2020年6月 呉遠征

新型コロナウィルスの感染が小康状態になったので、今年度最初の呉遠征に出かけました。

今年最初の撮影遠征で呉へ向かいます。1年最初の遠征が6月になるなんてかつてない異常事態ですが、言うまでもなく理由は新型コロナウイルスの感染拡大です。国内に感染が拡大したため、私が住む大分県でも県境を越える移動を自粛するよう県知事から県民に要請があり、善良なる県民である私は艦を撮りたい気持ちを必死に抑えて自粛の日々を送ってきました。ようやく数日前に自粛期間が終了したことから、万を持して呉へ遠征する次第です。あとで述べますが、今回の呉遠征にはある大きな目的があります。

国東市の竹田津港からスオーナダフェリーを使って本州側(山口県周南市)へ渡ります。事務所も兼ねた旅客ターミナルはちょうど1年前に建て替えられて綺麗になりました。以前のターミナルは土産物店も併設した立派な建物だったのですが、新しい建物は半分以下の広さにダウンサイジングされ、土産物店も無くなりました。かつて2隻のフェリーで10往復を誇った当フェリーも、今は1隻による5往復の運航に。高速道路の整備や燃料費の高騰等により経営環境は年々厳しくなっているようです。頑張って欲しいなぁ…。

呉に到着した時には既に夕方に。夜ご飯はもちろん海自カレーです。本日1件目にして2020年度のシールラリー1発目となるカレーは、輸送艦「しもきた」のカレーです。実は私、昨年度のシールラリーは数件のカレーを残して未達成となってしまいました。その残してしまったカレーのひとつが、この「しもきた」のカレーなのです。昨年度未達成の悔しさを晴らすべく美味しくいただきました♪

このカレーを提供しているのは中通りにある「叙寿苑」という焼肉店で、さすが本職と言うべきか、サイコロ状に切られた牛肉がとても美味しいです。焼肉と一緒に食べることを想定しているのか、量はやや少なめ。とはいえ、シールを集めるためにハシゴするにはちょうどいい量です。呉では人気のお店のようで、数組のお客さんが焼肉を楽しんでいました。いつか焼肉を食べに訪れたいなぁ…。


2件目は呉の有名店「海軍さんの麦酒店」が提供する潜水艦「はくりゅう」のカレーです、この店の名物である海軍コロッケも一緒に注文しました♫ このカレーも昨年度食べることできなかったカレーです。さあ、昨年度の仇を打つぞ!(笑)

スマートでハイカラなお味のカレーが多い呉海自カレーの中において、少数派というべき「家庭の味系」「お母さんの手作り系」のカレーです。肉や野菜がたくさん入っていて食べ応えも十分、ノスタルジックな気分というスパイスが美味しさを引き立たせます。


翌日、まずは呉観光の定番・呉湾艦船めぐりに乗船します。出航後すぐにJMUの岸壁で修理中の艦が目に飛び込んできました。
この艦はDD「いなづま」で、4~5年に1度の頻度で行われる定期検査を実施しているようです。定期検査はマイカーの車検に相当しますが、主砲等の主だった装備品をすべて取り外し、艦を進水直後の状態にまで戻して徹底的に修理・補修が行われます。この定期検査の間は艦は完全に非稼働状態=戦力外となり、ご覧のように艦番号も消されてしまいます

この定期検査の間に大規模な人事異動が行われ、残った乗組員は溜まりに溜まった代休の消化に努めます。笑顔が素敵な國分艦長も異動によって護衛艦隊司令部に転出、幹部のみならず曹士においても顔ぶれが大きく変わったと思われます。長期間の非稼働状態、加えて乗組員が大幅に入れ替わるため検査の間に艦の練度は一気に低下、検査終了後はFTGの指導のもと練度の回復に励むことになります。検査が終わるのは夏の終わり頃でしょうか? 秋には「いなづま」は猛訓練に励んでいることでしょう。

DD「うみぎり」を素敵なアングルで撮影!鋭く尖った艦首や船体のナックルライン、低いシルエットの艦橋構造物、林立する2本のマストなど「きり」型DDの魅力がギュッと詰まった一枚となりました。その挑戦的?な設計で用兵側から非難轟々の「きり」型ですが、マニアの立場から見るとこれほど魅力的な艦はありません。その意味ではマニア受けする艦といえますが、DDH「いずも」「かが」、DD「あさひ」「あきづき」といった最新鋭艦ではなく「きり」型DDに魅力を感じるようになれば、ディープなマニアに仲間入りです(笑)

「うみぎり」は「きり」型の8番艦(最終艦)で艦齢は29年に達していますが、私にとってはいまだに最新鋭艦のイメージが消えません。実際に最新鋭艦だった90年代初頭のイメージを引きずっているのでしょうけど、私以外にも「うみぎり」に同じようなイメージを抱いているマニアさんが多々いるようです。となると、「うみぎり」は艦齢を重ねても色褪せないスター性を持った艦なのかもしれません。


Aバースには海洋業務・対潜支援群に所属する2隻が停泊しています。音響測定艦「はりま」(奥)敷設艦「むろと」(手前)です。
非常に機密性の高い両艦ですが、護衛艦がいるE・Fバースから少し離れたAバースで向かい合って停泊している姿は、他艦には聞かれたくない話題(他国潜水艦の情報など)をひそひそ話で会話しているように見えてしまいます
(笑)

それにしても、「むろと」は見れば見るほど不思議な艦容をしています。商船型の船体を採用したため‟軍艦らしさ”は薄いのですが、却ってそれが「いったい何をする艦?」というミステリアスな雰囲気を醸し出しています。一方、双胴型のユニークな姿がお馴染みの「はりま」ですが、今になって30歳も年下の妹(あき)が三井造船玉野で生まれました。来年3月に就役予定で、恐らく呉に配備されると思われます。「ひびき」「はりま」「あき」の三姉妹がこのAバースに並んだ姿を見るのが今からとても楽しみです。


Sバースには数隻の潜水艦がいます。とりわけ「そうりゅう」型の姿が目立ちます。セイル周りと船体に貼られた吸音タイルの詳細がよく分かります。既に何度も述べていますが、吸音タイルは剥げ落ちた際の責任の所在を明確にするために、裏面に作業実施者の氏名が刻まれているとのこと。中々の厳しさですが、逆に言えば作業実施者はそれだけの責任感持って完璧な仕事をしていることになります。艦艇という工業製品でもとりわけ潜水艦は、造船所の職人による芸術品と呼ぶにふさわしい存在と言えるでしょう。

奥の潜水艦のセイル側面には消された艦番号の痕跡が…。目を凝らして見ると、その番号は「511」と識別できます。おぉ、今年3月に就役したばかりの最新鋭潜水艦「おうりゅう」ではないですか! 去年3月に神戸の三菱重工で艤装中の姿を撮影しましたが、就役後の姿を見るのは初めてです。なんだか、親戚の子供が立派に成長した姿を見て嬉しくなったような気持ちになりました。


その「おうりゅう」です。「そうりゅう」型潜水艦の11番艦ですが、10番艦までが搭載したスターリング機関と鉛蓄電池は搭載せず、従来のディーゼルエンジンとGSユアサ製のリチウムイオン蓄電池を採用した改「そうりゅう」型というべき艦です。潜水艦の動力にリチウムイオン蓄電池を用いた世界初の艦となりました。リチウムイオン電池の蓄電量は鉛電池の2倍以上で、スターリング機関に頼らなくても長時間の潜航が可能となりました。艦名の「おうりゅう」は「凰龍」で、豊富な知識を持つ縁起の良い龍を意味します。

「おうりゅう」は就役して2ヵ月余りなので、現在は戦力化に向けた習熟訓練に励んでいる最中です。指導役の第3潜水隊司令が座乗しているようで、セイル上のマストには司令旗が掲げられています。「おうりゅう」の就役直前、「そうりゅう」型の運用と指導の実績が豊富な他隊の司令が第3潜水隊司令に横滑り異動しました。海自がこの「おうりゅう」にかける期待の大きさを感じます


今年度の遠洋練習航海を実施する練習艦隊旗艦「かしま」練習艦「しまゆき」です。例年なら5月の中旬に実習幹部を乗せて遠洋練習航海に出ているのですが、今年は新型コロナウイルスの影響で出航できず、今なお呉に在泊しています。
とはいえ、実習幹部の教育という観点から航海に出ない訳にはいかないので、実は明日から前期遠洋練習航海として東南アジア方面に44日間の航海に出ます。新型コロナの感染防止のため補給用の寄港が1ヶ所あるのみで、実質的な無寄港の航海となります。航海中にコロナ感染者が出たら非常に厄介な事態になるので、両艦では司令部要員・乗組員・実習幹部が今日まで2週間の艦内生活を送り、練習艦隊内に感染者がいないことを確認したうえで出航することになっています。

私としては感染者が発覚せずに無事に出航できることを祈るのみですが、「しまゆき」の甲板上では乗組員が食糧や飲料が入っている段ボール箱の運搬作業を行っており、出港が間もなくである雰囲気が伝わってきます。明日の出航は大丈夫そうだな…。

Eバースの最深部にひっそりと佇む掃海艇の姿が…「のとじま」です。「のとじま」は第44掃海隊に所属し舞鶴を母港とする掃海艇ですが、去年6月29日に尾道沖の瀬戸内海で貨物船と衝突、沈没は免れたものの右舷後部が大破し浸水、自力航行できないほど大きな損傷を負いました。造船所の調査の結果、修理に1年半の期間を要し、修理費用は11億円にのぼることが判明したことから、海自は費用対効果の観点から「のとじま」の修理を断念し、早期退役させることになりました。

退役は4日後(6月12日)で、甲板上の主だった装備品は既に取り外されいるため退役後の艇のような寂しい雰囲気が漂っています。艦尾に掲げられた自衛艦旗と艦名表記が、「のとじま」が辛うじて現役にとどまっていることを示しています。母港に戻ることができず、遠く離れた呉で生涯を閉じる「のとじま」の無念はいかばかりでしょう…想像するだけでも胸が締め付けられます
(泣)

「のとじま」の哀愁漂う姿を見て気分が落ち込んだ私を励ますかのように、1隻の内火艇が私の乗る遊覧船の真横を通り過ぎて行きました。私の実家がある国東半島の名を負う輸送艦「くにさき」の艇で、チャージ(艇長)の幹部と後部の見張り員が手を振ってくれています。もちろん、私も帽振れで応えさせていただきました。艇はかなりの速度が出ているため上下に揺れまくっているのですが、艇首に立つバウメンが揺れをもろともせず直立不動の姿勢をとり続けているのは流石の一言。まさに“職人芸”です

艇の背後にはJMU呉事業所の建物や施設が広がっていて、まさに軍港・呉を象徴するかのような光景です。このような光景がごく普通に繰り広げられている点が呉の魅力のひとつ。呉には他基地では見られなくなった海軍時代と同じ光景が息づいています

続いては大和ミュージアムに行きます。今回の遠征のもうひとつの目的が、現在開催されている企画展を見ること。その企画展とは「空から海へ~広海軍工廠と航空機~」で、呉市広地区にあった広海軍工廠・第11航空廠をテーマとした展示です。広海軍工廠は航空機の開発を担った工廠で、その歴史と開発された航空機に焦点を当てた内容のよう。看板を見るだけでワクワクします♪

広海軍工廠を有名にしたのは大ヒット映画「この世界の片隅に」。すずさんの義父・円太郎さんが勤めていた場所が、この広海軍工廠です。作品中で空襲に晒されている最中でも海軍機のエンジン音にウットリする円太郎さんのオタクぶりには笑ってしまいました。

企画展の目玉がこちら。工廠跡地の地中で発見され、当館に寄贈された誉エンジンです。零戦に搭載された栄エンジンは何度か見たことがありますが誉を見るのは初めて。栄よりも段違いの迫力があります。戦闘機「紫電改」などに搭載されたエンジンで、大戦末期には広工廠(第11航空廠)において量産されていました。「この世界の…」の中でも円太郎さんが、「わしらが懸命に働くのはあのエンジンの歩留まりを上げるためじゃ」と述べていて、広工廠がこのエンジンの品質保持に懸命だった事が作品からも窺えます。

誉エンジンは中島飛行機が開発、14気筒だった栄エンジンを18気筒に強化した拡大改良型で、小型ながらも2000馬力を出力する高性能エンジンでした。紫電改のほか攻撃機「流星」、偵察機「彩雲」などに搭載され、未成になった戦闘機「烈風」にも搭載予定でした。

日本軍で唯一2000馬力を発揮したエンジンですが、戦後に米軍が高品質の燃料とオイルを入れて試験したところ、その凄まじい高性能に驚愕したという逸話も残っています。我が国の航空技術史に名を刻む国産最高性能のエンジンです。

誉エンジンを別角度から。終戦から70年以上が経過したにも関わらず、よくぞ原型をとどめた状態で残っていたものです。工事中に地中から出土したとのことですが、もしかしたら当時の技術者たちが誉を解体するのが忍びなく、後世に発見されることを見越して1基だけ地中に埋めたのかもしれません。この考えが正しいかどうかは分かりませんが、技術者たちの誉への愛情を鑑みるとあながち見当はずれとは思えません。接収・解体を免れた誉がこのような形で世に出て技術者たちの願いが叶ったと思うと胸が熱くなります。

広工廠では1943(昭和18)年から誉の生産に着手、終戦直前の時期には月産120基の量産体制にありました。しかし戦況悪化による資材の低質化で本来の性能を実現できない製品も多く、映画の中で「歩留まりを上げるために…」と言っていた円太郎さんの言葉は、まさに当時の広工廠の状況を象徴する言葉だったのです。そう考えると、空襲中に迎撃機のエンジン音に酔う心境も理解できます。
企画展はこの誉エンジンのほかに広工廠の歴史や開発した航空機を紹介するパネル、書類や写真等の当時の史料、航空機の様々な部品等が展示されていて見ごたえ十分!来年1月下旬まで開催されているので、呉にお越しになった際にはぜひご覧ください。

誉エンジンにインスパイアされた私は呉市広地区の工廠跡地に向かうことにしました。その前にまずは腹ごしらえ。広地区で唯一海自カレーを提供している広ステーションホテルで、呉潜水艦基地隊のカレーをいただきます。このカレーも昨年度未達成でした。
このカレー、見た目は昨年度までと変わりませんが味は大幅に変わりました。実家の母が作るような懐かしい味のカレーだったのですが、懐かしい感じは残しつつも肉や野菜の旨味が増し、スパイシーさも加わった洗練された味になりました。前作も美味しかったのですが、今作もなかなかの逸品。呉市中心部からは少し距離がありますが、呉線に乗れば3駅で広に着くのでぜひご賞味を!

ちなみに現在の呉潜水艦基地隊司令は、数年前まで私の地元の地方協力本部に勤務していて艦艇広報の際に大変お世話になった人です。毎週金曜日にこんなに美味しいカレーを食べているのかと思うと、とても羨ましくなりました。


広工廠と第11航空廠の敷地ですが、現在は製紙会社の工場米陸軍の弾薬庫になっていて立ち入ることはできません。ただ、当時正門にあった門柱が残っていて、製紙会社に沿って伸びる道路から見ることができます。工廠と航空廠で働く技術者や工員たちは、毎日ここを通って出退勤していました。目を閉じて耳を澄ますと、当時の喧騒が聞こえてくるようです。

広海軍工廠は第1次大戦後の航空兵力の増強に対応するために1921(大正10)年に開設、主に航空機の開発・実験蒸気機関の開発・実験を行う工廠でした。1932年に横須賀に海軍航空技術廠(空技廠)が設置されるまでは、我が国の航空機開発の拠点でした。1941年10月に工廠の航空機部が独立して第11航空廠となり、終戦直前の1945年6月には広工廠自体が第11航空廠に吸収されます。広の町の大半は工廠と航空廠に勤める人々の宿舎だったそうで、その意味では広地区全体が巨大な航空機工場だったと言えます。


門柱に掛かっていた第11航空廠の表札は大和ミュージアムで保存・展示されています。空襲時の銃撃を受けて表面が激しく破損しており、大戦末期に工廠と航空廠を襲った悲劇を静かに、かつ雄弁に物語っているようです。

広は東洋一の軍港・呉のすぐ近くに所在する航空機製造の拠点ですから米軍が狙わないわけがなく、大戦末期には度々空襲に見舞われ、中でも1945年5月5日の空襲では壊滅的な損害を被りました。生産設備の疎開も検討されましたが実現しなかったため、結果的に空襲で技術者や工員、挺身隊で応援に来ていた女学生ら多くの人々が犠牲となってしまいました。広の空襲被害は呉空襲と比べると紹介される機会が少なく歴史に埋もれてしまっている感すらありますが、しっかりと語り継いでいくべき歴史だと思います。


広工廠だった場所を俯瞰するために広の街を一望できる大空山へ。山頂に設置された展望台から広工廠の跡地を眺めることができました。↑の画像に写っている麓の一帯すべてが当時は広工廠で、先ほど紹介した正門の門柱があるのが矢印(青)の場所、誉エンジンが発見された場所が矢印(黄)の辺りです(推定)。正門付近には工廠の本部などがあり、現在は製紙会社の王子マテリア呉工場になっています。一方、誉エンジンが発見された航空機部(のち第11航空廠)の場所は米陸軍広弾薬庫となっています。

地元紙の報道によると、誉は広弾薬庫内での法面工事の際に地中から発見されたとのことですが、米陸軍が出土した誉を廃棄することなく大和ミュージアムに寄贈したことに、心から感謝申し上げたいと思います。当時は敵だった米軍ですが、敵国といえども高い性能を有する誉を高く評価していたことが今回の寄贈に繋がったのかもしれません。


広工廠の跡地を撮影するために登った大空山は広市街地の後背地にそびえる標高205mの山ですが、ここは明治期に陸軍が整備した広島湾要塞のひとつ、大空山砲台が築かれた場所です。広に上陸して呉に侵攻する敵を撃破するために設けられ、28センチ榴弾砲4門を設置する計画でした。結局は榴弾砲を設置することなく大正末期に砲台は廃止になるのですが、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、海軍が広工廠を防衛するための高射砲陣地として再利用します。

戦後は当時の遺構を残したまま公園となり、呉市有数の桜の名所となっています。↑は28センチ榴弾砲の砲座跡で、桜が植えられている円形の部分が砲を据え付ける位置です。高射砲陣地となった太平洋戦争中は、この場所に7.5センチ野戦高射砲が据え付けられたと考えられます。戦争末期に広工廠を狙って襲来した米軍機に対し、ここ大空山の高射砲が懸命に迎撃にあたりました。
当時の市民からは「砲台山」と呼ばれ、終戦までは一般人の登山は禁止されていました。もちろん今は公園なので、誰でも登ることができます。車で頂上まで行くこともできますが、すれ違いが困難な狭隘な坂道が延々と続くので注意が必要です。


こちらは砲台に隣接して設けられている施設で、兵舎もしくは火薬庫だったと考えられます。左にある階段を登ると観測所跡地に辿り着きますが、観測所の跡地には先ほど広工廠跡地を撮影した展望台が建っています。
石垣に使われている石材の加工の美しさ精緻な積み方を見ると、明治期の陸軍がこの大空山砲台にかなりの費用と技術をつぎ込んだことが分かります。言い換えれば、広島湾の防衛に大空山砲台は重要な役割を果たすと考えられていたということでしょう。

ちなみに、この施設は建設から100年以上が経過した今日でも強度に問題がなく、一部は清掃用具の倉庫として使われています。


広の市街地に広工廠で殉職した技術者・工員の慰霊碑があります。体育館やグラウンドを備えた運動公園の片隅にひっそりと建っているのですが、背後に高層マンションが建っているためか、随分と場違いな雰囲気が漂っています。恐らく、元々は別の場所に立っていたものの何らかの理由でこの場所に移設されたのではないかと思われます。慰霊碑自体はとても立派なもので、建立当時に関係者が亡くなった技術者や工員の慰霊に並々ならぬ想いを抱いていたことが伝わってきます。

広の市街地には11航空廠長の官舎が民間企業の福利厚生施設となって残っていましたが、老朽化のため残念ながら昨年11月に取り壊されました。大和ミュージアムによって記録保存が行われましたが、可能ならば移築保存して欲しかったです。

夕食はもちろん海自カレーです(笑) 練習艦隊が明日の朝に無事出航することを願って、クレイトンベイホテルで練習艦「かしま」のカレーをいただきます。いわば、カレーで安全祈願です。呉の海自カレー中最高額で、お味も最高峰、実艦同様にカレーも旗艦的存在の「かしま」カレーですが、今年度リニューアルされました。前作は牛タンをふんだんに使ったビーフカレーでしたが、今作は同じビーフカレーですがお肉は牛タンではなくなりました。「じっくり煮込み系」のカレーで、口に含むと牛肉の風味と合わせて煮込まれた玉ネギの旨味が広がります。味は変わってもそこは「かしま」のカレーだけあって上品さは相変わらず。お値段は約300円安くなりました。

艦艇のカレーレシピはひとつだけではないので、このカレーも「かしま」で乗組員が食べているカレーの一種だと思われます。ちなみに、去年神戸で参加した練習艦隊のレセプションで本物の「かしま」カレーを食べましたが、そちらは前作に近いお味でした。


翌朝、アレイからすこじまへ。ここで撮影を行いながら練習艦隊の出港を見送ります。通常ならば練習艦隊は横須賀の逸見岸壁で出国行事を開催したのち関係者や家族らに見送られながら華々しく航海の途に就くのですが、今年は新型コロナの感染防止のため出国行事は無く、ここ呉からひっそりと旅立ちます。なので、私もアレイからすこじまからひっそりと艦隊を見送ります。

午前8時ちょうど、自衛艦旗掲揚の時間です。私の目の前には音響測定艦「はりま」が泊まっているのですが、当直海曹がラッパ譜「君が代」の吹奏に合わせてゆっくりと旗を揚げていきます。基地には何隻もの艦艇がいるので様々な方角からラッパの音が聞こえてきますが、実は各艦はバラバラに吹奏しているのではなく、最上級者が乗っている艦が基準艦となり、他艦は基準艦の吹奏に合わせて「君が代」を吹いています。基準艦は艦の在泊状況によって変わり、今朝は練習艦隊司令官が乗る「かしま」が基準艦だと思われます。


自衛艦旗掲揚と前後して一隻の潜水艦が動き出しました。この艦は「そうりゅう」型10番艦「しょうりゅう」で、去年3月の就役時に神戸の兵庫埠頭から出港を見送ったあの潜水艦です。セイル上に1潜水隊司令の姿が見えるので哨戒任務ではなく、個艦での訓練に出るものと思われます。潜水艦は哨戒等の実任務に就く際は司令を降ろして出港しますが、任務遂行時には司令が乗艦して指揮を執る水上艦とは正反対で、潜水艦の特殊性が看てとれます。ちなみに潜水艦は潜水艦隊司令官の直接指揮で動きます。

水上艦との違いでいえば、潜水艦の出港時には「出港ラッパ」の吹奏はありません。主君から命を受けた忍者が静かに姿を消すように、潜水艦は静かにひっそりと岸壁を離れます。静かな出港風景もなかなか風情があっていい感じです。とはいえ、基地内の将官に仁義を切らずに出港するのはご法度で、敬礼ラッパに合わせて練習艦隊司令官に敬意を示しながら沖に出て行きました。


「しょうりゅう」の出港から約15分後、曳船YTが「しまゆき」のもとへ。練習艦隊ではコロナ感染者は確認されず、無事に出港するようです。あぁ、良かった!! 今年度の遠洋練習航海には70期一般幹部候補生課程を修了した実習幹部155(うち女性10人)が参加、司令官をはじめとする司令部要員と両艦の乗組員を合わせると参加人数は約500にのぼります。

今年度の遠洋練習航海は前期と後期に分けられ、今日からの前期は呉から沖縄(勝連)を経てシンガポール方面へ。マラッカ海峡を抜けたのち横須賀へ戻る44日間総航程19000㎞の航海です。新型コロナウイルスの影響によりシンガポールのチャンギ港に補給寄港するのみで、実質的には無寄港の航海となります。ちなみに、遠洋練習航海を前期・後期に分けたのは新型コロナの影響ではなく、艦隊運用の見直しが理由とのこと。航海の途中で随伴艦を入れ替えることができるようにしたのでしょうか?


沖に出た「しまゆき」は曳船YTの力を借りてゆっくりと回頭、艦橋露天部には実習幹部が整列しているのが見えます。

「ゆき」型DDの最終艦(12番艦)でありながら艦齢僅か12で練習艦に種別変更された「しまゆき」は、今年で練習艦歴が21年に達します。これは護衛艦から種別変更された練習艦としては歴代最長で、最近の若いマニアの中には「しまゆき」が艦番号「133」を背負っていた護衛艦時代を知らない人が多いほどです。練習艦の期間が長期に渡っていることに伴って遠洋練習航海への参加も8にのぼり(護衛艦時代を含む)、旗艦(かとり・かしま)を除く練習艦としての最多回数記録を樹立しています。

続いて旗艦「かしま」が出港します。去年は3月に江田島で出港を見送り、10月末に横須賀に帰国を出迎えましたが、その時には今年がこのような形で「かしま」を見送ることになろうとは思ってもみませんでした…(涙)

私事ではありますが、新型コロナウイルスによって私の今年度の撮影・取材計画は大きく狂ってしまいました。感染拡大がなければ、ちょうど今ごろ4年ぶりに大湊を訪問し、大湊を母港とする某艦で通信士を務めるT君の奮闘ぶりをレポートする予定でした。さらに各地に赴任したT君の同期生の追跡取材や補給本部がある十条駐屯地の夏祭りなど、例年にない充実した取材を計画していただけに、これらを悉く消散させてしまった新型コロナウイルスには怒り怨念しかありません。おのれコロナ、許さんぞ!!
(怒)

「かしま」も曳船YTに押されて回頭、甲板上では整列した実習幹部が帽振れをして在泊艦と呉の街に別れを告げています。江田島の幹部候補生学校在校時から親しんできた呉の景色ともしばらくの間お別れです。よく見ると実習幹部と司令部要員、乗組員は全員マスクを着用しているようです。何から何まで異例ずくめとなった今年度の遠洋練習航海ですが、たとえ新型コロナの影響を受けようとも実習幹部は例年以上に奮闘し、逞しく成長して無事に戻って来て欲しいと切に思います。

艦橋露天部には練習艦隊司令官の姿も見えます。今年度の司令官は防大35期生の八木将補です。私が高校時代に担任教師に騙されて防大受験を断念したことは既に何度も述べていますが、もし受験して合格していたら35期生でした。つまり八木司令官と私は同期生になっていたかもしれないのです。そう思うと司令官のご活躍と無事の帰国も願わずにはいられません。というか、自分がいつの間にか練習艦隊司令官レベルの年齢に達していることが驚きです。高校を卒業したのがつい最近のような気がするのですが…。

練習艦隊は44日間の航海を経て7月22日に横須賀に帰投します。その後に後期の航海を実施すると思われますが、その詳細はまだ発表されていません。海幕は「規模や内容は前期とほぼ同じにする」と話していて、だとすると今年度の遠洋練習航海の日程は90日間程度、総航程も2万km程度となります。T君が参加した昨年度の航海が日数157日、総航程4万9000kmだったので大幅な規模縮小となります。この規模縮小は新型コロナが猛威をふるう今年だけの措置なのか、それとも今後毎年続くのでしょうか?もし遠洋練習航海の規模縮小が恒常的になるとしたら、実習幹部の教育・シーマンシップ涵養の観点から危惧を覚えます

「かしま」の前方に遊覧船が…。なぜこんな時間にあんな場所にいるのかと訝しんだのですが、よく見ると「水交会」と記されたのぼりが立っています。派遣部隊の出港など呉基地の出国行事に参加している水交会呉支部の会員ですが、新型コロナの感染防止のため練習艦隊を基地内の岸壁から見送ることができないため、遊覧船をチャーターしてあのような形でお見送りをしているようです。
あの位置からだったらとても迫力あるいい画が撮れそうです。いいなぁ…羨ましいなぁ…というか、私も水交会呉支部の会員なのですが、この種の行事案内は一度も来たことがありません。なぜ?Why? 恐らく私が他県在住ということで‟配慮”していただいているのだと思いますが、平日でも有休を取得して駆け付けるので、ぜひともご案内願います。


華々しい出国行事の無い練習艦隊の旅立ちですが、決して寂しい雰囲気の中での出港ではないのです。呉在泊のすべての艦艇がマストにUW旗を掲げ、艦橋や上甲板に大勢の乗組員が出てきて艦隊を見送っているのです。ある意味、例年の横須賀での出国行事よりも感動的な見送りです。新型コロナで異例ずくめに見舞われてしまっている今年度の実習幹部ですが、この見送りの光景は一生思い出に残るのではないでしょうか?それくらい心温まる感動的な光景です。コロナ禍だからといって悪い事ばかりではないのです。

この光景を目の当たりにして、私の脳裏に30年近く昔の記憶が甦りました。時は1991年4月26日、機雷掃海のためペルシャ湾に向けて出港する掃海母艦「はやせ」2隻の掃海艇を、今回と同じように呉在泊の全艦艇がマストにUW旗を掲げ、乗組員が甲板上から帽振れをして見送りました。あれから30年、当時22歳だった私も今や51歳に…昔も今も変わらぬ見送りの光景に心を揺さぶられました。


かしま」「しまゆき」が出て行った後のFバースを見ると、2隻の掃海艇が寄り添うように停泊しています。「あいしま」(左)「みやじま」(右)ですが、私はこの光景を見て思わず涙が出そうになりました。というのは、「のとじま」が3日後に退役するのに伴って、「のとじま」が所属していた舞鶴の第44掃海隊に「あいしま」が異動することが決まっていて、私には2隻が並ぶ姿がお別れの前に名残りを惜しんでいるように見えたのです。私にとっても、「あいしま」が舞鶴へ行ってしまうと撮影の回数が減りそうで寂しい限りです…。

「あいしま」は2004年2月に就役し呉に配備されました。前年に就役した「いずしま」がいる第1掃海隊に所属、翌年には「みやじま」が加わって、長らく第1掃海隊(現第3掃海隊)は「いずしま」「あいしま」「みやじま」で編成されていました。しかし「いずしま」が2016年に函館へ、そして今回「あいしま」が舞鶴へ移ることによって呉の「すがしま」型三姉妹は「みやじま」が残るのみとなりました…
(涙)
悲しんでばかりはいられません。「あいしま」に代わって建造中の掃海艦「えたじま」が今年度末に配備される予定です。同時期に音響測定艦「あき」も呉に配備される見通しで、「みやじま」「えたじま」「あき」と海保並みに地元臭が強い名前の艦が揃うことになります。


「かしま」と「しまゆき」はゆっくりと呉湾を航行して広島湾へと向かいます。44日後に無事に帰国するのをお待ち申し上げております。

コロナ禍により異例づくめの遠洋練習航海となりますが、実習幹部はコロナをもろともせず頑張って欲しいものです。そしてコロナ禍が収束し、異例づくめの航海が良き思い出として語ることができる日が来ることを切に願います。というか、コロナ禍がずっと続こうものなら私の取材・撮影活動は延々と自粛が続き、まさに“失業状態”です。コロナウイルスさん、いい加減にしてくださいね!
(怒)

ようやく今シーズン初の呉遠征…1日も早いコロナ禍の収束を強く願いながら艦艇・戦跡・カレーを満喫しました。