2021年早春 江田島・呉遠征+「あき」就役

昨年末に1術校に赴任した海自幹部を訪ねて江田島へ。新たな就役艦にも出会った早春の呉遠征記です。

2月下旬とはいえ、既に春が到来したかのようなポカポカ陽気の日曜日、私はいま江田島に向かうフェリーを待っています。これまでも呉に遠征する毎に江田島方面に足を延ばしていますが、今回は去年暮れに第1術科学校に入校し江田島に赴任した海自幹部に会うために江田島に渡ろうとしているのです。江田島へは早瀬大橋経由で陸路でも行けるのですが、やはりフェリーの方が趣があります。

呉中央桟橋に到着したフェリーはお馴染みの「古鷹」(瀬戸内海汽船)です。呉と江田島・小用港を20分で結び、日中は1時間に1本の割合で運航されています。1時間に1本とはいえ、この「古鷹」1隻のみのピストン運航なので、旧海軍の重巡「古鷹」並みに獅子奮迅の働きをしています。小用行き航路に朝夕の時間帯を中心に高速船も就航していて、こちらは約10分の所要時間です。

フェリー「古鷹」が到着する少し前、呉基地に帰投した艦がありました。輸送艦「おおすみ」です。何故か私が呉に遠征した際には、「おおすみ」が出入港するシーンに遭遇します。他艦の出入港にはほとんど遭遇しないのに…(笑) フェリーの待ち時間に艦艇の出入港を眺めることができるなんて…これが呉の日常なのですが、つくづく呉の市民が羨ましいと感じました。できることなら移住したい!

「おおすみ」の帰港がもう少し遅かったら、フェリーから航行シーンを撮影できたかも…う~ん、惜しかった…。

フェリー「古鷹」は呉中央桟橋をゆっくりと出港しました。甲板上から海自呉史料館と屋外展示物の潜水艦「あきしお」を撮ってみました。私が広島市に住んでいた80年代後半にはこの一帯は何もない(工場があった記憶が…)場所でしたが、陸上に鎮座する潜水艦は、今や呉を象徴する景色となりました。そしてその背後にはゆめタウンが…分かる人には分かるエモーショナルな景色です♪

岸壁には海保の可愛らしい巡視艇がいます。この岸壁には海保の設備(給油設備?)があるため、かなりの頻度で巡視船艇が泊まっているのを見ることができます。この「かわかぜ」は昔ながらのツートンカラー塗装です。今やこの塗装も少数派になりました。

20分後に小用港に到着、江田島に赴任中のO1尉と合流しました。これからO1尉の愛車(マツダ・デミオ)で島内を巡ります♪

小用港のフェリーターミナルの横に小さな桟橋があり、運貨船YFが停泊しています。以前から気になっていたのでO1尉に訪ねたところ、このYFは第1術科学校の所属で、1術校と幹候校の教職員・学生が業務で呉に渡るための船なのだそうです。O1尉も何度か乗ったことがあるそうですが、荷物積載スペースに屋根を付けているだけなので、乗り心地は推して知るべしということでした
(笑)

小用港で大破・擱座した戦艦「榛名」の慰霊碑に立ち寄ったしたあと、しびれ峠へ。呉在住のマニアさんたちの定番撮影スポットです。

実は私、しびれ峠へは初めて訪れたのですが、なるほど素晴らしい眺望です。呉を出入港する艦艇を俯瞰撮影できますし、周囲の景色と絡めても素敵な写真が撮れそうです。何か艦艇が来ないかと少しの間待ってみたのですが…まったくの空振りでした
(苦笑) その代わり広島~呉~松山を結ぶ瀬戸内海汽船の最新鋭フェリー「シーパセオ」が呉に向かって通り過ぎて行くのが見えました。この場所から「かが」「とわだ」といった呉所属の艦たちを撮ってみたいものです。次の遠征でもまた来ようと思います。

ちょうどお昼どきなので、昼食は江田島の海の幸をいただきます。江田島屈指の人気店「海辺の新鮮市場」に行ってみました。

地元の漁協が運営しているお店で、私が着いた時には日曜ということもあり長蛇の列ができていました。中に入るのに20分ほど待ちましたが、注文した定食はとても美味しそうお刺身鯛の炊き込みご飯魚のあら汁ひじきの小鉢…これだけでも十分魅力的ですが、少し遅れて山盛りのカキフライも出てきました。お刺身が新鮮で美味しかっただけでなく、ご飯が鯛の旨味がよく沁みこんでいてとても美味しかったです。カキフライでお腹がいっぱいになってしまったのでご飯をお代わりできなかったのが残念(笑) このお店、営業が午後2時で終わってしまうので注意が必要ですが、江田島へお越しの際にはぜひ立ち寄って欲しいお店です。


「海辺の新鮮市場」から徒歩5分ほどの場所にある軽巡「大淀」の慰霊碑を訪ねました。3年前に1度訪問したことがありますが、その時は車を路上駐車したため、全速ダッシュで慰霊碑の前に駆け付け、撮影も含めて数分間しか滞在できませんでした。今回は車をちゃんとした場所に停めることができたので、じっくりと撮影とお参りをすべく訪問した次第です。前回の訪問時と同じく、慰霊碑には花が供えられ、碑と周辺はとても綺麗に清掃・手入れが行われています。地元の方が定期的に整備に訪れているのだと思われます。

模型の「大淀」を見ている人が今回江田島をご案内いただいているO1尉です。情報職種の幹部で、去年暮れから今年6月までの期間で第1術科学校の幹部中級課程に入っています。前配置の阪神基地隊時代から公私に渡って私の活動に協力をいただいております。

「大淀」は連合艦隊旗艦を務めるほどの優れた艦でしたが、戦争末期には燃料不足により江田内の最深部であるこの場所に係留されました。1945724日から28日にかけての空襲で米軍機の猛烈な攻撃に晒され、10発以上の直撃弾と至近弾を受けて転覆・沈没、乗組員約240人が戦死しました。慰霊碑の横には亡くなった英霊の名前を刻んだ碑も建っています。浮き砲台状態となり乗組員はかなり減らされていたと思われますが、それで240人も戦死したのですから、大淀を狙った攻撃がいかに壮絶だったかが分かります。

英霊のお名前は出身県ごとに記されていますが、大半の人が東北地方を中心に東日本の出身者。西日本は京都と岡山の数人のみです。これから察するに、「大淀」は横須賀を母港とする艦だったのだと思われます。故郷から遠く離れた江田島の海で戦火に倒れた乗組員たち、さぞ無念だったことでしょう。どうか、安らかにお眠りください。撮影のあと黙祷を捧げさせていただきました。

続いて訪れたのは広島湾と江田内の結節点・津久茂の瀬戸です。練習航海に出る練習艦隊のお見送りスポットとして非常に有名な場所です。なので、本来ならば練習艦隊がここを通過する幹部候補生学校卒業式の日(314日)に訪れたかったのですが、その日はあいにく仕事のため、せめて雰囲気だけでもと思って足を運びました。O1尉にとっては10年前に「かしま」の甲板で登舷礼を形成しながら通過した場所、当時を思い出したのか感慨深そうな様子であちこち見回っていました。

ちょうど1年前に江田島の有志によって、ご覧のような国際信号旗を模した看板が設置されました。この信号旗は「UW=ユニフォーム・ウイスキー」で、「ご安航をお祈りします」という意味です。この江田島から旅立つ練習艦隊の長きに渡る航海が順風なものとなるようにとの願いが込められた看板です。記されている文字は設置時の1術校長・中畑将補の手によるものです。

津久茂の瀬戸から江田内を望んだ景色…江田内は瀬戸内海を象徴するかのような穏やかな湾です。この狭い水道を練習艦隊の各艦が航行していく光景は間違いなく心が躍るに違いありません。来年こそは撮影に来たいと心に誓いました。思えばちょうど2年前、幹候校の卒業式に参列し練習艦隊の出港を見送りましたが、あの時に艦隊がまず向かったのがこの津久茂の瀬戸でした。ちなみに、その時に卒業した当HPの門下生「函館の少年」ことT3尉は、現在、佐世保の某護衛艦で砲術士として勤務しています。

この場所に繋がる道路は狭いので、艦隊の見送り時には渋滞がすごいのではと心配になりました。路上駐車なんてできそうにありませんし、何よりも転回ができません。撮影に来る際には注意が必要かな…。帰宅後に分かったのですが、なんと、この狭隘な道路は国道487号)で、「途中で途切れる国道」として道路マニアの界わいでは有名なのだそうです。

津久茂の瀬戸へ行く途中、海沿いの道路から見た1術校と幹候校です。両校は普段関係者が出入りしている門が裏門にあたり、海側が正面、江田内に浮かぶ桟橋が正門になります。その意味では、この景色はまさに「正面から見た1術校と幹候校」ということになります。「海軍」の学校なので海側が正面という体裁なのですが、この景色を見ると両校の正面が海側であることが納得できます。まさに海に向かって建っている学校だということが視覚的に分かります。

幹部候補生学校といえば赤レンガの庁舎を思い浮かべますが、残念ながらこの場所からだと1術校の庁舎に遮られて見えません。逆に、1術校には学生館(一番右にある建物)以外に様々な建物があることが分かります。さすがは戦闘術科教育のメッカ・総本山だけのことはあります。コロナ禍でなければO1尉の案内で1術校を見学できたのですが、このご時勢では残念ながら、このように遠くから眺めることしかできないのが実情です…(涙) 一刻も早くコロナ禍が収束することを願わずにはいられません。

外から眺めることしかできない1術校と幹候校ですが、「それならば」とO1尉は素晴らしい眺望の場所を用意してくれていました。
向かったのは両校の背後にそびえる高台、海側からは見えなかった幹候校の赤レンガを見下ろす形で眺めることができます。いや~素敵な景色だ♪ この高台はO1尉が1術校のグラウンドで運動をしている時に「学校を見渡せそうな高台があるなぁ…」と気付いたそうなのですが、その本人も「こんなに眺めがいいとは思わなかった」と驚いていました。途中の道路が極めて狭隘なので車では到達できず、麓に車を置いてのプチ登山を強いられましたが、その疲れも吹き飛んでしまうほどの眺めです。

赤レンガ庁舎の山側には兵学校時代に建てられた古い庁舎があったのですが、老朽化により最近取り壊されました。そのためこの高台から赤レンガが望めるようになりました。手前の赤レンガを模した近代的な建物は候補生が居住する生徒館、赤レンガと生徒館の間の土の部分が候補生が使う第3グラウンドです。元候補生の作家・時武ぼたん氏によると、このグラウンドでは夜中に亡霊が行進しているという噂があったそうです。でも、真相は幹事付(赤鬼・青鬼)に咎められ、罰として走らされている候補生だったとか…。

第1術科学校の学生館です。地上から何度も見たことはありましたが、高台から俯瞰して初めてコの字型になっているのを知りました。この建物は教務を行う「教室」部分にあたり、学校長・副校長の部屋や管理部署は大講堂横の古い庁舎(兵学校時代の建物)の中にあります。海自の術科教育の総本山であり、1術校長は将補が補職される役職の最高位に位置付けられています。

昭和13年、この場所には兵学校の入学人員増に対応して西生徒館が建設されました。戦後、西生徒館の建物を利用する形で第1術科学校が開設されましたが、老朽化のため2005年に現在の建物に建て替えられました。とはいえ、そこは伝統を重んじる海上自衛隊、新しい建物の外観を西生徒館そっくりに仕上げました。そのため、私も当初は建て替えとは思わず、長いあいだ西生徒館の改修・増築だと思い込んでいました。手前に赤レンガ建築の一部が見えますが、これは水交館という名称の建物です。


こちらが水交館の正面からの佇まい。2019年3月に特別に見学させていただいた際に撮影しました。すぐ近くに1術校の学校長公舎があるためか、この建物はコロナ禍前の時でも非公開でした。1888年の海軍兵学校開設時に建てられた非常に古い赤レンガ建築物です。当時は海軍兵学校文庫館という名称で、将官をはじめとする高級士官の集会所でした。

現在は水交館という名称になり、1術校・幹候校を訪れた賓客の接遇に使用されています。建築時期・設計・意匠など建築学的にも非常に史料価値の高い赤レンガ建築であると同時に、西洋文明を積極的に摂取していた明治初期の空気を今に伝える貴重な存在でもあります。和洋折衷の要素が1ミリもない純粋な西洋建築で、学術的には、車寄せと正面上部(ファサード)の意匠が特に優れているとの評価を受けているそうです。今から10年ほど前にNHKで放送されたドラマ「坂の上の雲」で、秋山真之(本木雅弘)が初めて東郷平八郎(渡哲也)と出会うガーデンパーティーのシーンは、この建物の内部と庭園でロケが行われました


続いては学校南側の高台からの眺めです。この場所は農道を車で駆け上れば容易に辿り着くことができます。まるで絵葉書がパンフレットのような見事な眺望です。ちょうど日没が迫りつつある時間帯で、夕陽に照らされた庁舎や江田内の海がとても良い雰囲気を醸し出しています。これで湾内に艦艇が停泊していたら最高なのですが…幹候校の卒業式の前日にこの場所から撮影したいいかも。

通常なら曲がりくねりながら延びる松ですが、学校内の松はピンと真っすぐに延びているのが分かります。見慣れているはずのO1尉も「見事なくらい真っすぐだなぁ…」と驚いていました。地上から見るよりも俯瞰の方が真っすぐぶりが際立つようです。幹候校の厳粛な空気に触れて真っすぐ延びたと言われますが、この場所から見るとその逸話にかなりの真実味があることを実感しました。

高台をくだり、1術校・幹候校の裏門近くの商店街を抜けた先が最後の訪問地です。ご覧のような瀟洒な白い洋館が建っています。
この建物は海軍兵学校下士官集会所で、いわば↑の海軍兵学校文庫館の下士官・水兵用バージョンです。片や兵学校敷地内のレンガ造り建築、片や敷地外の木造建築…この立地と構造の差に帝国海軍における士官と下士官兵の待遇差が如実に現れています。とはいえ、この下士官集会所もかなり素敵な建物。明治末期の建築とは思えないくらい美しく保たれています。戦前の江田島でこのような西洋建築はとても目立ったと考えられ、士官とは歴然とした格差があったとはいえ、帝国海軍の下士官・兵の社会的地位の高さが窺えます。当時はここだけでなく、現在JA呉・江田島の支所がある場所にもう一軒同じような形の集会所があったとのことです。

戦後は民間に払い下げられ、十数年前までは会社の事務所として使われていたようです。会社の撤退に伴い、現在はこの建物を後世に残そうとする地元有志のグループが整備・保存にあたっています。民間の有志のみでの保存活動は大変だと思いますが、ぜひこの歴史的建築物が将来にわたって長く保存されていくことを願ってやみません。


翌日、江田島市の西側に位置する沖美町の岸根鼻にやって来ました。↑の山のようにも離島のようにも見える場所が岸根鼻です。
去年8月に同じ沖美町の三高山砲台を探索しましたが、その麓に位置する岸根鼻にも砲台があると知って今回訪問しようとしたのですが…なんと岸根鼻に通じる道路が豪雨被害によって通行止になっていました。残念ですが、今回の訪問は諦めます…(涙)

砲台跡は小高い山の頂上にあり、90年代半ばに沖美町が公園として整備したようなのですが、江田島町と合併して誕生した江田島市は砲台跡には関心が無かったのか手入れをせずに放置、現在は荒れるに任せた状態になっているとのことです。
岸根鼻の西側の浜辺は、私が学生だった80年代後半は「がんねムーンビーチ」というこじゃれた名前の海水浴場で、夏にはナウでヤングな連中が海水浴やキャンプを楽しんでいました。ちなみに私も海水浴に行ったことがあります(笑) 30数年ぶりにムーンビーチ跡にも行ってみたかったのですが…。今は海水浴場としては忘れられた存在に…歳月の経過を感じずにはいられません。

せっかくここまで来たのに…と落胆しつつ広島湾を眺めていたら、1隻の艦艇がこちらに向かって来るのが見えました。何という幸運!
いったいどの艦だろう?と思いつつ待ってみると…敷設艦「むろと」ではありませんか!これは嬉しい♪ というのは、私はこれまで「むろと」の航行中の姿を撮ったことがなっかたのです。にしても恐るべき低速、なぜこんなに低速なのかと疑問に思うほどの超微速航行です。もしかしたらケーブル敷設の訓練をしながら航行しているのかもしれません。残念ながらお目当ての岸根砲台には行けませんでしたが、神様が穴埋めに「むろと」の航行という素敵なプレゼントを用意してくれたような気がしました。

いま私がいるのは岸根鼻の東側にある漁港の防波堤、こんな風に「むろと」が撮れるということは、この場所は結構良い撮影ポイントと言えそうです。時間がある時に美しい海を眺めながらずっと待っていたら、様々な艦の航行シーンが撮れそう。恐らく、呉地元勢の方々Twitterにアップしている動画や画像の中には、この場所で撮影したものも多々あると思われます。

「むろと」は岸根鼻大奈佐美島の間の瀬戸を航行していきます。なるほど、岸根砲台はこの瀬戸を通過して広島湾への侵入を目論むロシア艦隊を迎え撃つためのものだったことが良く分かります。まさに至近距離からつるべ撃ちをするような砲台だったのでしょう。砲台からは瀬戸を航行する艦艇が良く見えると思われ、道路が復旧した際には必ず岸根砲台を訪問するぞと心に誓いました。

横須賀と異なり、ドック入りしてもロービジ塗装にならない艦が多い呉において、この「むろと」はいち早くロービジ塗装に切り替えられました。他艦だと「締まりがない」「気品が感じられない」と前向きに評価できないロービジ塗装ですが、なぜかこの「むろと」には違和感がありません。むしろ似合っているとすら感じます。「むろと」自体がのっぺりとした艦容なので、締まりのない見た目にしてしまうロービジ塗装とは相性がいいのかもしれません。艦艇が小島や岬に挟まれた瀬戸を進む光景は、まさに瀬戸内海といった雰囲気です。

幸運?それとも不幸中の幸い?岸根鼻で「むろと」を撮影して勢いづいた私、呉に戻って遊覧船から在泊艦を撮影します
JMUの岸壁に「かが」がいます。毎年この時期に呉を訪れると、必ずと言っていいほど「かが」がJMUにいます。2月から3月にかけての時期が「かが」のドッグ入りのタイミングなのだと思われます。呉基地のFバースやEバースでは入船状態で停泊するので、呉在泊時に遊覧船で前方から「かが」を撮れるのはJMUに入っている時だけ。なので、今回なかなか貴重なお姿を撮影することができました。

大きさだけなら「かが」は旧海軍の空母「翔鶴」「瑞鶴」にも匹敵します。「翔鶴」「瑞鶴」ともに母港は呉だったので、大戦中はこの「かが」のように海軍工廠だったこの場所で修理や整備を行っていたかもしれません。恐らく75年以上昔にも、いま私が見ているような景色と同じような景色がこの場所にはあったと思われます。呉と海自は海軍の歴史の上に成り立っていることを改めて感じました。

「うみぎり」JMUにいます。去年9月下旬に遠征した時にはJMUに入っていたので、5ヵ月間にも及ぶ長い修理ということになります。
作業自体はほぼ終わっているようで、近日中にJMUを出て試験航海を行うのではないかと思われます。塗装は従来のまま、艦番号もはっきり記され、煙突の黒帯も健在です。先ほど撮影した「かが」も従来塗装のまま…ロービジ反対派にとってこれほど嬉しいことはありません(笑) 横須賀の艦はドッグ入りするとすべてロービジ塗装で戻ってくるのに、呉は一部を除いて従来のまま。JMU呉事業所に入った艦に限ると100%従来塗装で戻ってきます。この違いは何なのでしょうねぇ?以前も述べましたが、ロービジの効果を検証するために呉所属艦を従来塗装のままにしている可能性もあります。とはいえ、既に何隻かはロービジに。謎が深まります…。

間もなく「ゆき」型DDが全艦退役となると、「きり」型が最古参DDとなってしまいますが、今となってはクラシカルになった艦容がマニア心をくすぐりまくります。この古さによって今後「きり」型の人気がより一層高まりそうな気がします。とはいえ、30年前は「きり」型は眩しいほどの新鋭艦で、特にこの「うみぎり」は横須賀の吉倉桟橋で強烈なまでの新鋭艦オーラを放っていました

「いなづま」「しまゆき」です。「いなづま」も長きに渡る修理を終え、少し前に復帰しました。例に漏れず「いなづま」も従来塗装のまま、嬉しいではありませんか♪ 考えてみると、「いなづま」をはじめとする「むらさめ」型DDはまだ1隻もロービジに変更された艦がありませんね。これも何か理由があるのでしょうか?ちなみに準同型の「たかなみ」型は既に「たかなみ」がロービジ化されています。

左側は「しまゆき」です。3月の退役に向けた作業が行われており、桟橋には大型クレーンが横付けされ、取り外した装備品の揚陸作業を行っています。もうかなりの装備品が運び出されているのか、喫水線が大幅に浮き上がっています。まさに退役のカウントダウンが始まった状態です。「ゆき」型最終艦「しまゆき」が退役か…まさに昭和は遠くになりにけりの心境です。寂しい…。


もの凄い姿の潜水艦がいます。この艦は「そうりゅう」型8番艦「せきりゅう」ですが、「赤龍」ではなく「白龍」になってしまっています。こんな姿になった潜水艦を初めて見ました(驚) 船体に付着している白い物体は海の塩分。実は「せきりゅう」はつい数日前まで哨戒任務に就いていて、1ヵ月以上も海中に潜っていたそうです。その間に船体には大量の塩分が付着してしまったのです。

この姿を目の当たりにした私は、「帰港後の船体洗浄を怠ったのかな?」と思ったのですが、潜水艦艦長と潜水隊司令を歴任した深谷
将補によると、1ヵ月もの長い期間潜航した後は帰港後に船体を真水で洗っても大量の塩が付着したままになっているとのこと。しかも塩分だけでなく海藻カキ殻までも付着しており、乗組員が力を入れて擦ってもなかなか落ちないとのこと。長期間の哨戒任務だけでも大変なのに、帰港後はこの塩分を落とす作業まであるなんて…潜水艦乗組員は我が国の平和と安定を守るために大変な苦労をしているのですね。心から尊敬申し上げるとともに、日頃の活動・任務に対し御礼を述べさせていただきます。

JMUのドッグ近くの岸壁には「しまかぜ」がいます。おぉ、珍しい!「しまかぜ」がこの場所にいるのを初めて見ましたし、「しまかぜ」自身にとっても初めてのJMU呉事業所入りではないでしょうか?では、何故「しまかぜ」がJMU呉で修理を行っているのか…4月に練習艦に種別変更され呉に転籍するからです。新たな母港・呉に隣接するJMU呉で修理と練習艦になるための改造工事を実施し、それらが終了したら即座に呉基地に練習艦として初入港するものと思われます。「しまかぜ」、呉にようこそ!

80年代を知るオールドマニアとしては、「はたかぜ」と「しまかぜ」が練習艦になるなんて今だにその事実が信じられません。ただ「はたかぜ」「しまかぜ」の姉妹が揃って呉の艦になることには否応なく心が躍ります♪ 姉妹にとっても就役から30年以上経って初めて同じ母港となります。2隻が並んで停泊する姿が今から楽しみです。当時「あんなカッコいい艦が呉にもいたらなぁ…」とため息をついた私、「30数年後に2隻とも呉の艦になるよ!」と教えてあげたいです。「ただし、2隻とも練習艦になってるけどね」も付け加えて
(笑)

2週間後の3月7日、私は再び呉を訪れました。前回とは異なり宿泊なしの日帰り遠征ですが、そんな無理をしてでも撮影したい艦があるのです。呉到着後、すぐにアレイからずこじまへ。一見したところAバースに「ひびき」「はりま」の姉妹が停泊しているように見えますが、実は手前の艦がお目当ての艦。3日前に就役したばかりの音響測定艦「ひびき」型3番艦の「あき」です。2番艦の就役が1992年ですから、何と29年ぶりの同型艦の就役ということになります。前方いるのは2番艦の「はりま」。29年という歳月は造船技術や装備品が大きく進歩・変革するほどの期間ですが、「あき」はそんな29年間を全く感じさせないほど姉にそっくりです。

思えば1991年のちょうど今頃、この場所で就役直後の「ひびき」を見た時の衝撃は今なお鮮明に覚えています。その変な形に後頭部を殴られたような衝撃を覚え、「いったい何をする艦なんだ…?」と日が暮れるまで眺めた事が昨日の出来事のように思えます。

1980年代後半にソ連潜水艦の静粛性が大きく向上したため、その対策として日米双方で監視用曳航アレイソナー(SURTASS)を搭載した艦を建造することになりました。その日本側の艦として建造されたのが「ひびき」型です。91年に「ひびき」、翌92年に「はりま」が就役しましたが、その後のソ連崩壊、ロシア潜水艦の活動沈静化によって活躍の場を失ったような感がありました。しかし2010年代に入って、海洋進出の野望を剥き出しにした「中華な大国」我が国周辺で潜水艦の活動を活発化させたことで状況は一変、さらなる監視体制強化のために29年ぶりの3番艦建造となったのです。29年の建造間隔は海自史上最長で、異例中の異例と言えます。

「あき」は2隻の姉と同じ三井造船玉野事業所(三井E&S造船玉野艦船工場)で建造、艦名は呉市の島嶼部がある安芸灘から採用されました。姉がいる第1音響測定隊に編入され、今後4つのクルーによって姉妹3隻は休む間もなく活動を続けることになります。

「ひびき」型音響測定艦の「萌えポイント」はココ。艦尾にあるSURTASS投入口です。艦内に収めているSURTASSをこの投入口から海中に展開、艦は3ノットほどの低速で航行しながら潜水艦の音響情報(音紋)を収集します。収集した音響情報は海洋業務・対潜支援群の対潜資料隊に送られて整理・保存、潜水艦探知・識別時の基礎資料となります。SURTASSが探知能力をフルに発揮するには艦は超低速かつ直進の航行を行わなければならないので、低速でも艦の動揺が少ない双胴船構造の船体が採用されているのです。

投入部の下部(銀色の部分)は海中に展開したSURTASSを回収する際に大量の海水を浴びるため赤褐色の錆が付着するのですが、さすがに「あき」は就役直後ということもあり錆は付着していません。恐らくまだSURTASSは載せておらず、基礎的な訓練を終えた後にアメリカに行って搭載作業を実施するものと思われます。ただ、投入部をよく見るとケーブルを投入したような痕跡があります。公試時にSURTASSを模したケーブル状の物を試験的に海中に投入したのではないでしょうか。


遊覧船に乗って前方から「あき」の撮影を試みます。「あき」の前には姉(2番艦)の「はりま」が停泊しています。私にはこの光景が、お姉さんが就役したばかりの可愛い妹を私のような野次馬から守っているように見えます(笑) 近年呉に停泊している姿をあまり見なくなった「はりま」がこのタイミングで帰港していること自体が、妹を出迎え、野次馬からガードするために戻っているとすら思えます。

昭和46年に私の弟が生まれたのですが、知らせを聞いて弟を一目見ようと集まった近所の人たちを、当時3歳の私がドアの前に立ち塞がって追い返したそうです。中には歩くのも困難な高齢のお婆さんもいたそうですが、非情にも私はそのお婆さんすら追い返し、頑として弟を見せなかったそうです。私はその事を全く覚えていないのですが、3歳の私の中に「弟を守る!」という兄としての意識が芽生え、そのような行為に及んだと思われます。「あき」を守るように停泊する「はりま」の姿が、3歳の私と重なって見えました


まずは「はりま」を撮影。近年はこのAバースに「ひびき」「はりま」が2隻とも停泊している機会が滅多に無いので、遊覧船から至近距離で撮影する機会にも恵まれませんでした。なので、「はりま」を前方から至近距離で撮影できることもとても有難いです♪ 双胴船構造を採用した船体の特異な形状左右艦首部の複雑な造形が詳細に分かります。登場から30年経ってもインパクト大な艦容です。
2番艦として1992年に就役した「はりま」、艦名は淡路島や小豆島などに囲まれた播磨灘からの命名です。播磨灘の西方に安芸灘があり、それからさらに西へ行くと響灘があるのですが、「ひびき」「はりま」「あき」の命名元が瀬戸内とその隣接海域にあることが、偶然とはいえ興味深いです。また、音響測定艦のネームシップ(1番艦)を「ひびき」とした事は海自艦随一の秀逸な命名と言えるでしょう。

艦齢は29年にも達していますが、「中華な大国」の野心を封じ込めるためにもまだまだ現役として働かなければなりません。そんな「はりま」ですが、29歳も年下の妹が生まれた(建造された)ことに、我々マニア同様驚いているのではないでしょうか?
(笑)

ついに、最新鋭音響測定艦「あき」を前方から撮影!呉に到着してから私のようなマニア(=野次馬)がひっきりなしに撮影に訪れていると思われますが、そのせいか、写真に収まった「あき」は恥ずかしそうなようにも戸惑っているようにも見えます(笑)
当然ですが、「ひびき」「はりま」とそっくりな艦容です。相違点を見つけるのが間違い探しクイズのレベル。それでも目を凝らして見比べると、船体窓の廃止艦橋構造物の窓の数の違いマストの形状の違いなどが見てとれます。そして最大の違いが塗装、もちろんロービジ塗装です。護衛艦には恐ろしく似合わないロービジ塗装ですが、不思議なことに特務艦種には違和感がありません

艦名によって私は「あき」を応援したい気持ちでいっぱいです。実は私の出身地は大分県東国東郡安岐(あき)町で、これまでずっと「あき」という名前に慣れ親しんで生きてきました。字は異なりますが同じ響きの「あき」には、親しみを通り越して同郷の友人という感情すら湧いてきます。ちなみに安岐町は平成の大合併で国東(くにさき)市安岐町となりました。私の本籍地の住所は艦艇の名前だらけ、さらに大学進学に伴って移り住んだ場所は広島市東区曙(あけぼの)町でした。
最寄りのコンビニはセブンイレブン愛宕(あたご)町店でした。

Eバースでは珍しく出船の状態で停泊している艦があります。幹部候補生学校を卒業した新任幹部を教育する練習艦隊です。今年度は旗艦「かしま」掃海母艦「うらが」訓練支援艦「てんりゅう」がその任に就きます。護衛艦がいないことに任務多忙による艦艇不足という現状が窺えます。もしかしたら遠洋練習航海には、「うらが」「てんりゅう」に代わって護衛艦が加わるのかもしれません。練習艦隊各艦は数日後に出港して江田内で待機、卒業式を終えた新任幹部を乗せて2ヵ月余りの近海練習航海に出ます。

海自艦の中で結構ボリュームがある船体の「かしま」と「うらが」、両艦が並んだ光景はなかなか壮観です。排水量の差は約1000tほどですが、こうして見ると排水量以上に「うらが」が大きく感じます。さすがは妹が映画で戦艦「大和」を演じただけの事はあります。


昨年度は練習艦隊の一員として新任幹部を鍛えた「しまゆき」は、余命いくばくも無い状況です。2週間前にクレーンを横付けして装備品の運び出し作業を行っていましたが、退役に向けた一連の作業はほぼ終了し、ご覧のような寂寥感漂う姿になってしまいました。艦首に残った艦番号と艦尾に掲げられた自衛艦旗によって、辛うじて現役に踏みとどまっている状況です。恐らく1~2週間後に退役式典が行われ、「しまゆき」は単なる鉄の塊となってしまいます。「ゆき」型最終艦の退役…オールドマニアには衝撃的な事態です。

今年度は呉の「しまゆき」佐世保の「あさゆき」舞鶴の「まつゆき」と、3隻もの「ゆき」型が一気に退役します。「しまゆき」以外は後継艦を伴わない退役で、老朽艦を無理して生かすよりも早期退役で乗組員を他艦に移し、艦の定員充足率を上げようとする海自の涙ぐましい努力が窺えます。残るは10番艦の「せとゆき」のみですが、「せとゆき」も来年度の退役が予定されています。つまり、2021年度末には一時代を築いた「ゆき」型12隻が全艦姿を消すのです。80年代の「ゆき」型DDの眩しかった姿を知る者として、これほど寂しいことはありません。本当に昭和は遠くに過ぎ去ってしまいました。
この寂しさ、若いマニアには分からないでしょうねぇ…

2週間前に「しまかぜ」がいたJMUの岸壁に、今日は珍しい船が泊まっています。海上保安庁の巡視船「こじま」です。巡視船という種別ではありますが実際は練習船で、呉にある海上保安大学校で学生の教育訓練や実習の任に就いています。また毎年、同校を卒業した初級幹部を乗せて世界一周の遠洋練習航海にも出ています。遠洋航海に出る前にJMUで整備を行っていると思われます。
海自の「かしま」に相当する船で、船内は教育実習に配慮した設計であると同時に、教育実習区画、学生居住区、レセプション用スペース、特別公室など「かしま」同様の設備を有しています。就役も「かしま」とほぼ同じ時期ですが、後継艦の計画が影も形もない「かしま」に対して、「こじま」は後継船の予算が既に認められており、2024年度に4代目の「こじま」が就役する予定です。

実は私、海保にも知り合いの幹部がいるのですが、先日「ぜひ海保の船も紹介してくださいね」とお願いされていまいました。海保の船はバラエティに富んでいますし、何よりも今、尖閣諸島を守るために奮闘しているのが海保の船です。領土保全の最前線に立つ海保の船と乗組員を応援する気持ちを込めて、当HPでも巡視船・艇を紹介する機会を増やしていこうと考えています


で、「しまかぜ」は何処に行ったのかというと、JMUの第4ドッグの中にいました。まだ艦番号は「172」のままです。実はこの2日後に艦番号が「3521」に書き換えられたので、幸運にもDDG「しまかぜ」最晩年の姿を収めた一枚となりました。ドッグ入りした艦は「見ちゃダメよ…♡」と言わんばかりに喫水下のソナードームを幕で隠すのですが、この「しまかぜ」は隠していないばかりか、周囲に見せつけている雰囲気すらあります。練習艦になるのでもう隠す必要がないのかもしれませんが、念のために修正して隠しました。

撮影していると、突然JMUの構内に音楽が流れ出しました。「♫ 負けないで もう少し 最後まで走り抜けて どんなに離れてても 心はそばにいるわ 追いかけて 遥かな夢を♫」 。この曲はZARDの代表曲にして90年代屈指の名曲「負けないで」ではないですか!なぜこの場所でこの曲が…?腕時計を見るとちょうど午後1時、どうやら午後の作業開始の合図のようです。期せずして造船所を眺めながらZARDの曲を聞くことになりましたが、私には「負けないで」というフレーズが中韓との激しい受注競争で苦戦して苦境にあえぐ国内造船所への応援歌のように聞こえました。もしかしてJMUも従業員を鼓舞するためにこの曲を流しているのかもしれません。


撮影の後は海自カレーをいただきます♪ 今年度は新型コロナの影響で呉への遠征も思うに任せない状況でしたが、2年連続の未達成は避けたいとの思いから、遠征した際には歯を喰いしばって毎回5~6食を喫食。今回ようやく全店制覇する運びとなりました。
ラスト・29店舗目でいただくカレーは呉森沢ホテルの「くろべ」カレーです。昨年度は食べていないので2年ぶりの喫食ですが、デザートが洋菓子(ティラミス?)から和菓子(桜餅)に変わっています。食べ終えた後、全店制覇の景品を貰いに「くれ観光情報プラザ」へ。いただいたテッパンのシリアルナンバーは108、私はのべ108人目の達成者でした。ようやく念願のテッパンを手に入れました♪

実は昨年末にサブ機としてα7Ⅱを購入、合わせて新しい望遠レンズも購入しました。今回は撮影機材を一新して初めての遠征だったのですが、とても快適かつ楽しく撮影ができました。しかも、カメラが吐き出す画像は見事なほど精細で美しいため、著しく撮影意欲を掻き立てられます。コロナ禍により今年度はレポートの掲載本数も僅かにとどまってしまいましたが、4月からの新年度はα7で撮影した美しい画像をもっと多くの人に見てもらうためにも、精力的に執筆するつもりです。乞う、ご期待!

今回は少し変則的な呉遠征に…様々な視点でレポートを書けるのはそれだけ呉が魅力的な場所だからです。