呉教育隊 海曹予定者課程修業式&見学会

3月24日に挙行された呉教育隊の海曹予定者課程修業式に参列しました。
式典終了に開催された教育隊・総監部見学会の模様と共にレポートします。

約7ヵ月ぶりの呉遠征です。コロナ禍と一身上の都合により、去年(2022年)は全くと言っていいほど取材・撮影活動ができませんでした(レポートのアップも0件!)。今年もどうなるかは分かりませんが、久しぶりに心躍る取材が舞い込んできました。本日、3月24日に挙行される呉教育隊第14期海曹予定者課程の修業式に臨席、さらに式典後の教育隊・総監部見学会に参加するのです♪

常連の閲覧者の中には「またもや総監部の上層部に手を回して便宜を図って貰ったのか?」とお思いになる人もいるかもしれませんが、何と!今回の取材・撮影は一般公募で当選したものです。1月下旬から2月中旬にかけて、呉地方隊のHPで参加者が募集されておりました。応募多数の場合は抽選とのことだったので、ここ数年の艦艇公開のように「なぜか募集対象年齢の人ばかりが当選」という不思議?な状況が今回も発動されるのかと思いきや、呉教育隊から「ご来場、お待ちしております♪」とのメール連絡が…。このご時勢に私のようなオジさんマニアを快く迎え入れてくれるなんて…呉教育隊、なんて素敵な部隊なんだ!!
ありがとうございます。

久しぶりの本格的な取材ということで、心躍るままに見学者の受付け開始時刻・午前8時30分きっかりに教育隊に到着。あまりに早すぎて式典会場の体育館にはまだ誰もいません(苦笑) ↑の画像に写っている「呉教育隊」の看板を掲げた建物の内部になります。

とはいえ、参列者席の最前列にビデオカメラを設置したマニアらしき人の姿があります。恐らく、撮影のベストポジションである最前列を確保するために受付け開始と同時に入場したのだと思われます。同じマニアとしてその熱心さには感心するものの、一般の見学者が式典に参加する隊員の家族・関係者を差し置いて参列者席の最前列に陣取ることに疑問を感じます。参列者席はあくまで隊員の家族・関係者用なので、最前列を含めた前方の席は家族・関係者に譲るべきではないでしょうか。私を含めたマニア=一般見学者は、特別に参列が許された部外者であることを忘れてはならないと思います。
SNSの普及に伴って異様なほど人気が高まっている海上自衛隊ですが、人気過熱の弊害はマナーを知らない(無視した)マニアが増えたこと、そしてせっかくの取材・撮影の機会なのにそのようなマニアを見て嫌な気分になってしまうこと。ここ数年の私はそのような状況に辟易して、無意識のうちにイベントや遠征から身を引いてしまっているような気がします。


午前9時10分を過ぎた頃から第14期海曹予定者課程を修業する隊員が会場入りして来ました。会場入り直後は笑顔で雑談をしていた隊員たちですが、式典開始時刻が近づき礼装用の白手袋を着用したあとは皆引き締まった表情となり、背筋を伸ばして着席したまま微動だにしません。その姿からは、各々が抱えている式典に望む緊張感海曹になることへの責任感が伝わってきます。

海曹予定者課程は海曹への昇任を目指す隊員に教育と訓練を実施する教育隊の課程で、各地の部隊で勤務している海士長が約2ヶ月半に渡って在籍します。きょう修業式を迎えた第14期は総員129人で、1月10日に課程をスタートさせました。
お世話になっている地本勤務の3曹は、この課程を「かなり厳しくハードな内容」「二度と経験したくない」と言っていました。部隊の中核となる海曹を育てる課程、しかも対象は部隊で実績と経験を積んでいる海士長ですから、期間は短いながらも新入隊員の教育とは桁違いに厳しい教育と訓練が行われるようです。着席する隊員の表情からは、厳しい教育・訓練を乗り越えた自信も覗えます。

式典開始1分前の午前9時59分、テンポの良い足音が響き渡ると会場の空気がピンと張り詰めました。呉地方総監・伊藤海将の到着です。参列している呉地区所在の部隊長が起立&敬礼で出迎えます。式典参加の隊員たちも弾かれたような勢いで起立し、直立不動で迎えます。入場しただけで場の雰囲気がガラリと変わる…地方総監の存在感の凄さを改めて実感しました。

参列している部隊長は、幹部候補生学校長・近藤将補のほか4護群司令・中大路将補1潜群司令・植田1佐呉警備隊司令・壇之上1佐潜水艦教育訓練隊司令・目加田1佐呉海上訓練指導隊司令・松味1佐呉基地業務隊司令・萩原2佐ら12人です。これだけの数の指揮官が参集していると、金色に輝く袖の階級章の効果もあってとても華やかです。


午前10時、式典が始まりました。まずは国歌斉唱。会場は厳かな空気に包まれます。演奏するのは呉音楽隊。式典開始30分前からお祝いの曲・おめでたそうな曲(曲名は分かりません…)を演奏し、式典に向けて雰囲気を盛り上げてくれました。

〽君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

私は数枚撮影したあと撮影を止め、国旗と自衛艦旗に向かって姿勢を正しました。部外からの見学者とはいえ参列者の一員なのですから、最低限のマナーとして国旗と自衛艦旗に敬意を示すことが必要と考えたからです。因みに、艦艇で午前8時に艦旗を掲揚する際の撮影でも、素早く撮影を終えて艦旗に向けて姿勢を正すようにしています。父から受けた「江田島教育」の影響かもしれません。

「第14期海曹予定者課程を修業したことを証する」 。呉教育隊司令・渡邊1佐による修業の申し渡しのあと、成績優秀者の表彰が行われます。表彰は優等賞精励賞の二種類で、優等賞は「優等の成績を収めた者」、精励賞は「良く精励し、優れた成績を収めた者」を表彰します。海曹予定者課程を無事に修業できただけでも凄いのに、なおかつ優秀な成績を収めたのですから本当に凄いです。

優等賞を授与されたのは6人、精励賞は5人ですが、このうち5人が女性、優等賞に至っては6人のうち4人が女性でした。自衛隊だけでなく民間企業においても「女性は総じて優秀」との声をよく聞きますが、まだまだ圧倒的な男社会である自衛隊組織において女性隊員が奮闘し、男性隊員を押しのけて優秀な成績を収めたことは大変素晴らしいと思います。今や女性パワーなしには自衛隊は成立し得ないと言っても過言ではないでしょう。そして、女性パワーをいかに活用するかが組織活性化のカギとも言えるでしょう。


渡邊司令から賞状を授与される隊員の姿からは、喜びと決意がみなぎっているように見えます。今回表彰を受けた方々は優秀な隊員なので、今後の長い自衛官生活において何度も表彰を受けるかもしれませんが、厳しくかつ内容の濃い海曹予定者課程で優等賞・精励賞に輝いた感激は生涯忘れることはないのではないでしょうか。否、忘れないで欲しいと思います。

帝国海軍の軍人だった私の祖父は、大正10年11月に三等兵曹に昇任しています。祖父が所持していた経歴表を見ると、同じ大正10年の5月から2ヵ月間あまり佐世保海兵団に入団しています。祖父も現在の海曹予定者課程に相当する教育と訓練を受けたようです。そして課程修業と同時に、当時の最新鋭戦艦「陸奥」への乗組みを命じられています。修業と同時に最新鋭戦艦に配置されたということは、祖父は相当な成績優秀者だったと思われます。司令から賞状を授与されるセーラー服姿の隊員を撮影しながら、もしかしたら祖父もこんな風に海兵団長から賞状を授与されたのでは…との思いが脳裏をよぎりました。

続いて、呉水交会激励賞が授与されます。この賞は公益財団法人呉水交会が「教育訓練に精励し、その成績が顕著であった者」に贈るものです。受賞者は藤井風花海士長、さきほどの優等賞を一番最初に授与された隊員です。優秀賞・呉水交会激励賞を両方授与されているので、この藤井海士長が第14期海曹予定者課程のトップランナーであることは間違いなさそうです。すごい!

賞状を授与している紳士は呉水交会会長の佐々木孝宣さん。海自OB、しかも元海将です。防大21期生(幹候28期)で、練習艦隊司令官・第1術科学校長等を経て舞鶴地方総監に就任、約1年3ヶ月在任したのち2012年7月に退官しました。佐々木さんの在職時代は存じ上げていますが、退官からもう10年以上が経過したのですねぇ。退官後は江田島市内にお住まいになっているようです。


呉教育司令・渡邊1佐が式辞を述べます。ちなみに渡邊1佐、私は過去にお会いしたことがあります。2012年5月の「みなまた港フェスティバル」で体験航海と一般公開を実施した護衛艦「さわゆき」の艦長が、当時2佐だった渡邊1佐です(当時のレポートがこちら)。
その時から約11年の時が流れ、司令職に就いた渡邊1佐と再会できたことに人の縁の不思議さを感じます。


学生諸官、修業おめでとう。3等海曹に昇任するための登竜門である海曹予定者課程に教育入隊した諸官は、この2ヶ月半において必要な精神的・身体的基盤と知識を身に着け、海上自衛隊の中核を担う海曹として恥じることのない任務をこなせるまでに成長した。それは諸官の努力の賜物であり、心から敬意を表するとともに頼もしく感じる。但し、その陰にはご家族の厳しくも暖かい応援、各教官の私心のない情熱的な導きがあったことを忘れないで欲しい。修業にあたり次の事を改めて伝えておきたい。周知のとおり、我が国を取り巻く安全保障環境は極めて厳しい。様々な分野で自衛隊の活動が質・量ともに大幅に増加しているところである。このような情勢下で海上自衛隊が任務を遂行していくためには、その中核を担う術科のプロフェッショナルたる海曹として、諸官ひとりひとりが自らに課せられた責務を全うすることは当然の事として、下級者の底上げと同僚のサポート、そして身を挺した職務への取り組みが必須となる。諸官の毎日の努力の積み重ねにより一歩の前進が部隊に活力を与え、ひいては国民の皆様の安全と安心に資するということを常に肝に銘じておいて欲しい。諸官が配属される各部隊で今後さらなる研鑽に努め、真のプロフェッショナルとなるべく精進していくことを心から期待している。また諸官は各々異なる部隊に赴任していくことになるが、諸官が呉教育隊で学んだ同期生と互いに助け合い励まし合い競い合うことによって結んだ強い絆は、今後の勤務において諸官を支えるかけがえのないものである。諸官は皆一人ではないということを忘れず、部隊においても各地で分かれて勤務している同期生との絆をさらに大切にして欲しい。

続いて、呉地方総監・伊藤海将による訓示です。伊藤総監は、厳しさを増す安全保障環境に対応すべく新たな制度や装備品を導入しようとも、人的な基盤こそが防衛力の中核となるとの考えを示した上で、①人格の陶冶に努める②洗練されたフォロワーシップの追求 の2点を要望しました。そして、海上自衛隊を支える術科のプロフェッショナルとして職務に邁進することに期待を示しました。

第14期海曹予定者課程の諸官、修業おめでとう。諸官がこの3ヶ月の間教育訓練に励み、本日晴れて修業の日を迎えることを誠に頼もしく思うとともに、心からの祝意を表するものである。さて、諸官承知のとおり、我が国を取り巻く安全保障環境はかつてないほど厳しく、かつ複雑なものとなっており、先の大戦以降最大の挑戦を受けているといっても過言ではない。それらの諸情勢を踏まえ昨年末、新たな国家安全保障戦略等、いわゆる戦略3文書が策定された。合わせて、防衛費の大幅な増額という政府の明確な方針が示され、これまで以上の精強性・即応性そして持続力を発揮できるよう海上防衛力の抜本的強化が図られようとしている所である。その一方で、昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻においては、多くの者が早い段階でのウクライナ敗北を予想したと思う。しかしながら、諸官承知の通り、ウクライナは首都キーウへのロシアの侵入を阻止し今に至っている。欧米による支援がこれに寄与していることは間違いないが、ゼレンスキー大統領をはじめとするウクライナ国民が「自分たちの国は自らで守る」という強固な意志を内外に示したことがその素地にあったことは忘れてはならない。始業式で申し述べたとおり、どのような制度を採り入れ、新たな装備品を導入したとしても、それらを維持し機能させ運用するのは人であり、人的基盤こそが防衛力の中核となることはウクライナの例を見るまでもなく明らかである。諸官ひとりひとりは只今申し述べた諸情勢を十分に踏まえたうえで、健全な精神と強靭な体力を基盤として新たな安全保障に係る方針のもと、与えられた任務を遂行し、引き続き国民の負託に応えなけらばならない事をこの修業を機に今一度認識してもらいたい。修業後、諸官は定められた部隊に赴任し、先輩・同僚・後輩と共にその職責を果たしてもらうこととなるが、今後部隊で勤務するにおいて特に次の事を伝えておきたい。その第一は人格の陶冶に努めよという事である。海上自衛隊が諸官に期待することは、部隊において専門術科の即戦力となり、その中核として活躍することである。そのためには術科力の向上だけではなく、後輩を育てチームをまとめてゆく運営力が問われることになる。自衛隊だけでなく人間社会におけるあらゆる組織の円滑な運営においては、そこに属するリーダーの人格に懸かっていると言っても過言ではない。自らが追求する理想的な人間像とは何かを考え続け、目指す理想の自衛官として部下・後輩を己の背中で引っ張っていく、諸官にはそのような海曹になってもらいたい。その第二は洗練されたフォロワーシップを追求せよという事である。たった今、人間力を備えたリーダーを目指せと伝えたばかりだが、諸官は当面の間、海曹として幹部自衛官の指揮監督のもとフォロワーとして与えられた職責を遂行することが求められる。しかし誤解しないで欲しい。上司の指示・命令に唯々諾々と従う事がフォロワーに課せられている訳ではない。海曹に求められる物は何かを常に考えつつ、一つ上の立場に自らを置き、自分だったらどうするかを考え続ける、それが「洗練されたフォロワーシップの追求」である。諸官一人一人が各々の職域において優れたプロフェッショナルを目指し、新たな時代における海上自衛隊を支える中核となるべく日々精進してもらいたい。そして日頃から上司・先輩への尊敬、同僚との助け合い、部下への思いやりの気持ちを常に忘れず、自らの仕事が部隊を、海上自衛隊を、ひいてはこの国を支えていることを常に意識して勤務に邁進することを切に期待する。

式典の最後は、海上自衛隊歌「海をゆく」の斉唱です。課程を修業した隊員が声を限りに歌います。

明け空告げる海をゆく 歓喜沸き立つ朝ぼらけ
 備え堅めて高らかに 今ぞ新たな日は昇る
 おお堂々の海上自衛隊 海を守るわれら ~♪

黒潮薫る旗風に 映える使命の若桜
 熱い力の意気燃えて 凌ぐ波濤は虹と咲く
 おお精鋭の海上自衛隊 海を守るわれら ~♪


修業式はこれにて終了。この後は部隊へ赴任する隊員たちの修業行進を見送るため正門前へ向かうことになるのですが、会場には次のようなアナウンスが流れました。「ご家族・見学者の皆様には呉地方総監からご挨拶があります。今しばらくお待ち願います」

アナウンスから約3分後、いったんは会場から退場していた伊藤総監がマイクを手にして再入場。「呉地方総監の伊藤です。本日はご来場、本当にありがとうございます」と、来場に対するお礼の言葉を述べながら参列者席の方に歩み寄って来ました。本日の式典の第二幕であり、呉教育隊で挙行される式典の名物・伊藤総監による“マイクパフォーマンス”の始まりです!

結論から申し述べれば、その内容は一般的な地方総監が話すであろう堅苦しくて通り一遍の挨拶でもなく、かといって興行でのマイクパフォーマンスのように軽妙なトークで笑いを取るようなものでもありません。海上自衛隊が抱えている問題を平易な言葉で分かりやすく説明・解説する「伊藤先生による海上自衛隊講座」といった趣のお話しでした。
今回、海自が直面する大問題として伊藤総監が説明したのが人口減少とそれに伴う隊員の募集難です。伊藤総監は各種行事での挨拶や報道インタビュー等において、必ずと言っていいほど「人づくりの大切さ」について言及しています。先ほどの訓示においても「新たな装備品が導入されようとも防衛力の中核は人的基盤」と述べています。区域の警備や艦艇の整備補修、後方支援など地方総監には様々な職務がありますが、伊藤総監が最優先かつ最重要と考えているのが人材の確保と育成であることは間違いありません。


一昨年は島根県、去年は山梨県の人口に相当する人が亡くなりました。一方、年間に生まれる子供は80万人を切りました。

伊藤総監は我が国の人口減少社会をこのように表現しました。そして、それに伴う海自への影響については…


来年度以降、防衛予算を増額していただけるが、残念ながら予算は増えても隊員は殆ど増えません。若者の人口減少で民間企業や他の公務員との人材獲得競争となり、それに負けてしまっている。令和4年度の隊員募集はとても苦戦し、採用目標人数を達成できませんでした。しかし、隊員は確保できなくても国を守る任務はきっちり遂行しなければなりません。

このような状況において、地方隊として広報に力を入れていることを説明。今回の修業式の公開もその一環であると述べました。

海上自衛隊は主力が艦艇ということで、海に出てしばらく帰って来ない。駐屯地で地に足を付けている陸自と違って、何をしているかが非常に分かりにくい。よって我々が「こんな事をやっています!」と積極的に発信しないと国民の皆様に知ってもらうことができません。まずは興味を持ってもらい、我々の行事にどんどん来てもらおうという考えで、地方隊・呉所在部隊あげて広報活動に取り組んでいます。教育隊の公開は私の意を汲んだ渡邊司令が積極的に取り組んでくれました。

そのうえで、参列している隊員家族・一般見学者に対し募集業務への理解と支援を呼びかけました。

今年も隊員の募集活動を行いますが、ぜひ皆様のお力添えをいただきたい。32歳まで入隊が可能となったので、新卒者だけでなく、企業等に就職したものの数年で退職した人も含めて、ぜひ自衛隊への入隊を勧めていただきたい。一般見学者の皆様、2度目3度目のご来場をお待ちしています。今日見たことを周囲に話して、次回は友人を誘って来ていただけると嬉しいです。

募集難の中で求められているのが女性パワーの活用です。伊藤総監は呉地方隊先任伍長の林田海曹長(写真右)呉教育隊先任伍長の迫田海曹長(↑の写真右から3人目)を紹介し、呉地方隊においても実力ある女性を積極的に登用していることをアピール。「男社会」のイメージが強い自衛隊においても、時代の要請にしたがって確実に変革が起きていることを説明しました。

女性だから、女性を増やさないといけないから先任伍長に選んだのではありません。能力・資質・人格すべてが備わっていなければ重要な役職である先任伍長にはしません。林田・迫田両海曹長には先任伍長となるにふさわしい能力があったのです。

実は私、修業式の開始前に幸運にも教育隊の迫田先任伍長とお話する機会がありました。まさに先任伍長にふさわしい素敵な方だったので、伊藤総監の「能力・資質・人格すべてが備わった…」との説明には大いに納得させられました。このように、伊藤総監が女性の登用をアピールするのは、海上自衛隊は能力ある女性が活躍できる組織なのでぜひ入隊を勧めて欲しいとの思いがあるからでしょう。「女性は活躍できないのでは?」と懸念して入隊を躊躇している人がいたら、そうでない事を教えて欲しいと。

伊藤総監の挨拶ですが、参列するご家族に応じて内容を変えているそうです。例えば、初めて海自と関わることになる新隊員の家族に対しては、日本が置かれている安全保障環境や国際情勢などを説明するそうです。海上防衛の中枢に身を置いている伊藤総監のお話は、わざわざ聞きに行くだけの価値があります。皆様も、ぜひ呉教育隊の入隊式や修業式の公開に足をお運びください。


伊藤総監の挨拶終了後、正門前にて部隊へ赴任する隊員を見送りました。129人の隊員が一列になって、分隊ごとに行進します。敬礼しながら行進する隊員の表情からは、課程を終えた充実感海曹になる責任感が読み取れます。皆さん、精悍ないい表情です

ロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにして、自衛官の親たちの中には「息子・娘が戦場に送られるのでは?」と不安がる人も多いということを、ある新聞の記事で読みました。自衛官の中にも「本当に敵と戦うことになるかも…」という不安を抱き、自らの将来や進路に悩んでいる人もいるかもしれません。しかし、いま目の前を行進する隊員はそのような不安とは無縁、もしくは不安を断ち切って生涯を海上防衛に捧げることを決意したのです(海曹昇任=海自に就職。海士は任期制で、企業での契約社員のような存在)。彼ら・彼女らは間違いなく国の宝というべき若者たちです。50歳を超えたオジさんとしては、このような若者がいることがとても嬉しいです。

進を終えた129人の隊員は正門前に整列、帽振れで伊藤総監・渡邊司令ほか見送りの人々に別れを告げます。
帽振れは帝国海軍から続く別れの儀式ですが、何度見ても心が揺さぶられます。というのも、海上自衛隊は何事もスパッと済ませるというか、ある事象をいつまでも引きずらない組織ですが、この帽振れによる別れの儀式も、いつまでも別れの感傷的な気持ちを引きずらないというか、「これにてお別れ!」という区切りを可視的に具現化した海軍らしいお別れといえます。送る側、送られる側が感謝と激励の気持ちを込めながら帽子を振る姿は、まさに様式美とすら言える美しい光景だと思います。


さて、海曹予定者課程を修業した隊員たちですが、まだこの時点においては3等海曹ではなく海士長です。7月1日付けの人事で、晴れて3等海曹に昇任します。その際、女性隊員は左腕の階級章が変わるだけですが、男性隊員は大きな変身を遂げます。制服が現在着用しているセーラー服からダブルのスーツになるのです。加えて、制帽も中央に帽章が輝くツバのあるものとなります。男性隊員はこれから制服と制帽を新調することになります。恐らく、ワクワクドキドキしながら海自指定のテーラーに向かうのでしょうね。

帽振れで見送りの人々と2ヶ月半過ごした教育隊施設に別れを告げた隊員たちは、各々の赴任先へ向かうため2列の隊列で行進しながら教育隊をあとにします。2ヶ月半に渡って濃密な時間を過ごしただけに、名残り惜しそうな表情の隊員もいます。

伊藤総監は見送りの人々の先頭に立ち、直立不動で赴任先へ向かう隊員を見送っています。伊藤総監は海将ですから、海士長である隊員たちに「頑張れよ!」と気軽に声を掛けることは憚られる立場です。よって、見送りにおいても激励の言葉を発することはありません。しかしながら「人的基盤こそが防衛力の中核」とのお考えを持っているだけに、心の中で「プロフェッショナルを目指して頑張れよ!」「海上自衛隊の将来は君たちに懸かっている。頼んだぞ!」とのエールを送っていることが、その後ろ姿から覗えました。


見送りが終了。ここで地方総監は公用車に乗って総監部に戻るのですが、ここでも伊藤総監は「らしさ」を発揮します。隊員家族と一般見学者のもとに歩み寄り、「お見送りありがとうございました。またお会いしましょう」と挨拶。短いながらも心のこもった挨拶に、家族からは拍手が沸き起こりました。拍手を受けながら公用車に乗り込む地方総監を初めて見ました
私は10年以上前から伊藤総監と交流させていただいておりますが、それを差し引いたとしても、これほどまで一般の人々との距離が近いと感じる地方総監がかつていたでしょうか?―ベタ金の階級章を纏った海将たる総監は天上人であり、一般人はその存在を遠くから眺めるもの―私の中にあった既成概念は、本日の修業式における伊藤総監の姿によってものの見事に吹き飛びました

式典後の“マイクマイクパフォーマンス”、さらには見送り後の挨拶、なぜ伊藤総監は一般の人との「近さ」を重視するのか?それは総監就任時に隷下部隊に示した「変化への挑戦」を、自ら率先して実行しているのだと私は考えています。厳しさを増す安全保障環境、加速化する人口減少など激変する情勢下にあって、国民の理解なしでは海上自衛隊は存続し得ない、とりわけ隊員の募集においては幅広い層の人たちの理解と協力が不可欠とお考えなのだと推察したします。
振り返れば、10数年前までの広報活動はこの方針で実施されていました。しかし短期的な結果にこだわるあまり、艦〇れとのコラボ募集対象者以外を排除するといった極端に間口を狭めた広報が行われ、結果、若者の海自人気は過熱するが募集には繋がらないという残念な結果を招いています。伊藤総監は幅広い層に興味を持ってもらう・知ってもらうための広報、良き理解者を増やすための広報を深化させ、推進するために、従来の地方総監のイメージを覆すような挑戦を続けているのではないでしょうか。


修業式関連の諸行事が全て終了したあとは、呉教育隊の見学会です。私は広島の大学に進学した1987年(もう37年も昔!)から何十回も呉教育隊の前を通りましたが、内部に足を踏み入れたのは初めてです。なので見学会は修業式以上に楽しみでした♪
前方の建物は第1隊舎で、先ほど修業式に参加した129人の隊員が2ヶ月半生活した場所です。最上階(4階)が女性隊員用フロア、1~3階が男性隊員用です。私の背後には同じ外観の第2隊舎が建っており、こちらは来月入隊する新入隊員が使用するということです。

教育隊ではとても規則正しい生活を送ります。呉教育隊の1日のスケジュールは↓のとおり。
*6:00 起床 *6:03 点呼 *6:05 体操 *7:00 朝食 *8:00 国旗掲揚 *8:10 課業行進 *8:20 教務(午前)
*12:00 昼食 *12:55 午後の体操
*13:10 教務(午後) *13:55別課 *16:45~18:00夕食 *16:45~18:45自由時間 *17:00~18:45入浴
*19:00 甲板掃除 *19:30 巡検 *19:30~21:00自習 *21:00自由時間 *22:00消灯
 

第1隊舎の前では「別れの儀式」が行われていました。修業式を終えた隊員たちは先ほど部隊へ向けて出発しましたが、それは修業式における儀式で、実際は別の門から隊舎に戻り、荷物をまとめた後に三々五々部隊へ赴任します。

(左)記念写真の撮影。皆さん、とても素敵な笑顔です。同じ分隊の隊員が集まっての撮影のようですが、指で「1」を表現しているのは1分隊ということでしょうか?中央にいるのは指導役の海曹ですが、鬼の指導海曹もこの時ばかりは仏の笑顔です。
(右)こちらは隊員が整列して分隊長と思しき幹部に敬礼しています。分隊の解散式のようです。互いに敬礼を交わす様子からは、「お世話になりました!」「頑張れよ!」という、隊員と分隊長の声が聞こえてくるようでした。なかなか感動的な光景です。


こちらは「呉教温泉」と呼ばれている浴場です。第2隊舎の隣にあります。ここで隊員たちは教務と訓練、別課(水泳等の運動)で疲れた身体を癒します。入浴時間は17時から18時45分までで、分隊単位で入浴します。「朝風呂派なので朝に入浴したい」は不可です。

パッと見は街の銭湯のようですが、浴槽の内側が艦艇の浴槽と同じステンレスなのが海上自衛隊施設の浴場という雰囲気を醸し出しています。ちなみに、航行中の艦艇の浴槽の湯は海水ですが、教育隊は陸上の施設なので浴槽の水は真水です。右側の壁の向こう側にもここと同じ広さの浴槽と洗い場があります。過程別に入浴するエリアを分けているのかもしれません。


教育隊のオアシス・食堂です。こちらは第1隊舎の隣にあります。ざっと数えたところ、300人程度が一堂に食事ができるほどのキャパがあります。ここで300人もの隊員が一斉に食事を採る光景は、なかなか壮観ではないでしょうか。新型コロナ感染防止策として、全てのテーブルに飛沫防止のためのアクリル板が置かれています。ちょうどお昼前なので、教育入隊中の隊員の姿もチラホラ見えます。

右奥に白い調理服を着た人がいますが、その人たちは給養員と呼ばれる隊員で、給養(簡単に言えば調理)を特技とし、舞鶴の第4術科学校で調理を学んだ食事づくりのプロです。この食堂で毎日3回、プロが調理した栄養豊富な食事をきちんと食べることができる、しかも食費はタダ。この食事の面だけにおいても、自衛隊はかなり魅力的な職業だと私は思います。


本日は金曜日、海自の金曜日の昼食といえばカレー。ということで、食堂で呉教育隊のカレーを体験喫食しました。今や呉観光の目玉のひとつとなった呉海自カレーですが、こちらは正真正銘・本物の海自カレーです。「せっかくの機会だから…」と少々欲張ってご飯を盛ってしまったうえに、給養員さんが並々とルーを注いでくれたため、超大盛りカレーとなってしまいました(笑)ルーが皿から今にも溢れそうですが、実際には溢れずに縁の手前で静止している点にご注目!海自のカレーは揺れる艦艇を想定して粘度を高くしているので、たとえ超大盛りでもご覧のようにルーが溢れることがありません。まさに本領発揮と言ったところでしょうか。

おととし12月まで呉市中通で営業していた「たまや」が、呉海自カレーの呉教育隊を担当していました。「たまや」の教育隊カレーは、このカレーとは見た目が全く違うのですが、少し酸味の効いたルーの味はよく似ています。「たまや」のカレーは、具材などのアレンジは異なるものの、ルーは同じレシピで作られていたことを改めて認識しました。閉店してしまったのが非常に残念です…。

教育隊のオアシス第2弾=売店です。こちらは厚生棟という建物の中にあり、隣接して読書や休憩ができる談話室があります。
制服・作業服等の被服から日用品お菓子海自グッズなど必要十分な商品が販売されています。私は見学の記念に洋上迷彩柄のタオルを購入しました。他の見学者や隊員の家族も、私と同様に海自グッズを購入していました。考えることは皆同じです

中央に置かれたゴンドラには大量のハンガーが陳列されています。被服は種類ごとにハンガーにかけてロッカーに収納しないといけないので、隊員による高いハンガー需要に対応すべく大量のハンガーが用意されているのだと思われます。その隣にはカントリーマアム(贅沢バニラ)ポテロングが大量陳列、こちらも教育入隊中の隊員に大人気なのだと思われます。靴磨きセットの特設コーナーがあるのも自衛隊の売店らしい光景。世の中広しといえども、靴が輝いていないと叱られる職業は自衛隊くらいでしょう。


教育隊最後の見学は隊本部庁舎です。教育隊司令の執務室もこの建物の中にあります。6年前に訪問した舞鶴教育隊の本部庁舎は帝国海軍の舞鶴海兵団の庁舎でしたが、こちらは戦後に建てられたもののようです。呉海兵団は1945年7月の呉空襲で壊滅的な被害を受けたので、本部庁舎も破壊されていたのだと思われます。とはいえ、呉教育隊の敷地は呉海兵団の跡地を利用しています。

呉空襲で壊滅的被害を受けた呉海兵団は、終戦後に進駐して来たイギリス軍に接収され、1951(昭和31)年までイギリス軍の施設として使用されます。イギリス軍撤収後の1952(昭和32)年に当時江田島に所在した海上自衛隊練習隊がこの場所に移転し、現在の呉教育隊と改称されて現在に至っています。終戦後から11年間の空白期間(イギリス接収期間)があるものの、この場所は1890(明治23)年の呉海兵団開隊以降、130年以上に渡って新兵(新入隊員)を教育・訓練する場として使用されているのです。


教育隊の見学は終了しましたが、なんと!見学会自体はまだまだ続きます。教育隊と警備隊を隔てる市道を渡って警備隊地区へ。そしてさらに、小高い丘の上に建つ呉地方総監部庁舎まで“進撃”します。警備隊地区の南側には支援船の係留施設があります。今回のレポートは27枚目の画像にしてようやく海自艦船が登場しました(笑)

手前の支援船はYL17で、主に物資や弾薬を輸送する運貨船という種別の支援船です。船首部分はバウ・ランプになっていて、砂浜にビーチングしての物資輸送が可能です。このYLは五大基地の港務隊すべてに配備されており、内訳は横須賀・佐世保各2隻、呉・舞鶴・大湊各1隻となっています。YLのほかに水中処分母船(YDT)や曳船(YT)、油船(YO)の姿も見えます。


支援船の係留施設からほど近い場所に、山肌にめり込んでいるようなコンクリート製の施設があります。これは呉鎮守府電話総合交換所跡という遺構です。言うまでもなく旧海軍の施設で、約2年の工期をかけて1945(昭和20)年4月に完成したといわれています。

その形状や完成時期などから、鎮守府の機能を空襲から守るための壕であることは明らかだったものの、何の用途に使ったかは長年不明のままでした。一時は地下作戦室と呼ばれていましたが、近年、この施設が電話交換所だったという史料が見つかったようで、現在は呉鎮守府電話総合交換所跡と呼ばれています。施設の入口横に設置されいる看板にも呉鎮守府電話総合交換所と記されていますが、私が2019年にこの遺構を訪れた際には、看板の表記は呉鎮守府司令部地下壕(旧地下作戦室)でした。

    ↑2019年3月時点の看板(表記は司令部地下壕)         ↑2023年3月時点の看板(表記は電話総合交換所)

現在は電話総合交換所と呼ばれている遺構の内部です。1階部分にあたり、この遺構におけるメイン空間です。この空間は幅13m×奥行15m×高さ5.7mで、天井・壁・床いずれもコンクリートです。施設は250キロ爆弾の直撃に耐えうるように設計されたとのことで、コンクリートで固められたいかにも強固な壕といった印象を受けます。とはいえ、建設時期が既に国内において物資が欠乏している頃だったためか、コンクリートの質はかなり劣悪であるように見えます。床にはかつては木材が敷かれていたそうです。

この施設ですが、電話交換所となったのは結果論であって、元々は鎮守府司令部の地下壕として造営されたと私は考えます。というのも、いくら電話が重要とはいえ、電話のためにこれほど大掛かりな壕を造るとは考えにくいですし、戦後に撮影された写真を見ると、交換所は2階の小部屋を使用していたことが分かります。よって、この壕は空襲時に鎮守府司令部の機能を避難させるために造られたと考える方が自然であり、この広い空間は作戦室や会議室、避難所などの多目的スペースだったのではないでしょうか。しかしながら、結局は電話交換所としてしか使用されなかったため、戦後の記録に呉鎮守府電話総合交換所と記されたと考えられます。

電話総合交換所跡のすぐ横には大階段があります。この階段を登った先に呉地方総監部の庁舎があります。なかなか立派な階段ですが、それもそのはず、この大階段は明治天皇の行幸用に造築されたものなのです。

帝国海軍の呉鎮守府は、1890(明治23)年に横須賀に次ぐ2ヶ所目の鎮守府として開庁されましたが、開庁の式典は明治天皇ご臨席のもと挙行されました。式典当日、桟橋から上陸した明治天皇はこの大階段を登って丘の上にある鎮守府までお歩きになる予定でしたが、68段(現在は65段)もある急な階段に驚愕されたのか、階段を登らずに南側にある坂道を馬車に乗ってご移動になったとの伝承が残っています。明治天皇が登ることをためらったかもしれない大階段を、私はこれから気合を入れて登ります


ゼイゼイと息が切れ、脚が吊りそうになりながらも65段の大階段を登り終え、呉地方総監部庁舎に辿り着きました。明治天皇が階段をお登りにならなかった理由が良く分かりました(笑) 庁舎の裏側が海の方角で、大階段もこの庁舎の裏側にあります。
皆さんご存知のとおり、戦前は帝国海軍呉鎮守府の庁舎だった建物です。呉鎮守府は明治23年に開庁されましたが、この庁舎は開庁から17年後の明治40年に竣工しました。建築資材としてレンガ御影石を使った洋風建築で、江田島の幹部候補生学校(旧海軍兵学校)と並んで呉地区を代表する、否、日本を代表するレンガ建築と言っても過言ではないでしょう。

材料とされたレンガは長らくイギリス製と考えられていましたが、近年の研究で地元・広島産のレンガであることが判明しています。外観を特徴的にしている屋根中央のドーム部分ですが、昭和20年7月の呉空襲で破壊され(庁舎は外観のみ残して全焼)、復元されたのは1999(平成11)年でした。私が大学生時代に原付スクーターに乗って呉に来ていた頃(1980年代後半)には、ドーム部分はありませんでした。なので、私にとって呉地方総監部というと、ドーム部分がない時代の庁舎の方の印象が強いです。


ちょうど7ヶ月前の去年8月下旬、総監部に伊藤総監を訪ねた際、この場所で記念撮影をしました。左から伊藤総監、私、山口幕僚長(当時・現第4術科学校長)です。背景に赤レンガの庁舎があるため、純白の夏服とベタ金の階級章がひときわ映えます。

この場所は記念撮影の定番スポットですが、歴代の呉地方総監、さらには歴代の呉鎮守府司令長官もこの場所で記念撮影をしていたのだと思われます。歴代の呉鎮守府司令長官には、加藤友三郎・鈴木貫太郎・野村吉三郎・山梨勝之進・嶋田繁太郎・豊田副武・南雲忠一ら錚々たる面々が名を連ねており、その方々と同じ場所で記念撮影をしたと考えると非常に感慨深いものがあります。
一方、呉地方総監ですが、伊藤総監は47代目にあたります。歴代の総監には、中村悌次・長田博・小西岑生・加藤武彦・杉本正彦・酒井良(現海幕長)ら、こちらも錚々たる面々というか、海自を研究する者にとっては印象深い方々が名を連ねています。


庁舎1階のエントランスを見学することができました。まるで時間が止まったかのように、明治~昭和初期の空気が流れています。
「海上自衛隊は帝国海軍の末裔」と言われることがありますが、この場に立つとその事が実感を伴って納得させられます。


エントランスで私の心に突き刺さったアイテムがこちら。重厚な鉄製の扉が据え付けられた出入口、その隣に飾られている絵画です。
そこに描かれているのは、戦後初の国産護衛艦「はるかぜ」型の2隻、「はるかぜ」「ゆきかぜ」です。
艦名だけで痺れます!
この絵画は、呉市内で会社を経営していた水野二郎さんが描いたもので、昭和44年に呉地方総監部に寄贈されました。艦艇を絵の題材に描くくらいなので元海軍軍人かと思いきや、元陸軍少佐(陸士53期)というから驚きです。戦後、故郷の呉に戻って事業を営む傍ら、絵を趣味にしていたのでしょう。そして何かの機会に「はるかぜ」「ゆきかぜ」の航行する姿を見て、その姿を描いたと思われます。

「はるかぜ」「ゆきかぜ」ともに昭和31年に就役し、昭和60年3月に退役。就役年も退役年も同じという‟仲の良い姉妹”でした。「はるかぜ」は生涯の後半12年間は呉を母港とし、退役後も2001年まで第1術科学校に特設桟橋(実習用施設)として係留されていました。

総監部庁舎の周囲には呉鎮守府時代のレンガ建築物が幾つも残っており、総監部庁舎同様に海自施設として使われています。
(左)呉警務隊本部庁舎:総監部エリアで最も古く、明治23年の鎮守府開庁当時からある建物。明治38年の芸予地震も耐えました。
(右)呉造修補給所庁舎:こちらは少し時代が下がって大正末期の建築。元々は呉海軍工廠内にあったものを移築したそうです。


見学会の最後は、約1時間に及ぶ港内クルーズです。修業式の見学に始まり、教育隊施設の見学、カレーの体験喫食、呉鎮守府電話総合交換所跡の見学、呉地方総監部庁舎の見学、そして港内クルーズ…本当に盛りだくさんな内容です。港内クルーズを担当するのは水船YW、艦艇に真水を補給するのが役割の支援船です。もちろん、運航にあたるのは呉警備隊(港務隊)の隊員です。

呉基地内に在泊していた艦艇の一部をご紹介。平日(金曜)ということもあり、整備・補給作業の様子も見ることができました。
(左上)DD「さざなみ」。当初は他基地に比べて通常塗装が多かった呉所属艦ですが、今や大半の艦がロービジ塗装に。
(右上)「そうりゅう」型潜水艦(はくりゅう?)がクレーンを使って魚雷の搭載作業を実施中。貴重な光景に出くわしました。
(左下)DD「うみぎり」。どうしてこんなに船体が錆だらけなのでしょう?多忙ゆえ?働き方改革?近年錆が付いた艦が増えました。
(右下)DE「とね」油槽船YOT01。YOTは海自最大の支援船、燃料を製油所から海自基地まで輸送するのが役割の船です。

久しぶりの取材・撮影となった今回の呉遠征、修業式と見学会合わせて2100枚もの画像を撮影していました(本レポートに使用したのは僅か44枚)。言い換えれば、2100枚も撮影してしまうくらい盛りだくさん、かつ充実した広報行事だったといえるでしょう。呉教育隊の広報行事は海自への理解を深めるには最適です。将来の進路を考えている中・高生、中・高生を持つ親御さん、緊迫化する国際情勢が気になって自衛隊について知りたくなった人などなど、多くの方々にぜひ参加して欲しいと切に思います
最後に、今回の行事を開催していただいた伊藤総監をはじめとする呉地方総監部・呉教育隊の皆様に心から御礼申し上げます

必要なのは「間口を狭めた広報」よりも「広い層に知ってもらう広報」…呉地方隊の広報への意気込みを感じました。