2021年GW 呉遠征

呉湾沖に停泊する艦艇群と5月3日の満艦飾を狙って、2年ぶりにGWの呉を訪ねました。

新たに就役した音響測定艦「あき」を撮影しに訪れて以来、ちょうど2ヵ月ぶりの呉遠征です。新型コロナの感染拡大により、今年のGWも出歩くことをなるべく控えた方がいいのではとも思いましたが、以前にも述べたように私の遠征は一人で愛車で移動し、一人で艦艇を撮影し、一人で戦跡を訪問し、一人でカレーを食べ、一人で宿泊するという3密とは無縁な「典型的なお一人様行動」。まさにウイズコロナの時代に適応した行動様式であることを勘案し、呉への遠征を決めた次第です。

2日の午後2時過ぎに呉に到着、まずは呉中央桟橋へ。眼前には心を揺さぶる景色が広がっていました。1隻、2隻、3隻…湾内に海自艦が5隻も停泊しているではありませんか!近年では中々見ることができないレアで貴重な光景です。しかも風向きの関係で全艦が艦首を市街地側に向けています。これはさっそく海上から撮影するしかないでしょう!ちょうど江田島(小用)行きのフェリーも泊まっているので、遊覧船ではなく、湾内に泊まっている艦に近づくフェリー(お散歩クルーズ)に乗ることにします♪

心を躍らせながら湾内に停泊する艦を眺めていたら、1隻の「おやしお」型潜水艦が戻ってきました。いきなり何というご褒美でしょう!
沖留めの輸送艦と絡めて撮ってみました。帰港した潜水艦の背後に湾内に泊まる艦艇と商船…まさに呉らしい景色です。いま母港に戻ってきたということは、GWに入っても任務か訓練を続けていたということになります。乗組員の皆様、本当にお疲れ様です!

湾内に停泊している「おおすみ」型輸送艦は艦番号がよく見えません。姉妹で最初にロービジ化された3番艦「くにさき」です。艦艇の船体色は背景に溶け込んで視認しにくいのですが、艦番号と艦名が不明瞭となり煙突の黒帯も消えたことで、より一層視認しにくくなっていることを実感しました。ロービジ化は締まりのない艦容にはなってしまいますが、その効果は抜群のようです

フェリーの船上から湾内の艦艇を撮影します。今日は撮影には微妙な曇り空、晴天の予報が出ている明日の方が撮影には適しているのですが、風向きの関係で明日には艦の向きが逆になっているかもしれないので、市街地側を向いているうちに撮っておくのです♪

最初に見えてきたのはDD「さざなみ」、その少し後ろには掃海母艦「ぶんご」がいます。呉で「さざなみ」を見るのは随分久しぶり、沖留めしている姿は非常にスマートかつ精悍な雰囲気が漂います。沖留めの艦は岸壁や桟橋に停泊している姿よりも5割増しくらいで格好よく見えます(笑) そう思うのは私だけでしょうか?実は、今回の呉遠征はTwitterの情報で呉湾内に艦が5隻も停泊していることを知り、それら沖留めの艦艇たちを撮影することが遠征の目的のひとつだったのです。

続いて現れたのは「さみだれ」です。同じ呉にいる姉(5番艦)が「いなづま」というインパクト大な名前だけに、「さみだれ」は少々大人しい印象を抱いてしまいがちですが、ソマリア海賊対処の派遣第1に選ばれたり、東シナ海を警戒監視中に中華なヘリコプターに異常接近されるなど、実は中々の修羅場をくくり抜けてきた猛者なのです。艦名が「いかづち」ではなく「さみだれ」となったのは、旧海軍の駆逐艦「五月雨」が白露型6番艦だったことから、6番艦つながりを重視したためと思われます。

2月末に江田島を案内してくれたO1尉が、遠洋練習航海から帰国後に配属された艦がこの「さみだれ」でした。現時点では勤務した唯一の艦でもあるので、「さみだれ」を見るたびに特別な思いが込み上げてくるのだそうです。やはり任官後に初めて勤務した艦に対しては、特別な思いを抱くのですねぇ。私は民間人なので当然艦に勤務したことはないのですが、小学生時代に初めて作った艦船模型(ウォーターラインシリーズ)が駆逐艦「有明」だったことから、佐世保の「ありあけ」には特別な思いがあります(笑)

輸送艦「くにさき」補給艦「とわだ」の2隻は他の3隻からやや距離を取り、かなり音戸寄りの場所に停泊しています。こちらは「くにさき」、これまでもくどいほど言ってきましたが、私の出身地・大分県国東半島を命名元とする艦です。なので、「くにさき」を見ると同じ故郷の友人にあったような不思議な感覚を抱きます。私は大分県=豊後(ぶんご)の国東(くにさき)市安岐(あき)町出身なのですが、住所の全ての地名が艦名になっています。ただ、「ぶんご」は豊後国ではなく豊後水道、「あき」は安芸灘からの命名ですが…(笑)

ドック入りしても何故か従来塗装で戻ってくることが多い呉の艦ですが、この「くにさき」は流行に乗って?ロービジ化されました。それに伴って煙突の黒帯も消えたのですが、「おおすみ」型輸送艦は「とわだ」型補給艦と同じく主機がディーゼルなので、先日佐世保で見た「はまな」のように、猛烈な黒煙によって煙突の頂部が汚れてしまうのではと余計な心配をしてしまいました。
背後に見える赤い橋は第二音戸大橋で、音戸大橋のバイパスとして2013年3月に開通しました。呉の新たな名所になっています。

こちらは「とわだ」。沖留めしている5隻の中で最もフェリー航路から遠い場所に停泊しています。よく見ると、艦尾近くに内火艇がいます。呉基地との間で人員輸送を行っているのかもしれません。沖留めの艦と内火艇…なかなか風情のある光景です。私が大学生だった80年代後半、「とわだ」は当時の呉で最大級の艦だったことから、同じ補給艦の「さがみ」とともに高い頻度で湾内に泊められていました。基地内の艦よりも市街地から姿がよく見えたことから、「さがみ」「とわだ」は当時の呉市民に最も親しまれ、愛された艦でした。

私の現在の推し艦が「とわだ」型であることは何度も述べていますが、この「とわだ」と私は不思議な縁で結ばれています。広島の大学に進学することになった私、大学を訪れて入学手続きを行った日は「とわだ」が就役した日(1987年3月24日)でした。そして広島市内に引っ越した4月上旬に「とわだ」も呉入りし、翌月に初めて呉を訪れた時には、今日のように「とわだ」は沖に泊まっていました。


翌日は予報通り、まさに「五月晴れ」という言葉がふさわしいほどの晴天。絶好の撮影日和です。しかも5月3日は憲法記念日なので、年に6回ある満艦飾の実施日です。ということで、まずは色とりどりの信号旗でお洒落した艦艇たちを俯瞰撮影します♪
呉での俯瞰撮影はアレイからすこじまの背後にある高台からが定番ですが、今回私は訳あって対岸(江田島)のしびれ峠から撮影してみました。午前中は逆光になるのが残念ですが、これまで撮ったことがない構図で満艦飾の艦艇群を撮影することができました。

沖留めの艦、基地の岸壁・桟橋に接岸するたくさんの艦、林立する造船所のクレーン、山の斜面にへばり付くように建つ住宅…呉らしさが満載です。さっそく遊覧船が満員近い乗客を乗せて運航しています。コロナ禍であることを忘れてしまいそうな平和な光景です。


こちらは「さみだれ」「さざなみ」。↑の「ぶんご」もそうですが、昨日とは風向きが変わったために各艦は180度向きを変え、艦首は音戸側に向いてしまっています。まずは昨日、一発目の海上撮影をしておいて正解でした。この後もフェリーから撮影する予定ですが、その時までに風向きが変わって艦首が市街地側を向いてくれていたら嬉しいのですが…天祐を期待したいと思います。

対岸に呉地方総監部の赤レンガ庁舎が見えます。こうして見ると、総監部の庁舎は高台の上に建っていることが分かります。右上に写っている緑色の屋根の建物は広島県立呉宮原高校です。毎日艦艇を眺めることができる抜群の環境、この高校に通う生徒さんが羨ましいです。大学の後輩にこの高校の出身者がいましたが、艦艇が見えるのが当たり前なので、別に何とも感じなかったとのこと。


私が何故先ほどしびれ峠で俯瞰撮影を行ったかというと、ある場所を訪ねるため朝イチで江田島に渡っていたからです。一見人気のない寂しい公園に見えるこの場所は、江田島の西側にある能美島の北端・岸根(がんね)鼻です。もうお分かりですね。2月下旬の遠征時に、途中の道路が災害復旧工事により通行止になっていたために泣く泣く訪問を諦めたあの岸根鼻です。

途中の道路はまだ工事中でしたが、ギリギリ車1台が通行可能な幅が確保されていたので何とか辿り着くことができました。アクセス道がそんな状態であるにも関わらず、到着すると既に車が何台か停まっていて、5~6人が岸壁で釣りを楽しんでいました。釣り愛好家にとっては穴場的なスポットなのかもしれません。そんな釣り人の皆さんですが、この場所に全く似つかわしくない車が突然現れ、車中からカメラ2台を手にしたオジさん(私のこと)が現れたので、「コイツ、何をしにここへ?」といった感じで私を見ていました
(苦笑)

岸根鼻の西側には砂浜が広がっていて、私が大学生だった80年代後半は「がんねムーンビーチ」という洒落た名前の海水浴場でした。夏になると、今で言うウェーイな連中がこぞって海水浴やキャンプに押し寄せた広島の最先端海洋レジャースポットでした。当時の№1アイドル菊池桃子が広島厚生年金会館でのコンサート(1987年7月)で、「私もがんねムーンビーチに行ってみたいな♡」と言及したほど有名な海水浴場でした。もちろん、イカした大学生だった私も女の子の友達と一緒に遊びに来たことがあります(笑)

その時以来実に33年ぶりに訪れたのですが、当時の賑わいが幻であったかのように寂しく荒れ果てた砂浜に変わっていました
(涙)
たくさんの若い男女や家族連れで賑わった砂浜には人の気配は無く、打ち寄せる波の音が響くばかり。砂浜は大部分が雑草に覆われ、波打ち際には流れ着いた流木やゴミが多数…あまりの寂れっぷりに私は茫然自失、暫らくの間立ち尽くしてしまいました…。

がんねムーンビーチのかつての賑わいを思い出してノスタルジーに浸ってばかりはいられません。私が岸根鼻を訪れているのは、山の中腹から頂上にかけて設けられた広島湾要塞のひとつ、岸根砲台を探索するためなのですから。元気を振り絞って山の中腹を目指します。ムーンビーチ時代、山の中腹に駐車場があったことから、車で山を登ることができました。しかしムーンビーチが無くなってからは通行止めに。現在は完全に廃道の状態で、路面を覆う雑草や枯草、木の枝を避けながらのプチトレッキングを強いられました。車が接触したために凹んだと思われるガードレールが、この道がかつて駐車場へ向かう車で賑わったことをひっそりと語っています。

岸根鼻へのアクセス道路も現役の道とはいえ、この道と変わらないくらい狭隘かつ荒廃していて、盛大に冷や汗をかきながらようやく辿り着いたのが実情です。私の愛車は車高がかなり低い車なので、途中でボディの下部を擦ってしまいました…(涙)

10分のプチトレッキングの末に山の中腹に辿り着きました。そこには雑草に覆われたレンガ造りの構造物が…岸根砲台の構造物のようです。去年訪れた三高山砲台とは異なり、雑草や樹木に埋もれるように存在していて何ともいえない侘しさを醸し出しています。

この構造物の周囲には駐車場テニスコート展望台などが整備されていたそうですが、今ではそんな物があったことが信じられないほど周辺は雑草と樹木に覆い尽くされています。ムーンビーチを知らない人は、ここにレジャー用の施設があったなんて信じてくれないでしょう。遊泳客が来なくなったことで廃れ、捨てられ、忘れられたレジャースポットの末路に涙を禁じ得ませんでした…。

様々な史料によると、この構造物は地下弾薬庫とのこと。地下に降りて弾薬庫の内部を見ることもできますが、沖美町が記念館とした際に改修したのか、白い壁に囲まれた何も無い部屋でした。壁面に装着されたプレートには「岸根砲台記念館」と記されています。

ムーンビーチの時代か、それより後年かははっきりしないのですが、砲台跡を当時の沖美町が史跡公園として整備し、この地下弾薬庫は記念館として関連史料を展示していたようです。写っている柵や手摺は公園として整備された際の名残で、汚れた無機質な手摺が砲台跡をより一層侘しい雰囲気にしています。ムーンビーチに遊びに訪れた人々の中に、実はこの場所にロシア艦隊を迎え撃つための砲台があったなんてどれだけの人が気付いていたでしょう?当時イカした大学生だった私は全く気付きませんでした
(苦笑)

地下弾薬庫から山の頂上に向かって延びる石段を登っていくと、円形に開けた場所が現れました。雑草に覆われてはいますが、見紛うことなくこれは砲座です。三高山砲台とは異なり、岸根の砲座は壁面がレンガ造りとなっています。岸根砲台は27糎加農砲4門と9糎速射加農砲4門を備えていましたが、ここは27糎加農砲の砲座のようです。4門を備えていたので砲座も4ヶ所あるはずですが、残念ながらここ1ヶ所を除いて他はムーンビーチ開発時に破壊されてしまいました。当時はバブルに向かってアゲアゲの時代、歴史的な史跡よりも開発の方が優先される時代でした。しかも、80年代においては戦跡を貴重な歴史的史料と考える視点は皆無でした。

9糎速射加農砲の砲座は、先ほどの地下弾薬庫の東側にあったようですが、恐らくそちらも開発によって破壊されているのではないかと。戦跡が破壊されて造られたことも知らず、呑気にムーンビーチで海水浴をしていた30余年前の自分が恥ずかしいです…


さらに石段を登っていくと、ご覧のような構造物が出現しました。地下兵舎です。雑草に覆われてはいますが保存状態は良いようです。この砲台に勤務する将兵が休憩をとるだけでなく、敵艦隊から反撃を受けた際には避難所として使われる想定だったと思われます。

岸根砲台は奈佐美瀬戸を侵攻しようとする敵艦隊を迎え撃つために、明治31年に建設が始まり、4年後の明治35年に完成しました。先に述べた2種類の加農砲が計8門備えられていましたが、1発の砲弾も放つことなく大正8年に廃止されます。太平洋戦争中は弾薬の貯蔵施設として使用されていました。戦後は民間に払い下げた末に、ムーンビーチ開発事業で大半を破壊されるという、悲劇的な運命を辿った砲台といえます。それでも沖美町が史跡公園として整備したまでは良かったのですが、沖美町が江田島町と合併して江田島市が誕生すると、市は岸根砲台に価値や魅力を感じなかったのかあっさりと放置、荒れるがままの状態で現在に至っています。


さらに石段を登ると山頂に着きます。山頂部には観測所の跡が残っています。50歳を超え、しかもメタボ体形の私は息も絶え絶えの状態で到着。カメラを小さくて軽いミラーレス一眼に更新していて助かりました(苦笑) 三高山砲台の観測所と同じ形状ですが、保存状態はこちらの方が良好です。鉄板製の階段は沖美町が公園として整備した際に設置した物と思われます。ここで敵艦隊の位置と方位を測定し、その位置データを基に加農砲の射撃を行うことになっていました。真ん中の円形の柱は測距儀を置くための台座です。

この山頂部は標高僅か16m、すぐ目の前は海(奈佐美瀬戸)であることから、まさに敵艦隊の眼前に位置する砲台であり、侵攻してくる敵艦隊を至近距離からつるべ撃ちするような性格の砲台だったと考えられます。広島湾要塞の先鋒ともいえる岸根砲台ですが、今は雑草と樹木に覆われて忘れられたような状態にあるのを見ると、諸行無常の感を抱かずにはいられません。約100年前、この場所には広島市と呉軍港を命がけで守ろうとする将兵がいたのです。これらの遺構は決してムーンビーチの残骸ではないのです。


観測所跡からは素晴らしい眺望が望めます。眼前の海が奈佐美瀬戸、対岸に見える島は大奈佐美島、さらに奥に見えるのが広島市街地です。この景色を見ると、岸根砲台は瀬戸を侵攻しようとする敵艦隊を至近距離から狙うことを意図した砲台であったことが実感を伴って理解できます。実際には敵艦隊が広島湾にまで進んで来ることはありませんでしたが、もし奈佐美瀬戸を舞台に艦隊と砲台の撃ち合いが生起していたら、岸根砲台は敵に甚大な被害を与えるも山が吹き飛ぶほど猛烈な反撃を喰らったかもしれません。

掃海艇や多用途支援艦などの小型艦艇を除き、呉基地と外洋を往来する海自艦はこの奈佐美瀬戸を通ります。つまりこの観測所跡は絶好の撮影ポイントでもあるのです。この距離から俯瞰撮影できるのですから、艦艇の素敵な姿を撮影できること間違いなしです。もしかしたら何か来るかもしれないと期待して暫く待ってみましたが…通過するのは釣り船ばかり、艦艇は来ませんでした…
(涙)

がんねムーンビーチがいつ無くなったのかは記憶にないのですが、恐らく高速道路の整備が進んで海水浴客がより手軽で、より美しい海を求めて山陰地方に流れるようになった90年代中頃に廃止されたと思われます。蒲刈町(現在は呉市)の「県民の浜」も今はかつての賑わいはなく、高速道路の開通に伴って往来に時間と手間がかかる離島の海水浴場は軒並み廃れてしまいました

これも時代の流れなのかもしれませんが、賑やかだった時代を知る者としては寂しいやら悲しいやら…。私がこの旧ムーンビーチで海水浴をすることは2度とないとは思いますが、艦艇の撮影スポットとして今後再び利用することになりそうです。青春の良き思い出を大切にするためにも、時代が移り変わろうとも私だけはこの岸根鼻と砂浜を見捨てずにいよう、そう心に決めました。


約30分間車を走らせて小用港に到着、フェリーで呉中央桟橋に戻ります。昨日に続いて再び船上から湾内の艦艇たちを撮影します。
残念ながら、約2時間前にしびれ峠から撮影した時から風向きは変わっておらず、艦は市街地に艦尾を向けたままです。とはいえ、艦の後ろ姿もセクシーかつ美しいので、この状態も悪くはありません。 五月晴れの下の満艦飾、とても美しいです♪

「さざなみ」や「とわだ」の艦長を務めた元海自幹部によると、一般人にはどれも美しく見える満艦飾にも「センスの良い満艦飾」があるのだそうです。もちろんその逆もあるのですが、敢えて良し悪しの基準は明かさないでおきます
(笑)
おや?プレジャーボートがいますねぇ。停泊している艦を好きな角度から、しかも至近距離から眺められるので羨ましい限りです。くれぐれも艦や航行中のフェリー、貨物船に迷惑をかけないよう節度ある行動をお願いします水上バイクなんてメチャクチャですから…。

補給艦「とわだ」は甲板上に補給用ポストが林立する特異な艦容なのですが、そんな「とわだ」が色とりどりの信号旗を纏った姿にはマニア心を激しくくすぐられます。一見何気なく満艦飾を行っているようですが、補給艦には補給用ポストが立っているために美しく信号旗を張るのは結構難しいのです。この「とわだ」の場合、中央の補給ポスト(物資用)と艦橋前の補給ポスト(燃料用)と信号旗が干渉しないようにメインマストと信号旗の結節点を調整しています。現在の位置よりも低いと艦橋前のポストと干渉し、高いと中央のポストと干渉してしまいます。まさに、ここしかないという絶妙な位置でマストと信号旗を結節していることが分かります。

右奥に写っている橋は早瀬大橋で、音戸大橋とこの早瀬大橋を使えば呉から江田島・能美島へは陸回りで行くことができます。早瀬大橋が架かっている場所は早瀬瀬戸と呼ばれていて、掃海艇などの小型艦艇は奈佐美瀬戸ではなくこの早瀬瀬戸を通ります。したがって、早瀬大橋は早瀬瀬戸を航行する小型艦艇を俯瞰撮影できる絶好の撮影ポイントとなっています。

色とりどりの信号旗に彩られた「さみだれ」を至近距離から撮影。まるで精巧な模型を見ているような美しい姿です♫
艦尾から眺めると、「むらさめ」型・「たかなみ」型の船体は艦首から艦尾に向けて微妙で美しいラインを描いていることが分かります。個人的には両型式の一番の魅力・萌えポイントはこの船体ラインだと思っています。私は艦艇の威容・美しさは抑止力に繋がると考えているので、その観点から言えば、「むらさめ」「たかなみ」型の最強のウエポンはこの美しい船体ラインなのです。

特に艦尾の傾斜は「オランダ坂」と呼ばれますが、この構造を最初に採用したのは1958(昭和33)年から1960(昭和35)年までの間に7隻が就役した「あやなみ」型DDKでした。「あやなみ」型のオランダ坂は13度もの傾斜がついていたので、それに比べると「あめ」「なみ」の坂は可愛いものです。「あやなみ」型の13度のオランダ坂は「通行しにくい」と乗組員には不評で、当時は「オランダ坂」という呼び名はどちらかというと不便さを揶揄した後ろ向きな表現でした。ただ、船体設計上は優れた構造で、続く「むらさめ」型DDA「あきづき」型DD(初代)にも採用されました。そして、現代では艦尾の傾斜を総じて「オランダ坂」と呼ぶようになりました。


「さざなみ」も至近距離からパチリ、最大・最強のウエポン=美しい船体ラインにテンションと血圧が爆上がりです!
「さざなみ」の就役は2005年なので艦齢は16年です。「なみ」型が呉にも配備されたということで、その年のGWに愛車を飛ばして見に来たのですが、それからちょうど16年になるのですねぇ…。佐世保を母港にしていた「まきなみ」が2011年に大湊に転籍したため、「さざなみ」は5隻の姉妹の中で西日本で見ることができる唯一の「なみ」型となっています。あとは横須賀に2隻、大湊に2隻です。

5隻もの艦が湾内に沖留めになっている理由は、GWということで多くの艦が帰港しているのに加え、練習艦隊が近海練習航海から戻っているためのようです。GWに呉を訪れた観光客向けに艦の雄姿を見せているように思えますが、実はそうではないのです
(笑)
5隻の沖留めは近年では珍しいですが、私が大学生だった80年代後半は呉基地の岸壁や桟橋が今よりも貧弱だったことから、湾内に数隻の艦が停泊する光景が日常的に見られました。先ほども述べましたが、補給艦「さがみ」「とわだ」は高頻度で沖留めでした。

呉に到着したら時刻は正午を少し過ぎた頃、お昼ご飯にします♪ 「どうせまた海自カレーでしょ」と思った貴方、そういう思い込みは判断を誤る元ですよ!(映画「連合艦隊」の栗田中将のセリフから) クレイトンベイホテルのカフェで、ご覧のような可愛くて美味しそうなオムライスをいただきます。ただ、艦艇マニアたる私が食べるのですから普通のオムライスではありません。これは「大鯨と大和のオムライス」なのです。呉市で新たに展開されている「呉海軍グルメ」の1メニューで、説明書きによると、潜水母艦「大鯨」のレシピで作ったチキンライスに戦艦「大和」のレシピで作ったオムレツを載せたオムライスとのこと。52年間の人生で食べたオムライスの中で一番美味しかったと言っても過言ではない見事なお味、呉を訪れた艦艇マニアにぜひ食べて頂きたい逸品です。

呉海軍グルメは、旧海軍艦艇のレシピに基づいた料理やスイーツなど18品目が市内の飲食店等で提供されていますが、日本酒やスプーン、食器といった非食品が含まれている点がユニークです。また、ゆかりの艦艇も戦艦「大和」「伊勢」「霧島」、空母「赤城」といった超有名艦だけでなく、空母「阿蘇」特務艦「隠戸」標的艦「摂津」など超マニアックな艦が含まれていてマニア心をくすぐります。レアな景品が当たるシールラリーも5月末まで実施されています。
※広島県での緊急事態宣言の発令に伴ってシールラリーは5月19日で終了しました。

お昼ごはんを食べて体内にエネルギーが充填されたので、引き続き満艦飾の艦艇を撮影します。艦隊にとっても人間の体にとっても補給は重要です!遊覧船から基地内に在泊する艦艇たちを狙います。最初に撮影するのは「いなづま」です。僚艦の「さみだれ」「さざなみ」は沖に泊まっていますが「いなづま」は桟橋に。「私も一緒に沖に行きたかった」と言っているような、いないような…(笑)

現在、呉を母港とする「あめ」型DDはこの「いなづま」と「さみだれ」の2隻ですが、かつては「あけぼの」も呉に在籍していました。2008年の護衛艦隊の大改編まで「いなづま」「さみだれ」「あけぼの」の3隻で第4護衛隊を編成、当時としてはかなり豪華で強力な護衛隊でした。残念ながら「あけぼの」は2011年に佐世保に嫁いでしまいましたが、「いなづま」と「さみだれ」は変わることなく呉に在籍し続けており、かつての「やまゆき」「まつゆき」のような「呉の顔」「呉のエース」と言える存在になったと言っても過言ではありません。


習艦に種別変更され呉に転籍してきた「しまかぜ」がいます。前回の遠征時はJMUのドックの中でしたので、練習艦として呉に停泊する姿を見るのは初めてです。そして、何と!「しまかぜ」の前方には姉の「はたかぜ」がいるではありませんか!今回の遠征は練習艦として装いを新たにした「しまかぜ」を撮影することも目的のひとつで、あわよくば「はたかぜ」とのツーショットが撮れればと目論んでいたのですが、それがいきなり叶ってしまいました。新型コロナに負けずに呉に遠征した甲斐がありました。

大型ミサイル護衛艦として眩しい存在だった「はたかぜ」と「しまかぜ」が、今や揃って呉の艦となっている事に、オジさんマニアとしては泣きそうになるくらい嬉しく、感慨もひとしおです。80年代後半の呉は旧式艦しかいない寂しい基地でしたが、護衛艦隊が呉に集合した際、「はたかぜ」と「しまかぜ」が桟橋に目刺しで停泊したことがありました。私は2隻の雄姿を眺めながら「呉にもこんな艦がいたらいいのに…」と儚い願望を抱いたのですが、その時から30年以上が経過して儚い願望が現実になってしまいました。現在に置き換えるなら、「まや」と「はぐろ」が練習艦になって呉に転籍してきたような感じ。両艦の呉への転籍はそれくらいの一大事なのです。


遊覧船は「しまかぜ」の前方へ。「はたかぜ」では違和感バリバリだった4桁の艦番号も、「しまかぜ」では似合っているとすら感じます。「はたかぜ」で見慣れたこともありますが、従来塗装なのもそう感じる要因かもしれません。実は、私が人生で初めて乗艦・見学した海自艦は「しまかぜ」なのです。呉に護衛艦隊が集合した際に一般公開が実施されたのですが、当時は艦を見に来るのは乗組員の家族余程のマニアぐらいで閑散としていました。「しまかぜ」の舷門の前では乗組員が「お兄さん、最新鋭の本艦をぜひ見てよ!」と‟客引き”をしていたほど、今では信じられない光景です。乗艦後に乗組員から大歓迎を受けたのは言うまでもありません。

最新鋭艦の「しまかぜ」ですら閑散としていたくらいですから、旧式艦の「くも」型なんて見学者は皆無。私が乗艦した途端に2尉の幹部が出てきて、艦橋や食堂、居住区など艦内をマンツーマンで案内してくれました。あの時の2尉の幹部、誰だったのかな?年齢的には将官になっていなければそろそろ退官する頃でしょうか?もう一度お会いして、ご案内していただいたお礼が言いたいです


からすこじま埠頭(Aバース)には、前回の遠征時と同様に就役したばかりの「あき」がいます。「あき」にとっては今回が人生初の満艦飾です。「ちゃんと美しく信号旗を張れてますでしょうか?なにぶん初めてなので…」。彼女がそう言っているように見えます。音響測定艦は民間人はおろか、海自隊員でも関係者以外は乗艦厳禁です。普段は人と接する事を拒絶し、Aバースで息を潜めて泊まっているように見える音響測定艦が、今日ばかりは存在をアピールするように満艦飾を行っている光景に心が和みます。

GWということで水上艦・潜水艦ともに多くの艦が呉に戻っているにも関わらず、「あき」の姉たち(ひびきはりま)の姿はありません。中華な潜水艦の活動が活発化しているために、音響測定艦はGWといえども休む間もなく稼働していることが窺えます。

GWということで、潜水艦も多く在泊しています。「そうりゅう」型5隻「おやしお」型4隻の計9隻がいます。こちらは「おやしお」型の1隻、桟橋の泊まっている位置から察するに、昨日午後に帰港を目撃したあの潜水艦の可能性が大です。吸音タイルが貼られていない鋼鉄の船体が、日差しに照らされてとても美しいです。光線の反射具合によってデジタル迷彩を纏っているようにも見えます。

潜水艦は普段と変わらない佇まいのように見えますが、実はちゃんと満艦飾を実施しています。水上艦のように信号旗を張ってはいませんが、セイル上の2本のマストに自衛艦旗と司令旗(または長旗)を掲げていて、これが潜水艦の満艦飾となります。まさに、目立つ事が嫌な“海の忍者”が控えめに祝日を祝っているといった感じ。少し強めの風に旗が翻っていて、これはこれで趣があります。

前回の呉遠征レポートで、長期行動によって船体一面に塩が付着して真っ白になってしまった潜水艦をご紹介しましたが、覚えていますか?その潜水艦の2ヵ月後の姿がこちらです。この潜水艦は「せきりゅう」(赤龍)なのですが、2ヵ月前は本物の「はくりゅう」もびっくりするほどの白龍になってしまっていました。乗組員の懸命の作業の甲斐もあって船体の塩はほぼ除かれていますが、セイル側面にはまだ少し塩が残っています。長期間の潜航によって付着した塩とはかくも頑固にこびり付いているのかと、その凄さに改めて驚かされます。潜水艦は艦齢16年程度で退役しますが、その性格上非常に痛みやすいという事がこの塩の付着からも窺えます。

「せきりゅう」も満艦飾を実施しているのですが、左側のマストに揚がっているのは司令旗でなく長旗です。よく見ると、Sバースの北側に泊まっている艦は長旗を揚げ、南側の艦は司令旗を揚げています。潜水隊司令が座乗する艦がたまたまSバースの南側に集まったのか、それとも意図的にバースの北と南で満艦飾の仕方を変えているのか…どちらなのか非常に気になります。


転籍して1年、すっかり呉の景色に馴染んだ「はたかぜ」です。ミサイル護衛艦(DDG)は数の少なさ故に、姉妹が離ればなれになる(母港が異なる)宿命にあるのですが、妹「しまかぜ」の就役から33年にして姉妹で母港が同じになりました。私には「はたかぜ」の満艦飾が、ようやく姉妹揃って同じ母港になったことの喜びを表現しているように見えます。DDGでかつていた「あまつかぜ」のような「孤高の艦」「ぼっち艦」ではありませんが、「はたかぜ」型は2隻しかいないので、その分姉妹の絆が強いと私は妄想しています。

「はたかぜ」はロービジ、「しまかぜ」は従来塗装と、何故か姉妹で異なる姿になっていますが、「はたかぜ」姉妹を使ってロービジの実証実験・効果確認を行っているのではないかと思えてなりません。それにしても艦尾の艦名表記がロービジ過ぎて、もはや判読できないレベル。まるで退役した艦のようです
(苦笑) そんな姉の姿に「しまかぜ」も少々驚いているのではないでしょうか?

「しまかぜ」は近海練習航海から戻っている「かしま」の隣に停泊しています。DDG時代は決して見ることは無かったツーショットに心が躍ると同時に、DDGが練習艦に種別変更されるような時代になったことに驚きと戸惑いすら覚えます。「かしま」とは全く接点が無かった「しまかぜ」ですが、呉に移ってすぐに「かしま」の隣に泊まっている姿は、「これからは姉と共に『かしま』さんと頑張ります!」と言っているようにも見えます。「しまかぜ」の種別変更によって、練習艦隊所属艦は旗艦「かしま」「せとゆき」「はたかぜ」「しまかぜ」という顔ぶれになりましたが、現時点では「海自史上最も強力な練習艦隊」であることは間違いありません

練習艦隊ですが、5月26日に65回目となる遠洋練習航海に出航します。昨年同様、今年も前期・後期の二部制で、前期はブルネイ、インドネシアなど東南アジアを巡る58日間の航海で7月21日に帰国。後期はハワイやマーシャル諸島、ミクロネシアなどを巡る57日間の航海で、8月25日に出航し10月21日に帰国します。前期は「かしま」「せとゆき」、後期は「かしま」のみが派遣されます。


第12護衛隊の「うみぎり」「とね」も在泊しています。DEの「とね」と並ぶとDDである「うみぎり」がとても大きく見えますねぇ。この2隻、艦尾の構造が良く似ていますが、これは1番艦の計画・設計時期が近かったためで、艦尾だけでなく艦首も同じクリッパー型を採用しています。この艦尾形状ですが、「きり」型、「あぶくま」型のほかに採用しているのは「かしま」と補給艦「ましゅう」型ですが、個人的にはなかなかスタイリッシュで格好良い形状だと思っています。ただ、「ましゅう」型に続いて採用する艦は現れていません。

「うみぎり」が満艦飾を実施していないのにお気付きでしょうか?どの基地でも満艦飾の実施日に1隻だけ満艦飾をしていない艦がいますが、その艦は緊急事態時にいの一番に出港する緊急即応艦です。呉では現在「うみぎり」が緊急指定されているようで、乗組員は2時間以内に帰艦できる範囲にしか外出できません。GWなのに帰省や旅行はできないことに…お務めご苦労様です。「うみぎり」は信号旗は張っていませんが、マスト頂部の自衛艦旗は揚がっています。差し支えのない範囲で満艦飾に参加しているようです。


今回もJMUに海保の船がいます!前回遠征にこの場所にいたのは巡視船「こじま」(練習船)でしたが、今回の船は「こじま」とは雰囲気が大きく異なります。機関砲といった武装はなく、船首に記された船名も漢字という変わった船です。

私は海保に詳しくないので遊覧船から降りた後に調べたところ、この船は測量船「拓洋」で、主に大陸棚の限界調査を行う船ということです。大陸棚はその権利を主張するためには国連の大陸棚限界委員会に調査データや科学的データを提出して認めてもらわなければならないのですが、「拓洋」は提出するデータ作成に必要な調査を担当するのです。2012年に我が国の大陸棚が31万㎢の延長を認められたのですが、これは「拓洋」をはじめとする海保の測量船が長年に渡って調査を積み重ねた成果だったのです。その意味では、一見地味な存在ながらも、我が国の国益に直結する業務に従事している船であり、将来の海洋権益の確保・保護に欠かせない船といえます。海保にもこのような興味深い船がいることを初めて知りましたし、もっと多くの人に知って欲しい船です。


今回の遠征でも海自カレーはちゃんと食べました。2021年シーズンは潜水艦「いそしお」のカレーでスタートです。「いそしお」のカレーは去年までは呉ポートピアパーク内の食堂「乙女椿」が提供していましたが、同食堂がコロナ禍によって閉店してしまったため、呉阪急ホテルがカレーを引き継ぎました。同時に新たなレシピによってリニューアルされ、去年までのカレーとは見た目も味も一新されました。新バージョンの「いそしお」カレーは千切りキャベツ・ニンジン・炒めた玉ネギの水分のみを使う無水調理で作られていて、野菜の甘味と旨味が凝縮されたお味となっています。さらに隠し味として使われているコーヒーが、味に香ばしさと奥深さを付与していて、濃厚かつ重厚な味わいのビーフカレーとなっています。同じ呉阪急ホテル内でも「うみぎり」カレーとは別の店舗なのでご注意を!

コロナ禍によって昨年は呉海自カレーに参加している店舗の閉店が相次ぎ、今年は去年より5店舗少ない25店舗での展開となります。思い出が詰まったお店が無くなったのは本当に寂しく残念、「新型コロナ許すまじ」という怨念が心に渦巻いております。今年度参加の25店舗もコロナ禍で厳しい経営状況だと思いますが、私たちも精一杯利用するので何とか頑張っていただきたいです。


新型コロナの感染拡大で世の中が陰鬱な空気に包まれている昨今ですが、五月晴れの下の満艦飾はそんな空気を吹き飛ばしてしまうほど美しいものでした。呉に在泊する艦艇たちの満艦飾は、コロナ禍で様々な忍耐と犠牲と強いられている私たち国民へのエールのようにも見えました。「コロナに負けずに頑張るぞ!」。そう思えるようになっただけでも、呉を訪れた意義がありました。

新型コロナのワクチン接種も始まり、微かではありますがコロナ禍収束に向けた動きも出てきました。来年のGWは五月晴れの青空のように、晴れ晴れとした気持ちで呉在泊艦の満艦飾を撮影したい…色とりどりの信号旗を眺めながら、そう強く思いました。

「コロナに負けずに頑張ろう!」 満艦飾で彩られた呉の艦たちは、私たち国民にエールを送っているようでした。