2021年8月 広島・呉遠征

夏真っ盛りの8月1日に呉へ。今回の遠征はまずは広島市宇品からスタートです。

夏真っ盛りの8月1日、私は広島市の臨海部・宇品にいます。この一帯は特定重要港湾・広島港のエリアなのですが、年配者をはじめとする多くの市民が広島港を昔ながらの呼称である宇品港と呼びます。戦前、この宇品地区には陸軍の船舶部隊(暁部隊)を指揮・統率した船舶司令部が置かれ、この宇品港から兵員や物資を積載した輸送船が戦地へ向かいました。当時、眼前に広がる海には多くの輸送船がひしめき合うように停泊していたそうです。広島には呉以外にも重要な海上部隊の司令部があったのです。

陸軍船舶司令部については、広島市出身のノンフィクション作家・堀川恵子氏の著作「暁の宇品」で詳細に紹介されています。「埋もれた歴史」と化している船舶司令部を堀川氏は丹念に取材、多くの新事実も盛り込んだ圧巻の内容で、船舶司令部の歴史と存在意義を世に知らしめました。当HPの閲覧者の皆様も、ぜひ堀川氏の本を読み、陸軍船舶司令部を知っていただきたいです


なぜ私が宇品にいるかというと、護衛艦の公開が実施されているからです。公開されている護衛艦は…「いなづま」です♪
広島地本は毎年この時期に宇品で艦艇公開と体験公開を実施しており、まさに‟宇品の夏の風物詩”となっています。基本的に至近距離にある呉基地所属の艦艇が来航していて、去年は退役間近の練習艦「しまゆき」が来ました。今年もコロナ禍で夏イベントの中止が相次ぐ中、この艦艇公開は何とか隊員を確保したいという広島地本の切実な想いをひしひしと感じます。

艦首近くの記念撮影コーナーでは、海士の制服を来た幼児が敬礼のポーズをとって写真に収まっています。とても可愛らしくて心が和みます♫ ぜひ15~20年後に海上自衛隊に入ってくださいね!大人で制服コスプレをしている人も…こちらは心が荒みます
(苦笑)

艦艇公開とはいっても、昨今の“流行”である「募集対象年齢者のみ乗艦可」というスタイル。50歳を超えたオジさん(=私)は埠頭から外観を撮影するしかありません。それでもコロナ禍で艦を撮影する機会が激減した昨今において、艦を至近距離から撮影できるだけでも有難いです。そして何よりも艦艇を公開している雰囲気がいい!この雰囲気を味わうために宇品まで来たようなものです。

埠頭には装甲機動車偵察戦闘車偵察バイクなどの陸自装備品が展示されています。これらは第13旅団隷下の第46普通科連隊などから派遣されたものです。第13旅団は広島市と呉市の中間にある海田市駐屯地に司令部があり、同駐屯地には46普通科連隊・13施設隊・13後方支援隊などが駐屯しています。広島は海自の呉がつとに有名ですが、実は第13旅団という陸自部隊もあるのです。

艦艇公開に不可欠なのが募集ブース。陸海空3自衛隊がそれぞれブースを出展していました。当然ながら私は海自のブースに目が行ってしまうのですが、テントの軒先に展示されているマネキンが心に刺さりました。なんて美しい敬礼なのでしょう!教科書どおりの見事な角度、これぞ海軍式敬礼のお手本です。このマネキンを制作したのはブースを担当している呉総監部の海曹なのですが、敬礼の角度には特にこだわって制作したとのことでした。洋上迷彩が施されたの青い作業服もなかなか素敵です♪ 来たれ、若者よ!

陸と空の募集ブースにもマネキンが飾られているのですが、陸のマネキンは物陰に身を潜める姿(レンジャー隊員?)、空は「航空自衛隊」と記された看板を持って来場者に手招きする姿…マネキンにも各自衛隊の特色が滲んでいます
(笑)

公開は午後2時前に終了。「いなづま」は直ちに母港・呉に回航するのですが、これを利用した片道切符の体験公開が実施されます。
パカパパ~ パカパパ~ パカパッパ パッパパ~♪
勢いある出港ラッパの吹奏を機に「いなづま」はゆっくりと岸壁から離れていきます。これまで艦の出港を何十回撮影したか分かりませんが、艦が岸壁を離れる瞬間は毎回心が躍ります♪ 天気も良好、この瞬間を撮影できただけでも遠征した甲斐がありました。

近年は任務多忙で体験航海の実施が難しいだけに、回航を利用した体験航海を結構頻繁に見かけます。私でいうと2019年3月に練習艦隊が神戸港から阪神基地隊へ移動する際の体験航海に参加、さらに2016年3月にはドック入りで造船所に向かう「さわぎり」の体験公開に参加しました。回航時の体験航海は苦肉の策なのかもしれませんが、中々のグッドアイデアだと思います。

曳船YTによって岸壁から離れた「いなづま」は、曳船と繋がる曳索を解き放して航行に移ります。ちょうど今ごろ艦長が「両舷前進微速」の号令を発しているのではないでしょうか?青い空に蒼い海、そして夏の日差しに照らされる艦艇…まさに夏のひとコマです

「いなづま」の就役は2000年3月なので、既に艦齢が21年に達しています。ずっと新鋭艦のイメージを抱いてきたのですが、30年くらい前なら2線級の艦として地方隊(現在の10番台護衛隊)に転出してもおかしくない艦齢です。それだけ護衛艦隊所属艦の高齢化が進んでいるのですが、ただ性能といい艦容といい全く古さを感じません。20数年経っても大きく陳腐化しないのは、それだけ「むらさめ」型DDの設計思想が優れていたといえるのではないでしょうか?とはいえ、数年後には後継型について何か動きがあるかもしれません。

「いなづま」が前進に移ったタイミングで艦内スピーカーから「帽振れ」の号令が流れました。艦上にいる乗組員は岸壁に向かって帽子を振り、別れの挨拶をします。コロナ禍ということで、乗組員は全員マスクを着用しています(当然ですが)。この炎天下でマスクをしての出港作業はかなり大変ではないでしょうか…乗組員の皆さん、暑さと酸素不足にご注意願います!

体験航海の参加も募集年齢対象者のみですが、乗艦した方々は進路選択の際に入隊を一応は検討して欲しいです。「体験航海に参加したから絶対に入隊せよ!」とは言いませんが、選択肢には含めて欲しいです。貴重な税金を使っての体験航海なのですから「クルーズを楽しんだだけ」というのは眉を顰めざるを得ません。最近は若いマニアが募集対象年齢なのをいいことに乗艦し、SNSで「入隊の意志は全然ないけど写真を撮りに艦に乗った」などと自慢しているのを見かけます。そのような記述ははらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じます。見栄や自己満足のために都合よく年齢を利用する若者なんて、ロクな大人にならないと私は思います。


「いなづま」は速力を上げ、母港・呉に向かって航行します。体験航海なので多少ゆっくりと走るでしょうから、1時間程度の広島湾クルーズと言ったところでしょうか。大小様々な島が浮かぶ瀬戸内を艦艇が航行する姿は本当に美しい…まるで絵葉書のようです。私が呉の艦艇にひときわ思い入れがあるのは、瀬戸内の美しい景色と一緒にその雄姿を撮影できることも大きな理由です。

猛烈な暑さのためか、体験航海参加者の姿が甲板上に見えません。ヘリ格納庫の中や艦内の科員食堂にいるのかもしれませんが、灼熱の甲板で焦げるほど日焼けするのが体験航海の醍醐味ではないでしょうか。なんだかもったいないですね…。

翌日、私も呉へ。昨日宇品で見た「いなづま」はちゃんと戻って来ています。「さみだれ」と並んで停泊している姿は‟仲の良い姉妹”のようです。「いなづま」「さみだれ」「かが」+潜水艦というこの景色、まさに呉を象徴する景色といえるでしょう。

手前の潜水艦が接岸している岸壁ですが、今は潜水艦専用ですが30年くらい前は艦艇用の岸壁でした。長さがあまりないので主にDEなどの小型艦が使っていました。忘れられないのが、1993年5月の護衛艦隊集合訓練。当時の護衛艦隊旗艦「むらくも」がこの岸壁に停泊し、艦と岸壁の間に赤絨毯を敷いた司令官専用の乗艦用ラッタルが架かっていたのがとても印象的でした。

作業を実施している潜水艦がいます。油船YOから燃料の補給を受けているようです。おや?油船に横付けされているあれは…普段はアレイからすこじま近くの場所に係留されている「謎の物体」ではないですか!?あの物体はドーナツフェンスという装備品で、潜水艦から排出される海水が混ざった油から水分を分離する装置です。恐らく水を除去された油は再び給油されると思われます。

このドーナツフェンス、かなり昔から見かけると思ったので、過去に撮影した写真を調べてみたら、90年代はじめに撮影した写真にしっかり写っておりました。更新で代替わりしているかもしれませんが、ドーナツフェンス自体は長い間使われ続けているようです。


近年、この場所には退役した小型艇などが解体業者に引き取られるまで係留されています。現在は去年10月に退役した掃海管制艇「ゆげしま」「ながしま」、そして両艇が使用した遠隔操縦自航式掃海具(SAM)が寂し気な姿を晒しています(涙) 「ゆげしま」と「ながしま」の退役で「うわじま」型掃海艇は9隻すべてが退役、とりわけ「ながしま」は取材や一般公開で何度も乗った思い出深い艇だけに寂しさはひとしおです。両艇の退役に伴って長い歴史を有した第101掃海隊も解隊、そのためSAMも不要になってしまいました。

SAMはスウエーデンで開発された装備品で、掃海管制艇からの遠隔操縦により無人で航行して掃海作業を実施。磁気機雷と音響機雷双方に対応し、水深が非常に浅い海面危険度が高い海域でも難なく掃海が行えるという優れた特徴がありました。新艦種FFMに掃海能力が付与されるなど、海自の掃海部隊はいま大きな変革期にあり、掃海管制艇とSAMの廃止(=第101掃海隊の解隊)はその象徴的な動きといえるでしょう。「ゆげしま」「ながしま」とSAM、長い間お疲れ様でした。

さて、今回の戦跡探訪は呉市中心部からほど近い(車で約10分)、音戸の瀬戸を望む高台にある公園を訪れました。

この公園は「音戸の瀬戸公園」というそのものズバリの名称なのですが、駐車場から公園内に延びる歩道の脇には、ご覧のような見慣れた形状の壁面があります。もうお分かりですね、この公園は砲台跡に設けられているのです。ここにはかつて広島湾要塞を構成した高烏台砲台がありました。いまは風光明媚な音戸の瀬戸の景色を一望する公園となっており、多くの桜の木が植えられていることから、特に花見シーズンは市民らで大賑わいするとのこと。ここもある意味、歴史に埋もれた砲台跡といえそうです。


公園内には砲座跡が3箇所あり、↑の1箇所は歩道が設置されていますが、残りの2箇所は綺麗に当時の姿をとどめています
高烏山砲台は陸軍が1900(明治32)年に外国艦船の呉への侵入を防ぐために設置、28糎榴弾砲を6門備えていました。1箇所の砲座に2門の榴弾砲を設置していたようです。三高山と同様かなり規模の大きい砲台でしたが、外国艦船が広島湾に侵入する恐れが無くなったことから、広島湾要塞の他の砲台と同様、1926(大正15)年に廃止となりました。その後は海軍の施設になったようです。

ご覧のように、砲台跡は駐車場に面している(=駐車場が砲台跡の至近距離に造られた)ため、辺り一面はアスファルトで綺麗に舗装されています。また、この公園への道のりも広く整備された道路が続き、三高山や岸根鼻のような秘境感や冒険感は皆無です。

砲座跡に隣接して地下弾薬庫があります。立派な石材が使われていますが、この石材は花崗斑岩で、ここからすぐ近くで産出された石材だそうです。高烏砲台には独立した建物の弾薬庫(国登録有形文化財)もありましたが、1967(昭和42)年に入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)がある入船山公園に移築され、現在は絵画や史料などの展示スペースとなっています。

それにしても弾薬庫直上のコンクリートの厚さがすごい!万一の爆発に備えて入念に対策を施した設計であることが分かります。エレベーターもクレーンも無い時代、砲座からすぐ近くとはいえ砲弾を運び出すのはかなりの重労働だったのではないでしょうか?息を切らせながら懸命に砲弾を運搬する陸軍兵士たちの姿が目に浮かびました。呉を守った兵士たちの事を忘れてはならないと思います。


砲台の主要施設といえば、砲座・弾薬庫と並んで観測所があります。園内を巡って観測所跡を探しますが…あれ?見当たらない(汗)
観測所は見晴らしの良い場所に設けられるので、眺望が効く場所に来てみたのですが、平清盛の像しかありません。
「あら、清盛さん、こんにちは♪」 と清盛公に会釈をした瞬間、像の台座が円形であることに気付きました。この形と大きさ、そして位置から推察するに、清盛公の像が建っている場所が観測所跡に違いありません。眺望が良く、かつ見栄えがする円形の台座を作ることができるので、観測所跡の上に像が建てられてしまったと思われます。あぁ…なんてことを
(涙)

なぜこの場所に平清盛の像があるかというと、音戸の瀬戸は平清盛が開削したとの伝承があるためです。清盛公は短気な人だったそうで、倉橋島を大回りする航路をバカバカしく思い開削を決意。しかも僅か1日での工事完了を目指し、夕刻に太陽が沈み始めると高台に登り太陽に向かって金の扇をかざし、太陽を呼び戻したそうです。観測所跡に建つ清盛公の像はその姿を再現しています。

清盛像が建つ場所は観測所があった場所だけに眺望は抜群!眼下に風光明媚な音戸の瀬戸が広がります。手前の陸地が呉市、対岸が倉橋島で、瀬戸には音戸大橋(左)第二音戸大橋右)が架かっています。音戸大橋は1961(昭和36)年に開通し、この橋により呉市と倉橋島が陸続きになりました。近年は交通量の増大により渋滞が頻発、加えて橋に歩道がないことから、音戸大橋のバイパスとして第二音戸大橋が2013年に開通しました。2本の橋が架かるこの景色、清盛公はどんな気持ちで眺めているのでしょう?

こうしてみると、高烏砲台は音戸の瀬戸を通過して呉に侵入しようとする艦船をつるべ撃ちする砲台であったことが分かります。最も狭い所で幅が80mしかないこの瀬戸に敵艦隊が突っ込んでくるとは思えませんが、当時はそれを警戒しなければならないほどロシア艦隊は脅威だったのでしょう。今は1日に500隻を超える船舶が航行する音戸の瀬は、かつては軍事上の重要ポイントだったのです。


同じ場所からは工業地帯も一望できます。この広大な敷地を有する会社は日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区です。呉海軍工廠の跡地において1951(昭和26)年に稼働開始。当初の名称は日新製鋼呉製鉄所で、長らく呉の経済を支えてきました。しかし、合併で日本製鉄となってからは設備の老朽化低い生産能力が問題視され、2023年9月末に閉鎖されることになりました。厳しい国際競争に晒されているとはいえ、地域の実情と歴史・伝統を全く顧みない日本製鉄の姿勢には大いなる疑問を感じざるを得ません。

この製鉄所には高炉が2基ありますが、すでに1基は去年2月に休止され、残りの1基も来月末で休止となります。もう高炉から煙が立ち上っている景色を見れなくなると思うと寂しさを感じます。高炉停止後は2年間をかけて他の設備の操業を止め、閉鎖後は設備は解体されます。製鉄所解体後に広大かつ由緒あるこの土地がどのように活用されるのか、非常に大きな問題となりそうです。


清盛像(=観測所跡)から下った場所に兵舎の跡が残っています。木造だった天井部分は崩れて無くなり、石造りの壁面部のみが残った形となっています。三高山砲台の兵舎と同じような構造・形状をしていますが、こちらは一切の復元が行われていません

とはいえ、まさに「兵(つわもの)どもが夢の跡」を地でいくような状態で残っているのは味わい深く、かつインパクトも大。高烏台砲台はこの兵舎跡を見るだけでも訪れる価値があると思います。他の砲台跡とは異なり呉市内から近いので、ぜひ訪れてみてください。


砲台跡の撮影を終えて呉市内へ、ここで昼食の海自カレーです。今回喫食するのは潜水艦「そうりゅう」のカレーです。このカレーは既に紹介したことがありますが、今回いただくのは特別バージョンです。「呉ハイカラ食堂」では、数量限定で特別バージョンの「そうりゅう」カレーを提供していて、私は運良く最後の1食を注文することができました。通常版との違いは一目瞭然、ライスが可愛らしい潜水艦の形をしています。セイル部分に「501」の艦番号が付いているので、これは紛れもなく「そうりゅう」です(笑)

もう一つの違いは揚げ物。通常版は鯨肉のフライですが、こちらは鶏肉の甘唐揚げになっています。でも鯨肉も食べたかったので、単品で追加注文しちゃいました♪ 「そうりゅう」カレーはフルーティで上品なお味、私の中では海自カレーで最も好きなカレーです。

ここからは恒例の遊覧船上からの艦艇撮影です。今回は珍しい艦を撮影できました。練習艦「かしま」です。「唯一無二の艦ではあるけど何処が珍しいの?」と疑問に思う方もいるかもしれませんが、「かしま」を真夏の時期に呉で撮影することがとても珍しいのです。
「かしま」は例年4月または5月に日本を出発し、10月中下旬頃まで新任幹部を鍛える遠洋練習航海に出ています。なので、この夏の時期は呉はおろか日本にすらいなかったのですが、新型コロナの影響で昨年から遠洋練習航海が前期と後期に分かれたため、前期を終えて帰国し、後期に向けた整備を行っている「かしま」を撮影することができたのです。コロナ禍も悪い事ばかりではありません。

後期の遠洋練習航海は8月25日に出港、米国のダッチハーバーパールハーバーマーシャル諸島ミクロネシアを訪問して10月27日に帰国します。新型コロナで変則的な遠洋航海となっていますが、若き幹部たちの奮闘に期待します。
負けるな!頑張れ!新任幹部。

今やすっかり呉の一員として存在感を発揮している練習艦「しまかぜ」です。4桁の艦番号もすっかり見慣れて、似合っているとすら感じるようになりました。「しまかぜ」は今年3月に佐世保から呉に転籍してきましたが、就役から19年間は舞鶴を母港としていました。当時の舞鶴は呉に負けず劣らずの老朽艦揃いだったので、大型のDDGである「しまかぜ」は光り輝いて眩しいほどの存在でした。その「しまかぜ」が姉「はたかぜ」とお揃いで練習艦に…恐ろしいほどの時代の変化を感じます。まさかこんな日が来るとは…。

特徴ある艦首の形状は前甲板にミサイル発射機があるためです。では、なぜ前甲板に発射機があるかというと、「はたかぜ」以前のDDG4隻あまつかぜたちかぜ型3隻の発射機が後甲板にあるため、発射機を前方に置いたDDG(=はたかぜ型)を4隻建造して前方からの脅威に対する守りを固めようとしたのです。しかしながら「はたかぜ」型は2隻で打ち切りとなってしまいました。

「しまかぜ」を後方から撮影。80年代後半から90年代前半の艦らしいスタイリッシュな艦尾デザインです。オジさんマニアには近年の艦の艦尾はあっさりし過ぎと感じてしまいます。私以外にもこの時代の艦尾形状が好きだという人は結構多いのではないでしょうか?

「しまかぜ」の前方には「はたかぜ」が停泊しています。今回の遠征でも「はたかぜ」「しまかぜ」姉妹の2ショットが撮影できました♪ 若いマニアの方々は私が「はたかぜ」姉妹を見るとハイテンションになることに疑問を抱くかもしれませんが、姉妹の就役時の眩しさを知る者としては、姉妹が揃って呉を母港としている事に無上の喜びを感じるのです。現在に例えれば「まや」と「はぐろ」が揃って呉に在籍しているような感じです。でも、約30年後には「まや」「はぐろ」が練習艦になって本当に呉を母港にしているかもしれません


Aバースにはいつも停泊している音響測定艦や敷設艦の姿はなく、代わりにお客さん=多用途支援艦「げんかい」がいます。「げんかい」は呉警備隊隷下の佐伯基地分遣隊に配備されているので実質的には呉所属の艦で、外洋への出入口であり、四国沖の訓練海域にも近い佐伯に前方配備される形となっています。なので‟お客さん”というよりも“実家に里帰り”という表現の方が正しいかもしれません。これまでも数回呉に来航している姿を見かけましたが、今回はどのような目的で呉に来ているのでしょうか?

佐伯は自衛艦が配備されている唯一の分遣隊で、訓練や休養で頻繁に艦艇が入港するなど、6ヶ所の分遣隊(稚内・父島・新潟・由良・奄美・佐伯)の中でも際立った存在となっています。「げんかい」の就役以前は現在舞鶴にいる「ひうち」が配備されていました。


Sバースでは数隻の潜水艦が停泊しています。夏の日差しに照らされて停泊する潜水艦の姿は、まさに‟身体を休める龍”といった雰囲気。束の間の休息時間をくつろいでいるように見えます。そうりゅう型のどの艦かは分かりませんが、セイル側面に艦番号の痕跡を塗装で消している部分が見えるので、近年就役した「しょうりゅう」「おうりゅう」ではないかと思われます。

「そうりゅう」型は全12隻の建造が完了し、次型式の1番艦「たいげい」が去年10月に進水しました。13年ぶりの新型潜水艦ということで大きな注目を集めている「たいげい」ですが、呉と横須賀どちらに配備されるのかが気になります。就役後数年で試験専用潜水艦にとなると言われていることから、そうなると配備先は呉の可能性が高いのかな?来年3月の就役が楽しみです。

仲良し姉妹の「いなづま」「さみだれ」です。この2隻が並んで泊まっている光景を見て、私の脳裏に21年前の記憶が甦りました
2000年3月下旬の日曜日、呉に待望の「むらさめ」型が配備されたということで、私は嬉しくて居ても立ってもいられず、車を飛ばして呉に行きました。その時、就役したばかりのピカピカの「いなづま」と「さみだれ」が、今と同じ場所に同じ並びで停泊していたのです。

その時から早や21年あまり、この姉妹は今や呉を象徴する艦となりました。「やまゆき」「まつゆき」が姿を消した今、私にとっては「長年の友人」といえるほど思い入れと愛着がある艦です。「お互い人生の後半に入ったけど若い連中に負けずに頑張ろう!」。21年前と変わらぬ姿で停泊する「いなづま」「さみだれ」姉妹は、私にそう語り掛けているような気がしました。


「いなづま」「さみだれ」姉妹の後方には「さざなみ」が停泊しています。桟橋の反対側には「かが」がいるので、今日は4護隊の全艦が在泊していることになります。「さざなみ」は「いなづま」「さみだれ」の就役から5年後の2005年2月に就役、この時も「さざなみ」を一目見ようとGWに呉に駆け付けました。ちょうど「大和ミュージアム」がオープンした日で、中央桟橋周辺がめちゃくちゃ混雑していたのを覚えています。ついこの前のように思えますが既に16年も前…歳月の経過が早すぎて目まいがしそうです(汗)

「なみ」姉妹のうち私が「さざなみ」に特に思い入れがあるのは、もちろん呉の艦だからですが、合わせて艦名が気に入っているのです。3隻の姉は「たかなみ」「おおなみ」「まきなみ」という実際に発生したら災害となる“やばい波”なのに対し、「さざなみ」は災害の恐れのない波で、名前の響きも牧歌的な雰囲気なのがGood!ちなみに、妹の「すずなみ」(涼波)はどんな波なのか分かりません。

今回の遠征でもJMUで海保の巡視船を見かけました。この巡視船は石垣海上保安部所属の「たけとみ」です。「くにがみ」型PLの3番船で、2014年9月に就役しています。現在就役している20隻のうち10隻が石垣海上保安部に配備されていて、尖閣領海警備専従部隊を構成しています。つまり、この「たけとみ」は中国との睨み合いが続く尖閣諸島周辺海域で、日本の領土を守る闘いの最前線に立っている船なのです。そんな「たけとみ」ですが、今はJMUで次の警備任務に向けた静養といったところでしょうか。

「たけとみ」は同じ日に就役した妹(4番船)の「なぐら」と共に尖閣領海警備専門部隊に最初に配備された巡視船で、以降12番船「いぜな」までの10隻が立て続けに専従部隊に配備されました。「くにがみ」型の中でも専従部隊の10隻は特別視されているのか、船番の系統が他の姉妹とは異なります。他の姉妹がPL10番台なのに対し、専従部隊の船には80番台が付与されています。

「たけとみ」と同じJMUの桟橋に「あぶくま」もいます。普段は小さくて可愛いとすら思える「あぶくま」ですが、海保の巡視船と並ぶと、さすがに「軍艦」であるだけに武骨さ力強さを感じます。「あぶくま」はこれから修理なのでしょうか?お願いなので、塗装は従来のままにして欲しいです。ここ数か月間の舞鶴におけるロービジ艦増殖率は凄まじいですが、その波はいずれ呉にも押し寄せるのでしょうか?自称・ロービジ反対派の私としては、呉の艦艇は1日でも長く、そして1隻でも多く従来塗装を維持して欲しいです。

「あぶくま」は既に艦齢32年、私が大学3年生の時(1988年)に就役しました。そんな私が現在52歳なので、いかに「あぶくま」が齢を重ねたががお分かりいただけるでしょう。当時、「あぶくま」の艦名が復活したことが凄く嬉しかったことを覚えています。DEの系統を引く新艦種FFMの建造が進んでおり、近い将来「あぶくま」をはじめとする6隻の姉妹はFFMに置き換えられる見通しです。20年前に姿を消した「ちくご」型DEでの反省から、この「あぶくま」型は‟懐かしの艦”となってしまう前に存分に撮影しておこうと思います。


呉遠征恒例の3時のおやつカレーです♪ いただくのは今年度のニューカマー・潜水艦救難艦「ちはや」のカレーです。このカレーを提供しているのは中央卸売市場内にあるCafe TOMOTASUで、昨年度までの2年間は掃海艇「いずしま」のカレーを担当していましたが、残念ながら「いずしま」が舞鶴に転籍してしまったため、今年度から「ちはや」のカレーにチェンジしました。

見た目でお分かりかと思いますが「じっくり煮込んだ系」のカレーで、お店の説明によると「ちはや」が搭載する深海救難艇DSRVの如く深い味わいを求めて、お店で提供する前日から煮込んでいるそうです。なので、お味はとても濃厚。肉と野菜の旨味がルー全体に染み渡っており、「一晩寝かせたカレー」に近い味わい深さです。上に載っているのは具材はカツではなく、呉名物のがんすです。がんすは魚肉を練って揚げた魚カツの一種で、濃厚な味わいのルーに良く合います。サラダとスイーツ、ドリンクが付属しますが、スイーツの包装とドリンクの容器には「ちはや」のマークが…このお店の「ちはや」カレーに対する意気込みがビンビンに伝わってきます。

翌朝、呉を離れる前に中央桟橋へ。運良く1隻の掃海艇が入港しているシーンに出くわしました。艦番号683、掃海艇「みやじま」です。かつて呉には3隻の「すがしま」型掃海艇がいましたが、2隻の転籍により現在は「みやじま」のみとなりました。長らく姉妹3隻で第1掃海隊を編成していましたが、掃海部隊の改変により現在は掃海母艦「ぶんご」・掃海艦「えたじま」と共に第3掃海隊を編成しています。

展示訓練や体験航海が実施されなくなり、動いている艦艇を撮影する機会が激減しているだけに、このようなシーンに出くわすと尋常ではないくらい心が躍ります♪♪ 以前のように夏の灼熱の太陽に身を焦がしながら、海原を駆ける艦艇を撮影したいです…。


入港中の「みやじま」を撮影できて調子に乗った私、「もしかしたら艦艇の航行シーンを撮影できるかも…」と考え、江田島(小用)行きのフェリーに乗船しました。残念ながら艦艇には遭遇しなかったのですが、交通船YFの航行を撮影することができました。支援船とはいえ航行シーンを間近で見ると心が躍ります。このYFは一見すると運貨船YLと良く似ていますが、トン数はYLの半分ほどです。

YFの背後に見える海が本土(呉)と江田島を隔てる瀬戸で、掃海艇以外の艦艇はこの瀬戸を通って江田島・能美島を迂回し外洋へ向かいます。海の先には薄っすらと高層ビルが見えますが、これはJR広島駅前に数年前に完成した再開発ビルです。よく見ると宇品など広島湾岸を通る広島高速3号線も見え、海から見ると陸地で感じる以上に呉と広島は近いことが分かります。


せっかく江田島に上陸したので、眺望が素晴らしいしびれ峠に行って見ました、もしかしらた艦艇が…という甘い期待は見事に裏切られました(苦笑) 朝のこの時間帯は撮影条件としては見事なまでの逆光、でも却って神秘的な風景が撮れました。

今回の遠征は宇品での「いなづま」公開に合わせたものでしたが、コロナ前のこの時期は各地で艦艇イベントが開催され、私も週末ごとに東へ西へと飛び回ったものでした。今は募集対象者に限定した特別公開が僅かに開催されるのみで、心が阿波踊り状態になったあの夏は何処に行ったのかと考えると、深いため息が出てきます。一日も早いコロナ収束を…呉の海を眺めながら強く祈りました。


2021年夏の遠征は早やこれにて終了。撮影する艦艇を求めて東奔西走したあの夏は何処へ行ったのか…