造船の街 浦賀

6月2日に横浜でDD「ゆうぎり」を撮影後、かつての造船の街・浦賀を探索しました。

久しぶりの関東方面への遠征です。大きな仕事がひとつ片付いたので、気分転換も兼ねて横浜にやって来ました。横浜で撮影するのも随分と久しぶりで、前回はいつかと調べてみたら、2015年10月に実施された観艦式に伴う一般公開の時で、その時はこの大桟橋から就役したばかりのDDH「いずも」を撮影しました。あれからもう4年近くが経つのか…。
眼前には実に横浜らしい景色が広がっています。帝国海軍の病院船としても活躍した客船「氷川丸」、緑の木々が美しい山下公園、マッカーサー将軍も新婚旅行で宿泊したというホテル・ニューグランドなどなど、お洒落な港町らしい良い雰囲気です。

それにしても天気が残念!雨は降っていないものの、どんよりとした曇り空。すっきりとした青空を背景にして、この美しい景色を撮影したかったのですが…
(涙) 曇天の下で撮影すると、色味がくすんだようなパッとしない画像になるんですよねぇ。いっそ雨が降っている方が風情があっていいくらい…撮影を趣味にしている人で「曇天が大嫌い!」という人は結構多いのではないでしょうか?

今回、この横浜で撮影する艦艇がこちら…DD「ゆうぎり」です。「きり」型DDの3番艦で、1989(平成元)年2月28日に就役しました。令和の時代に入って間もないこの時期に、平成がスタートした年に就役した艦を撮影するのも奇遇といえば奇遇です。
平成時代に入って最初に就役した艦は同じ「きり」型の「やまぎり」(2番艦)で、平成に入って19日目の平成元年1月25日に就役しています。さらに4番艦「あまぎり」が「ゆうぎり」就役の17日後(3月17日)に就役していて、平成元年はDDだけで3隻が就役しています。

平成元年はDD以外ではDE「あぶくま」、潜水艦「さちしお」、掃海艇「あわしま」「さくしま」、訓練支援艦「くろべ」が就役していて、合計8隻が就役するという、今では考えられないペースで自衛艦が就役した年でもありました。さらに驚くべきことに、翌年の平成2年は「はまぎり」「せとぎり」「さわぎり」というDD3隻のほかDE「じんつう」、潜水艦「はるしお」、補給艦「ときわ」「はまな」など9隻が就役しています。

残念ながら「ゆうぎり」の公開範囲は上甲板のみのようです。ただ、艦橋まわりを見ると案内係が配置され、CIWSを説明する看板が置かれていることから、募集対象者(18~32歳)には艦橋や艦内が公開されるようです。そういえば、桟橋の入口付近に募集対象者用の受付がありました。そこで受付けを済ませた募集対象者を十数人単位のグループにして、乗組員が引率して艦内を巡るようです。

一般の見学者(マニアを含む)は上甲板のみ、募集対象者に限って艦橋や艦内を公開という形式が数年前から主流となっています。募集難の時代で隊員の確保が切実な問題であることは理解できますが、それにしてもあまりに一般の見学者を蔑ろにしていませんか?一般公開は隊員の確保と並んで、国民の海自への理解促進も大きな柱のはず。しかも、本日の公開は横浜開港祭の一環で、地本が主催する一般公開とは違います。一般の見学者も艦橋ぐらいまでは見学させるべきではないでしょうか。

「ゆうぎり」の艦尾で大勢の見学者が風にはためく自衛艦旗を撮影しています。見学は上甲板を半周して終わりなのですから撮影できる物も限られます。私には大した物を撮ることができなかった見学者が、ヤケクソで自衛艦旗を撮影しているように見えます。

ちなみに私ですが、公開範囲が上甲板のみと分かった時点で早々に乗艦待ちの列から離脱し、客船ターミナルからの撮影に切り替えました。私は公開開始直後(午前9時30分)に大桟橋に着いたのですが、その時点で既に30分程度の乗艦待ちの列ができていました。曇天とはいえ蒸し暑い気象条件の中で30分も列に並んだ挙句が上甲板のみの見学…並んで乗艦した方々が可哀想すぎます…


山下公園とビル群を絡めて「ゆうぎり」を撮影してみました。都会のビル群を絡めて艦を撮影できるポイントは、この横浜・大桟橋のほか神戸・第4突堤晴海埠頭など意外と少なく、その意味ではなかなかに貴重な構図ではあります。こうして見ると、「きり」型DDが巨大な箱型の格納庫を背負っているのが分かります。企画時にステルスの概念がなかったとはいえ、凄まじいほどの垂直な壁です。

艦尾にいる見学者が先ほどより増えたような気がします。皆さん、艦橋や艦内を見学できると思って乗艦したものの、上甲板を半周したら艦を降りないといけないことに気づき、名残惜しくて艦尾で滞留してしまっているように見えます。格納庫すら見学できないなんて…

山下公園側から「ゆうぎり」を撮影。背後にあるのが大桟橋の客船ターミナルで、先ほど私はあのターミナルの3階(屋上)から撮影していました。左端に客船の一部が写り込んでいますが、郵船クルーズの豪華客船「飛鳥Ⅱ」が寄港しています。ターミナルビルには「ゆうぎり」と共に「飛鳥Ⅱ」を撮影する人も多くいましたが、もちろん私は「飛鳥Ⅱ」には目もくれませんでした。何それ、美味しいの…?

こうして見ると、林立する2本のマスト高さが抑えられた艦橋構造物鋭く尖った艦首船体側面に入れられたナックルラインなど、「きり」型DDの特異な艦容がよく分かります。上甲板は多くの見学者で溢れかえっています。これだけ多くの見学者が押し寄せれば、見学範囲を募集対象者と区別したくなる気持ちは分からないでもありませんが…。

大桟橋は明治時代中期に設けられた横浜を代表する海の玄関口です。かつては横浜桟橋や山下町桟橋など様々な名称で呼ばれていましたが、大桟橋の名称で統一されました。ちなみに大桟橋の正式名称は「大さん橋」、しかも構造的には桟橋ではなく岸壁です。
ユニークなデザインの客船ターミナルは2002年に完成、その際に桟橋自体も改修が行われています。

「ゆうぎり」の艦内には入れないし、天候もあいにくの曇天なので、大桟橋での撮影はこのくらいで切り上げます。
せっかくの横浜遠征も現状ではとんだ空振りとなってしまっていますが、どうせこんな事だろうと予測していた私は、「ゆうぎり」の撮影の後に「ゆうぎり」と縁が深いとある場所で撮影を行う計画を立てていたので、これからその場所へ向かうことにします。


横浜駅から京急の電車に乗ること約45分(堀之内で快特から普通に乗り換え)、京急本線の終点・浦賀に到着しました。そう、「ゆうぎり」と縁の深い場所とは、この浦賀なのです。横須賀への遠征時に頻繁に利用する京急電鉄ですが、実は横須賀中央より南へは行ったことがなかったことから、本線の終点でもある浦賀はぜひ一度訪れてみたかった場所でもあります。

浦賀駅は本線の終点ですが、快特急行といった優等列車はやって来ません。品川や金沢文庫行きの普通列車が発着するのみです。花形である快特は堀之内から支線の久里浜線へ入線するためで、一見すると浦賀方面が支線であるかのような印象を受けます。実際に1時間に数本の普通列車が発着するのみの浦賀駅は、ローカル線の終着駅のような少し寂し気な雰囲気が漂っています。

こちらが浦賀駅の入口。駅自体は高台に位置しているので、駅構内へは階段またはエレベーターを使って入ることになります。駅前はバスの発着場になっていて、発車時刻待ちの京急バスが待機しています。終点らしいなかなかいい雰囲気です。京急の駅(浦賀駅)の前に京急バスが待機し、さらに京急メモリアル(葬祭場)と京急ストアの看板も…浦賀は“京急タウン”といった趣すらあります。

浦賀から一駅先の馬堀海岸駅は防衛大学校の最寄り駅であり、この浦賀自体も防衛大学校に近いことから、休日の外出でここ浦賀を散策する防大生の姿もちらほら見かけました。浦賀を散策するということは海上要員でしょうかねぇ?

浦賀駅を出た途端、目に飛び込んできたのはいかにも造船所といった雰囲気満載の建物。そう、浦賀は造船の街なのです。
建物を囲む塀には、1853年にペリー提督率いるアメリカ艦隊(黒船)が来航したことをPRする看板が設置されています。一般の人には浦賀といえば黒船が来航した地なのですが、艦船マニアにとっては浦賀は造船の街なのです。ただ、浦賀が造船の街となった背景には黒船の来航が密接に関わっており、黒船来航と浦賀の造船所は表裏一体の関係と言うことができます。

私は先ほど浦賀が「ゆうぎり」と関係の深い場所と述べましたが、「ゆうぎり」はここ浦賀で建造されたのです。ではこれから、「ゆうぎり」をはじめとする数々の自衛艦旧海軍の艦艇を生み出した造船の街・浦賀を探索してみたいと思います。


浦賀駅前から造船所を囲む塀に沿って5分程度歩いた所に門があります。見た感じでは正門ではなさそうですが、歴史を感じさせる門柱模型の造船所キットからそのまま持ってきたかのような建物がとてもいい雰囲気を醸し出しています。敷地内に入ってみたい衝動に駆られましたが、さすがにそれは不法侵入にあたるので思いとどまりました。

浦賀に造船所が設けられたのはペリー来航の年の1853年、黒船の威容に衝撃を受けた江戸幕府は直ちに浦賀で西洋式軍艦の建造に着手します。そして僅か7ヶ月という短期間で国産第1号の軍艦「鳳凰丸」を完成させます。またアメリカに渡航する「咸臨丸」の整備を行うなど、浦賀造船所は幕末の歴史にその名を刻みました。しかしながら、幕臣・小栗上野介が横須賀に造船所を整備したことから、浦賀造船所は1876(明治9)年にいったん幕を閉じることとなります。

門の前に案内板が設置されています。「横須賀風物百選 浦賀造船所」との題目で、この造船所の歴史を説明しています。
この案内板にも記されている通り、1876年に閉鎖された浦賀造船所の跡地に榎本武揚らが中心となって新たな造船所を設立、1897(明治30)年に浦賀船渠が誕生します。浦賀船渠は戦後に浦賀重工業住友重機械工業浦賀造船所住友重機械工業追浜造船所浦賀工場と名称を変えながらも、数多くの自衛艦・貨物船・フェリーなどを世に送り出してきました。

実は現在、浦賀の造船所は稼働していません。住友重機械工業の生産設備集約のため、浦賀工場は2003(平成15)年に惜しまれつつ閉鎖されたのです。つまり、私がこれまで見てきた建物群は閉鎖された造船所の遺構・遺物ということになります。150年もの歴史を有する名門造船所も、造船受注をめぐる世界的な環境の変化には抗えなかったということでしょうか…。

造船所は閉鎖後に多くの建物や設備が取り壊されましたが、「浦賀ドック」と呼ばれていた第1号ドックは取り壊されることなく、今なお往時の姿を保ったまま残っています。歴史的な価値が高いこのドックを撮影することが、今回の遠征の最大の目的です。
遠征前の調査によって、先ほどの門から久里浜方向に少し進んだ場所にドックがあることが判明しています。推察するに、このレンガ模様の塀の内側あたりにドックがあるようなのですが、塀によって歩道からは中が見えそうにありません。う~ん、これは困ったぞ…。


塀の上に手を伸ばして何とか第1号ドックを撮影することができました。カメラを頭より上に構えての撮影なので、ファインダーを覗いての撮影はできません。カメラ本体の液晶画面に映し出されるライブビュー機能を使っての撮影です。私はライブビュー否定派なのでこれまでその機能を使ったことがなかったのですが、不要と思っていたライブビュー機能に助けられました(笑)

この第1号ドックですが、世界に五つしかないレンガ造りのドックの一つであり、超貴重な産業遺産でもあります。浦賀船渠設立2年後の1899(明治32)年に造られ、寸法は長さ148m幅20m深さ8.4m、船舶の修理・メンテナンス用のドライドックです。フランス人技師による設計で、レンガの長手の小口を交互に積み重ねる「フランス積み」という技法で造られています。
造船所が閉鎖されて15年以上が経っているにも関わらず、現役のドックのような雰囲気すら漂わせています。15年もの間取り壊すことなく保存されているということは、所有者の住友重機械工業がこのドックの価値を良く理解しているからだと思われます。

ドックの周囲にはクレーンや機械工場の建物も残っていて、人の気配が無いことを除けば現在も稼働中の造船所のように見えます。
我が国の造船史に輝かしい足跡を残す浦賀の造船所ですが、艦船マニアにとってもお馴染みの名艦・名船がここで生まれました。帝国海軍の艦艇では軽巡「五十鈴」「阿武隈」駆逐艦「弥生」「深雪」「潮」「雷」「子日」「時雨」「不知火」「時津風」「秋雲」「高波」などがあり、特に駆逐艦の建造に関しては「東の浦賀、西の藤永田」と呼ばれるほどの名門造船所でした。

駆逐艦建造の名門・浦賀船渠が終戦までに建造した駆逐艦は44隻ですが、その中には上記のようなマニア垂涎の名艦・武勲艦が数多く含まれています。浦賀船渠の名が今なお語り継がれ、私を含めて多くの艦船マニアがこの地を訪れるのも、このような輝かしい歴史と実績が多くの人々の心を掴むからではないでしょうか。そしてこの歴史と実績は未来に語り継がねばならないと思います。

道路沿いの高台から造船所内を覗いてみます。矢印(青)が先ほど紹介した1号ドックです。こうして見ると、ドックは道路にかなり近い場所に位置していることが分かります。ドックのサイドにある青色のクレーンは全く錆びていませんねぇ…もしかしたら展示用に定期的に塗装の手入れを行っているのかもしれません。ドック手前の広場は造船所が稼働していた時代は造船所の敷地で、何かしらの建物や設備があったと思われます。今は浦賀コミュニティー広場という横須賀市の施設で、様々なイベントに活用されているようです。

ドックと並んで造船所のメイン施設である造船台は矢印(黄)の辺りにあったようです(推定)。往時は造船台を囲むように数基の大型クレーン様々な工場があったようですが、クレーンや建物はほぼ撤去され、船台も辛うじて形状をとどめるもののだだっ広い資材置き場みたいな状況のようです。船台で建造中の船舶は塀の外からも丸見えで、浦賀の市民は日に日に形造られていく新造船を楽しみにしながら生活をしていたということです。かつての浦賀は市民と造船所が共生する街だったようです。


1号ドックの南側サイドには赤錆びた巨大なクレーン(20tクレーン)が、華やかなりし往時を偲ばせます。腐食・劣化による倒壊を防ぐためか、ブームの部分は取り外され横に置かれています。かつては艦艇や商船のメンテナンスでフル稼働したであろうこのクレーンも、今は解体されて赤錆びた無残な姿を晒していることに胸が痛む思いがしました。幕末から続いた名門造船所でさえも造船業界の受注競争や業界再編の荒波に打ち勝てなかったことに、時代の無常さを感じすにはいられません…(涙)

造船所の跡地は再開発され、ドックや諸設備は保存・展示される計画もあるとか。造船大国・日本の礎を築いた場所だけに、造船ミュージアムとしてドックや建物群、そして赤錆びた巨大クレーンが往時の輝きを取り戻す日が来て欲しいと切に思います。

浦賀湾に面した遊歩道から1号ドックの入口を撮影。私がいま立っている遊歩道もかつては造船所の敷地で、昔の写真を見るとメンテナンス待ち(もしくはメンテナンス後)の艦艇や商船が数多く係留されています。
工場閉鎖後15年以上も経過していることから、ドック入口の仕切り=扉船も激しく錆びていて、このドックがもう使われていない、使われることがない現実がひしひしと伝わってきます。船と作業員の姿が消えた造船所は、想像以上に寂寥感が半端ないです…

と、思っていたら、ドックの周囲を歩くヘルメット姿の作業員がいるではありませんか!突然人が現れたので驚いたのですが、閉鎖されたとはいえ全くの無人状態ではなく、住重の社員が何人か常駐していて、定期的にドックや設備の見回りを行っているようです。私はその作業員さんに「中に入れてドックを見せてください!」と懇願しようかと考えたのですが、すぐに姿が見えなくなってしまいました。


私が所有する資料の中に、浦賀の造船所が華やかなりし頃の記事と写真を見つけました。「世界の艦船」1994年9月号の巻頭カラーページで、造船所(=住重浦賀)で試験艦「あすか」が進水した時の模様を紹介しています。
左頁は「あすか」が船台を滑り降りて進水した瞬間、右頁は進水した「あすか」が艤装用岸壁へ曳航されている姿を捉えた写真です。今は資材置き場と化した船台ですが、左頁の写真からはかつては華やかに進水式が行われていたことが伝わってきます。また曳航時の写真は背後の建物や山の形状から、この場所が紛れもなく浦賀であることが分かります。

「あすか」はこの8ヵ月後に完成して海自に引き渡され、開発指導隊群(現開発隊群)の直轄艦として護衛艦用の各種新装備の実艦試験を一手に引き受けるようになりました。その「あすか」も今年で艦齢24年というベテラン艦になり、浦賀の造船所の華やかなりし時代は完全に遠い過去のものとなってしまいました。当時26歳だった私も50歳に…時の流れは残酷です

遊歩道の対岸もかつては造船所の敷地でした。ほとんどの設備は無くなっているため今はガランとしていますが、長い歴史を感じさせる岸壁ほぼ廃墟状態のドックハウスが残っています。この岸壁は艤装用岸壁で、↑の「あすか」のように船台を滑り降りて進水した船舶はこの岸壁に横付けされ、必要な機材や設備の取り付けが行われました。現在の長閑な景色からは想像できませんが、往時は完成直前もしくは公試中の艦艇や商船がこの岸壁にひしめいていたのです。さぞや活気もあったことでしょう。

撮影をしている最中に私の頭の中で電流がスパークしました。「あの茶色のマンションと背後の山、見覚えがあるぞ!」

帰宅後、すぐに蔵書の中の一冊を開きました。「J‐シップス」2002年Vol9の読者投稿コーナー、神奈川県在住の掛川さんが投稿し、掲載された写真にあの茶色いマンションと緑豊かな山が写っていました。時は2002年8月、艤装がほぼ完了して全容を現したDD「たかなみ」を激写した掲載写真は、まさに私が艤装用岸壁を撮影した場所とほぼ同じ場所から撮影されたものでした。山は崖崩れ対策でコンクリート壁面化されていますが、マンションとドックハウスの佇まいは現在とまったく同じです。そして、かつては艤装用岸壁にも大型クレーンや工場の建物があったことが分かります。

今はひっそりと静まりかえって寂しい雰囲気すら漂う艤装岸壁ですが、この写真からは「たかなみ」の艤装に懸命に取り組む作業員の息遣い工事の音が聞こえてくるようです。造船所が閉鎖された現在、この掛川さんの写真が持つ価値はとても大きいです。

駆逐艦を中心に旧海軍の名艦を生み出した浦賀船渠ですが、戦後も浦賀重工業、住重浦賀と社名を変えながらも数多くの自衛艦を世に送り出し続けました。2003(平成15)年に閉鎖された住重浦賀ですが、最後に建造した艦艇はDD「たかなみ」です(船舶全体としても最後の建造船)。「たかなみ」の就役は3月12日、住重浦賀の閉鎖はその19日後でした。ちなみに旧海軍の駆逐艦「高波」も浦賀船渠で建造されていて、「高波」と「たかなみ」は同じ浦賀生まれという不思議な縁で結ばれています。

浦賀で生まれ、横須賀を母港とする「たかなみ」はまさに生粋の“横須賀っ子”ということになりますが、艦橋構造物内に設置された艦歴板の下に、住重浦賀で建造された船舶であることを示すプレート(矢印)が掲示されています。当然ですが、「たかなみ」以降の艦で艦内にこのプレートが掲示されている艦はありません。「たかなみ」を訪問した際にはこのプレートを見て、かつて浦賀に名門造船所があったことを胸に刻んでいただければと思います。特に三菱やJMUしか知らない若い海自ファンにはぜひ見て欲しいです。

浦賀で建造された自衛艦は27隻で、その第1号は1955(昭和30)年に就役した敷設艇「えりも」でした。↑に並べた4隻は近年まで活躍、または就役中の艦で、DD「はつゆき」(左上)DE「とね」(右上)試験艦「あすか」(左下)訓練支援艦「てんりゅう」(右下)です。
閉鎖されて16年以上が経ち浦賀の造船所の存在を知らない人が増えていますが、実はファンやマニアに馴染み深いこれら4隻の艦は住重浦賀の製品なのです。つまり、海自にはまだまだ浦賀のDNAが息づいているということができます。


建造した艦の内訳を調べたところ、「はつゆき」「たかなみ」のような1番艦や「あすか」「てんりゅう」「はまな」(給油艦)「ふしみ」(潜水艦救難艦)といった同型艦のない艦が多いことが分かりました。他造船所での建造データがなく、量産の場合は姉妹艦のプロトタイプとなる1番艦や同型なし艦の建造が多いということは、浦賀の造船所が高い技術力と品質を誇っていたことの証拠ではないでしょうか。

1号ドック跡からバスで約7~8分(徒歩で約20分)の場所にあるドック跡を訪ねました。現在は金持ち連中 富裕層の皆様が所有している豪華クルーザやヨットが係留されているこの場所も実は造船所のドックの跡地です。このドックの名は川間ドック、こちらも先ほどの第1号ドックと同様、貴重なレンガ積みドックです。つまり浦賀には世界中で五つしかない超貴重なレンガ積みドックのうちの二つが所在していることになります。まさに浦賀は文化財的な視点で見ても、世界レベルの文化遺産の宝庫といえるのです。

石川島造船所が大型船の建造・修理用に1898(明治31)年に開設した同社の浦賀工場のドックが、現在の川間ドックです。ただ、至近距離にある浦賀船渠との受注競争がし烈を極めてダンピング合戦が勃発、そのため両社があわや共倒れする危機に陥ったため浦賀船渠が買収することで両社が合意し、1902年に浦賀船渠川間分工場となりました。

川間ドック跡は現在、多数のクルーザーやヨットが係留されるマリーナとなっています。富裕層、みんな死ね! ドック跡にクルーザーを係留している方々は、この場所が超貴重な産業遺産であることをどの程度認識しているのかが気になります。
川間ドックは長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7mで、1号ドックと比べればやや小さいものの、実際にドックの縁に立ってみるとその大きさに驚かされます。整然と積み重ねられたレンガの壁面がとても美しく、工場閉鎖後もマリーナとして活用されていて定期的にメンテナンスが施されているためか、保存状態はとても良好のように思われます。ドックの先端部分は円形であることが分かります。


1号ドックとは異なり、クルーザーの係留用に海水が注水されているため、ドックの底面が観察できないのが残念…。とはいえ、造船・修理という使命を終えたドックがマリーナという同じ船に関する施設として再利用されていることは、何ともいえない嬉しさを感じます。ドックの縁でひとり佇んでいると、川間分工場が賑やかだったころの喧騒が聞こえてくるようでした。

現在はこのドック跡しか残っていない川間分工場ですが、様々な資料を調べてみると、現在のマリーナの敷地を含む周辺の広大なエリアが工場の敷地だったようです。1号ドックがある本工場と同様、川間分工場でも長年にわたって船舶の建造と修理が行われてきましたが、1978(昭和53)年に新造船の建造から撤退、造船所のもうひとつの収益の柱である橋梁の専門工場となります。

橋梁専門工場となって僅か6年後、川間分工場は閉鎖されてしまいます。現在の川間ドックを除く全ての建物と施設が取り壊され、ドックとその周辺部がマリーナとなって現在に至ります。川間ドックの南側には雑草が覆い茂った広大な荒地が広がっていますが、その場所が川間分工場の跡地です。撮影しようにも足を踏み入れるのを躊躇させる荒れっぷりに涙を禁じえませんでした…。


バスの本数が少ないため、川間ドックから浦賀駅を目指して行軍している途中、道路の脇に記念碑があるのに気付きました。碑には「浦賀港引揚記念の碑」と記されています。戦争終結後、浦賀港は外地からの引揚者を受け入れる引揚港に指定され、中部太平洋や南方地域、中国大陸などから引揚船に乗って軍人や軍属、民間人がここ浦賀に上陸しました。1947年の引揚事業終了までに浦賀が受け入れた引揚者の数は56万人にも達しましたが、疲労や栄養失調で船内や上陸直後に亡くなる人も多かったということです。

この碑は2006年に市政施行100周年記念事業の一環として建立され、碑文には戦争と引揚げの悲惨な歴史を後世に語り継ぎ、犠牲になった人々の鎮魂と恒久平和を祈念するとの建立趣旨が記されています。引揚港といえば舞鶴が非常に有名ですが、ここ浦賀も引揚港だったんですね…初めて知りました。浦賀の歴史の奥深さを実感しつつ、引揚げの途中に亡くなった方々の冥福を祈りました。


記念碑のすぐ近くに、引揚船が接岸し多くの引揚者が上陸した桟橋が残っています。この桟橋は「陸軍桟橋」と呼ばれていますが、実際には陸軍の施設だった訳ではないようです。L字型の桟橋ですが、引揚船が接岸するにしては小さくて低すぎるし幅も狭いので、当時の桟橋は戦後のある時期に取り壊され、同じ場所に小型化した現在の桟橋が作られたのではないかと思われます。

現在は絶好の海釣りポイントとして有名のようで、多くの愛好家や家族連れが釣りを楽しんでいます。またデートスポットでもあるのか、2組のカップルが引揚げの歴史なぞ知ったことかといった雰囲気でイチャつきまくっています。まだ午後2時半なのに…。釣りをしている人がいなかったら、間違いなく私はそのカップルを海に蹴落としていたことでしょう…
リア充、みんな死ね!

浦賀駅に戻ってきました。浦賀駅は終点なので、1番・2番の両ホームとも品川・横浜方面の乗り場です。それにしてもどうしてこんなにホームがカーブしているのでしょうか?どなたか知っている人がいたら教えて欲しいです。
浦賀駅は終点ですが頭端式ホームではなく、この位置から見るとまるで線路が駅を通過してさらに伸びているように見えます。これは、かつて本線を久里浜まで延伸させる計画があったためと言われています。日頃の運動不足を解消するかのように、浦賀を歩きながら存分に撮影しましたが、予想以上に時間が押してしまったため、京急ストアに立ち寄れなかったのが非常に心残りです…
(笑)

この浦賀駅のホームも、かつては造船所に通勤する社員や職人でごった返していたのでしょうねぇ…。一見支線のように思える浦賀への路線が実は本線なのは、浦賀の造船所に人を運ぶ重要な路線なので本線に定められたのではないかと思えてきました。

京急に乗って都内に戻る途中に汐入駅(横須賀市)で途中下車。今回の遠征の締めくくりとして、午前中に横浜・大桟橋で撮影したDD「ゆうぎり」のカレーを食べます。海自カレーといえば呉がずば抜けて有名かつ人気ですが、実は横須賀でも16店舗が「ゆうぎり」をはじめDDG「きりしま」、DD「てるづき」、試験艦「あすか」、砕氷艦「しらせ」など16隻のカレーを提供しています。

「ゆうぎり」カレーは汐入駅前にあるメルキュールホテル横須賀の1階レストランで提供されていて、価格は1500円。野菜サラダと牛乳も付いています。かなり辛めのビーフカレーで、ピリッと舌を刺激する辛さは呉を含めてこれまで食べてきた海自カレーの中でも最高の辛さです。ルーの中には大きめのジャガイモと牛肉も入っていて、刺激的な辛さと合わせて食べ応えは十分です。

横浜での「ゆうぎり」撮影を起点に、「ゆうぎり」誕生の地・浦賀を探索し、「ゆうぎり」の母港・横須賀で「ゆうぎり」カレーを食べるという、振り返ってみたら「ゆうぎり」をテーマにした遠征となりました。艦艇公開の見どころが乏しくなった昨今、艦だけでなく艦ゆかりの地や食を楽しむのも新たな艦艇撮影の楽しみ方だと再認識しました。今後はこういう遠征レポが増えそうです。
それがいいのか、悪いのか…

造船の作業音が途絶えて早や16年…遺構が残る浦賀は造船大国の礎を築いた歴史の香りに満ちています。