DDH「いせ」 自衛艦旗授与式 |
---|
自衛艦旗授与式といえば、海自艦艇が“軍艦”としての人生をスタートさせるための記念すべきセレモニーです。 マニアたるもの一度は出席してみたいと思っていたのですが、今回「いせ」艤装員長(初代艦長)の星山一佐からのご招待でこの憧れの式典に出席することになりました。 星山一佐は、おととし退役した「はるな」の最後の艦長です。私が「出港用意!」のコーナーで『さようなら護衛艦はるな』と題して「はるな」の退役を惜しむコラムを掲載したところ、それをお読みになりメールを戴いたのをきっかけに交流が続いています。 「いせ」自衛艦旗授与式への出席は「はるな」が縁で実現した訳であり、まさに「はるな」からの贈り物と言えるでしょう。 |
式典5日前の3月11日に東日本大震災が発生。式典は予定通り実施されるとの事だったのですが、いかんせん東京は余震が続き、交通機関も大きく乱れています。また震災の発生に伴って本職の方が超多忙となってしまいました。 「式典への参加をどうするか…」と考えましたが、一生に一度あるかないかの貴重な機会であること、そして何よりも「いせ」の就役を伝えることが私の使命だと考え上京を決断しました。 前日の15日に上京したのですが、計画停電で電車の運行が削減されて駅は軒並み大混雑、夜には大きな余震もありました。幸運なことに、当日の朝は京浜東北・根岸線が通常運行だったので、午前8時半にはIHI・MU横浜工場に着くことができました。 |
IHI・MU横浜工場では、ゲストハウスと呼ばれる施設で受け付けを済ませ、招待者控え室で待機します。そして式典開始20分前にバスで式典会場まで移動しました。工場内では様々な船が建造されています。この船は東南アジアの貿易会社が発注した穀物輸送船です。「いせ」といいこの輸送船といい、これほどの船舶を建造できるIHI・MUの技術力はすごいと関心してしまいました。 IHI・MUはIHIの造船部門と住友重機械工業の造船部門を統合して誕生した造船会社で、IHIの完全子会社です。この横浜工場は2002年に閉鎖されたIHI東京工場の後継的な工場で、「まきなみ」「ひゅうが」等がここで生まれました。 |
工場の奥まった場所にある式典会場に到着。 お馴染みの紅白幕に囲まれて「いせ」がその巨体を横たえていました。お祝い行事には欠かせない紅白幕ですが、大震災の影響でしょうか、「ひゅうが」の自衛艦旗授与式よりも明らかに紅白幕の数が少ないような気がします。 「いせ」は防衛予算的な呼び方をすれば18DDHで、2008年5月30日に起工、翌2009年8月21日に進水しました。去年(2010年)7月までには艤装工事が終了し、それ以降は海上公試で各種試験を実施してきました。 約1000億円の建造費と2年10ヶ月の歳月を費やして、「いせ」はいよいよ本日、就役の日を迎えたのです。 |
会場に入ると、既に星山艦長以下乗組員が整列していました。前列左端の方が星山一佐です。 「いせ」には約380人の乗組員がいますが、出港の準備等があるため全員が式典に参加する訳ではなく、整列しているのは全乗組員の4分の1にあたる約100人です。「いせ」には女性の航海長が配置されており、どのような方かと楽しみにしていたのですが、残念ながら列の中にはいらっしゃいませんでした…。 DDHやイージス艦といった大型艦は艦長は一佐、副長が二佐で、それ以外の幹部は三佐以下の方々ですが、整列している「いせ」の乗組員の中には二佐が6人もいました。「いせ」が特殊な艦であることの顕れと言えるでしょう。 |
私がいる招待者席の隣のエリアは主催者(主賓)用のエリア、つまり海上自衛隊からの出席者が参列する場所です。 袖の階級章が見にくいのですが、中央にいるのは護衛艦隊司令官の松下海将です。その隣にはお名前は分からないのですが海将補の方がいます。そして一佐の方々が多数…。高官の幹部がこれだけの数いると、袖の階級章と制帽の庇に付いた桜葉模様がとても眩しかったです。 今回の自衛艦旗授与式の執行者は横須賀地方総監の高嶋海将なのですが、東日本大震災での救援活動の指揮を執っていることから残念ながら欠席となりました。 |
ラッパの音とサイドパイプの音が響き渡り、会場の空気が一気にピンと張り詰めました。杉本海上幕僚長の到着です。 栄誉礼が行われた後、主催者用エリア、つまり私のすぐそばの場所にいらっしゃいました。参列している海上自衛官は直立不動の姿勢で出迎えます。 一瞬にして会場の雰囲気が張り詰める…海幕長という存在の偉大さを実感しました。そして袖の階級章の眩しさに圧倒されました。海軍大将の階級章ってスゴイ!海幕長の後ろには白い飾緒を吊るした副官が2人随行しています。1人は女性で階級は一尉でした。副官が白い飾緒を吊るすのも帝国海軍時代からの伝統です。 |
最初に引渡式が行われます。IHI・MUの蔵原社長が引渡書を読みあげ、防衛省施設装備本部の岡崎本部長に手渡しました。ちなみに引渡書の文章は「護衛艦いせ、1万3950トン」というシンプルなものでした。 引渡書を受け取った岡崎本部長は蔵原社長に受領書を手渡します。こうして「いせ」はIHI・MUから防衛省の手に渡りました。 海自艦艇が就役する際は引渡式と自衛艦旗授与式がセットで実施されますが、引渡式が造船所の主催行事、自衛艦旗授与式が防衛省の主催行事という位置づけになっています。 |
「いせ」が防衛省に引き渡されたことから、IHIの社歌が流れる中、マストに掲げられていたIHI・MUの社旗が降ろされました。 今回「いせ」を建造したIHI・MUですが、1番艦の「ひゅうが」もこの造船所で建造されました。さらに前身のIHI時代には「ひえい」「しらね」「くらま」を建造した経歴を持ちます。つまり海自のDDHの大半はIHI・MUが手がけたことになります。 そうなると、次期DDH(22DDH、1万9500t)についても「受注を狙っている」(IHI・MU営業担当者)とのことでした。「艦のサイズが大きくなっても納期は従来と同じなので結構大変かも…」と気の早い心配をしておられました(笑) |
引き続いて自衛艦旗授与式が行われます。杉本海上幕僚長から星山艦長に自衛艦旗が授与されました。 自衛艦旗は三角形に折りたたまれており、星山艦長はそれを恭しく受け取りました。実はこの自衛艦旗、「はるな」が退役時に掲げていた旗です。おととしのちょうど今頃、「はるな」の退役式で星山艦長が舞鶴地方総監に返納した自衛艦旗が、2年間の時を経て再び星山艦長の手に渡ったのです。 これは「はるな」の伝統と気風を「いせ」に引き継ぎたいという星山艦長の強い意向で実現したものです。 |
自衛艦旗は艦の命であり、海上自衛隊さらには日本国の象徴でもあるので、自衛艦旗を授与された者は常に自分の頭よりも高い位置に掲げなければなりません。「はるな」の伝統がこもった自衛艦旗を掲げながら、星山艦長は元の整列位置に戻ります。 「はるな」の自衛艦旗を「いせ」に掲げたいと考えた星山艦長は、艦長として、そして一人の海上自衛官として「はるな」という艦を心から愛していたのでしょうね。その星山一佐を海自は「いせ」の艦長に据え、「はるな」の自衛艦旗を掲揚することを認めました。伝統を大切にする海自らしいとても感動的な物語ではないでしょうか。 |
整列位置に戻った星山艦長は自衛艦旗を副長に手渡します。自衛艦旗を艦内に持ち込むのは副長の役目です。もちろん副長も自衛艦旗を自分の頭より上に掲げます。 副長は整列している6人の二佐の中では最先任で、左胸の防衛記念章の中に第22号記念章があることから、おそらく「ゆき」クラスの小型護衛艦の艦長経験者と思われます。「いせ」ほどの大型艦になると、副長にも艦長経験者レベルの人材が充てられるようです。 一方、星山艦長は前述のように、「いせ」の前は「はるな」の艦長でしたが、二佐時代には「せとゆき」の艦長も務めています。「せとゆき」艦長時には「J-Ships」誌上で紹介されました。 |
軍艦マーチ(正式名称は行進曲「軍艦」)の演奏に合わせ、自衛艦旗を手にした副長を先頭に乗組員が「いせ」に乗艦します。 100人近くの乗組員が順序よく美しく行進して艦に乗り込む光景はとても感動的でした。また、この時の軍艦マーチがとても場の雰囲気にマッチしていました(元々は行進曲ですからね…)。 「いせ」は定係港が呉なので、幹部を除く乗組員は中国・四国地方出身の方が大部分を占めています。艤装員として呉所属の艦からIHI・MUで艤装中の「いせ」に転勤となり、長期間呉から離れた生活が続いていましたが、就役により呉に戻れる日も近づきました。 |
乗組員の乗艦が終わると、艦長の乗艦です。甲高いサイドパイプの音が鳴り響く中、星山艦長がゆっくりと「いせ」に乗艦します。星山艦長の乗艦に続いて、杉本海幕長も艦内視察と訓示を行うため「いせ」に乗艦しました。一足早く乗艦を済ませた副長以下の乗組員はヘリ甲板に整列し、自衛艦旗を掲揚する体制を整えています。 IHI・MUによると、ヘリ甲板上の様子は大型ビジョンで参列者に見せる予定だったそうですが、震災で大型ビジョンを設置するためのクレーンが壊れてしまったため、放映は行われませんでした。なので、自衛艦旗掲揚と海幕長の訓示の様子は、参列者席からは伺い知ることができませんでした。 |
「君が代」が流れるなか、自衛艦旗が掲揚されました。「いせ」の船体が大きすぎて、参列者席からは艦尾での自衛艦旗掲揚の様子は見えないのですが、参列者全員が艦尾方向を向いて、海上自衛官は敬礼、民間人は姿勢を正して掲揚を見守ります。 ちなみに、この時流れる「君が代」は、艦艇で吹奏されるラッパ譜の「君が代」ではなく、「君が代は千代に八千代に…」の歌詞でお馴染みの国歌の方です。自衛艦旗の掲揚は、「いせ」に“軍艦”としての魂が吹き込まれる瞬間です。「君が代」の演奏を聴きながら身体が震えるほどの感動を覚えました。 |
2年前、「はるな」が私にお別れをしてくれているかのように風にはためいていた自衛艦旗が、いま再び「いせ」の艦上で翻っているなんて本当に感動的です。(「出港用意!」Vol38参照を) 艦艇は造船所から引き渡された時点では単なる鋼鉄の船ですが、自衛艦旗(海軍旗)が授与されることで、国際法で規定された「軍艦」となります。艦は国土の一部とみなされ、外国の港においては治外法権と不可侵権が認められます。海上では他の船舶から国家の象徴という存在で認識されて敬礼を受けることになります。自衛艦旗授与式は、艦に軍艦としての魂を吹き込む儀式なのです。 |
すべての式典が終了したので、星山艦長が参列者に挨拶とお礼を述べるために「いせ」から降りて来ました。 式典の間はずっと神妙な表情だった星山艦長ですが、式典が無事終了したことから表情には笑顔が戻っていました。参列していた高級幹部の方々も笑顔で星山艦長を迎え、「ご苦労さまでした!」などと声を掛けて就役をお祝いしていました。まさに海の武人同士の爽やかな一場面です。 本来ならば、このあと「いせ」乗組員と式典の参列者(私も含む)が参加しての盛大な祝宴が開かれる予定だったのですが、東日本大震災の被災者に配慮して中止となりました…。 |
祝宴が中止となったので、「いせ」が出港するまでの間、参列者は控え室にてIHI・MUが用意したお弁当で昼食です。その控え室にも星山艦長が来られて、参列者に式典出席のお礼を述べながら気さくにお話をされていました。 星山艦長と記念写真を撮らせていただきました。中央が星山艦長、向かって右端が私です。そして左端にいるのは「北大路機関」というブログで安全保障の観点から海自を論じているはるなさんです。つまり、はるな・元はるな艦長・HARUNAという「はるな三兄弟」とも言える3ショットです。実際、3人とも丸顔にメガネをかけていたことから、居合わせた防衛省の職員やIHI・MUの社員から「三兄弟」と呼ばれました(笑)これも「はるな」が縁の素敵な出会いです♫ |
昼食時間が終了し、午後1時に「いせ」は出港します。参列者は式典会場に戻り出港を見送ります。「いせ」は配備先の呉に向けて出港するのですが、そのまま直行する訳ではなく、いったん横須賀で補給を実施して、呉には3月31日に入港します。 出港に先立ってセレモニーがあり、初めに星山艦長からIHI・MU横浜工場の工場長に記念の盾が贈られました。 星山艦長ら艤装員は、工場の方々と二人三脚で「いせ」を創ってきた訳ですから、就役に伴ってのお別れは「いせ」・工場ともに寂しい想いがあるのではないでしょうか。 建造に対する深い感謝の念を表すかのように、星山艦長は工場長と固い握手を交わしました。これまた感動的なシーンです…。 |
星山艦長、先任伍長、そして海士代表の3人にIHI・MUの社員から花束が贈られました。 いよいよ出港の時間です。星山艦長が出港に向けてのあいさつを行いました。「いせ」を建造してくれたIHI・MUに謝意を示したあと、「大震災というかつてない事態がわが国を襲う中、1日も早く戦力となれるよう頑張ります」と力強く決意を述べました。 同じ日、呉基地では「ひえい」の自衛艦旗返納式が行われ、「はるな」型護衛艦が姿を消しました。まさに、この3月16日は海自艦艇史における大きな節目の日と言えるでしょう。 |
星山艦長は赤いストラップが付いた双眼鏡を首に掛け、ウイング部で出港作業の指揮をとります。そして「出港用意!」の号令、「いせ」艦内に初めての出港ラッパが鳴り響きました。 マストにはIHI・MUに対して感謝の念を表す信号旗「UW1」が掲揚されています。さらにその上には艦に乗っている最上級者が艦長であることを示す長旗も揚がっていますが、この旗も星山艦長が「はるな」に揚げていたものです。 「ひゅうが」型DDH2番艦の「いせ」ですが、初代艦長は「はるな」最後の艦長、マストに翻る自衛艦旗と長旗は「はるな」に翻っていたもの、これらの点から、まさに「いせ」は「はるな」の生まれ変わり、「ひゅうが」の形をした「はるな」と言えるでしょう。 |
軍艦マーチの演奏が流れる中、午後1時ちょうどに「いせ」はIHI・MUの艤装岸壁を離れました。参列者とIHI・MUの社員は手を振って「いせ」を見送ります。今まで雑誌やDVD等で艦艇が造船所から旅立つ様子を見たことはありましたが、実際に自分がその場に居合わせてみると、言葉に表せないくらい感動的でした。艦艇マニアとしてこの瞬間に立ち会えたことを本当に幸せに思います。 「いせ」は午後4時に横須賀基地に入港することになっており、私もその時間に横須賀に駆け付けて入港シーンを撮影する計画でした。しかし、計画停電で京急線が夕方に運休し、帰りの飛行機に間に合わなくなる恐れがあったため断念しました(涙) |
音楽隊の演奏は軍艦マーチから蛍の光に変わりました。そのせいか、出港していく「いせ」を見ていたら頼もしさを感じると同時に造船所を巣立っていく寂しさも感じました。教え子の卒業を見送る教師の気持ちはこんな感じなのでしょうかねぇ…。 見送りの中にはIHI・MUの社員も大勢いたのですが、「いせ」の建造に直接関わった技術工だけではなく、事務を担当している女性社員の方々もいました。その女性社員の方々は皆、目にうっすらと涙を浮かべて「いせ」を見送っています。この様子を見て、造船所の社員は技術工や事務職といった職種に関係なく、皆が建造中の艦をわが子のように愛しているのだなと感じました。 |
「いせ」は対潜作戦だけではなく災害支援でも大きな能力が発揮できる艦ですが、さすがに就役してすぐ東日本大震災の支援という訳にはいかず、当初の計画通り横須賀で補給を行ったのち配備先の呉に入港、その後約1年かけて習熟訓練に励みます。 「いせ」への期待の表れか、ネット上には「いせ」を直ちに支援に向かわせるべきとの声も挙がっていますが、艦が能力を発揮するには長い期間をかけての習熟訓練が必要なのです。星山艦長の指揮の下、習熟訓練で「いせ」の練度が上がり、1日も早く艦隊の戦力となることを心から願わずにはいられません。そして、時節柄いつになるかは分かりませんが、寄港先で一般公開が行われることを今から楽しみにしたいと思います。 |
出港と同時に、晴天だった横浜市上空に真っ黒な雲がたちこめました。それは今まで見たことがないどす黒く不気味な雲です。 不気味な雲の下で沖合いへ航行する「いせ」の姿は、まるで我が国を襲う未曽有の国難に対して果敢に立ち向かっていくかのように見えました。そんな「いせ」に勇気づけられると同時に大きな頼もしさを感じ、「頼むぞ!『いせ』。日本の未来は君に懸かっている!」と心の中で叫ばずにはいられませんでした。 東日本大震災という国難のさ中に就役した護衛艦「いせ」。そんな時に就役した艦だからこそ、他国からの脅威や自然災害から私たち国民を守る最強の盾になって欲しいと思います。頑張れ、「いせ」!頑張れ、星山艦長! |