会社においては、いくら多くの収益をあげようとも船は今のまま変えずにいて欲しいです。「あさなぎ」号の味わい深いあの姿がいいんですよねぇ…。

北吸にいる「あたご」越しにJMUの「みょうこう」を撮りました。イージス艦が好きな人には堪らない構図ですね。よく似た艦容の両艦ですが、こうして重ね合わせる形で見ると、フェーズドアレイレーダーの取り付け位置の違いやマスト形状の違いがよく分かります。また、煙突周りを中心に「あたご」の方が「みょうこう」よりエッジの効いた尖ったデザインであることも看て取れます。

舞鶴の2隻が母港にいるということは、他基地の何れかのイージス艦が日本海で警備任務に就いていると思われますが、北朝鮮がひとたび弾道ミサイル発射の兆候をみせると、イージス艦はその対応のために終わりの見えない過酷なオペレーションを強いられます。イージスアショアはそのようなイージス艦乗組員の負担軽減も目的のひとつだったのですが、首相の拙い説明で国民の支持を得られず、さらに防衛官僚の見通しの甘さと不手際で計画が頓挫してしまいました。結局、代替策としてイージス艦2隻の建造が決まりましたが、この決定に海自は頭を抱えています。負担軽減にならなかったばかりか、新たな乗組員の確保などさらなる負担を強いられることになったのですから。私もアショアがダメなら商船案もしくはオイルリグ案にして陸自か空自に担当させるべきだったと考えています。一部の国民からは「イージス艦が2隻も増えるなんて嬉しい♪」との能天気な声が挙がり、政治家は「乗組員の負担軽減のため大型艦にする」などと的外れな事を言っています。事はそんな生易しい問題ではありません。結局、政治家・官僚の防衛に関する見識の低さが国土防衛に必要な計画を頓挫させ、そのツケを海自に払わせる形になっていることに暗澹たる気持ちになります。 

この場所からも「まつゆき」がよく見えます。速射砲の砲身をはじめとする兵装はほぼ全て取り外され、艦首に残った艦番号でかろうじて現役であることを保っている、いわば“瀕死の状態”です。私には今の「まつゆき」が死を前にしても慌てふためくことなく威厳を保ち続けている武士のように見ます。これで現役の「まつゆき」の姿を見るのは最後になるでしょう。そう思うと、30年以上に及ぶこれまでの様々な思い出が頭の中で走馬灯の如く甦り、目頭が熱くなるのを感じました。

80年代後半、老朽艦ばかりの呉基地で「まつゆき」は「やまゆき」と共に眩しく輝く存在で、まさに「呉のスター」でした。大学生だった私はそんな「まつゆき」を遠くから眺め、誇りに思っていました。その時から30年以上が経過し、大学生だった私は52歳のオジさんに、「まつゆき」は呉から遠く離れた舞鶴の地で退役を迎えようとしています。「まつゆき」長い間ありがとう、そして、さようなら…

配水池がある高台で撮影を終えたあとは、さらに高い場所へ。舞鶴市のほぼ中央部にあり、舞鶴を東舞鶴と西舞鶴に分けている標高301mの山・五老岳の頂上です。ここには高さ50mの五老スカイタワー(正式名称:五老ヶ岳公園展望タワー)があります。若狭湾国定公園に指定されている舞鶴湾の美しいリアス式海岸を展望できるということで、以前から訪れてみたかったポイントです。舞鶴市が市政施行50周年を記念して建設、1995年にオープンしました。この五老岳、近畿地方では初日の出スポットとしても有名だそうです。

遊覧船に乗っていた時には見事なまでの晴天だったのですが、今はどんよりとした厚い雲が空一面を覆っています。おやおや…。
天気予報は「晴れのち雨」、早い場所では午後3時頃から雨が降るとのことでした。まさに予報通りの天気の変わりぶり。あるいは、これは日本海側特有の急激な天気の変わり方なのかもしれません。「弁当忘れても傘忘れるな」…この諺が脳裏をよぎりました。


スカイタワーの展望室から東舞鶴方面を望みます。舞鶴軍港のジオラマかと見間違えるような見事な眺望です。北吸岸壁とJMU舞鶴事業のみならず、昨日訪問した舞鶴地方総監部、そして先ほど撮影を行った配水池も見えます。さらに前島埠頭、舞鶴警備隊、舞鶴教育隊、現在は民間施設となった旧海軍関連工場など、東舞鶴が旧海軍・海自の街であることがよく分かります

実はこの景色、二度と見ることができない貴重なものとなりそうです。JMUで2隻の貨物船が建設中ですが、この2隻が完成して引き渡されると二度と舞鶴で民間船舶の建造風景を見ることはできません。ユニバーサル造船がJMUと経営統合して誕生したJMU舞鶴事業所ですが、JMUの事業再編とコスト縮減のために民間船舶の建造を辞め、艦艇の修理・メンテナンスに特化した造船所になります。つまり、事実上の‟海軍工廠”となってしまうのです。JMU舞鶴事業所は日立造船時代から数多くの民間船舶を生んだ歴史ある造船所なので、民間船舶の建造中止はとても寂しいものがあります。同じタイミングで佐世保のSSK佐世保重工業も海軍工廠化の道を選んでおり、中韓との受注競争で苦戦を強いられている日本の造船業界を象徴しているようです。このような造船所の整理・縮小が日本の造船技術の劣化に繋がり、ひいては海自艦艇の建造に悪影響を及ぼしはしないか、非常に心配です。


こちらは西舞鶴港です。東舞鶴が旧海軍・海自の港だとすれば、西舞鶴は日本海側有数の貿易港&海上保安庁の港です。東舞鶴とは雰囲気が全く異なることがお分かりになると思います。巨大なクレーンを有する手前の埠頭は第2埠頭で、水深8m・9m・10mの岸壁を計4つ有しています。そして海保の巡視船2隻が停泊している場所が第3埠頭、さらにその奥が第4埠頭です。第3埠頭では以前は海自のイベント(舞鶴フェスタ)が開催されていましたし、夏の展示訓練の際には一部の艦の乗艦場所にもなっていました。普段は海保の巡視船が泊まっており、埠頭に面して建つ港湾合同庁舎には第八管区海上保安本部舞鶴海上保安部が入居しています。

停泊している巡視船は「ふそう」(すごい名前だ!)と「わかさ」です。「ふそう」は排水量が5000tを超える大型の巡視船で、ヘリコプター2機を搭載することができます。1986年に「みずほ」として就役、2019年7月に舞鶴に配属替えとなり、その際に名を「ふそう」に改めました。舞鶴海上保安部にはこの2隻のほかに「だいせん」「みうら」「ゆらかぜ」「あおい」が配備されていて、京都府と兵庫県北部の海域を担当海域とし、海難救助や海上犯罪の捜査、船舶の安全確保といった業務に日々汗を流しています。
ご苦労様です!

スカイタワーに隣接して建つカフェ「nanako」で海自カレーをいただきます。このお店が提供しているのは「みょうこう」のカレーです♪
「護衛艦みょうこう」と刻印されたテッパン、副菜としてサラダ肉じゃがコロッケ定番の牛乳デザートのアイス…見ているだけでも心が躍るカレーです♫ お味は王道のビーフカレー、海自カレーの保守本流というべきお味です。文句なしに美味しい!呉の「そうりゅう」カレーに似てるかも。金曜日にこんな美味しいカレーが食べられるなら、過酷な弾道ミサイル対処も耐え抜くことができそうです

ちなみに、お店の海側はガラス張りになっていて、素晴らしい眺望を楽しみながら食事をすることができます。舞鶴の美しいリアス式海岸が、カレーの美味しさを一層引き立たせているような気がしました。東舞鶴からやや距離があり、かなりの長さの山道を登る必要があるので車かバイクがないと訪問は難しいですが、このカレーは五老岳をよじ登ってでも食べに行く価値があります


カレーを食べたあとはさらに西へ。峠を越え、由良川を渡り、日本海に沿って走ること約50分、舞鶴市を飛び出し宮津市にやってきました。宮津市と聞いて「あぁ、日本三景のひとつ、天橋立に行ったのね…」とお思いになるかもしれませんが、艦艇マニアたる私にはそんな場所に用事はありません(笑) 私が長年訪れたいと思っていた場所は、その天橋立の対岸、宮津市獅子崎の静かな海岸です。
この場所にピンときた人、あなたはかなりコアな艦艇マニアです!昭和20年7月、宮津湾で米軍機による空襲を受けた駆逐艦「初霜」が湾外に出る途中に触雷し、沈没を免れるために止むを得ず擱座した場所です。中学時代から「初霜」が擱座した写真を雑誌等で見て行ったみたいと思っていたのですが、場所が特定できたことから今回の舞鶴遠征でようやく念願が叶いました。

「初霜」は太平洋戦争の数々の海戦に参加、昭和20年4月の沖縄水上特攻作戦では戦艦「大和」を護衛しました。沖縄への途上で生起した坊の岬沖海戦で「大和」や軽巡「矢矧」、駆逐艦「磯風」などが沈んだなか「初霜」は残存して佐世保へ帰投。その後この宮津湾で砲術学校の練習艦となっていました。終戦まであと16日という時期に擱座した「初霜」、さぞ無念だったことでしょう。そして、この時15人の乗組員が戦死、今は静かなこの海岸で終戦直前に起きた悲劇を後世を生きる者は忘れてはならないと思います。

同じく駆逐艦にまつわる史料が舞鶴市内にあります。こちらは大森神社に奉納されている駆逐艦「菊月」の砲身です。こんな凄い物が舞鶴市内にあったのか!と驚いたのですが、それもそのはず、この砲身がこの場所に来たのは去年6月のようで、設置されてからまだ9ヵ月しか経っていないのです。「菊月」は昭和17年5月のツラギ島攻略時に米軍機の空襲を受けて沈没、米軍に引き揚げられて調査されたのちツラギ島の海岸に放置されました。そして現在まで「菊月」は破壊された無残な姿の一部を海上に晒し続けています。

この砲身は菊月保存会が戦争の歴史を伝え、合わせて駆逐艦の砲身という歴史的史料の保存を目的に、現地の関係機関の許可を得て2017年に引き揚げたものです。「菊月」は舞鶴工作部で建造されたことから、その後身であるJMU舞鶴事業所で錆の除去や塗装といった修復作業を実施したのちに大森神社に奉納されました。菊月保存会のこの取り組みに心から拍手を送りたいと思います。


大森神社は正式名称を彌伽宜(みかげ)神社といい、金工鍛冶の神・天之御影命(あまのみかげのみこと)を祀っています。天之御影命は神代に刀や斧などの道具を造り始めた始祖ということで、そんな神様を祀る当神社は、まさに「匠や職人の心の拠り所」というべき場所です。戦前には日露戦争を戦った装甲巡洋艦「春日」の砲身が奉納されていましたが、太平洋戦争時の金属供出で持って行かれてしまったそうです。実は「菊月」の砲身が置かれている台座の基礎は、「春日」の砲身台座の基礎を流用しています。

大森神社は東舞鶴駅からほど近い場所に所在しますが、入口が分かりにくいうえに駐車場の場所も変則的で、初めて訪問する人には到達難易度がやや高めです。東舞鶴駅から徒歩10分くらいの場所ですので、徒歩での訪問をお勧めします


さらに旧海軍ゆかりの施設を探訪します。こちらは中舞鶴の山中にある舞鶴海軍墓地です。明治31年に海軍が設置、戦後は舞鶴市が管理し、慰霊祭や清掃・維持作業は舞鶴水交会に委託されています。現在個人の墓が13基、合葬碑・慰霊碑が14基あります。
このうち14基の合葬碑・慰霊碑は「尼港殉職海軍将卒記念碑」(大正10年建立)、「軍艦新高殉職者之碑」(大正12年)、「特務艦関東殉職者記念碑」(大正14年)、「萬霊塔」(昭和24年)、「航空母艦大鳳戦没者之碑」(昭和49年)、「第五艦隊司令部戦没者慰霊碑」(昭和54年)、「舞鶴鎮守府大東亜戦争戦没者の碑」(平成元年)などがあります。

市街地からほど近いのですが、山中ということもあり非常に分かりにくい場所にあります。途中の道路も狭隘で、加えて切り返し困難な急傾斜の急カーブがあり、大量の冷や汗をかきながらの到達となりました。ここの訪問は徒歩またはバイクを強くお勧めします


こちらは慰霊碑のひとつ、「航空母艦大鳳戦没者之碑」です。昭和19年6月のマリアナ沖海戦で爆沈した装甲空母「大鳳」の戦死者775人を慰霊し、その遺勲を後世に知らしめるために昭和49年に建立されました。碑文は「大鳳」の初代艦長にして最後の艦長になった菊池朝三大佐によるものです。菊池大佐は「大鳳」沈没時に艦と運命を共にすべく身体を縄で艦に縛ったものの、爆発の衝撃で縄が切れてしまい、意識不明の状態で駆逐艦に救助されました。戦後は茨城県土浦市の市議会議員を務めました

海軍時代の舞鶴には戦艦や航空母艦、重巡洋艦といった一線級の大型艦艇は配備されず、所属しているのは旧式の小型艦ばかりでした。昭和10年以降になってようやく重巡「利根」「筑摩」空母「大鳳」といった最新鋭艦が舞鶴に配備されるようになりましたが、この「大鳳」は一度も母港・舞鶴に入港することなくマリアナ沖の海底に没してしまいました。数々の新機軸を採用した期待の大型空母でしたが、完成から僅か3ヵ月の生涯でした。戦死された775人の英霊の皆様、安らかにお眠りください。


舞鶴港は戦前は「海軍の港」として歴史を重ねてきましたが、終戦から十数年余りの期間は「引き揚げの港」でした。昭和20年10月に引き揚げ第一便「雲仙丸」が入港して以来、約13年間に渡って延べ346隻の引揚船が入港。引揚者66万人ご遺骨1万6000柱が中国やソ連から戻ってきました。特に昭和25年以降は舞鶴が国内唯一の引揚港となり、多くの引揚者が夢にまで見た祖国での第一歩を舞鶴に刻んだのです。艦艇を撮影して喜ぶのもいいですが、このような戦争がもたらした悲劇、負の歴史をしっかり学び、当時に思いを馳せ、平和の大切さを改めて感じることも舞鶴を訪れた際には必要なのではないでしょうか。

「母は来ました。今日も来た。この岸壁に今日も来た…」の歌詞で有名な「岸壁の母」は、ここ舞鶴で我が子の帰りを待つ母親の心情を綴った歌です。この平引揚桟橋は当時の桟橋を模した復元桟橋で、実際はここから20m北側に南桟橋が、さらに北側の大浦小学校付近に北桟橋がありました。この復元桟橋に隣接する形で広大な工業団地がありますが、そこは元々は海軍の所有地で、引揚期間中はその場所に舞鶴地方引揚援護局が設置され、引揚者の受け入れ業務を行っていました。


さらに車を15分程走らせて舞鶴親海公園へ。舞鶴湾と若狭湾の結節点である水道の近くにあるウオーターフロント公園です。かつて夏に舞鶴地方隊の展示訓練が実施されていた頃、乗艦した艦から水道の近くに不思議な形の構造物が並ぶ発電所とこの公園の存在に気付き、「艦上から良く見えるなら、公園からも航行する艦が良く見えるだろう」と思って、いつか行ってみたいと思っていた場所なのです。海釣りスポットとして有名なようで、ネットで検索すると海釣りの情報ばかりが出てきます(笑)

水道を航行する船舶、あわよくば海自艦を撮影できれば…と思っていたのですが、着いた時には台風が襲来したかのような暴風雨、車から一歩も外に出れないばかりか、乗っている車が強風で地震のように揺れる有様。舞鶴の気象、恐るべし!
↑の画像は一瞬だけ雨が弱まった時に車の窓ガラスを降ろして撮影しました。1分程度の撮影にも関わらず、車内と私の上着がずぶ濡れになってしまいました。遠くに霞んで見えるのが関西電力舞鶴発電所です。石炭とバイオマス燃料を使っての火力発電所で、1号機・2号機合わせて180万kWの電力を出力しています。この公園の途上にあるクレインブリッジや平トンネルは、元々はこの発電所の工事用道路でした。ちなみに今日は日曜日、晴天なら公園は釣り客や家族連れらで賑わっていたのでしょうねぇ。


暴風雨で撮影ができないので、公園内にあるカフェ「Bayside Place Ms deli」で海自カレーをいただくことにします。多用途支援艦「ひうち」のカレーです。温泉卵が乗ったスタイリッシュ?な見た目のキーマカレーです。お肉はチキンで、辛さは控え目。温泉卵を混ぜてると、まろやかさが増して美味しさがさらにアップします。「ひうち」は2008年に舞鶴に転籍するまでは私の地元・大分県の佐伯基地分遣隊に配備されていました。何度も乗艦した事もあるので、そんな所縁の深い艦のカレーは美味しさもひときわです♫

今遠征では「ひうち」「みょうこう」「ふゆづき」と撮影実施地点に近いお店のカレーを食べましたが、三つとも異なるタイプのカレーで、偶然とはいえ良いチョイスだったと思っています。10店舗すべてのカレーを制覇すると金属製のカレー皿がもらえるので、遠征中の10店舗訪問を一時考えはしましたが、さすがにそれは無理でした
(笑) 今回お邪魔した「Bayside Place Ms deli」は水道とそこを航行する船舶を眺めながらお食事ができる素敵なお店で、次回遠征時に公園での撮影と合わせて晴天時に再び訪れようと思います。

今回の舞鶴遠征、最後の訪問地は東舞鶴駅近くの三条八島商店街の中にある海軍御用達おみやげ館です。遠征の記念に舞鶴艦のグッズを買いに行ったのもありますが、最大の目的は店内で開催されている「まつゆき」写真展を見るためです。いわゆる“舞鶴勢の皆さん”を中心に、各地の海自マニアが撮影した「まつゆき」の写真30点が展示されています。撮影者のお名前=HNを見るとTwitter上でよく拝見する方々が多々いらっしゃいます。それにしても皆さん写真がお上手ですねぇ…撮影の腕前に感心するとともに、どの写真からも「まつゆき」への半端ない愛情が溢れ出ていて、こんなにも「まつゆき」は愛されていたのかと感動しました。

私も「まつゆき」を学生時代から長期間に渡って撮影してきましたが、その大半が舞鶴転籍前=呉時代の「まつゆき」の写真です。ここに展示されている舞鶴に転籍した後の様々な「まつゆき」の写真を見て、転校した友人の転校先での幸せそうな写真を見たような温かい気持ちになりました。こんなにも地元民に愛され、惜しまれつつ退役する「まつゆき」は幸せ者だなぁと思うと同時に、地元艦に対する思い入れの強さは五大基地の地元の中で舞鶴がナンバー1だと改めて感じました。


店内には「まつゆき」の元艦長が持参した記念品(右)も展示されています。この記念品は18代艦長を務めた吉岡2佐が異動による退艦時に乗組員から贈られたものです。もうお分かりだと思いますが、この18代艦長の吉岡2佐は現在の総監部幕僚長の吉岡将補です。冒頭4枚目に掲載した吉岡2佐と私が一緒に写っている写真は、この記念品が贈られる4ヵ月前に撮影されたものです。
店主の松井さんによると、昨日、吉岡将補が自ら直々にこの記念品を持って来たとのこと。そもそも、この「まつゆき」写真展自体が吉岡将補の発案と依頼で始まった、総監部幕僚長肝入りの企画なのだそうです。総監部№2の幕僚長と土産物店のコラボ…立場による垣根がない海自と地元民のフランクな関係も舞鶴の素晴らしさのひとつではないでしょうか。

総監部で吉岡将補にお会いした際、「まつゆき」について次のように話しておられました。「艦長を務めた『まつゆき』が退役するタイミングで、自分も同じ舞鶴にいることに不思議な縁を感じます」。確かに、艦艇マニアを長年やっていると、吉岡将補と「まつゆき」のように艦と人の間にある不思議な縁を多々感じることがあります。私には退役が近づいた「まつゆき」が吉岡将補を舞鶴に呼んだとすら感じます。近く挙行される「まつゆき」の退役式典で、吉岡将補はどのような心境で返納される自衛艦旗を眺めるのでしょう?


4年ぶりだった舞鶴遠征は舞鶴地方総監の伊藤海将にお会いするための遠征でしたが、舞鶴艦隊の撮影や旧海軍遺構の探訪、海自カレーの喫食など、久しぶりだった分内容も盛りだくさんの充実したものとなりました。加えて、舞鶴の人々の「まつゆき」に対する溢れんばかりの愛情に接して、とても温かい気持ちになりました。長距離遠征はコロナ感染という危険も伴いますが、それが些末な事にすら感じるほどの素敵な2泊3日の旅でした。伊藤海将をはじめお会いした皆様方、ありがとうございました

さて、今年は舞鶴鎮守府開庁120周年の記念の年です。それを祝う様々な行事・イベントも予定されているとのことで、ぜひともそれらを取材させていただき、祝賀ムード盛り上げに少しでもお手伝いできればと考えています。今年は舞鶴遠征が増えそうです♪
コロナ禍が幾分なりとも収束に向い、記念イベントが憂いなく開催できる状況となることを祈りつつ舞鶴を後にしました。

人・艦艇・歴史・食・情…舞鶴の素晴らしさに心躍った3日間、艦以外に目が向くのは齢を重ねたからなのか(笑)