2018年7月 呉遠征 |
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7月1日、私は呉にいます。4月に行った戦跡めぐりと海自カレーの食べ歩き企画の第2弾です。実は前の週にも江田島の幹部候補生学校に入校したT君を激励するため呉を訪れたのですが、諸事情により戦跡めぐりができなかったために、2週連続の呉遠征となりました。呉に2週連続なんて広島に在住していた時以来です。 いま私がいるのは呉の観光名所のひとつでもある音戸大橋です。音戸瀬戸で隔てられた呉と倉橋島(旧音戸町)を結ぶ橋で、ツツジが満開となるGW期間中は大勢の観光客で賑わいます。呉と倉橋島、さらには江田島・能美島を結ぶ大動脈でもありますが、渋滞が慢性化したことから、2013年にバイパスと一体化した第二音戸大橋が開通。今回久しぶりに音戸大橋を訪れて、自動車の通行量が大幅に減っているのを実感しました。 |
音戸大橋を通って倉橋島(旧音戸町)に渡り、車で数分の場所(坪井地区)に戦艦「伊勢」の記念碑があります。近くの海で大破着底した戦艦「伊勢」を戦後に引き揚げて解体したサルベージ会社が建てたものです。「伊勢」の妹である「日向」の名前もありますが、「日向」はここから東方向にかなり離れた情島で大破着底しています。情島は遠いので「伊勢」と合わせて記念碑を設けたのでしょう。 この記念碑、国道沿いにあるのですが、周囲を建物に囲まれているためとても分かりにくいです。私も探しながら車を運転していたものの、何回か通り過ぎてしまいました。加えて、車を駐車するスペースもないので訪問する際には注意が必要です。この記念碑、建立は昭和28年で、恐らくその頃には周囲の建物はなく、この場所から「伊勢」が大破着底した海が直接見えていたと思われます。 |
戦艦「伊勢」が大破着底した場所です。北号作戦を奇跡的に成功させて呉に戻った「伊勢」でしたが、その後(昭和20年3月以降)は燃料不足により動くことができなくなりました。呉鎮守府第1予備艦に指定された「伊勢」にできることは、この場所に停泊して「浮き砲台」として襲来する米軍機を迎え撃つことだけでした。あぁ、悲しい…。 果たして、7月24日の呉空襲で米軍機の猛攻に晒され、艦橋に直撃弾が命中して艦長の牟田口大佐ら幹部が多数戦死。さらに4日後の空襲で直撃弾11発が命中して大破着底、戦死者は570人にも及びました。大破着底した「伊勢」の写真を見ると、艦橋をはじめとする艦の構造物の大半が破壊されているにも関わらず、三式弾を撃ち続けた2番主砲が空を向いたまま停止しており、断末魔の瞬間まで「伊勢」が戦い続けていたことが分かり涙を誘います。 |
「伊勢」の記念碑から車を走らせること約40分、倉橋島の南西部にある重生地区に軽巡「北上」の慰霊碑があります。慰霊碑というよりもお墓といった雰囲気ですが、実際に墓地の中にあり、戦死した陸軍軍人の墓標と並んで建っています。ですから、訪問した際には墓地の中であることを認識のうえ、節度ある行動をお願いします。 軽巡から重雷装艦、高速輸送艦、回天搭載母艦と大戦中に目まぐるしい姿を変えた「北上」ですが、7月24日の呉空襲で米軍機の猛攻を受けて大破、航行不能となったのがこの海域です。呉軍港からはやや離れた海域ですが、米軍機は「北上」を見逃しませんでした。そして、空襲によって乗組員32人が戦死しました。航行不能ではあるものの沈没を免れたことから、「北上」は復員輸送船を支援する工作艦となり、昭和21年の半ばまで業務に従事します。 |
「北上」の慰霊碑にほど近い倉橋島内に、海自カレーを提供しているお店があります。シーサイドカフェ「ALPHA」というお店で、DD「いなづま」のカレーです。このお店、呉市中心部から車で40~50分要する場所にあり、私は「北上」を訪れたついででしたが、カレーのためだけにここまで来るとなると結構大変です。呉の海自カレーは到達するのに少々気力を要する場所にあるお店を数ヵ所盛り込んでいて、食べ歩きに冒険性を持たせているのが面白い点です。
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呉市中心部に戻るとちょうどお昼、カレーを食べます(笑) 呉駅構内にある「駅膳くれ」が提供するのが潜水艦「せきりゅう」のカレーで、6月22日から販売が始まった“最新鋭カレー”です。ご覧のように肉や野菜など具だくさんなカレー。 海自カレーにしては珍しくルーが液状でまったくトロみがありません。スープカレーみたい…。
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「駅膳くれ」の店内には壁やテーブル、ショーウインドウに「せきりゅう」の写真や模型・部隊帽・Tシャツなどが飾られていて、お店を挙げて「せきりゅう」を応援していることが分かります。それを眺めていた私に店員さん(おばちゃん)が、「いっぱい写真に撮ってSNSやブログに投稿してください」と言うので、私の場合はSNSでもブログでもありませんが掲載させていただきます(笑) 呉海自カレーの参加店の中には、「駅膳くれ」のように店内にカレーを担当する艦に関する様々な展示を置いて、さながら「艦のPRブース」と化しているお店があるのが面白いです。私自身、ここでカレーを食べたことで「せきりゅう」に改めて興味を持ったので、海自と市民を繋ぐ架け橋としての役割を果たしていると云えます。まぁ、海自に興味がない人にとっては「?」なお店でしょうけど…。 |
カレーを食べて元気を補充したところで、午後は呉の対岸・江田島へ。今回もフェリー「古鷹」に乗船します。呉から江田島へのフェリーは70分に1本の頻度で運航されており、所要時間は約20分です。利用者は多いのですが、ほとんどが徒歩の人たちで、車両の利用は少ないです。(時間帯・季節によって状況は変わると思われます) このフェリーは車両で乗船する場合、事前に乗船券を購入しません。乗船後に車両甲板にいる係員に車の全長を申告して運賃を支払います。ちなみに私の愛車は全長4.24mで、運賃は1500円となります。江田島は島ですが、呉からは音戸大橋と早瀬大橋を通行すれば陸路で行くことが可能です。ただ陸路だと大回りになり、車で1時間以上走る必要があるので、片道1500円かかるとはいえ、フェリーを利用した方が早くて楽に江田島へ行くことができます。 |
江田島の小用港が迫ってきました。まもなく到着です。この小用港の眼前に広がる海域が戦艦「榛名」が大破着底した場所です。 戦艦「榛名」が米軍機の猛攻を受ける写真(米軍撮影)は、昭和20年7月の呉空襲を象徴する一枚として有名ですが、「榛名」が猛攻に晒され、至近弾の水柱が立ちのぼっていたまさにその場所なのです。背後の特徴的な形状の山もその写真に写っています。 レイテ海戦を生き延びた「榛名」は呉海軍工廠で修理を受けましたが、修理が完了した時(昭和20年3月)には既に行動用の燃料は枯渇していました。「伊勢」や「日向」らと同様に呉鎮守府予備艦となり、この小用海岸で「浮き砲台」としての役割を担うしかありませんでした。そして7月24日と28日の空襲で20発以上の直撃弾と多数の至近弾を受けて大破着底、30年の生涯を終えたのでした。 |
小用港を見下ろす丘の上に戦艦「榛名」と、同じく小用港近くの海岸で転覆・着底した巡洋艦「出雲」の慰霊碑があります。 空襲で「榛名」では71人、「出雲」では3人の乗組員が戦死しました。大型艦が大破や転覆しているのに戦死者がこの数にとどまっているのは、予備艦(浮き砲台)となった時点で、航海科を中心にかなりの数の乗組員が減員されていたためと考えられます。 この慰霊碑は昭和42年に当時の江田島町長の呼びかけにより建立されました。その際、江田島町民や海上自衛隊員、両艦の元乗組員、乗組員の遺族から浄財が寄せられました。慰霊碑には次ような一文が刻まれています。「民族興隆の歴史は殉国の人々の尊き生命の集積が根幹となっていることを忘れてはならない」。ずーんと胸に響きました。私も日々忘れずに生きていきます。 |
「榛名」の慰霊碑から車を走らせること約15分、江田島湾の一番奥まった場所に軽巡「大淀」の慰霊碑があります。この慰霊碑、とても分かりにくい場所にあります。県道からかなり奥まった所にあり、しかも途中でカキ工場の敷地を通り抜ける必要があります。カキ工場の操業中は作業用車両も動いているので、通り抜けには細心の注意が必要です。あと、車を置く場所が何処にもありません。私は路上駐車し、違反切符を切られないよう全力疾走して慰霊碑へ向かい、撮影後に再び全力疾走して戻ることを余儀なくされました。 多くの人が来るような場所ではありませんが、慰霊碑自体は綺麗に掃除されていて、手入れが行き届いることが窺えます。手前の石碑に隠れて写っていませんが、慰霊碑の隣に割と大きな「大淀」の模型も飾られています。かなり微妙な形状の「大淀」ですが…。 |
慰霊碑の目の前には江田島湾が広がります。米軍機の猛攻を受けた「大淀」が大破・横転し、船体から重油が流れ出ている痛々しい写真が有名ですが、それが撮影されたのがこの場所です。今はカキ養殖の筏が浮く穏やかな湾ですが、昭和20年7月には空襲により辺り一帯が地獄絵図と化したと思うと胸が痛みます。 「大淀」は昭和20年3月の空襲で大破、十分な修理も行われないままこの場所に曳航されて「浮き砲台」となりました。7月24日と28日の空襲で多数の直撃弾により浸水し、右舷方向に転覆しました。この一帯は水深が非常に浅いので、「大淀」は艦の左半分を水面上に出した状態で横転した無残な姿を晒すことになりました。2日間の空襲で乗組員220人余りが戦死、近隣の住民が戦死者や負傷者の運び出しを手伝ったという逸話も残っています。 |
江田島での慰霊碑めぐりを終え、小用港から再びフェリーに乗船して呉へ戻ります。その途中、3隻の艦が沖留めしていたので撮影しました。呉-江田島間のフェリーは沖留めの艦を撮影するのに大変重宝する存在です。私のようにフェリーを撮影に利用する人のために、小用で下船せずに呉へ戻る乗船券も発売されています。 DD「いなづま」です。その奥にはやや音戸寄りの場所に停泊している輸送艦「しもきた」の姿も見えます。「いなづま」を撮影しながら、午前中に倉橋島のお店で食べた「いなづま」カレーの味が口内で鮮明に甦りました。まさにパブロフの犬状態です(笑) 乗組員の負担軽減のため沖留めする艦は近年めっきり減りましたが、きょうは朝まで4護群の佐世保組4隻が呉に寄港していたため、お客さんに桟橋を譲って数隻が沖留めしています。 |
練習艦「しまゆき」も沖留めしています。しかも、フェリーの航路からかなり近い場所に泊まっているので、マニア心をくすぐる武骨な姿を至近距離から撮影することができました。3000tの船体に重武装をギュッと詰め込んだようなシルエット、同じ雪に因んだ名前を持つ帝国海軍の吹雪型駆逐艦とイメージが重なります。 13隻が建造された「ゆき」型DDの最終艦(13番艦)ですが、なぜか就役は12番艦「あさゆき」よりも3日早かったようです。「しまゆき」「あさゆき」ともに就役は昭和62年2月で、今から31年も前の事になります。31年前がどれくらい昔であるかを分かりやすく説明すると、今年50歳になる私が大学受験をしていた時期にあたります。両艦が就役した日(2月17日と20日)、私は東京・お茶の水にある某私立大学を受験していました。合格したものの、その大学には入学しませんでした… |
撮影を終えたので海自カレーを食べ歩きします。中通りにある三河屋珈琲呉中通店にやって来ました。ここで味わうのは掃海母艦「ぶんご」のカレーです。実は私、約15年前に「ぶんご」でカレーをご馳走になったことがあり、久しぶりの「ぶんご」カレーに胸を躍らせてお店に行きました。出てきたのはルーに大量の挽き肉が入れられ、さらに半熟卵が載っている見るからに美味しそうなカレー。
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こちらは練習艦「やまゆき」のカレー、その名も「ライジングカープカレーやまゆき」です。以前の艦長に熱狂的なカープファンがいて、あまりの熱狂ぶりにより「やまゆき」にライジングカープというニックネームが付けられたことが名前の由来。実は、私もかなり熱いカープファンなので、元艦長にはとても親しみを感じます。
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本日最後の海自カレーは練習艦「せとゆき」です。このカレーを提供しているのは呉駅近くの「おぼろ月」というお店なのですが、このお店は温浴施設の食堂で、お店に行くには最初に温浴施設の受け付けを済ませる必要があります。ガイドブックに記された場所に行くとそこは温浴施設なので、「間違えた!」と思わないように。 じっくり煮込んだ系のカレーで、具の牛肉は溶けるほど柔らかくなっています。辛さは控えめでシンプルな味わいですが、深いコクを感じるカレーです。こちらもジャガイモは素揚げした物ですが、他とは異なり食べる前に自分でトッピングしなければなりません。この素揚げジャガイモはしっかり味が付いているので、付け合わせのフライドポテトだと勘違いしないよう気を付けましょう。ご飯の量がやや少なめですが、夜に食べるにはちょうど良い量です。 |
明くる7月2日、呉市東部の島嶼部へと車を走らせます。平成の大合併でかつて安芸郡だった下蒲刈島と上蒲刈島、豊田郡だった豊島と大崎下島も呉市に含まれることになりました。私がいま向かっているのは最も東に位置する大崎下島で、この島にあるお店のひとつが海自カレーを提供しているのです。 |
目指していた「ゆたか海の駅とびしま館」に到着しました。長い道のりでした…(笑)「とびしま館」は大崎下島のフェリー発着港である小長港の一角にあり、画像右の建物がフェリーターミナル、左の黒い建物が「とびしま館」です。「とびしま館」は日本初の海の駅で、大崎下島と近隣3島の特産品を販売しているほか、瀬戸の海の幸や海自カレーを味わうことができるレストランを併設しています。 |
「ゆたか海の駅とびしま館」で食べるのは、練習艦「しまゆき」のカレー。「せきりゅう」同様、先月から提供が始まったばかりのカレーです。もうどれくらいの人が安芸灘大橋を渡って食べに来たのでしょうねぇ?というか、調理を指導する「しまゆき」の給養員や、味を認定する艦長も遠路はるばるここまで来たのですね。ご苦労様です! 鶏の旨味がよく出たチキンカレーですが、とにかく辛い!これまで食べた海自カレーの中で最も辛いと言っても過言ではありません。その辛さも他のカレーとは異なるツンとくる‟鋭角的”な辛さ、聞くところによるとルーに豆板醤が入っているらしいです。鶏肉やジャガイモ、ニンジンがといった具が大きめで、食べごたえがあります。とても個性的で遠路はるばる食べに行く価値があるカレーです。 |
はるばる大崎下島まで足を延ばし、美味しいカレーを食べた充実感もさることながら、私が感動したのは小長港周辺、さらにその道中の景色の美しさです。穏やかで青く輝く瀬戸内海とそこに浮かぶ数多くの島々、その島々に架かる橋、そして島には集落やレモン畑、小さな造船所、さらにはコンビナートまであり、まるでジオラマのような美しい景色が広がります。まさに瀬戸内の多島美です。 |
大崎下島から呉市中心部に戻る途中、JR広駅前にある広ステーションホテルに立ち寄り、カレーをいただきました。このホテルで出されているのは呉潜水艦基地隊のカレーです。呉の海自カレーは艦艇だけでなく、3ヵ所の陸上部隊のカレーが含まれているのも特徴です。初の陸上部隊のカレー、どんなお味なのでしょうか…♪ あっ、これは家庭の味系のカレーですね!というか、私の母が作るカレーと全く同じ味なので驚きました。ルーの味だけでなく、具のジャガイモの大きさや煮込み具合まで同じです。てっきり私の母はバー〇ントカレーを使っていると思っていたのですが、実はかつて潜水艦基地隊で給養員をしていたようです(そんな訳ないか…)。牛肉は赤ワインで漬け込んでいて、とても柔らかくて風味豊か。私にとっては幼少期を思い出させてくれるノスタルジックなカレーです。 |
前の週に呉を訪れた際に食べたカレーもご紹介!こちらは輸送艦「おおすみ」のカレー。呉市役所近くのシティプラザすぎやで提供されています。香辛料を豊富に使っているのか、味はかなりスパイシー。加えてフルーツの甘さと煮込んだ玉ねぎの風味も豊かで、4月に食べた「そうりゅう」カレーと同様、海自カレーの王道的な味です。こちらもジャガイモは素揚げされています。具を素揚げしてトッピングする方式は、呉の海自カレーでは
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私のマニア心をくすぐりまくる補給艦「とわだ」のカレーです。補給艦のカレーってすごく美味しそうなイメージがあるので、ぜひ食べてみたかったカレーです。提供しているのは呉クレイトンベイホテルにある和食レストラン「呉濤」で、和食店らしく和風テイストのお皿に盛り付けられています。お出汁が効いた温泉卵も付いています。
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呉駅前のランドマーク的な存在である呉阪急ホテルが提供しているのがDD「うみぎり」のカレーです。隠れ「きり」型ファンを自認しているだけに、こちらも食べてみたかったカレーです。呉を代表する格調高いホテルですが、そんなホテルのレストランを50歳前(アラフィフ)の男がカメラ片手に一人で訪れたのですからその意図は明白、席に着いた途端、店のスタッフさんに「『うみぎり』のカレーですね!」と言われました(笑) |
2週に渡って呉の戦跡をめぐり、カレーを食べ歩いたのですが、私が大分に戻った僅か4日後の7月6日、停滞した梅雨前線による集中豪雨(西日本豪雨)によって呉市は壊滅的な被害を受けました。多くの場所で崖崩れや浸水が発生、24人もの市民が犠牲になりました。また全戸で断水が発生し、道路・鉄道も寸断されたため物資が一時枯渇するなど、呉市民は大変な不自由を強いられました。 被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復旧・復興を願っております。昭和20年の呉空襲で呉市は壊滅的な被害を受けたものの、市民の努力で見事に復興しました。同様に、今回の豪雨被害からも力強く立ち上がることを信じております。私も状況が落ち着いたら呉を訪れ、消費面で復興を応援したいと考えております。頑張れ!負けるな!呉! |