八戸港 「あたご」「まきなみ」「せとぎり」公開

7月16~18日に青森県・八戸港で開催された艦艇イベントの模様をお伝えします。
「あたご」「まきなみ」「せとぎり」という艦隊の主力を担う豪華な顔ぶれが揃いました。

今回の遠征先は青森県八戸市。毎年夏の時期は艦艇を追って各地に出かけていますが、今回は過去最長距離の遠征です。
大分からまずは空路で東京に行き、東京から東北新幹線で八戸に入りました。所用時間約7時間移動距離は1850kmにも達する超長距離遠征になりました。

八戸駅に着いたのは16日の深夜だったのですが、市街地全体にやませによる霧が立ち込めており、ひんやりとした肌寒さを感じました。「東北・青森県に来たのだなぁ」と実感しました。ちなみに私、仙台より北に行ったのは今回が初めてです。もちろん八戸を訪れるのも初めてなのですが、八戸のイメージと言えば「美人過ぎる市議さんがいる街」という程度でした…(笑)

翌17日に八戸港八太郎4号埠頭へ。そこには「あたご」「まきなみ」「せとぎり」が仲良く並んで停泊していました。
最新鋭イージス艦を含む主力級の護衛艦が3隻も顔を揃える光景は勇壮で、八戸をはじめとする東北の被災地を激励するために3隻の護衛艦がやって来たといった趣さえあります。

この3隻は第3護衛隊に所属しており、3隻同時の入港は、恐らく直前まで八戸近海で護衛隊単位の訓練を実施していたものと思われます。震災の影響で各地のイベントが縮小傾向にある中で3隻もの主力艦が揃う今回のイベントは、海自の東北復興への強い想いの表れのような気がします。

八戸港は宮城県・塩釜港に次ぐ東北地方第二の規模を持つ工業港・国際貿易港です。そのエリアは物凄く広く、会場の八太郎4号埠頭は市街地からかなり離れた場所にあります。そこに行くための公共交通機関はほぼ皆無といった状況で、市中心部の宿泊先から会場までタクシーで3000円近くかかってしまいました…。

午前10時から公開が始まりました。その時点で岸壁にはそこそこ多くの人が集まっていて、皆さん嬉々として艦艇に乗り込んでいましたが、いかにもマニア然とした人(=私のような人)はいませんでした。もしこの3艦が九州に集おうものなら、M.H氏や熊本艦隊氏やあさぴぃ氏のような「いかにもな方々」が大挙して押し寄せるのは間違いないでしょう(笑)

最初に乗艦したのは「まきなみ」です。「なみ」型護衛艦の3番艦にあたるこの艦は、3年前の夏に地元・大在埠頭であった体験航海で乗艦し熊本艦隊氏と出会った思い出の艦でもあります。就役以来佐世保を母港としていましたが、3月16日付で大湊に転籍しました。「あめ」型の配備さえなかった大湊に「まきなみ」が転籍した事は、私たちマニアにとっては驚愕の出来事でした。

通常は1年程度かけて乗組員(幹部を除く)を新母港の隊員に入れ替えるのですが、「まきなみ」は1月末までソマリア沖・アデン湾の海賊対処に派遣されていたため(6次隊)入れ替えが間に合わず現在も約6割が佐世保の隊員だということです。

「まきなみ」の落下防止用手すりを確認したところ、雪が積もりにくいワイヤー形状の物に変更されていました。(矢印部分)
「まきなみ」は転籍が決まった後に、手すりの交換や甲板や壁面に付着した氷を溶かすヒーターの設置など、寒冷地仕様への改造工事が施されました。その際、ソマリア沖に派遣されるための防暑対策工事も同時に実施したため、「まきなみ」は一時、アフリカの灼熱地獄から大湊の凍てつく寒さまで対処可能な全天候型の万能艦になっていました。(現在、防暑装備の一部は撤去)

艦上に積もった雪や付着した氷は艦にとっては大敵で、大量の雪や氷を付着したままにしておくと、最悪の場合艦が転覆する恐れさえあるということです。氷だからといって甘く見てはいけないのです!

「まきなみ」の艦橋です。最新の航海用機器が並ぶ最新鋭艦らしい雰囲気です。ただ最近の艦艇は艦橋の天井が黒く塗られているので暗くなりがちで、撮影の際には光量不足で苦労させられます…。

「まきなみ」は2004年に就役した艦ですが、艦橋はまるで今年3月に就役したばかりと思えるくらいピカピカです!10枚下の「せとぎり」の艦橋の画像と比較すると、航海用機器の変化・進化がよく分かると思います。
「たかなみ」型の艦橋の装備は「むらさめ」型とほぼ同じですが、来年春に就役する新型護衛艦「あきづき」では、航海用機器をはじめとする装備品がどのよう変化・進化しているのかが非常に楽しみです。

続いて「あたご」に乗艦しました。私がはるばる八戸まで遠征した大きな理由は、この「あたご」に乗艦したかったからです。
「あたご」は就役から約1年後の2008年2月に千葉県野島崎沖の太平洋上で漁船と衝突、漁船は大破・沈没し乗員2名が行方不明(その後死亡認定)となる悲劇的な事故を起こしてしまいました。それだけに、しばらくの間は体験航海や一般公開への参加はなく乗艦・見学することは不可能だと考えていただけに、今回のイベント参加は本当に嬉しいです。

それは、単に乗艦・見学できることが嬉しいのではなく、「あたご」が晴れて国民の前に堂々と姿を見せることができるようになった事が嬉しいのです♪

「あたご」の艦橋です。艦橋構造物の形状上、イージス艦の艦橋はあまり広くないのですが、そこに最新の大型化した航海用機器が置かれているのでかなり狭く感じます

「あたご」を語る際に衝突事故の事は避けて通れないのですが、衝突の前、この場所に立っていた当直士官や操舵員、見張り員の間でどのようなやり取りがあったのか、思いを馳せずにはいられませんでした…。
事故当時、当直士官としてジャイロコンパスの前に立っていたのは水雷長で、事故の直前までは航海長が当直士官でした。この両名が業務上過失致死罪で起訴されましたが、今年5月に両名を無罪とする判決が横浜地裁で下されました。

「あたご」の艦長席。艦長は一佐なので座席のカバーは赤です。現在の艦長は3代目にあたる大野一佐です。
艦長は私たちマニアにとっては非常に眩しい存在でありますが、海自隊員(幹部)にとっても「一度は経験してみたい憧れの職」です。一方で、艦の全行動に責任を負い、いったん事故が起きれば、その責めを一身に受けなければならない厳しい立場でもあります。

事故当時は当直体制で、操艦していたのは当直士官である水雷長でしたが、事故発生後の記者会見で当時の艦長・舩渡一佐「事故の責任はすべて艦長である自分にあります」と話していたのは、海の武人らしい立派な態度だったと思います。

撮影しながら、「この場所にいた当直士官や当直員が漁船の動きをより注意深く監視し、早めに自動操舵を停止していれば悲劇は避けられたのでは…」という想いが消えませんでした。

当直士官の危険認識の誤りや当直員の見張り不十分など、「あたご」に重大な落ち度があったのは確かですが、海難審判や刑事裁判でも指摘されたように漁船側にも過失があったのも間違いのない事実です。にも関わらず、事故発生時に新聞・テレビが「あたご」にすべての過失があると断定した報道を繰り返したのは許せません
自衛隊絡みの事故は一方的な報道で構わないという姿勢記者の勉強不足を改めなければ、マスコミが国民に誤った自衛隊観誤った国防意識を植え付けてしまうと、私は危惧しています。

艦橋を降りて艦橋構造物内の士官室区画に来ると、ご覧のような調度品が置かれています。通路の奥に士官室士官私室幕僚事務室などがあるのですが、見学者の立ち入りを防止するための柵がミサイルの形をしていてとても素敵です(笑)

また、大きな鏡と本棚のような家具が置かれていて高貴かつ高級な雰囲気を醸し出しています。就役時、この場所にはとても素敵な愛宕山の絵画が飾られていたと記憶していますが、現在は「こんごう」型と同様の鏡に変わっています。ただ、そこは「あたご」とあって、鏡の下半分には京都・嵐山の渡月橋とその背後にそびえ立つ愛宕山が描かれています。

置かれていた模型に目が釘付けになりました。帝国海軍の重巡洋艦「愛宕」(左)護衛艦「あたご」(右)です。
いま艦船モデラーの間で大人気の350分の1スケールで、「愛宕」は就役時に通信員長を務めていた乗組員の作、そして「あたご」の方は2代目艦長・清水一佐の作です。両艦ともエッチングパーツを使うなどして非常に精巧な出来栄えなのですが、特に「あたご」の方の出来栄えは素晴らしいものがあります。清水一佐はプロモデラー顔負けの素晴らしい技術をお持ちのようです。

こうして見ると「愛宕」と「あたご」はよく似ていると思いませんか?「あたご」は6隻のイージス艦の中で最も艦容と名前が合っている艦だと思います。悲劇的な最期を遂げた「愛宕」の名前を受け継いだために「あたご」は悲劇を起こしたとの声もありますが…。

乗組員(曹士)の居住区が公開されていました。生活スペースである居住区が公開されることは滅多にないのですが、「あたご」は出血大サービスというか、これまで公開できなかった鬱憤を晴らすかのようなサービスぶりです(笑)

画像は休憩スペースです。テーブルにイス、冷蔵庫、流し台などがあります。壁にはホワイトボードが懸かっているので、休憩だけではなくミーティングや簡単な会議にも使われているようです。テレビはありませんでしたが、テレビ台とビデオデッキがあったので、テレビを据え付けさえすれば視聴できるみたいです。
壁に懸かった名札を見ると、この居住区は第1分隊に所属する海曹7人で使用しているようです。

休憩スペースの奥に寝室があります。「あたご」は大型艦かつ最新鋭艦なのでベッドは二段です。
上下のスペースもかなりあり、三段ベッドのような圧迫感はありません。プライベートな空間がない艦内ですが、このベッドだったら周囲をカーテンで閉めてしまえば十分快適なプライベート空間になるのではないかと思いました。

私のそばにいた見学者は護衛艦をよく知らないのか、「こんな狭い所で寝るなんて可哀想…」と言っていましたが、旧式艦の三段ベッドを知る私から見れば、「あたご」の二段ベッドはまさに天国・パラダイスです。かつては劣悪だった艦艇乗組員の居住スペースですが、近年大きく改善されていると感じました。

乗組員(曹士)用の浴室です。大型艦にも関わらず浴室はあまり広くありません。交代制とはいえ、この浴室を幹部を除く250人以上の乗組員が使うにはいささか狭いのではないでしょうか…。

浴室内は床がマリンブルーに塗られていたりして、清潔感あふれる雰囲気でした。
乗組員の皆さんはここで訓練等で疲れた身体を癒しているのですねぇ。浴槽にはお湯が貯められていて、今からすぐの入浴さえ可能な状態でした。お湯加減もちょうど良く、私は思わず直ちに服を脱いで浴槽の中に浸かってしまいたい衝動に駆られました…(笑) ちなみに浴槽内のお湯ですが、停泊中は真水航海中は海水が使用されます。

最後に乗艦したのは「せとぎり」です。「きり」型護衛艦の6番艦で、1990年2月に就役しました。18年前、「せとぎり」は「はまぎり」「うみぎり」と共に第48護衛隊を編成していました。3隻で呉に来航している際に撮影した経験がある思い出深い艦です。当時の最新鋭艦3隻から成る第48護衛隊は、まさに護衛艦隊の中核・花形部隊で、とても眩しく感じたのを今でもはっきりと覚えています。

その後、「せとぎり」は「はるさめ」の就役に伴って横須賀から大湊に転籍したため、見学や撮影はおろか、その姿を見かける機会さえ無くなってしまいました。実は、「せとぎり」の乗艦・見学も八戸遠征の大きな目的だったのです。

「せとぎり」の艦橋に上がったのですが、旧式艦ゆえか、それとも3隻のうち岸壁から一番遠い位置に停泊していたためか、見学者がほとんどいません。「まきなみ」「あたご」を見学して岸壁に戻ってしまう人が多いようです。

人が少ないのは撮影にするには好都合なので、夢中で撮影していると、案内役の幹部の方(通信士)が、「この艦ってそんなに魅力ありますかぁ?」と尋ねてきました。見学者が少ないのを気にしていたのかもしれません。
私が「きり」型護衛艦の魅力を存分に語ってあげると、その幹部は大喜び。丁寧に艦橋にある機器について説明してくれたほか、私を艦長席に座らせて記念撮影までしてくれました。乗組員は自分の艦が褒められると本当に嬉しいのですね!

以前から度々言っていますが、私は旧式艦の艦橋のクラシックな雰囲気が大好きです♪とは言っても、「せとぎり」はそれほど旧式ではないのですが…。何と言っても痺れるのはこの伝声管「伝声管がある艦橋こそ軍艦の艦橋です!」と、私が案内役の幹部の方に熱く語ったのは言うまでもありません。もちろん、その幹部はまたまた大喜び。

この伝声管は艦橋露天部に通じていて、露天部にいた隊員さんと通話したのですが、想像以上に声がクリアに聞こえます。伝声管、恐るべし!「あたご」の艦橋を見学した後なので、「せとぎり」の艦橋がとても広く感じます。でも逆に、艦橋がすごく低く感じます(苦笑)

艦橋の見学を終えて「せとぎり」を後にします。艦内は艦橋のみの公開だったのが少し残念…。せめて、あと科員食堂でも公開してくれれば良かったのですが…。

甲板上で撮影をしていたら、またしても若い幹部(機関士)から話しかけられました。「きり型がお好きなのですか?」。どうやら「せとぎり」の幹部の皆さんは、己の艦が不人気であるというマイナス思考に陥っているようです。もちろん、私は「きり」型の魅力を語りまくりました。そして、幹部の方と「きり」型談義に花が咲きました。別れ際に幹部の方がおっしゃった言葉が印象的でした。
「きり型は失敗作とさえ言われますが、そんな逸話がある艦の方が魅力的だとは思いませんか?」

3艦の見学と撮影を終え岸壁に戻りました。午後の体験航海で「あたご」と「せとぎり」の出入港シーンを撮影するのですが、それまでしばらくの間、岸壁で休憩です。

岸壁をよく見ると、突端部分がえぐられたかのように無くなっています。震災の激しい揺れで崩落したようです。さらに堤防を見ると、あちらこちらが陥没したり、逆に盛り上がったりしてかなりの損傷を受けています。市街地では震災の爪痕を感じなかった八戸ですが、港の被害を目の当たりにして、ここが被災地であることを認識させられました。
震災当日、八戸市は震度5強の揺れに襲われ、その後6mを超える津波が襲来。死者1人、行方不明者1人が出ました。

午後1時過ぎ、体験航海が始まりました。まずは「せとぎり」が出港、続いて「あたご」が出港します。両艦は高らかに出港ラッパを響かせながら出港していきました。あの勇壮かつ活動的な出港ラッパの音色は何度聞いてもいいものです♪

艦長は艦と岸壁を繋ぐ最後の舫を解き放つ直前に「出港用意!」の号令をかけ、出港ラッパが吹奏されるのですが、長年マニアをしているとそのタイミングが分かってきます。「せとぎり」「あたご」が出港する際も、私は撮影をしながら小声で「出港用意!」とつぶやいていました(笑) 「出港用意!」とつぶやいたドンピシャのタイミングで出港ラッパが鳴ると、まさに艦長気分が味わえます

甲板上に大勢の見学者を乗せて「あたご」が出港していきます。私はこの光景を見て涙を流さずにはいられませんでした
漁船との衝突事故によってマスコミに「1400億円の殺人船」のレッテルを貼られ、イベントの参加どころか国民の目に触れさせないような不遇な扱われ方をしてきた(私はそう感じた)「あたご」が、たくさんの一般市民を乗せて航海をしているのです。

もしかしたら退役まで体験航海に参加することはないのではと覚悟していただけに、この光景は夢のようです。
「ようやく『あたご』が国民の財産になった」体験航海に出てゆく「あたご」の姿を見て、そんな思いが頭をよぎりました…。

八戸といえば、海自航空部隊の一大拠点でもあります。八戸港のすぐ近くに八戸航空基地があり、航空集団の第2航空群が所在しています。ですから、岸壁で「あたご」と「せとぎり」の帰りを待っていると、哨戒機P3Cが上空を頻繁に往来するのです。中には機長がサービス精神旺盛なのか、体験航海中の「あたご」と「せとぎり」の上空を旋回する機もいました。

第2航空群は群司令部、第2航空隊、第2整備補給隊、八戸航空基地隊から成り、哨戒機P3Cを20機擁して北日本周辺の海域を空から監視・警戒しています。また、気象庁への業務支援として、昭和35年から冬季に北海道近海の海氷観測を実施しているのもこの部隊の特徴です。

約1時間30分後、「あたご」が八戸港に戻ってきました
この頃になると、岸壁には大勢の人が集まり、「あたご」の入港を眺めていました。皆さん、コンパクトデジカメや携帯電話のカメラで「あたご」が入港する様子を撮影していました。それは、事故直後に舞鶴で面白半分・冷やかし半分で撮影していた人とは違い、純粋に最新鋭のイージス艦である「あたご」に興味を抱き、撮影しているといった様子でした。

2人が亡くなっている事、そして艦艇の安全航行の教訓とするためにもあの事故は決して忘れてはならないと思いますが、「あたご」が「事故を起こした艦」という色眼鏡で見られなくなったのは、いい意味で事故が過去の物となったという気がします。

「あたご」に遅れること20分、「せとぎり」も戻って来ました。
旧式化し、さらには一部から失敗作と言われようとも、「きり」型は今後しばらくの間は艦隊の中核を担う重要な存在です。

護衛艦不足を解消するため、練習艦に種別変更されていた「やまぎり」が護衛艦に再種別変更されましたが、同じく練習艦「あさぎり」も護衛艦に復帰する事が決まっています。間もなく「きり」型は全8隻が護衛艦隊に揃うことになるのですが、新型の「あきづき」型の就役に伴って護衛隊群から離れ、地域配備の10番台護衛隊へ移っていくことが予想されます。実はこの「せとぎり」も再来年、かつて在籍した横須賀への転籍が決まっています。「あきづき」型2番艦の就役に伴って第11護衛隊に編成換えになるようです。

今回の八戸でのイベントは、念願だった「あたご」の乗艦・見学が実現するという大戦果が挙がりました。さらに、久しく姿を見ることができなかった「せとぎり」と、九州・佐世保から遠く大湊に嫁いでしまった「まきなみ」に再会することができて、こちらも大満足。はるばる1800km以上遠征した甲斐がありました♪

当初は翌日も3艦を見学する予定でしたが、台風6号が九州に接近していて帰りの飛行機が欠航する恐れが出てきたため、この日の夕方にとりあえず東京まで戻りました。「あたご」とは、ちょうど1週間後に開催される舞鶴地方隊の展示訓練で再会する予定です。舞鶴地方総監が座乗する旗艦になるとの事。「あたご」の晴れ姿が楽しみです♪

1800km彼方の八戸港で見た「あたご」の眩しいまでの雄姿。この日「あたご」は第二の就役を果たしました。