大湊遠征(マリンフェスタ in 大湊)

海自五大基地の中で唯一未訪問だった大湊へ、片道2000キロに及ぶ大遠征を敢行。
寒さに震えながらも撮影を楽しみ、歴史を学び、退役艦を偲んだ1日をレポートします。

6月だというのに寒い!私は半袖シャツを着てこの地を訪れたことを激しく後悔しています。擦れ違う人たちは長袖を着ているどころかジャンパーやセーターを着ているではありませんか。そんな中にピンク色のストライプ入りでトロピカルな雰囲気すら醸し出している半袖シャツを着た私は完全に浮いた存在であり、市民の呆れたような視線があちこちから飛んできます。

私が季節外れの勘違い野郎となってしまった舞台は青森県むつ市のJR大湊駅前。五大基地の中で唯一未踏である大湊基地を訪れるべく、九州・大分から移動距離が2000km近くに達する超長距離遠征を敢行したのです。そのルートは、大分→東京を飛行機で移動し、東京からは東北新幹線で八戸へ。八戸からは青い森鉄道で野辺地、そこで大湊線に乗り換えてようやく大湊に到着します。

大湊基地(大湊地方総監部)はJR大湊駅からバスで約15分の場所にあります。ただ、バスの本数が少ない(平日:30~40分に1便、土日祝:1時間に1便)ので注意が必要です。根性を出せば徒歩で行くことも可能ですが、国道は緩やかとはいえ坂道が続くので、総監部に着く頃には疲労困憊は必至なのでお奨めできません。

総監部の正門はレンガ造りの重厚かつ海軍らしい佇まいです。五つの総監部の中では最も規模が小さい大湊ですが、私が見るところ正門は大湊が一番立派です。レンガがいい雰囲気を醸していますねぇ。
手前の門柱には「大湊地方総監部」の表札が架かっていますが、反対側の門柱には三つの表札が架かっています。これらは大湊地方隊の隷下ではない部隊の表札で、「大湊海上訓練指導隊」「大湊システム通信隊」「大湊地方警務隊」と記されています。

今回の大湊遠征は、大湊基地最大のイベントである「大湊マリンフェスタ」が開催されるのに合わせて実施しました。
マリンフェスタでは艦艇の一般公開のほか、体験航海や湾内クルーズ、1万トンドッグ見学ツアー、ヘリの体験搭乗などが例年行われてきたのですが、今年は海自が多忙を極めているために規模が縮小され、一般公開と湾内クルーズのみとなっています
(涙)

それでも基地内で存分に撮影ができる年に一度の機会なのですから、心が躍らない訳がありません。足どりも軽く桟橋へと向かいます。大湊総監部を含む大湊基地は斜面上に立地しているため(というか、大湊の街全体が斜面上に立地)、敷地内に入場して桟橋に向かう途中はかなり急な坂道を下ることになります。坂道を下っていくと視界が開けました。おぉ、これが大湊の桟橋と艦艇たちか…。

まずは第5突堤へ。ここには水中処分母船2号(YDT-02)と掃海艇「ながしま」多用途支援艦「すおう」が接岸しています。
九州に住んでいると撮影の機会がない艦ばかりなので嬉しいのですが、この顔ぶれからは、大湊所属艦の多くが出払っているためにマリンフェスタ用に何とか3隻揃えたといった感じがひしひしと伝わってきて涙を禁じ得ません…。ちなみに「ゆうだち」はソマリア沖アデン湾の海賊対処に派遣中であり、「おおよど」「ちくま」「はまぎり」は訓練のため横須賀に行っています。

かつてこの突堤にはDD「ゆうぐも」DE「いしかり」「ゆうばり」「ゆうべつ」輸送艦「ねむろ」といった個性豊かな旧式艦が泊まっていたのですが、残念ながらこれらの艦は2010年夏までにすべて退役してしまいました。彼女たちがいる時に大湊を訪れたかったなぁ。

最初に見学・撮影するのは水中処分母船2号(YDT-02)です。機雷をはじめとする海上・海中の危険物を処理する水中処分員(EOD)の母船で、EODの現場への輸送や処理作業の支援を任務としています。基準排水量309t、全長46m、最高速力15ノットで、2000~2003年の間に6隻が建造され、舞鶴(YDT-01)、大湊(YDT-02)、横須賀(YDT-03)、呉(YDT-04)、佐世保(YDT-05)、沖縄(YDT-06)に配備されています。自衛艦ではなく、曳船や交通船等と同じ支援船に分類されています(第2種支援船)。

支援船ということで、これまで公開されることは殆どありませんでしたが、艦艇の不足により去年・今年とイベントで公開されるようになりました。支援船までイベントに投入せざるを得ない状況には危機感を覚えますが、支援船が注目されるのはいい事だと思います。

YDTの船尾は特徴的な形状をしています。左側の装備は処分員(EOD)を海面に降ろすための昇降機です。有線リモコンで簡単に上下に動かすことができ、処分員が高さのある上甲板から「ドボン!」と海に飛び込む必要はなくなりました。と同時に、処分員を迅速に海面に降ろし、海中から迅速に収容することが可能となりました。

船尾に近い船体後方の上甲板は処分員の作業用甲板となっているほか、搭載する作業艇や処分艇・作業用機材を投入するための油圧式クレーンが設置されています。旗竿に掲揚されている旗が国旗(日の丸)である点にご注目。先に述べたように、YDTは自衛艦ではなく支援船であるため、掲揚する旗も自衛艦旗ではなく国旗となります。自衛艦は停泊中に艦首旗竿に日の丸を掲げますが、YDTは艦首に旗を掲揚しません。

YDTに乗船し、後部の作業用甲板から船内に入ります。船内に立ち入ると、そこは広めの部屋となっています。ここは処分員の控室で、作業の打ち合わせや装備・機材の準備を行う場所です。中央のテーブルの陰になって写っていませんが、潜水病にかかった処分員を処置する筒型の減圧器が設置されているほか、この部屋に隣接して処分員用のシャワー室が設けられています。

船内の案内をしてくれているのは乗組員ですが、この船には15人の隊員が乗り組んでいます。このうち数人は女性で、YDTは女性隊員が乗り組むことを想定して、就役当初から女性用居住区を備えています。就役したのは16年前の2000年3月ですが、当時は女性の艦艇勤務はごく僅かで、そんな時期から女性用区画を備えていたYDTは、時代を先取りした設計の船だと言えるでしょう。

処分員の控室からさらに船内を奥へと進むと、科員食堂があります。支援船の船内とは思えないほどの立派な食堂であり、小型自衛艦にも負けず劣らずのグレードを誇ります。特にえんじ色の椅子が高級感を演出しています。これだけ立派な食堂があるということは、支援船とはいえ給養員が配置されていると思われます。

このYDT-02の乗組員は15人、うち幹部が3人ですからこの食堂を利用するのは12人です。一方、食堂には椅子が12脚あります。つまり、利用者全員分の椅子があるのです。他の自衛艦のように、食事を急いで終えて他の乗組員に席を譲ることをしなくても大丈夫なのです。交代を気にせずに食事ができる船は、海自の中でもこのYDTだけではないでしょうか。ただ処分員が乗り込んでくると椅子が足りなくなるので、ゆっくり食事という訳にはいかなくなります。

幹部用私室です。先ほどの科員食堂や科員居住区が船体内にあるのに対して、船長室と幹部用私室は船橋構造物内にあります。自衛艦と同様に2人部屋で、やや狭いものの、調度品をはじめとして自衛艦の幹部用私室と何ら遜色がありません
ちなみにこの私室は予備の部屋で、普段は使用されていませんが、処分員が乗り込んだ際に、水中処分隊長ら幹部が使用します。

同じ甲板レベルに隣接して船長室やもう一つの幹部用私室、さらには士官室もあります。船内の部屋に関しては、もはや支援船ではなく、小型の自衛艦と言っても過言ではないほどの充実ぶりです。私は今回初めてYDTに乗船したのですが、乗船する前までは幹部用と曹士用の簡易な休憩室があるくらいだろうと考えていたのですが、それが大きく誤った認識であることを思い知らされました。

小さくて急なラッタルを登り切った最上階が船橋(「ふなばし」ではなく「せんきょう」)です。船橋もまた私の想像を大きく裏切るほどの充実ぶり、中央前面にジャイロコンパス、その後方に操舵装置や速力指示器が並ぶ光景は、どう見ても小型自衛艦の艦橋です。この船が自衛艦でなく、支援船に類別されているのかが不思議に思えてきます。支援船とはいえ、一般公開に投入しても見応えは十分です。

左側手前に座席が見えますが、自衛艦と同様に左舷側に指揮官席があります。この船に船長より上級の指揮官が乗船する機会はそう多くない思われますが、水中処分隊長やさらに上級の警備隊司令が乗船した場合は、この席を使用することになります。YDT-02は大湊水中処分隊に所属し、処分隊の上部組織は大湊警備隊です。警備隊は処分隊のほか陸警隊・港務隊の3隊から成ります。

右舷側には船長席があります。お馴染みの赤青カバーが掛けられており、ここでも自衛艦に準じる船であることを実感させられます。ちなみにYDTの船長は1尉の幹部が充てられています。掃海艇の艇長は3佐または1尉が務めていますので、船長の格の面からいっても、YDTは支援船とはいえ掃海艇並みの扱いを受けていると言えるでしょう。また、同じ支援船でも曳船(YT)や水船(YW)などの船長は海曹が務めていることから、第2種に分類されるYDTは支援船の中でも別格の存在であることがうかがえます。

午前中の開門直後の時間帯ということもあり見学者はまばら。お蔭で撮影が捗ります
(笑) 見学者が殺到する昨今の一般公開とは異なり、珍しい船をゆっくりと撮影できるなんてまさにパラダイス。もしかして大湊は海自マニアにとって最後の楽園なのかもしれません。

続いて見学するのは掃海艇「ながしま」です。「うわじま」型掃海艇の最終艇(9番艇)で、1996年12月に就役しました。大湊地方隊の隷下部隊・函館基地隊を拠点とする第45掃海隊に所属しています。今回のフェスのために函館から来航していると考えられます。

この艇、実は私とはとても縁が深いのです。1999年に行われた周防灘での掃海訓練を取材した際に、報道陣を訓練海域まで乗せ、なおかつS-7掃海具を使った機雷掃海の展示を行ってくれたのが、当時呉の第1掃海隊に所属していた「ながしま」でした。
当時の第1掃海隊司令から直々に掃海についてのレクチャーを受け、科員食堂では美味しいコーヒーをいただいたとても思い出深い艇なのです。その後「ながしま」は2005年に舞鶴の第44掃海隊に編成替えとなり、さらに2012年に第45掃海隊に移りました。

当時就役から3年目でピカピカの最新鋭艇だった「ながしま」も、今では艦齢20年。老朽化により船体は痛み、船内はあちこちで雨漏りがするほどの惨状を呈していることから、今年度末で退役することになっています。恐らく、これが最後の撮影の機会でしょう。
「うわじま」型掃海艇は9隻中すでに5隻が退役し、残る4隻も2隻が掃海管制艇に種別変更しています。「うわじま」型が全隻姿を消してしまう日もそう遠くないと思われます。思い出深い艇の退役は淋しいです…。


実はこの「ながしま」、海自屈指の“どじっ子”です。就役前の公試中に貨物船と衝突、いま私が立っている前甲板が大破してしまいました。あまりの壊れっぷりに、一時は就役させずに廃艦することも検討されたほどです。幸いにも就役できましたが、科員食堂の床が傾くなど、事故の“後遺症”を背負い続けて生きてきました。

私も「ながしま」のどじっ子ぶりを目撃しています。先に述べた周防灘での掃海訓練の取材時、掃海母艦「ぶんご」に座乗する群司令への挨拶を終えた報道陣を乗せて、「ながしま」は横付けしていた「ぶんご」から離れようとしたのですが、舵を切るのが早すぎて艦尾を「ぶんご」にぶつけてしまいました。群司令が見ている前で

そのあと、ちょうどこの角度から艦橋を覗いたのですが、司令が報道陣の目も憚らず艇長を叱っていたのを鮮明に覚えています。その時、司令は身振り・手振りを使って母艦との位置関係や舵を切るタイミングを艇長に指導していて、確かに怒ってはいましたが、熱心な指導も忘れない司令に好印象を抱きました
艇長席が左舷側にあるのにご注目。この型は対水上レーダーが左舷側端にあるため、それに伴って艇長席も左舷側にあります。

3隻目の見学は多用途支援艦「すおう」です。「ひうち」型多用途支援艦の2番艦で、2004年3月に就役しました。当初は横須賀を母港としていましたが、2008年2月に5番艦「えんしゅう」の就役・横須賀配備に伴って大湊に転籍しました。
大湊転籍後は言うに及ばず、横須賀時代から撮影機会に恵まれていない艦だけに、今回の乗艦は非常に嬉しいものがあります。

こうして見ると、短い船体に対して異様なほど艦橋構造物の背が高いように感じられます。元々もう少し長い船体にする計画だったものを諸事情により短く切り詰めたために、かなりトップヘビーな艦になってしまいました。そのため航行中は猛烈に揺れまくり、隊員の間では「ひうち」型=がぶる艦という認識が定着しています。外洋での行動も考慮し、4番艦以降には減揺水槽が装備されています。

艦橋です。YDT-02、「ながしま」と比べてものすごく広く感じます(笑)
右舷側端に艦長席が見えますが、「ひうち」型の艦長は3佐が充てられています。3佐でも古参の3佐が充てられるようで、かつて4番艦「げんかい」の艦長が2佐に昇進し、訓練支援艦「てんりゅう」の艦長に横滑りの異動をしたことがあります。

艦橋の窓から艦首方向を見下ろすと、すぐ目の前に艦首があってものすごい違和感を感じます。この艦がトップヘビーであることが良く分かりますし、相当揺れるであろうことが容易に分かります
私は数回「ひうち」型で航海をしたことがありますが、少し時化るとかなり揺れた記憶があります。揺れるといえば、かつては「みうら」型輸送艦(全艦退役)が有名でしたが、海自艦艇の中に1タイプくらいはこういう艦があってもいいのではないでしょうか
(笑)

「すおう」のウイングに出てびっくり!YDT-02に乗船する直前に降りだした小雨がいつの間にか激しさを増して大雨になっているではありませんか。しかも寒い!!それもそのはず、降りしきる雨粒に混じってひらひらと舞い落ちる物体が…みぞれです。6月だというのにみぞれが降るなんて…大湊、恐るべし!
みぞれ混じりの冷たい雨の中、トロピカルな半袖シャツを着て撮影に勤しむ私…これはどう見ても季節外れの勘違い野郎以外の何物でもありません。大湊駅前に続いて「すおう」艦上でも、私に周囲の呆れたような視線が浴びせられたのは言うまでもありません。

大湊基地と背後の山々も雨でけむっています。こうして見ると、大湊基地が斜面上に立地していることがよく分かります。左奥、丸い屋根の体育館の隣にある建物が、大湊地方総監部の庁舎です。

ずぶ濡れになりながらウイングでの撮影を終え、艦内の撮影に移ります。ここは乗組員のオアシス・科員食堂です。乗組員は40人ですが、食堂の面積はYDTよりも少し広いといった程度です。青い椅子が置かれていますが、確か「げんかい」も「えんしゅう」も科員食堂の椅子の色は青だったような…。偶然の一致?それとも「ひうち」型の食堂の椅子は青で統一されているのでしょうか?

壁には大湊地方総監・三木海将幕僚長・福田海将補の写真が掲示されています。幕僚長の福田将補は、「すおう」を降りたあとに休憩テントで大湊海軍コロッケを食べている時に、会場を歩いている姿をお見かけました。長身で海将補の制服が良く似合うとても格好いい人でした。ちなみに私と1歳違い。片や幕僚長、片やコロッケを頬張るマニア…人生どこで差がついたのでしょうか…
(涙)

「すおう」を降りた後に雨はさらに激しさを増し強い風も吹いてきました。会場内に設置されている看板が倒れるほど風は強く、その強風よって雨は横殴りで襲いかかってきます。こんな状態ではとても撮影どころではないので、しばらくの間、休憩用テントや厚生センターの売店で一時待機(=休憩)します。

湾内クルーズは正午過ぎの便の乗船券を入手しており、雨の中での撮影になるのではと心配していたのですが、幸運なことに正午前には雨はほぼ止んだではありませんか。まさに天佑です!
湾内クルーズは2隻の曳船(YT)が担当しており、私が乗船するのはYT90です。28隻が建造された曳船58号型の1隻です。58号型は既に2隻が退役していますが、五大基地で曳船の中核的存在として活躍しています。大湊にはYT63・71・81・90が配備されています。

YT90に乗って湾内クルーズに出航!出航してすぐに第1突堤に接岸している「すずなみ」「まきなみ」の後方を通過して行きます。これで五大基地すべてで船上からの撮影を行ったことになりますが、大湊ほど豊かな自然を背景にして艦艇が撮影できる基地はないと感じました。一気に大湊を気に入ってしまいました。寒いけど…

大湊所属艦の多くが出払っているなか、この「ずすなみ」と「まきなみ」は大湊に居てくれました。よかった!この2隻が居なかったら約2000kmに及ぶ大遠征は空振りという状況になるところでした。
この2隻、横須賀や呉に居てもそんなに大きいとは感じないのですが、ここ大湊ではものすごく大きく感じますし、半端ない存在感があります。例えるなら、四畳半のアパートの一室に60型の4Kテレビがあるような感じです。分かりにくい例えですみません…
(苦笑)

YT90は大湊基地を離れて大湊の市街地を左側に見ながら航行します。この特徴的な形の山は大湊のシンボル・釜臥山です。ご覧のとおり、大湊の市街地は海に向かって傾斜する土地の上に形成されており、故に大湊総監部・基地の敷地内も傾斜しているのです。
住宅のすぐ近くに森林が迫り、また住宅地のあちこちに樹木があります。まさに“森の中の街”といった雰囲気ですが、恐らくこれらの森林や樹木は防風林・防雪林の役割も担っているのでしょう。

釜臥山は裾野が広い特徴的な形の山ですが、大湊所属艦の乗組員たちは陸奥湾を航行中にこの釜臥山が見えてくると母港に戻ってきたという気持ちになるのでしょうねぇ。おや、雨が止んで明るくなっていた空ですが、雲の切れ間から青空が見えるではありませんか!青空と美しい緑に囲まれた大湊の風景が撮影できそうだ♪

むつ市の中心部方向を望みます。黄色い矢印の所に下北駅があり、大湊が属するむつ市の中心市街地はこの下北駅周辺にあります。市役所や病院・ホテルなどが立地し、様々なお店や飲食店もあります。大湊駅周辺はお店が少ないことから、大湊に遠征する際には下北駅周辺に宿を確保する方が便利かもしれません。

青矢印の部分は大湊基地を陸奥湾の波から守るように取り囲んでいる砂州(芦崎)の先端です。芦崎は4300年前に、海や川の水によって釜臥山や周辺の崖から削り出された土砂が堆積して形成されました。旧海軍が大湊に要港部を置いたのも、大湊がこの芦崎に囲まれた穏やかな港だったことが決め手となりました。芦崎の広い部分には樹木が茂っていますが、先端部には樹木はなく、海に一本の砂の道が延びているような不思議な光景が広がります。

YT90は芦崎の先端付近で反転し、再び大湊基地方向に航行します。基地の敷地内のある一角でYT90が停止しました。目の前には巨大なドックが…海上自衛隊が保有する唯一のドック・大湊ドックです。横須賀には米海軍と共用するドックがありますが、海自が管理・運営して専用で使用するのはこの大湊ドックのみです。

元々は1944(昭和19)年に旧海軍が完成させたドックで、戦後荒廃していたものを海自が再整備し、北の海を守る艦艇の整備拠点としました。全長206m幅35m高さ130mで、排水に4時間、注水に2時間を要します。愛称は「1万トンドック」ですが、実際には1万tクラスの艦艇を入渠させるには手狭で、現状海自では「きり」型DD(基準排水量3500t)までを入渠させています。昨年まではこのドックの見学会があったのですが、残念ながら今年は中止となりました。

YT90は第5突堤の近くまで戻ってきました。湾内クルーズも間もなく終了です。
上空はみぞれ交じりの雨が降ったことが信じ難いほどの青空が広がり、釜臥山も緑に覆われた美しい山容を披露してくれています。青い空、新緑に包まれた釜臥山、そして蒼く澄んだ海に浮かぶ艦艇…絵葉書にしたくなるほどの美しい軍港風景です。

横須賀・呉・佐世保・舞鶴もそれぞれ特徴があり、美しい風景を誇りますが、大湊はまさに大自然に抱かれた軍港であり、釜臥山をはじめとする自然の美しさは他の追従を許さないと言っても過言ではありません。美しい風景に少ない見学者…まさに、大湊はマニアにとって残された最後の楽園と言えるでしょう。しかしながら、一転して冬は厳しい寒さと大雪が降る厳しい自然環境となります。冬が長くて厳しい分、初夏の美しさが際立つのかもしれません。

YT90を降り、大湊基地内での撮影を再開します。空はすっかり晴れあがり、汗ばむほどの陽気となりました。ようやくトロピカルな半袖シャツ姿が違和感のない状況となりました(笑)
足どりも軽く第1突堤へと向かいます。ここには大湊の中核選手・「すずなみ」「まきなみ」の「なみ」姉妹が仲良く接岸しています。
両艦は約1ヶ月前の5月8日にソマリア沖・アデン湾の海賊対処行動(23次隊)から戻っており、現在は整備と休養の期間と思われます。

最新鋭DDとして艦隊の中核を担う両艦の大湊転籍は、多くのマニアに驚きと衝撃を与えました。かつて「はつゆき」「しらゆき」「さわゆき」が新しい艦の就役に伴って横須賀から大湊に移ったことから、私は「むらさめ」「はるさめ」あたりが転籍すると考えていただけに、「なみ」型2隻、しかも佐世保と舞鶴からの異動は本当に驚きました。

「すーちゃん」こと「すずなみ」です。「なみ」型DD最終艦(5番艦)で、2006年2月に就役しました。かつて私が“舞鶴のお嬢様”と呼んでいたように、就役から5年間は舞鶴を母港としていましたが、2011年に大湊に転籍しました。転籍したのがつい最近の事のように思えるのですが、もう5年も前の出来事なのですねぇ。凍てつく厳しい冬を4回も乗り越えた「すーちゃん」は、すっかり“大湊の女王”の貫禄すら漂わせています。立派になったね、すーちゃん!

先に大湊には個性豊かな旧式艦が多かったと述べましたが、現在は「なみ」型2隻に準同型艦の「ゆうだち」、さらに「きり」型後期艦が2隻、DEは「あぶくま」型が2隻という、数は少ないながらも強力な布陣となっています。時流は南西方面重視ですが、この大湊の布陣からは、海自は決して北方を軽視していないことが分かります。

さっそく見学と撮影のために「すずなみ」に乗艦。ところが残念なことに上甲板のみの公開で、艦橋や艦内に入ることはできませんでした。休暇を取得している乗組員が多く、公開のための準備ができなかったためと思われますが、例年実施していた体験航海が今年は無いのですから、せめて艦艇公開は広い範囲(=艦橋・艦内)を公開して欲しかったです。仕方ないので127ミリ砲を激写!

前回この「すずなみ」に乗艦したのはいつだったかと思い返すと、3年前(2013年)の舞鶴地方隊展示訓練でした。その時「すずなみ」は既に大湊に移っていたのですが、舞鶴に里帰りして展示訓練に参加したのでした。幹部を除く乗組員はここ大湊の隊員さんたちで、私が被っていたDE「ゆうべつ」の部隊帽を見て、「あっ、べつ(ゆうべつ)の帽子だ!」と言って喜んでくれたのが嬉しかったです。

ちなみに大湊では「ゆうばり」を「ばり」、「ゆうべつ」を「べつ」と呼び、両艦合わせて「ばりべつ」と呼んでいたそうです。何じゃ、それ(笑)
続いては、同じく2011年に佐世保から転籍した「まきなみ」です。乗艦しようとしたら、舷門に立つ当直海曹が「公開は終わりました」と言うではありませんか。実は「まきなみ」は午前中の公開担当で、「すずなみ」が午後の公開を担当しているとのこと。おいおい…
(涙)

これまた仕方がないので桟橋上から「まきなみ」を撮影します。「まきなみ」は、2007年に大分港・大在埠頭で実施された体験航海で乗艦した思い出の艦です。当時の艦長・豊住2佐の指揮の下、乗組員が黙々かつテキパキと動いていた印象から、私にとっての「まきなみ」は、派手さはないがしっかりと仕事をする職人肌の艦というイメージです。お嬢の「すずなみ」とはいいコンビだと思います。

艦艇の見学・撮影を終え、基地の敷地内に建つある建物へと向かいます。この石造りの重厚な佇まいの建物は北洋館といい、海軍時代から自衛隊時代までの北方防衛に関する史料と、大湊要港部・大湊総監部に関する史料を展示している施設です。この北洋館の見学も、今回の大湊遠征の目的のひとつです。

とても歴史を感じさせる外観ですが、元々は1915(大正4)年に大湊要港部の水交社(士官の社交場)として建築された建物で、外装に使っている石材は釜臥山から切り出した安山岩です。貴重な史料の保存と伝統の継承を目的に1981(昭和56)年に北洋館として開館しました。年末年始を除く午前9時から午後4時までの間ならいつでも見学可能で、事前の申請は必要ありません。しかも入場無料で館内は写真を撮り放題。やっぱ、大湊はパラダイスだわ♪

展示スペースは二つのコーナーに分かれています。まずは帝国海軍コーナーを見学します。
歴代36人の要港部司令官の写真のほか、大湊所在部隊の写真や大湊在籍艦艇の写真、さらにはアリューシャン攻略キスカ撤退などの北方作戦に関する史料がズラリと並んでいます。さらに真珠湾攻撃やソロモン海戦といった北方以外の海戦の史料も多数あり見応えは十分です。想像以上に充実した展示に驚きました。これはもう第一級の海軍史料館です!

帝国海軍が無くなって70年以上が経ち、残された史料の価値が分からない世代が増え、海軍関係の史料の散逸・廃棄が長らく問題になっていますが、このような貴重な資料を全国から地道に収集し、保存・展示する取り組みは本当に素晴らしいと思います。
帝国海軍のファンなら一度は訪れることを強くお勧めします。

コーナーの一角に「おやっ」と目を引く展示を見つけました。
戦艦「陸奥」が大湊に初入港した際の写真で、キャプションに「陸奥と長門は日本の誇り」「日本海軍の象徴として国民に最も愛された戦艦」とあり、11ヶ月前に就役したばかりの最新鋭戦艦が陸奥国(青森県)にお国入りした時の地元の熱狂が伝わってきます。

時は大正11年9月、そう、この写真の戦艦「陸奥」には私の祖父が乗っているのです。祖父の遺品である経歴表で確認すると、「陸奥」は北方沿岸警備のために8月下旬に呉を出港、警備を終えて9月10日に小樽に入港しています。その後、佐世保に戻る途中に大湊に入港し、現在の展示訓練にあたる公開射撃演習に参加しています。祖父も大湊に来ていたんだ…。九州を遠く離れた北の地で祖父の足跡に触れ、懐かしさと嬉しさで涙が溢れそうになりました…。

続いて海上自衛隊コーナーへ。海軍と同じく先代の坂田海将までの45人の大湊地方総監の写真のほか、大湊在籍艦艇の写真や模型、退役艦艇から持ち込まれた装備品などが展示されています。画像には写っていませんが、海上自衛隊の前身である海上警備隊の旗(自衛艦旗に相当)が展示されていたのには驚きました。

展示されている艦艇の写真は「ゆうぐも」「ばりべつ」「ねむろ」はもちろんのこと、護衛艦「ちとせ」「きたかみ」「おおい」ミサイル艇1・2・3号駆潜艇「うみどり」魚雷艇15号などコアなファンなら涙ものの懐かしい艦が勢揃い。古くて小さい艦が多いけど、大湊の在籍艦は個性豊かで味があることを改めて実感させられます。
呉・佐世保・舞鶴にも史料館がありますが、総監部・地方隊に焦点を当てているのは北洋館だけで、非常に存在価値が高いです。

ひと際目を引いた展示がこちら。「いしかり」「ゆうばり」「ゆうべつ」の“遺品”の数々です。「いしかり」と「ばりべつ」は準同型艦であり、中央船楼形の船体、極端に水上打撃力を重視した兵装、北方専用艦というユニークさから私のマニア心をくすぐりまくった艦です。
残念ながら2009年に横須賀で「ばりべつ」を見学・撮影した1回きりで、両艦ともその9ヶ月後に退役となってしまいました。今でももっと撮影したかったと後悔の念が絶えないくらい大好きな艦です。

展示されている“遺品”は就役記念絵葉書や部隊帽・記念盾・記念品・艦内に掲示していた命名書や艦歴プレート・鐘などですが、「ゆうばり」の操舵輪を見た時は「横須賀で撮影し、実際に触れてみたあの操舵輪なのか…」との想いが込み上げ、またまた涙が溢れそうになりました。ギャラリーにアップしているこの操舵輪です。

大湊所属艦の“遺品”はまだまだあります。護衛艦「ゆうぐも」「きたかみ」「とかち」輸送艦「ねむろ」など、オールドファンなら心が震えること不可避の艦で使われていた艦名板装備品が多数飾られています。80年代、90年代から海自ファンをしている人なら懐かしすぎて涙が出ること間違いなし。私も食い入るように見入ってしまいました。と同時に、かつて在籍した艦の装備品の一部を大切に保管してその功績を後世に伝えようとしていることに、大湊総監部の艦艇に対する愛情をひしひしと感じました。

“遺品”の隣には模型も飾られていて、「いしかり」「はつゆき」の精巧な模型がかつての雄姿を今に伝えています。「いしかり」は「ゆうばり」型DEの前型式ですが、あまりに小型過ぎて同型艦はなく、続く「ゆうばり」「ゆうべつ」は200t大型化して建造されました。

おぉ、とんでもなく貴重な史料が展示されているではないか…(驚愕) この旗は海上自衛隊の前身組織・海上警備隊の旗です。
海上警備隊は1952(昭和27)年から1954(昭和29)年まで存在し、所属の艦艇(警備艦と呼ばれていた)はこの旗を艦尾に掲げていました。しかしあまりにも評判が悪いことから、海上自衛隊に改組する際に著名な画家にデザインを注文。その画家から「画家の良心としてこれ以上のデザインは描けない」として提出されたのが、現在の自衛艦旗(旧海軍旗)です。

下にある赤白の旗は指揮官旗で、左が第二幕僚長(現在の海幕長)の旗、右が警備監(現在の海将)の旗です。確かに警備隊旗といい、指揮官旗といいデザインが微妙ですねぇ…。警備隊発足時、「海軍が復活した!」と喜んだ国民が旗を見てガックリしたという逸話がとてもリアルに感じられます。良くも悪くも歴史的・伝説的な旗で、よくぞこの大湊に残っていたものだと感動しました。

北洋館は展示をじっくりと見ようとすれば2~3時間は必要なのですが、もっと見たい気持ちを引きずりつつ次の場所へと向かいます。
北洋館から5分ほど斜面を登った所にある水源池公園です。その名のとおり水を確保するための堰堤沈澄池があるのですが、何のための水源かというと海軍用水道の水源で、大湊要港部が1910(明治43)年に整備したものです。戦後は1976年まで大湊町の水道施設として使用され、公園として整備された1978年以降は市民の憩いの場となっています。2009年には国の重要文化財に指定されています。ご覧のとおり、とても美しい景観を形成しています。

重力アーチ式の堰堤は、北洋館と同様に釜臥山産の安山岩を使って建設されており、緩やかに描くアーチ凝った意匠の流水口など高い技術が投入されていて、貴重な近代産業遺産といえます。

実は水源池公園を訪ねたのは美しい堰堤を眺めたかっただけではありません。あるオブジェを見るために訪れたのですが、それは公園内を散々探し回っても見つからず、諦めて公園から出ようとした時に駐車場のど真ん中に鎮座しているのを見つけました。
そのオブジェとは…DE「ゆうばり」の主錨です。この錨です

「ゆうばり」は2010年6月に退役し、その後2年間は艦番号と艦名を消した姿で大湊に係留されていましたが、2012年に九州・八代に回航され、業者に手によって解体されています。ユニークな艦容を誇り、北方海域の荒波の中を航行し続けた「ゆうばり」は、北洋館にある操舵輪とこの主錨だけの姿になってしまいました
(涙)
「『ゆうばり』、お久しぶり。会うために大湊に来たよ」。主錨に触れながら語りかける私、不意に目頭から熱いものが溢れて…。

水源池公園をあとにして、最後にもう一度、第1突堤に接岸している艦艇を撮影します。超至近距離の魅力的なアングルから「まきなみ」を撮影しているので、再び基地内に戻ったのかと思われるかもしれませんが、実はこの1枚、基地の外から撮影しています大湊総監部東門に隣接して広がる多目的広場は、すぐ目の前に第1突堤が位置することから、ご覧のような1突に泊まっている艦の魅力的な姿を写真に収めることができるのです。

雑誌やWebの情報で多目的広場の事は知っていましたが、実際に足を踏み入れてみると、1突とのあまりの近さに驚きました。ここにいれば停泊艦のみでなく、1突から出入港する艦の迫力ある姿を理想的なアングルで撮影できます。呉の「アレイからすこじま」や舞鶴の前島埠頭をも凌ぐ「国内最高の艦艇撮影ポイント」と言っても過言ではありません。 

至近距離に「まきなみ」を臨む多目的広場の居心地が良くて、なかなか腰を上げることができなかったのですが、陽も傾いてきたので宿泊先に戻ることにしました。冗談ではなく、多目的広場にテントを建てて宿泊したいくらいの気持ちになりました。
総監部から大湊駅前のホテルまでバスで戻ろうとしたのですが、運悪く次の便は約1時間後、徒歩にて駅前を目指しますがすぐに疲れ果て、結局はタクシーを利用しました。
根性なしと呼ばないで!

1日のうちに四季を感じるような過酷な自然の洗礼を浴びましたが北国の大自然に囲まれた大湊基地と艦艇たちを撮影でき、北洋館では北方防衛の歴史を学び、最後に「ゆうばり」の主錨を見ることもできて本当に充実した1日でした。「大湊の三泣き」の言葉の意味が分かるほど魅力的な土地です。よし、近いうちにまた来よう!

海軍の歴史が息づく大自然に囲まれた北方防衛の拠点は、“最後の楽園”と言うべき魅力的な地でした。