2021年7月 DDG「あたご」別府寄港

7月22~25日にDDG「あたご」が別府に初めて寄港しました。別府への海自艦寄港は2年ぶりです。

特徴的な形状をした高崎山船体に太陽の意匠が描かれたフェリー…お馴染みの別府港の風景です♪
私の地元であり、ホームグラウンドとすら言える別府港第3埠頭ですが、カメラを手にしてここを訪れるのは随分久しぶりのような気がします。久しぶりとなったのは、言うまでもなく、新型コロナ感染拡大により海自艦が別府に寄港しなかったためで、調べてみたら、おととし7月にDD「さわぎり」が寄港した時以来になります。何と、この第3埠頭で撮影するのは丸2年ぶり、どおりで久しぶりと感じるはずです。実は、去年の夏はDDH「かが」が別府に寄港し、この埠頭に接岸する予定だったのです。しかし、新型コロナの感染拡大によって接岸は取り止めとなり、遥か沖合での停泊となってしまいました。おのれ新型コロナ、許すまじ!!
(怒)

現在、時刻は午後0時30分。埠頭では大分地方協力本部の隊員が入港準備を始める一方で、どこで艦の入港を聞きつけたのか、既に数人のマニアが「艦はまだか!」と待ち構えています。ちなみに艦の入港は午後2時、このマニアたちは何時からここにいるの?

午後1時30分、2年ぶりに別府に寄港する艦が姿を現しました。その艦とは…第3護衛隊群の守護神にして、某国の弾道ミサイルから我が国を守り続けるDDG「あたご」です。2年ぶりの寄港ということで神様が配慮してくれたのか、「舞鶴のイージス艦」という九州ではなかなかお目にかかれない‟大物”がやって来ました。もちろん、「あたご」の別府寄港は初めて。かつて訓練の合間に佐伯湾内に停泊したことはあったそうですが、大分県内の港に接岸するのは今回が初めてとなります。「あたご」、ようこそ別府へ!

大分地本が手配した民間業者の曳船が「あたご」を待ち受けています。曳船も久しぶりの自衛艦の入港を喜んでいるようです
(笑)

「あたご」と2隻の曳船は超微速で並走しながら、私がいる第3埠頭へと近づいてきます。微速航行しながら曳船から「あたご」へ曳索が渡されています。何気なく見えるこの光景も、実はかなりの職人芸であることは間違いありません。背後に見えている街並みは別府市に隣接する日出町ですが、ちょうど曳船の後方の海岸で、昭和20年3月に商船改装空母「海鷹」が擱座しました。

真正面から見ると、「あたご」の艦橋構造物の巨大さが良く分かります。海自のイージス艦は米海軍のアーレイ・バーク級駆逐艦をベースにして設計されましたが、艦橋構造物に司令部施設などを追加したため、アーレイ・バーク級よりも艦橋構造物が2層ほど高くなり大型化しました。この城郭を想起させる巨大な艦橋構造物は、帝国海軍の高雄型重巡にも例がありますが、実は高雄型も司令部施設を盛り込んだことで艦橋構造物が大型化しました。その意味では、「高雄」型重巡は時代を先取した設計だったといえます。ただ、当時はまだ艦隊同志の撃ち合いが主戦と考えられていた時代だったため、射撃目標とされやすい=弾が当たりやすい大きな艦橋構造物に用兵側から非難轟々。そのため「高雄」「愛宕」は近代化改装において艦橋が少し小型化されました。


「あたご」が至近距離まで近づいて来ました。絶好のシャッターチャンスとあって、集まっているマニアに加え、埠頭で釣りをしていた親子や爺さんまでスマホや携帯を取り出して「あたご」を撮影するカオスな状況に。シャッター音が機関銃の如く埠頭に響き渡ります。

巨大な艦橋構造物をはじめ、いかにも重武装といった雰囲気に心が躍ります♪ 現代の艦船は性能の高さ(=強さ)は必ずしも艦容に表れないのですが、「あたご」をはじめとする海自イージス艦の力強い艦容は、まさに我が国の守護神というべき佇まいではないでしょうか。私は「軍艦の艦容は強力な抑止力である」が持論なので、海自イージス艦の最強の兵装はSM3でもハープーンでも5インチ砲でもなく、この力強い艦容であると思っています。近づく「あたご」を撮影しながら、「くろがねの城」という形容詞が頭をよぎりました。


「あたご」は埠頭に到着、行き脚を止めました。私は安全確保のため、埠頭の突端から少し後方へ下がって撮影を行います。
ここまで来れば、あとは船体を埠頭に寄せるだけなのですが、この段階になってもまだ右舷側に曳船がいます。という事は、もしかしたら「あたご」は回頭し、艦首を北に向けて接岸するのかもしれません。ちなみに、別府港第3埠頭に自衛艦が接岸する際は、高崎山方向(南向き)に艦首を向けるのが一般的です。もし回頭するなら、再び絶好のシャッターチャンスが訪れそうです。

鋭く尖った艦首、城郭のような艦橋構造物、二本の煙突、美しいラインを描く船体…まさに高雄型重巡を彷彿とさせる佇まいです。高雄型4姉妹のうち長女(高雄)と次女(愛宕)は近代化改装で艦橋構造物を少し小型にしたのですが、それが海自イージス艦の艦橋とよく似た形状なのです。海自には帝国海軍艦の名を纏った艦が多数ありますが、この「あたご」こそが艦名と艦容が最もマッチした艦だと思います。「あたご」≒重巡「愛宕」であり、「あたご」はパラワン水道に沈んだ「愛宕」の生まれ変わりといえるでしょう。


予想通り「あたご」は回頭を開始、絶好のシャッターチャンスが再び訪れました♪ 呼吸を忘れるほど一心不乱にシャッターを切ります。

「あたご」を回頭させるため、2隻の曳船のうち奥の船は艦尾を押し、手前の船は曳索で艦首を引っ張っています。2隻の曳船の見事な共同作業で「あたご」はゆっくりと向きを変えて行きます。民間の曳船ではありますが、普段は大分港で様々な種類の船舶の出入港を支援しているだけに、基地港務隊の曳船に負けず劣らずの見事な仕事ぶりです。手前の曳船「速吸」は、別府港に自衛艦が寄港する際にはほぼ毎回駆け付ける、地元マニアにはお馴染みの曳船です。自衛隊からの発注に毎回起用されるということは、恐らく、業者のイチ押しの曳船なのでしょう。船名は旧海軍の給油艦と同じく、豊後水道の別名である「速吸の瀬戸」から付けられています。


私は長年、ここ別府港第3埠頭で撮影を行っていますが、入港時に回頭して艦首を北に向けて接岸する艦は2例目です。1例目は2013年にDE「あぶくま」と「とね」が寄港した時でした。ただ、この時は艦がDEという小型艦で、今回の「あたご」のような大型艦が回頭&北向き接岸をするのは初めてです。別府に前回イージス艦が寄港したのは2015年夏の「こんごう」ですが、「こんごう」は南向きに接岸したものの、出港時に埠頭を離れてすぐに回頭を行いました。恐らくこの時が大型艦が埠頭から至近の位置で回頭できるかどうかの試行・確認だったと思われ、この時に回頭に成功した実績を以て、今回の「あたご」も接岸前に回頭を行ったと考えられます。

この角度から見ると、船体と艦橋をはじめとする様々な構造物のバランスが良く、とても精悍な艦容に見えます。「あたご」をはじめとする海自イージス艦は、見る角度によって見た目の印象が大きく変わる点も特徴です。残念ながら雲がやや多いものの、夏空の下で艦が来航し、甲板上では白い夏服の乗組員が躍動する姿に、久しぶりに「夏」を感じました。と同時に、コロナ前は当たり前だった夏の光景が、今や当たり前ではなくなってしまったことに、寂しさと悔しさを感じずにはいられませんでした。


回頭を終えた「あたご」は曳船に押されて、ゆっくりと埠頭に近づいてきます。カメラのファインダーいっぱいに迫ってくる「あたご」の姿に、久しぶりに動いているイージス艦を撮影する感動と興奮を覚え、身体が震えました。同時に「あたご」の大きさも再認識。

「あたご」はこれまでに何度も撮影したことがありますが、母港である舞鶴のほか横須賀八戸など、すべて県外での撮影でした。なので、今回「あたご」が別府に寄港した事は、私の地元をはるばる訪ねてくれた=私に会いに来てくれたような気がして本当に嬉しいです。思い起こせば、8隻の海自イージス艦の中でも、「あたご」は「こんごう」と並んで私とはとても縁が深い艦です。「あたご」が初めて夏イベントに参加した2011年の八戸では、艦橋や科員食堂のみならず居住区や浴室など艦内の様々な場所を見学し、2012年と2015年の観艦式では「あたご」の甲板上から壮大な艦隊絵巻を撮影しました。中止となった一昨年の観艦式では、横須賀から舞鶴に向けて出港する姿を撮影し、直近では3月の舞鶴遠征時にもその姿を北吸岸壁で見ることができました。それほどまでに縁が深い艦が私の地元に寄港してくれたのですから、「友人が私に会いに来てくれた」という感覚を抱かずにはいられないのです。

「あたご」から埠頭へ舫が放たれました。埠頭で舫作業を行うのは大分地本の隊員ですが、舫を引く姿が全くサマになっていません。当の隊員たちもどこか自信なさげに動いていて、たまらず他の場所にいた海自の地本隊員が駆け付けて指示を出していました。

かつてはレンジャー隊員や戦車乗りといった陸自の地本隊員が、本職の海自隊員に負けない見事な舫さばきを見せていたのですが、新型コロナにより自衛艦の寄港が途絶え、その間にあった人事異動により舫作業の経験者が少なくなってしまっているようです。新型コロナの影響はこのような所にまで広がっているのですねぇ…。でも、さすがは数々の修羅場をくぐり抜けてきたベテラン陸自隊員たち、的確な指示が出ると見違えるように動きが良くなって、無事に「あたご」を埠頭に係留することができました。


午後2時ちょうどに、「あたご」は接岸を終えました。「あたご」は1ヵ月以上に渡る訓練航海の途上にあり、別府が舞鶴へ戻る前の最後の寄港地です。別府には25日昼まで滞在し、その間に児童・生徒を対象にした特別公開が実施されます。新型コロナで以前のような乗組員が大挙しての上陸は難しいでしょうけど、ぜひ問題ない範囲で上陸して、別府温泉の湯で身体を癒していただきたいです。

自衛艦が寄港するような大きな埠頭は、市街地からかなり離れた場所にあるのが常ですが、この別府港は観光用として造られた港だけに市街地から至近距離にあり、すぐそばには大幹線である国道10号も通っています。国道を走行していると埠頭に泊まっている艦がよく見えるため、艦が入港するとたまたま通りかかった人が集まってしまう宿命にあります。今回の「あたご」入港後も多くの人が埠頭に詰めかけ、付近の遊技場やフェリーターミナル周辺で違法駐車が多発、大分地本の隊員が謝罪して回るほどでした。


翌朝、午前8時前。自衛艦旗掲揚シーンを撮影すべく、早起きももろともせず第3埠頭に馳せ参じました。艦の撮影絡みとなると、どんなに早起きでも苦にならないのが不思議です。 午前8時ちょうど、当直士官の「あげっ!」という号令のもと、ラッパ譜「君が代」の吹奏に合わせて自衛艦旗がゆっくりと艦尾の旗竿に揚げられます。撮影している私も身が引き締まる「神聖な朝の儀式」です。

この自衛艦旗掲揚は、帝国海軍から続く伝統の儀式ですが、舞鶴で勤務する「もびうすさん」ことM3曹によると、掲揚前に当直海士が持つ自衛艦旗の形など、同じ自衛艦旗掲揚でも舞鶴艦は他地域の艦にはない特有の細かい決まりがあり、最も伝統に厳密な掲揚を行うのだそうです。実直で辛抱強い隊員が多いとされる舞鶴ですが、艦旗の掲揚にも隊員の特色が表れているように思えます。


自衛艦旗掲揚後、「あたご」の母港・舞鶴基地の中枢・舞鶴地方総監部のご配慮で、艦長の後藤1佐を訪問することができました。
第9代目の艦長である後藤1佐は50歳、ちょうど1年前の去年7月22日に着任しました。艦長勤務は2隻目で、2013年8月から1年間、「やまゆき」の艦長を務めた経験があります。私よりも2歳年下…イージス艦の艦長が年下になる時代が到来してしまいました。


後藤1佐は惚れ惚れするほどのナイスガイで、私のような者の訪問を快く引き受け、心から歓迎してくれました。「さすがイージス艦の艦長を任されるほどの人は違う」と感じさせるほどの素敵な幹部でした。まさに、「日本男児、かくあるべし」です。
後藤艦長は「あたご」と第3護衛隊群についての説明のあと、「あたご」が実施している新型コロナ対策について説明してくれました。幸い、「あたご」ではこれまで1名の感染者も出していないそうですが、対策として ▽毎朝帰艦(出勤)時の検温▽艦内の空気が循環するよう幾つかの扉・ハッチを常時開放▽士官室・科員食堂など乗組員が集まる場所への仕切りの設置▽喫煙場所での密集防止…などを実践しているそうです。ウイルスという「見えない敵」との闘いにも懸命に取り組んでいることが分かりました。

後藤艦長が私を迎え入れてくれた部屋は、艦橋構造物01甲板にある司令部公室です。第3護衛隊群の群司令と幕僚が本艦に乗り込んできた際に、会議室兼食堂として使用されます。士官室によく似た格調高い雰囲気の部屋ですが、広さは士官室の半分ほど。群司令部が乗艦していない時には、今回のように来客の応接室として使用されているようです。司令部公室に招き入れてもらえるなんて、言葉にならないほどの感激です!この部屋で群司令と幕僚たちが会議を行っている光景が目に浮かんできました。

テーブル上に透明なアクリル板が設置されていますが、先ほど述べた本艦の新型コロナ対策のひとつです。なので、私はアクリル板越しに後藤艦長と対面してお話を伺いました。伊藤園のお茶の缶も実はコロナ対策で、以前は艦を訪問すると士官室係の隊員がとても美味しいコーヒーを出してくれていましたが、現在は感染防止の観点から缶のお茶を出しているとのこと。「あたご」の司令部公室で飲むお茶は、缶のお茶といえども、これまで味わったことのない美味しさを感じました。気のせいかもしれませんが…。


こちらは、司令部公室の一角にあるソファースペース。壁面には「あたご」が描かれた絵画が飾られていて、司令部公室にふさわしい格調高さを醸し出しています。群司令部の数に比してテーブルのイスの数が少ないので、会議の際にはこのソファースペースも幕僚たちでいっぱいになると思われます。座り心地の良さそうなソファーなので、激務の合間の休憩にもぴったりではないでしょうか。公室内の撮影をしながら、このソファーに横たわって、心ゆくまで昼寝がしたい…そんな衝動に駆られました(笑)

この司令部公室がある艦橋構造物2階(01甲板)には各種の司令部施設が配置されており、公室の隣には司令室、向い側には幕僚事務室があります。これら司令部施設を設けたことから、アーレイ・バーク級駆逐艦よりも艦橋構造物が大型化しました。


後藤艦長との対面が終わったあと、有難いことに艦内を見学させていただきました。こちらは司令部公室の隣にある司令室。群司令や隊司令が座乗した際に執務室として使用されます。本日は群司令・司令いずれも座乗していないので、空き部屋となっています。奥に見える冷蔵庫が置かれたスペースは司令の寝室、執務机の向い側はソファーが置かれた応接スペースとなっています。

艦の個室といえば、もうひとつ艦長室がありますが、本艦の艦長室はこの司令室とほぼ同じ構造・配置になっていると思われます。昭和期の護衛艦の艦長室・司令室は非常に質素かつ簡素で、スチール製の執務机のすぐ隣にベッドと応接セットがあるほど狭い部屋でした。艦が大型化したこともありますが、時代とともに艦長室・司令室が役職に相応しい広くて立派な部屋になっていることは好ましい傾向だと思います。とはいえ、米海軍艦艇の艦長室に比べたらまだまだ質素といえるレベルですが…。


司令公室がある階から1層降りました。ここは艦橋構造物の玄関にあたる部分で、今やお馴染みとなった各級指揮官艦の三役の顔写真が掲示されています。中央の写真が先ほど対面した艦長の後藤1佐で、その左下が副長、右下が先任伍長です。一番上に並んだ2枚が群司令と隊司令で、左が3護群司令・池内将補、右が3護隊司令・濱崎1佐です。後藤艦長が年下であることに軽い衝撃を受けた私ですが、群司令の池内将補は私と同じ年、隊司令の濱崎1佐は2歳下、本艦の副長に至っては12歳下と、もう大変な勢いで若返りが進んでいます。いや、若返りが進んでいるのではなく、単に私が齢を重ねているだけか…(汗) 誰か時の流れを止めてください!

この場所から向かって右へ進むと士官室があります。10年前に乗艦した際には士官室の手前に2代目艦長・清水1佐が製作した重巡「愛宕」と「あたご」の模型が飾られていたのですが、今回の乗艦では見当たりませんでした。残念ながら撤去されたようです。


こちらは船体内第2甲板にある科員食堂です。幹部と先任海曹を除く乗組員の食堂ですが、ご覧のように、飛沫防止のためビニール製の仕切りが設置されています。また密集防止のため、三つ並んだイスのうち真ん中のイスは使用禁止になっています。

科員食堂のイスは使用する乗組員全員分がある訳でなく、喫食者が速やかに食事を済ませることによって席を回転させるのですが、3分の1のイスが使えないとなると、食事の順番待ちの時間が少々延びるのではと心配になりました。ただ、海上自衛官の食事のスピードは驚くほど速いので、使えるイスが減ったとしても、それほど待つことなく席が空くのかもしれません。ちなみに今日は金曜日、あと数時間後には、この食堂はカレーのスパイシーな香りに包まれることでしょう。「あたご」のカレー、食べてみたい!


科員食堂の一角に乗組員の生活・食事風景を捉えた写真が掲示されています。「あたご」では今日から3日間、児童・生徒を対象にした特別公開が実施されるので、参加者に「あたご」での艦内生活を知ってもらうために掲示しているようです。

写真に写っている科員居住区と浴室を、10年前の乗艦時に見学しました。ベッドは2段で、1人分のスペースには十分な広さと高さがあり、同じ区画に数人が同居していることさえ苦にしなければ、とても快適な空間であるように思えました。また、浴室は洗い場がとても広く、スチール製の浴槽は清潔感があり、客船の浴室に負けないレベルでした。艦長室・司令室と同様に、乗組員の居住設備も時代とともに広く、充実したものに変わっています。特別公開に参加した児童・生徒には、艦艇の生活は窮屈ではなく、工夫次第で快適になることを知ってもらいたいです。美味しそうにカレーを食べる乗組員の写真を見て、食事の美味しさにも興味を持って欲しいです。


こちらは機関操縦室兼応急指揮所です。意外に感じるかもしれませんが、先ほど紹介した科員食堂の隣に位置しています
基準排水量が7700tを超える海自屈指の大型艦であるにも関わらず、計器類の統合デジタル化が進んだことから機関の監視・制御盤は非常にコンパクトになっています。「あぶくま」型DEや「ゆき」型DDは艦は小さくとも、「あたご」よりも遥かに大きく、複雑な制御盤を有しています。また、同じイージス艦でも「あたご」型は「こんごう」型よりも計器類が整理された分、全体のサイズも小さくなりました。

「あたご」型の機関は前型式「こんごう」型を踏襲しており、ゼネラル・エレクトリック社製LM2500ガスタービンエンジンを搭載しています。4基のガスタービンエンジンがCOGAG方式によって2軸を推進させ、最高出力は10万馬力、最大速力は30ノットとなっています。

上甲板に戻り、艦尾の自衛艦旗の前で記念撮影を行いました。私に隣にいる幹部は、艦内見学の案内役をしてくださっている副長の堤2佐です。艦長に面会し、副長に艦内を案内してもらえるなんて、マニアにとってこれほど光栄な事はありません。撮影してくれた乗組員はなかなかのカメラの腕前で、高崎山とフェリーさんふらわあを構図に入れ、艦旗がはためく瞬間を捉えてくれました。

堤2佐は40歳。細身で黒縁メガネをかけていることもあり、パッと見は学者・研究者のようですが、イージス艦で副長(砲雷長を兼務)を務めているわけですから、優秀な中堅幹部であることは間違いありません。イージス艦の副長は「艦長5分前」の配置で、多くの場合、次の異動でDEかDDの艦長になります。2015年の別府寄港時にお会いした「こんごう」副長・坂井2佐は次の異動で「たかなみ」艦長に、2013年の八戸での体験航海でお会いした「みょうこう」副長・佐藤2佐は、次の異動で「さわぎり」艦長になりました。堤2佐に「次の異動でいよいよ艦長ですね」と水を向けたところ、「いえいえ、私はまだ修行の身ですから…」との謙遜の言葉が。この謙虚な姿勢こそが優秀な幹部である証拠でしょう。数年後、艦長になった堤2佐にお会いするのが今からとても楽しみです

※坂井2佐・佐藤2佐いずれも現在は1佐に昇任しており、この夏の異動で坂井1佐は「あしがら」艦長に、佐藤1佐は「はぐろ」艦長になりました。

後部甲板(ヘリ甲板)から見た後部構造物です。左側に見えているのがヘリコプター格納庫で、前型式「こんごう」型からの大きな変更点となっています。この格納庫を新設したために、本艦は「こんごう」型よりも全長が4m延びました。基本的にDDGにはヘリコプターは搭載しないことから、「こんごう」型を含め本艦より前に建造されたDDGには格納庫がありませんが、「はたかぜ」型から進めてきたDDGの航空対応の集大成として、「あたご」型には格納庫が設けられ、次型式(最新型)である「まや」型にも引き継がれています。

とはいえ、作戦・運用面でヘリコプターを乗せる必要に迫られた際に対応が可能というレベルの設備で、常時ヘリを搭載して積極的に航空作戦を展開するという使い方は想定されていません。そのため、着艦したヘリを拘束・固定する装置は就役から14年経った今も未搭載のままで(3条のレールは敷設済)、DDに乗っている第5分隊(航空整備)の隊員も本艦には乗り組んでいません。


ヘリ格納庫の内部です。対潜ヘリSH‐60Kを1機を搭載できる広さがあります。格納庫に隣接した区画に、搭乗員待機室ヘリコプター弾薬庫が設けられています。床面に延びている3条の線はヘリ着艦拘束装置(未搭載)用のレールで、乗組員や乗艦者が躓かないよう、ヘリ未搭載時は金属製の蓋が被せられています。「ゆき」型DDの格納庫よりも若干狭い印象で、護衛隊群の中核となっている「むらさめ」型以降のDDの格納庫とは比べ物にならないくらい狭いです。SH60‐Kを1機搭載したらかなりギュウギュウになりそうです。ちなみに、副長にこれまでにヘリを搭載した実績があるのかどうか尋ねたところ、就役以来14年間で1度もないとの事でした。

観艦式や現在は行われなくなった展示訓練・体験航海で、この格納庫はとても重宝しました。というのは、長時間艦に乗って航海していると突然の夕立にわか雨に遭遇することが多々あるのですが、本艦はこの格納庫に退避して雨宿りすることができるのです。格納庫がない「こんごう」型では逃げ込む場所がなく、甲板上でずぶ濡れになるしかありませんでした。
逆に真夏の灼熱の日差しから身体とカメラを守る際にも、格納庫内の日陰はとても有難い存在でした。「あたご」型はマニアに優しい艦なのです。

この時間、特別公開に参加している児童の乗艦が始まったようで、格納庫内では航海科員によるラッパの吹奏展示が行われていました。案内役の隊員の軽妙な説明のもと、「総員起こし」「出港ラッパ」など2~3曲を披露、吹奏後には盛んな拍手が送られました。

この2人の航海科員ですが、まだ若いにも関わらずラッパ吹奏の腕前は中々のもの。思わず吹奏に聞き惚れてしまったため、吹奏中の様子を撮影するのを忘れてしまいました…
(汗) 先ほど午前8時に自衛艦旗掲揚のシーンを撮影していた時、ラッパ譜「君が代」が非常に美しい音色で、音も力強く出ていたのを思い出しました。恐らくこの2人が吹奏していたのではないかと思われます。

前部上甲板に移動しました。久しぶりにイージス艦の艦橋構造物を間近で見上げる状況となりましたが、お城の天守閣を連想させる力強さと迫力には心が躍らずにはいられません♪ 一見すると前型式「こんごう」型と同じに見える「あたご」型の艦橋構造物ですが、実は細かな改良が施されています。一番の相違点は衛星通信用アンテナの装備位置が変更になった点で、これに伴って艦橋ウイングの面積が広がりました。またステルス性をより追求するために、構造物全体の傾斜も微妙に変更されています。

艦橋構造物の手前にある四角い蓋が並んだ部分がVLSですが、この前部VLSは「こんごう」型の32セルから64セルに変更になっています。先ほど「あたご」型は「こんごう」型よりも全長が4m延びたと述べましたが、セル数が倍増した前部VSLの部分で船体を4m延ばしています。後部VLSと合わせたセルの総数は変わっていないため、逆に後部VLS(本型は後部構造物の天井部分に設置)のセル数は32になっています。つまり、「あたご」型と「こんごう」型ではVLSの前部と後部のセル数が反対になっているのです。


艦橋構造物とVLS・主砲を背景にして後藤艦長と記念撮影を行いました。写真は約1週間後に↑のような素敵な台紙に貼られて私のもとに届きました。後藤艦長、撮影をしていただいた乗組員の皆様、ありがとうございました。実は、この台紙には右半分に2ページ目があり、6枚上で紹介した「自衛艦旗を背景にして副長と一緒に写った写真」が2ページ目に収められています。また台紙には表紙もあり、「護衛艦あたご 乗艦記念」と記された金文字と「あたご」のロゴマークが配されています。大切な宝物ができました

後藤艦長の左側後方の甲板が塗装が剥がれ、さらに錆のような物が付着しています。これは乗組員が清掃やメンテナンスを怠っている訳ではなく、主砲が実弾射撃した際に砲弾の薬きょうが砲塔から排出され、それが甲板に落ちた痕です。かなりの大きさの薬きょうが2mぐらいの高さから落ちて来るため、いくら強固な鋼鉄製の甲板とはいえ、表面が削られてしまうのです。実は、このような薬きょうの痕跡はどの護衛艦にも残っていて、とりわけ今回の「あたご」のような長期訓練航海中の艦では明瞭に痕が分かります。


特別公開に参加している児童が主砲を見学しています。児童たちを迎え入れている「あたご」の方も、“未来の海上自衛官”を確保すべく、砲塔を旋回させ、砲身を上下させる展示だけでなく、最後は砲身を水平状態にまで下げ、砲身の内側を児童たちに覗かせるサービスぶり。「あたご」側の特別公開にかける意気込みが伝わってきました。主催した大分地本もさぞや嬉しいことでしょう。

まるで生き物のように素早く自在に動く主砲を見た児童は、「カッコいい!」「映画みたい!」「本で見たけど、実物は凄い!」などと大興奮の様子。これは洗脳、もといPRが大成功だと判断した私、すかさず児童に「将来は海上自衛隊に入るよね?」と聞いたのですが、児童の口からは「警察官になる!」「分かんな~い」「……」という微妙な回答。でも、いいんです!この児童が高校生や大学生になって進路を考える際に、今日の見学がふと脳裏に甦り、海自入隊という選択をする可能性もあると私は考えます。実は、海自隊員の中には「進路選択の際、小さい頃に父親と一緒に艦を見たことを思い出し入隊した」という人が結構いるのです。


主砲の脇には模擬弾が展示されています。持ち上げは禁止ですが、実際に触って主砲弾の質感を確かめることができます。
右側の黒い部分が射撃後に目標に向かって飛翔する弾で、左側の金色に輝く筒状の部分が薬きょうです。先ほど、主砲近くの甲板が落下した薬きょうで表面がえぐれていることを説明しましたが、この薬きょうが砲身基部から勢い良く吐き出されて落ちてくるのですから、その衝撃の強烈さは相当なものだと想像できます。甲板の表面がえぐれてしまうのもむべなるかなといった感じです。

「あたご」型の主砲(127ミリ単装砲)は、Mk45 Mod4が採用されています。「こんごう」型のOTOメララ社製の砲は対空砲としての性能を重視した砲ですが、Mk45 Mod4は対水上・対地支援用能力を重視した砲です。そのため、発射速度や最大仰角はOTOメララ砲に劣りますが、62口径という長い砲身を生かした精度の高い射撃が可能です。砲身の長さによって見た目も非常にスタイリッシュです。


艦長との面会と艦内見学を終えて「あたご」を降りました。久しぶりに第3埠頭と第4埠頭を結ぶ橋の上から「あたご」を撮影します。
まだ特別公開は続いているようで、甲板上に案内役の隊員の姿が見えます。きょう1日だけで約160人が見学に訪れるということです。こうして見ると、主砲Mk45 Mod4の砲身の長さが良く分かります。重厚な佇まいの海自イージス艦の中でも、「あたご」型は「こんごう」型よりもスタイリッシュ&スマートに見えるのは、全長が4m延びただけでなく、この主砲の砲身の長さも関係していると思います。

目の前は海のように見えますが実は川の河口部分で、第3埠頭と第4埠頭は川によって隔てられています。第4埠頭は約20年前に増設された新しい埠頭で、別府市は第4埠頭にクルーズ客船や護衛艦を積極的に寄港させて地域活性化を図ろうと目論みましたが、水深が10mしかないために、喫水下にソーナードームを有する護衛艦は浅すぎて接岸できず、第4埠頭が完成しても護衛艦の寄港は第3埠頭が使われ続けています。埠頭設計時、護衛艦が水面下に巨大な構造物を有しているなんて誰も考えなかったのでしょうねぇ。


2日後(7月25日)の正午過ぎ、「あたご」はのべ4日間の別府寄港を終え出港しました。離岸時、艦橋ウイングにいる後藤艦長の力強い「出港用意!」の号令が、川を越えて私がいる第4埠頭まで聞こえてきました。長期訓練航海の最終盤に際し、母港に戻るまで気を抜くことなく職務にあたろうとする艦長の意気込みが伝わってくる号令でした。岸壁を離れる「あたご」を撮影しながら名残惜しさを感じずにはいられなかったのですが、それはまさに「遠くから訪ねてくれた友人が帰途に就くのを見送る時の心境」そのものでした。

「あたご」の出港を撮影していると、同じ場所から「こんごう」の出港を撮影したことが脳裏に甦ったのですが、つい最近のように思える「こんごう」の撮影も、実は6年も前の出来事なのです。45歳を過ぎると歳月の経過が恐ろしく速いです…。 その時の群司令(斎藤将補)は今は護衛艦隊司令官に、艦長(齋藤1佐)は1術校総務部長に、副長(坂井2佐)は「あしがら」艦長になっており、そう考えると歳月の経過を実感せざるを得ません。6年の間にお三方はそれぞれ昇任・栄転して海上防衛の要職に就いている一方で、私の方は昇任・栄転とは無縁で、上がったのは体重血圧血糖値という有様。忍び寄る病魔から身体を防衛する任務に就いています
(笑)

離岸した「あたご」はゆっくりと港外へ向けて前進を始めます。あぁ…本当に行ってしまうんですね…(涙) これまで何度もこの場所から寄港を終えて出港する艦艇を見送り、撮影してきましたが、今回はこれまでになく名残り惜しさがこみ上げてきます

コロナ禍によって艦艇の寄港や公開が激減し、艦を見れない、艦を撮れない事に残念な思いを抱いている人は多いと思います。もちろん、私も見れない、撮れないことが残念でなりませんが、それ以上に指揮官・艦長・乗組員との交流・人間関係づくりが途絶えてしまったことに忸怩たる思いを抱いています。その意味では、今回の「あたご」寄港は別府への久しぶりの大型艦の来航という事に加え、後藤艦長・堤副長、さらには乗組員の方々と交流を持てたことが嬉しくてなりません。振り返れば、この別府港ではこれまで様々な出会いがあり、その縁で今日まで交流が続いている人も多々います。人の出会いを阻む新型コロナウイルスは憎き敵であり、1日も早くこの敵を制圧し、別府で素晴らしい出会がある夏が毎年のように訪れて欲しい…航行する「あたご」を眺めながらそう思いました。


「あたご」の艦内スピーカーから「左、帽振れ」の号令が。甲板上にいる乗組員が、埠頭にいる見送りの人たちと別府の街に別れを告げます。私も右手でカメラを持って撮影しながら、被って来た「あたご」の部隊帽を左手で振って帽振れに応えます。純白の夏制服を来た乗組員が整列して甲板上で帽振れを行う光景は、私にとって最も「夏」を感じる光景です。この感覚も久しぶりだなぁ…。

6年前、「こんごう」を見送った際には第4埠頭にいたのは私ひとりでした。第4埠頭にひとり立ち、見送りと撮影を行う私に対して、「こんごう」は通り過ぎる際に2回目の「帽振れ」を実施、私は涙が出そうなくらいの感動に浸りました。「あたご」の「帽振れ」を見てその事を思い出したのですが、いま第4埠頭には私を含めて50人くらいの人がいます。動画の撮影者や艦が動く直前までドローンを飛ばす人もいて(そもそも艦艇の近くで飛ばしていいのか?)、この点でも6年という年月の経過を否応なく実感させられます


「あたご」の巨大な艦橋構造物が目の前を通過。久しぶりにイージス艦の航行を間近に見て、その迫力に圧倒されました
第4埠頭では何度も撮影しているにも関わらず、久しぶりの撮影であることから、カメラを望遠用から近距離用に取り替えるタイミングや、ズームレンズを引くタイミング、艦首や艦橋等にクローズアップするタイミングなど、第4埠頭における様々な撮影技術を忘れており、かなり焦りました。 これも新型コロナの影響…コロナという奴は本当に色んな面に悪影響を及ぼしてくれます
(怒)

艦橋構造物側面に見えるブロック工法の継ぎ目から、艦橋構造物が6層であることが分かります。実は特別公開では艦橋は公開されませんでした。参加者に最も見せたい場所ではありますが、急傾斜で狭いラッタルを6層分(5回)も昇り降りする必要があり、低学年の児童だと転落の恐れもあることから、公開を見送ったということです。「上り」よりも「下り」の方が難関で、かつてイージス艦の公開で降りるのが怖くて泣いているお子さんがいたほか、ラッタルの傾斜を見て足がすくんで動けなくなった高齢者がいました。


「あたご」は第4埠頭の前を通過し別府湾内へ、一路、母港・舞鶴へと向かいます。1ヵ月に及んだ訓練航海もあと僅かですが、舞鶴への帰途でも航行しながら様々な訓練を実施するものと思われます。船体の至る所に錆が付着していますが、その錆びだらけの姿は長期航海で訓練に明け暮れ、練度を飛躍的に高めた精強艦の証ともいえます。安全な航海をお祈りいたします。

我が国周辺の海域は、領土拡張の野心を剥き出しにする‟中華な大国”のせいで、随分きな臭くなっているものの、一応は安寧が保たれています。「あたご」の訓練航海は有事に即応できる練度を獲得するためだけでなく、厳しい訓練を積み重ねること自体が、“中華な大国”の野心を削ぐ強力な抑止力になっていると私は考えます。日本の海の安寧は、海自艦の地道な訓練の積み重ねの成果なのです。後藤艦長をはじめとする「あたご」乗組員に心から感謝申し上げるとともに、今後も全力で応援させていただきます。


港外に出た「あたご」は90度変針、速力を上げながら湾外へと向かいます。あまりの名残惜しさで埠頭を離れることができません…
長いあいだ海自マニアをしていると、ある特定の艦との間に不思議な縁があると感じる事が多々あるのですが、まさに「あたご」は縁を感じる最右翼の艦です。次回はどこで、どのような形で「あたご」と会うのか…心を躍らせながらその機会を待ちたいと思います♪

「あたご」の母港・舞鶴は今年で舞鶴鎮守府開庁120周年、来年には舞鶴地方隊開設70周年を迎えます。本来ならば様々な祝賀行事や記念行事が開催されるのですが、コロナ禍の現状においては、それら行事の開催は不透明な状況です。新型コロナが1日も早く収束し、舞鶴の祝賀・記念行事が憂いなく開催できるような状況になって欲しい…舞鶴へ向かって航行する「あたご」を撮影しながら、改めてそう願わずにはいられませんでした。私も次に舞鶴に行くことができるのは、一体いつになるのだろう…?

別府に久しぶりに来航した海自艦、艦を撮って・見て・乗組員と交流…コロナ以前の夏イベントを思い出しました。