下関港「ふゆづき」公開&呉遠征

去年11月以来久しぶりに呉に遠征、途中に立ち寄った下関での艦艇公開と合わせてレポートします。

夏らしい抜けるような青空を期待したのですが、残念ながら下関上空には雲が立ち込めています。まぁ、雨が降らないだけまだマシと言えるかもしれません。今回の呉遠征のレポートは、まずは途中に立ち寄った下関港での艦艇公開からスタートします。

いま私がいるのは下関港の東港地区=「あるかぽーと」で、全長が330mを超える大型船が接岸可能な岸壁に加え、遊園地(からっと横丁)や水族館(海響館)を併設するウォーターフロントの観光施設的な埠頭です。目の前には関門海峡が広がり、対岸の北九州市門司港関門橋を一望できる風光明媚な場所で、神戸と同様に美しい景色を楽しみながら艦艇を撮影することができるお気に入りの港です。
左奥の観覧車がある場所が遊園地、その後方に位置する宇宙船のような白い建物が水族館です。

そんな「あるかぽーと」に来航し、一般公開を実施しているのはDD「ふゆづき」です。「あきづき」型DDの4番艦(最終艦)で2014年3月に就役、舞鶴を母港としています。3隻の姉(あきづき・てるづき・すずつき)がすべて三菱重工長崎造船所で建造されたのに対し、この「ふゆづき」だけは三井造船玉野事業所で建造されました。しかも、三井造船にとっては「はるさめ」(むらさめ型2番艦)以来17年ぶりに手がける護衛艦ということで、三井の技師たちが心血を注いで大切に造り上げた“箱入り娘”でもあります。

当HPの門下生、「もびうす」ことM海士長が「しらね」「ひゅうが」に続いてこの「あきづき」に乗り組んでいましたが、この遠征前に連絡をしたところ、少し前に異動して現在は舞鶴警備隊の陸警隊に勤務しているとのことでした。久しぶりにお会いしたかったのに…残念。

「ふゆづき」の上甲板の一部は艦橋構造物と一体となったシールドで覆われています。ただ短魚雷発射管デコイランチャーのある部分は、転回・射出に支障がないよう窓のように繰り抜かれています。両装備が20度ほど転回され顔を覗かせているのにご注目。

本艦を含む「あきづき」型DDと「あさひ」型DDはよく似た艦容をしていますが、本級は後方をカバーするOPY-1アンテナが艦橋構造物に無いことから艦橋後部上方が随分とスッキリしています。言い換えれば、「あさひ」型の艦橋構造物がかなりコッテリした濃いデザインであるといえます。今年6月の八戸遠征レポートにほぼ同アングルの「しらぬい」の画像があるので、比べてみてください。

艦尾からのアングル。後方用のOPY-1アンテナが格納庫上に設置されていることから、この艦尾から見るスタイルは「あきづき」型の方が濃いデザインになっています。OPY-1が集中配置されたために少々‟頭でっかち”に見える「あさひ」型よりも、本級の方がバランスがとれた艦容になっているように思えます。私には「あさひ」型の艦がどうしても女優・塩沢ときに見えてしまいます(笑)

今回の「ふゆづき」公開も残念ながら公開範囲は上甲板のみ。本艦は私にとってこれまで本格的に撮影する機会がなかった艦だけに、この公開で艦橋等の艦内までも撮影したかったのですが…う~ん、残念。とはいえ、不貞腐れてばかりではいられません。幸いにも、ここ「あるかぽーと」はある手段を活用すれば多彩なアングルから艦を撮影できる港なのです。よし、行くぞ!

活用①:巌流島行き渡船から撮影。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島は、関門海峡の下関寄りの海域に浮かぶ小島です。そのため「あるかぽーと」横の唐戸発着所を出港した渡船は、「あるかぽーと」に接岸する艦船の至近距離をかすめるように航行して巌流島へと向かいます。そのタイミングで海上から「ふゆづき」の魅力的なスタイルを激写!背後には観覧車や特徴的な形状の海響館も写り込んでなかなか素敵な雰囲気の「ふゆづき」が撮影できました。

ただ、遊覧船ではなくあくまで渡船なので、撮影への配慮は皆無。僅かな距離にも関わらず、遊覧船は意味不明なほどの高速で航行します。そのため手ブレせずアングルが定まった画を撮影するのは至難の業、さらに注意しないと激しい揺れで船上から転落する恐れもあります。己の身を危険に晒してでもいい画を撮りたいという男気と覚悟が必要な撮影手段でもあります。

活用②:観覧車に乗っての撮影。遊園地「からっと横丁」のメインアトラクションである観覧車に乗れば、ご覧のような艦だけでなく関門海峡や対岸の門司までを含めた俯瞰の画を撮影することができます。後方からではありますが、「あきづき」型DDの特徴的なスタイルを余すことなく捉えた一枚が撮影できました。「ふゆづき」の先には関門海峡と海峡を航行する船舶、操業中の漁船、対岸の門司港…まさに「これぞ下関」というべき画となりました。今にも雨が降りそうな天候だからか、艦上や埠頭にいる見学者はやや少なめです。

登場当時は思わず「変なカタチ!」と叫んでしまった「あきづき」型DDの艦容ですが、1番艦「あきづき」の就役から早や7年が経過して見慣れてしまったためか、今ではその変なカタチがスタイリッシュとすら感じます。慣れとは恐ろしいものですねぇ
(笑)

渡船と遊覧船を目的外使用、もとい活用して「ふゆづき」の魅力的な姿を撮影できてご満悦な私ですが、撮影に夢中になったが故に「ふゆづき」のパンフレットを貰っていないことに気付きました。ところが、艦に架かる乗艦用桟橋の前にはパンフレットを配る乗組員がおらず、代わりに幾つかのテーブルが置かれています。その机には「護衛艦ふゆづき デジタルパンフレット」と記された紙が。スマホでその紙に印刷されているQRコードを読み込みと…おぉ、スマホにパンフレットが表示されたではありませんか!

このデジタルパンフレット、スマホが普及した時代に即した新たなパンフレットの形態であると同時に、紙代や印刷代を節減でき、配布役の乗組員も要らないことから、経費削減と人員削減という面でも時代に沿ったパンフレットであるといえます。とはいえ、紙のパンフレットに慣れ親しんできた昔気質のマニア(=私)にとっては、単なるデータと化したデジタルパンフレットは少々味気なく感じます。紙だと艦に乗った実感が湧き、後年に「あの時、この艦に乗ったんだ…」と記憶を呼び起こす“思い出の品”にもなるのですが…。

「ふゆづき」のデジタルパンフレットに目を通していたら、突如として関門海峡を東へ向かって航行する掃海艇が現れました。この艦番号686の掃海艇は、「すがしま」型掃海艇の6番艇「うくしま」です。名前は五島列島にある宇久島から名付けられています。
「うくしま」は下関基地隊に所在する第43掃海隊に所属する、いわば‟ご当地艦(艇)”で、甲板上に一般人の姿が見えることから、どうやら体験航海を実施しているようです。いうまでもなく乗艦者は中高生や子供を連れた親御さんばかり、募集一直線の体験航海です。


関門海峡は幅が狭いにも関わらず航行する船舶が多く、加えて潮の流れも速い国内有数の海の難所ですが、下関基地隊を母港とする「うくしま」にとっては家の庭同然の場所です。そのためか海峡を航行する姿には余裕すら感じさせます。

「あるかぽーと」の沖をいったんは通過した「うくしま」ですが、「あるかぽーと」に右舷側から接岸するためにサイドスラスターを使って回頭します。「うくしま」の船体中央艦首寄りの喫水線がサイドスラスターによって泡立っているのにご注目、掃海艇は曳船がいなくてもサイドスラスターによって低速時においても自力で「その場回頭」を行うことができるのです。掃海艇のサイドスラスターは出入港時や回頭時だけでなく、機雷掃討時における運動性の向上や艦位保持にも大きな役割を果たします。

「うくしま」の背後にある山は古城山で、壇ノ浦合戦前に平知盛が門司城を築いたことからその名が付けられています。山の麓には和布刈神社があり、壇ノ浦合戦の前夜には平家一門が酒宴を開いたとの伝承が残っています。その古城山の中腹を貫く形で関門橋関門自動車道(中国道・九州道と一体化)が建設されています。左端に少しだけ見えている吊り橋が関門橋です。

「うくしま」はゆっくりと「あるかぽーと」に接岸します。突如として接岸を始めた「灰色のフネ」の出現に、「ふゆづき」見学で岸壁にいた人のみならず、隣接する遊園地や水族館から溢れ出てきた人たちが「うくしま」の周囲に押し寄せてきました。「うくしま」の入港はほとんどアトラクションと化しています。どう見ても海自や海上防衛には関心が無さそうなカップルや女の子も多くいて、「これ、映える~♪」とか言いながらスマホで「うくしま」を撮っています。恐らくインスタグラムにアップするのでしょうけど、「お前らの行動基準は映えるか映えないかなのかよ!」と言いたくなります。というか、インスタ映えに海自艦艇をダシにするのはやめてくれませんか。

あと、「うくしま」に乗艦している中・高生諸君にも一言。その船は遊覧船ではありませんよ。皆さんを単に楽しませるだけで航海を行ったのではありません。乗ったからには海自や海上防衛について関心を持ち、できることならば入隊してくださいね!

下関から高速道路(中国道・山陽道・広島呉道路)を走って約2時間半、呉に到着しました
まずは遊覧船に乗って呉基地の艦船たちを撮影、渡船と違って遊覧船はゆっくりと航行してくれるので助かります
(笑) Eバースに停泊しているのは輸送艦「くにさき」補給艦「とわだ」、支援艦艇が多数在籍する呉基地らしい光景です。ちなみに私の出身地は「くにさき」の命名元・国東半島にある大分県国東市、そしていま被っている帽子は「とわだ」の部隊帽、つまりこの2隻は私にとっては己の分身のように愛着がある艦なのです。国東出身の「とわだ」帽子を被っている私が「くにさき」と「とわだ」を撮影しているのです。

よく見ると「くにさき」の喫水線が上がっています。ドックでの整備を控えていて艦内にあった積載物を降ろしているのでしょうか?一方、「とわだ」の方は上甲板の手摺に転落防止用のネットが張られています。何処ぞで特別公開でも実施したのでしょうか?

艦船ファン歴も40年を超え、高度にマニアック化した私のマニア心を最もくすぐる艦が「とわだ」型(とわだ・ときわ・はまな)です。
その中で呉を母港とするのが1番艦「とわだ」で、1987年3月に先代の「はまな」と入れ替わる形で就役しました。以来32年余り呉を母港としていますが、私が大学進学のため国東から広島に住居を移したのも1987年3月、この点でも「とわだ」に親しみを感じます。当時私は18歳、その私が50歳を超えてもなお「とわだ」が現役にいるのは嬉しい限り。艦齢は既に“老婆”の域に達していますが…。

何らかの作業でもしていたのでしょうか、艦尾には内火艇が横付けされ、乗組員が艦尾から艦に乗り込もうとしています。


呉基地の最深部・Aバースには、まるで人の目を避けるかのように謎に包まれた艦「はりま」「むろと」がひっそりと停泊しています。「はりま」の姉・「ひびき」は出港しているようです。かつてはこのAバースに「ひびき」「はりま」の2隻が揃って停泊している姿を頻繁に見ることができましたが、私はここ数年2隻が揃っているのを見た覚えがありません。「ひびき」「はりま」の多忙さは、中国海軍の潜水艦の活動が活発化している裏返しといえるでしょう。約30年ぶりに3番艦が建造される(2021年3月就役予定)のも頷けます。

一方の「むろと」は、今回も含めて呉遠征時にはかなりの高確率で姿を見ます。活動範囲が日本近海なのか、はたまた任務自体がそれほど多忙ではないのか、音響測定艦(ひびき・はりま)と敷設艦(むろと)の活動の差が妙に気になります。

潜水艦は大半の艦が出港していますが、「そうりゅう」型で唯一在泊していたのがこの艦。今年3月に就役したばかりの最新鋭艦「しょうりゅう」です。引渡式を終えて川崎重工神戸造船所から出航する姿を兵庫埠頭で見送ってから早や5ヵ月余り、戦力化に向けた訓練に明け暮れる日々を送っているものと思われます。珍しいことに乗艦用の桟橋には艦名を記した横断幕が掲げられており、艦内に降りるハッチの周囲には転落防止用のネットが張られています。「しょうりゅう」も特別公開?を実施しているようです。私も見学したいぞ!

3月の就役直後にはセイル側面に艦番号艦尾近くの船体に艦名が記されていましたが、双方とも既に消されています。ただセイル側面には艦番号を消した跡が生々しく残っており、その跡が本艦が就役間もない潜水艦であることを教えてくれています。

4護隊は「かが」「さみだれ」の2隻が在泊しています。カメラレンズの効果もあるのですが、DDの「さみだれ」と比べてDDHの「かが」がいかに大きな船体をしているかが分かります。よくよく考えると、私がこの場所で「かが」を見るのは去年8月の遠征(8月5日)以来1年ぶりとなります。その間、「かが」は「いなづま」「すずつき」と共にインド太平洋方面派遣訓練に参加し、南シナ海での対潜訓練やインド・インドネシア・シンガポールといった南シナ海周辺諸国への訪問などを実施して南シナ海の覇権を狙う中国を大いにけん制しました。これだけの大きさと形の艦ですからプレゼンス効果は抜群、中国も内心穏やかではなかったことが容易に想像がつきます。

2隻はお盆前に呉に帰投したとのことですが、お盆が終わってまだ日が浅いことから、乗組員の中には長めのお盆休みを取って溜まった休暇の消化に努めている人も多いのではないでしょうか?世の中は「働き方改革」が声高に叫ばれていますが、艦艇の乗組員はいったん長期行動に出てしまうと艦内で働き詰め状態になるので、母港帰投時にはしっかりと休んでいただきたいと切に思います。

こちらも久しぶりのご対面、DD「さみだれ」です。去年11月の遠征の直後にソマリア沖海賊対処(第32次隊)に派遣されることが発表され、12月2日に出港しました。今年4月まで任務に従事し、5月25日に呉に帰投しています。2009年に「さみだれ」は「さざなみ」と共にソマリア派遣の第1次隊に選ばれ、以来ソマリアには4回(1次隊・9次隊・17次隊・32次隊)派遣されています。

船体には至る所に赤錆び防舷材と擦れた際の汚れが付着し、塗装の剥がれも目立ちます。5月末に派遣任務から帰投したもののドックに入っての整備は行われていないためで、船体の錆びや汚れはソマリア沖での過酷な任務の痕跡といえるでしょう。

JMU呉事業所の岸壁には「うみぎり」がいて、整備を受けています。私が呉に遠征すると、「うみぎり」はかなりの高確率でJMUで整備を受けています。整備は仕上げの段階に入っているのでしょうか、船体が美しく塗装し直されています。賛否両論が渦巻く「きり」型DDのスタイルですが、こうして見るといかにも「俊敏な潜水艦キラー」といった趣があり、個人的にはとても美しい艦容だと思います。

「うみぎり」は東京・豊洲にあったIHI東京工場で建造され、就役から12年間は横須賀を母港とし、花の第1護衛隊群の中核艦として活躍しました。まさに都会生まれ、都会育ちのお嬢さんだったのです。眩しいほどの横須賀時代を知る身としては、旧式化したとはいえ「うみぎり」が‟呉の住人”になり、こうして頻繁に会えることがとても嬉しいです。現在に例えるなら、「てるづき」や「あさひ」が呉に転籍するような感じでしょうか…。若い海自ファンには想像がつかないと思いますが、かつて「きり」型DDはとても眩しい存在だったのです。

私が乗った遊覧船が中央桟橋に到着する直前、素敵な雰囲気のフェリーとすれ違いました。このフェリーは広島~呉~松山を結ぶ航路を運航する瀬戸内海汽船のカーフェリーで、今月(8月)1日にデビューしたばかりのニューカマーです。船名は「シーパセオ」で、単なる移動手段ではなく「瀬戸内海の移動を楽しむ公園」として船旅を楽しんでもらうことをコンセプトにしたフェリーです。そのため船内には多彩な形態の座席が用意されているほか、屋上デッキは公園のような開放感のあるデザインとなっています。

全長61m、幅13.6mで、航海速力は15ノット、旅客定員は300人。広島~呉間を45分呉~松山間を1時間55分で結びます。ちなみに船名の「シーパセオ」は、英語のSea(海)とスペイン語のPaseo(遊歩道)を組み合わせた名前とのこと。船体に描かれている三つ葉のクローバーのようなマークは、広島・呉・松山という三つの街が海上で繋がっていることを表現しています。呉で頻繁に目にする瀬戸内海汽船のフェリーですが、私は今まで一度も乗船したことがありません。この「シーパセオ」にはぜひ乗ってみたいです♪

遊覧船に乗っての撮影に続いては、恒例の戦跡めぐりです。今回まず最初に向かったのは呉地方総監部庁舎にほど近い入船山記念館旧呉鎮守府司令長官官舎です。明治38(1905)年に建築され、昭和20(1945)年まで呉鎮守府司令長官の住まいとして使用されました。終戦後から昭和31(1956)年まで進駐軍(英国軍)司令長官官舎として使用されましたが、昭和41(1966)年に呉市に無償貸与され、翌年から入船山記念館として一般に公開されるようになりました。現在、国の重要文化財に指定されています。

呉鎮守府建築課長の桜井小太郎による設計で、正面からの外観は洋館そのものですが、実は和洋折衷のユニークな建築物です。正面入口がある洋館部分が司令長官の執務室や応接室があり、奥の住居部分が和館(和風建築)となっています。

この部屋は官舎の玄関を入ってすぐ横に位置する客室です。さすが司令長官がお客様を迎える部屋だけあって、内装も調度品もゴージャスそのもの。特に壁紙は国内でも数ヶ所にしか現存しない金唐紙を使用しており、文化財的価値が非常に高い部屋でもあります。この客室に張られた金唐紙には春の草花とチョウやバッタ・トンボなど14種類の昆虫が描かれています。

調度品はソファ、肘掛椅子、茶卓子、飾り棚などが置かれており、いずれも18世紀イギリス・ジョージアン時代のものが揃えられています。窓は台形状のベイウインドウが張り出しているほか、右側の壁の壁面には大理石で作られた円筒状のストーブがあります。

こちらは客室に隣接する食堂で、司令長官官舎の中心的な部屋です。12人が着席できるテーブルが置かれ、現在テーブル上にはステーキやシチュー、魚の煮つけ、プリンなど、司令長官が来客をもてなすために出された料理のレプリカが展示されています。現代を生きる私が見ても豪華なお料理ばかり。当時、長官とお客様は豪華で優雅なお食事を楽しんでいたことが想像できます。

食堂の壁面にも客室と同様に金唐紙が貼られていますが、こちらはドングリやイガグリの実など秋をイメージした図柄が描かれていて、春をイメージした客室とは対照的な雰囲気の壁紙となっています。客室と食堂で春と秋を使い分ける手法に、設計者の風流へのこだわりを感じます。画像には写っていませんが天井にも金唐紙が貼られていて、こちらは幾何学的な文様が描かれています。

こちらは洋館部分の奥に位置する和館部分長官とその家族の住居です。ゴージャスかつ華やかで様々な趣向が凝らされた洋館部分とは対照的に、この和館部分は非常に簡素で落ち着いた造りとなっています。簡素とはいえ、この和館部分は洋館部分よりも圧倒的に広く、8つの部屋や炊事場、浴室、トイレ、さらには使用人の部屋まであり、官舎全体の約3分の2を和館部分が占めています。

歴代の呉鎮守府司令長官といえば、鈴木貫太郎野村吉三郎山梨勝之進嶋田繁太郎豊田副武南雲忠一らが有名ですが、歴史に名を刻むこれらの提督がここで日常生活を送っていたと考えると非常に感慨深いものがあります。この場所に立っていると、制服を脱いで職務から解き放たれた司令長官が、この部屋でくつろいでいる様子が目に浮かんできます。


入船山記念館の敷地の道路向かいに、やや傾斜がきつい階段があります。この階段を見てピンと来た人はかなりの呉ツウです。
この階段、映画「この世界の片隅に」の中で、空襲でケガをした義父を見舞うために呉海軍病院へ向かうすずさんと晴美ちゃんが登っていたあの階段です。この階段を登りながら、すずさんは晴美ちゃんに「病院じゃけぇ、静かにせんといけんよ」と注意をします。

当時、この階段を登りきると呉海軍病院の正門がありました。今はもちろん海軍病院はありませんが、海軍病院を起源とする国立病院機構呉医療センターがあり、呉市とその周辺地域における高度医療の拠点としての役割を担っています。階段の上に一部が写っている白い建物が呉医療センターです。ちなみにこの階段、老朽化によって今は使用禁止となっているのでお気を付け願います。


次に訪ねる戦跡は、中央桟橋からフェリーに乗って江田島に渡り、切串方面に向かって車を20分ほど走らせた場所にあります。
ここは江田島市の幸之浦という場所で、海に沿った県道沿いに立派な慰霊碑が立っています。江田島ということで海軍関連の慰霊碑と思いがちですが、実はこの慰霊碑は陸軍の海上挺身戦隊戦死者の慰霊碑なのです。なぜこの場所にこのような碑があるかというと、大戦末期にこの慰霊碑の周辺に陸軍船舶特別幹部候補生第十訓練基地が置かれていたためです。


名称だけでは何の訓練基地だったのか分かりづらいのですが、ここでは四式連絡艇(通称:マルレ艇)の操船・攻撃訓練が行われていました。四式連絡艇は250キロ爆雷を積載したベニヤ板製モーターボートで、敵艦艇に奇襲・肉薄して爆雷による攻撃を行うことを目的に開発されました。海軍の「震洋」に似た高速小型舟艇ですが、「震洋」が最初から特攻兵器として開発されたのに対し、四式連絡艇は主に水際における敵艦船への肉薄攻撃を主目的としていて、特攻兵器として開発された舟艇ではありませんでした

慰霊碑近くの砂浜に当時使用されていた石積みの突堤が残っています。基地に集った将兵たちはこの突堤から四式連絡艇に乗り込み、戦局の挽回を目指して連日激しい訓練を実施していたと思われます。憂国の若者たちが往来したであろう突堤ですが、今はその歴史を知る人も僅かで、海水浴やキャンプに来た家族連れの車が停まっていたりと、時代の流れの無常さをひしひしと感じます。突堤の後背地には訓練基地の建物があったようですが、すべて農地に還っていて、当時を偲ばせる遺構はこの突堤のみとなっています。

四式連絡艇は特攻兵器ではありませんでしたが、肉薄しての爆雷攻撃よりも体当たりの方が戦果が挙がり、高度な技量も必要ないことから、結局は「震洋」と同様に特攻作戦がメインになっていきました。昭和20年1月にフィリピン方面で最初の特攻攻撃を実施して以来、その後の沖縄戦に至るまで壮絶無比な戦いを繰り広げ、敵艦船10隻余りを撃沈したものの1600人を超える将兵が戦死しました。

江田島から早瀬大橋を渡って倉橋島へ。島の南端にある桂浜近くの県道脇に、駆逐艦「樫」の慰霊碑が立っています。造花が供えられているものの非常に小さな慰霊碑なので、車だと気づかずに通り過ぎてしまうので注意を。実際、私も通り過ぎてしまいました。

「樫」は「松」型駆逐艦の10番艦で、大戦末期の1944(昭和19)年9月に就役しました。悪化する戦局のなか、南方での船団護衛や物資輸送に従事しましたが、昭和20年7月28日の呉空襲で損傷し、ここ倉橋島の本浦で偽装を施した状態で係留されたまま終戦を迎えました。「樫」はその後に修理されて復員輸送に従事するのでここが終焉の地ではありませんが、呉空襲で戦死した乗組員を慰霊する碑として建立されました。碑には「第二水雷戦隊駆逐艦 樫…」と記されていますが、「樫」が二水戦に所属していたことはありません。なぜ二水戦所属だったような碑文になっているのでしょう?一時期、戦艦「大和」の護衛任務に就いたことがあるからでしょうか?


慰霊碑の眼前には偽装を施された「樫」が係留されていた海が広がります。想像ではありますが、空襲で損傷を受けた「樫」が呉軍港から遠く離れたこの海域まで逃れて来た姿は、合戦に敗れて落ち延びる戦国武将のようだったのではないでしょうか?海を見ながら哀れな「樫」の姿を想像して涙がこぼれそうになりました。終戦までこの海域で息を殺して隠れていた「樫」ですが、終戦後に復員輸送に従事し、日本の戦後復興にいささかなりとも貢献したことを考えると、ここまで落ち延びたことは決して無駄ではなかったといえます。

対岸に見える砂浜が、かつては広島県内有数の海水浴場として人気だった桂浜です。今は往時のような賑わいはありませんが、それでも広島市内や呉市内から近い手軽な海水浴場として穴場的な人気を集めています。桂浜の左側に立つ建物は「シーサイド桂ヶ浜荘」というホテルで、1階にはDD「いなづま」のカレーを提供する喫茶店があります。よし、カレーを食べに行こう!

ということで海自カレーです。遠征中に食べた海自カレーの中から、今年度新たに提供が始まったニューカマーのカレーをご紹介!
こちらは呉地方卸売市場の近くにある「Cafe TOMOTASU」が提供する掃海艇「あいしま」のカレーです。ご覧のように、見ているだけでも楽しくなる遊び心満載のカレーです。掃海艇のカレーということで船の形をしたお皿は木製、ルーの上に載せられた三つのフライドポテトは大海原を航行する掃海艇を表現しています。さらに、海に潜む機雷を表現したと思われるゆで卵の表面には自衛艦旗が描かれていて、このお店の海自カレーに対する愛情と意気込みが伝わってきます。こういう遊び心、大好きです♪

フォン・ド・ボーをベースにした豊かなコクのカレーで、煮込まれたローストビーフの食感と風味が口いっぱいに広がります。また大豆も大量に入っていて独特の風味をカレーに添えています。もちろん大豆なので栄養も満点。まさに見て良し、食べて良しのカレーです。

続いてはDD「さざなみ」のカレーです。「さざなみ」のカレー自体は昨年度もあったのですが、担当する店舗が交代し、今年度は安浦町にある「グリーンピアせとうち」が提供しています。「グリーンピアせとうち」は広島県内では非常に有名な保養施設で、私も広島市在住時には頻繁にその名を耳にしていましたが、「カレーを食べに行く」という予想外の形で初めての訪問が実現しました。

グリーンピアにちなんでか、鮮やかな緑色のお皿に盛られたカレーは野菜とルーの色も鮮やかで、とても華やかな雰囲気のカレーです。パッと見た目がハヤシライスのようですが、実際のお味もハヤシライスのような辛さと酸味がマッチした濃厚かつ上品な味です。同じ「さざなみ」カレーでも昨年度とは全く別のカレーになっていて、これは店舗の調理技術の違いなのか、或いは「さざなみ」側が新たなレシピを提供したのかが気になります。呉市内から車で40~50分程度かかる場所ですが、行くだけの価値があるカレーです。

こちらはニューカマーではありませんが、昨年度は西日本豪雨で店舗が長らく営業休止になったために紹介できなかったカレーです。
呉ポートピアパーク内にある食堂「乙女椿」が提供する潜水艦「いそしお」のカレーです。カレーの王道といえる佇まい、加えて竹製の容器に入った珈琲ゼリー、海軍マークが印されたグラスに入った激冷えの氷水など、童心に還ったように心が躍るカレーです。


長い時間をかけてじっくりと煮込んだビーフカレーで、肉と野菜の豊かな風味を堪能できます。また20種類のスパイスを使っているとのことで、爽やかな辛さが肉と野菜の風味を一層引き立てます。大きめの牛肉とニンジン・ジャガイモが入っていますが、煮崩れないギリギリの柔らかさになっているのもGood!華やかさはないものの、「さすがは潜水艦のカレー」と思わせる逸品です。

「いそしお」カレーを提供する「乙女椿」がある呉ポートピアパークは、かつては呉ポートピアランドというテーマパークでした。1992年3月にオープンし、当時世界最大級の観覧車や「ジェットコースター設計の神」と呼ばれたアントン・シュワルツコフが設計した絶叫コースターなど数多くのアトラクションがあり、若者を中心に人気を集めました。当時、広島市内に住んでいた私も、当時付き合っていた彼女や職場の仲間たちと何度も遊びに行きました。ただ、絶叫系アトラクションが多く、家族連れや子供が楽しめるアトラクションや施設が少なかったことから数年後には入場者が激減、オープンから僅か6年後の1998年に閉園となってしまいました。

閉園から2年後の2000年、跡地は無料の市民公園・呉ポートピアパークとして生まれ変わりました。ただ、アトラクションをはじめとする大部分の施設や建物は撤去され、現在は残った僅かな建物やプールが再利用されているのみです。今回、カレーを食べるために26年ぶりに訪れたのですが、あまりの変わりぶりに切ない気持ちが込み上げ、甦った当時の記憶と相まって感傷的な気分になりました。

園内の一角に目を引く展示物を見つけました。1967(昭和42)年に廃止となった呉市電の車両です。呉市電は川原石~呉駅前~本通~阿賀~広を結ぶ総延長11.3kmの路面電車でしたが、モータリーゼーションの進展で乗客が減少し廃止となりました。当時在籍していた22両の車両は大半が他都市の市電に移籍し、この1001号車は松山市の伊予鉄道に移りました。伊予鉄道引退後に呉市に返還され、この場に展示するにあたっては塗装や外観等を呉市電時の状態に復元しました(屋根上の冷房装置を除く)。

今年度最初の呉遠征はこれにて終了です。昨年度は豪雨被害で観光客が激減した呉を応援するため、異例ともいえる5回ものレポートを掲載しましたが、今年度も海自艦艇に歴史とカレーを交えて呉をマニアックに楽しむレポートをお送りしたいと考えています。

去年11月以来の呉遠征で海自艦艇と歴史とカレーを堪能、今回もマニアックに呉での休日を楽しみました♪