2018年4月 呉遠征

春うららかな陽気に誘われて4月下旬に約1年9ヶ月ぶりに呉へ遠征しました。
海自艦艇の撮影だけにとどまらない呉の魅力を満喫した1日をレポートします。


4月下旬、艦艇の撮影には1年で最もいい季節です。春うららかな陽気に誘われて呉にやって来ました。前回呉を訪れたのが2016年7月の「サマーフェスタ」の時でしたので、約1年9ヶ月ぶりの呉遠征となります。去年は本職の方で異動があったこともあり、何かと多忙で呉を訪れることができませんでした(というか、遠征自体が極端に少なかった)。それだけに久しぶりの呉を満喫したいと思います

まずは定番のアレイからすこじまで撮影。本日の在泊艦艇は、12護隊の3隻と訓練支援艦2隻、音響測定艦1隻、練習艦4隻、それに潜水艦4隻…大半の艦が出港して不在のようです。とりわけDDH「かが」をはじめとする4護隊の4隻がいないのが残念。ただ、昨今の海自の多忙さを考慮すれば、この数の艦が在泊しているだけでも有難い。過去には艦が1隻しかいないこともあったので…。

アレイからすこじまと云えば潜水艦撮影の聖地です。機密の塊である潜水艦を至近距離から眺めることができる公園なんて、世界中見渡してもここだけでしょう。いわば「世界一機密に近い公園」です。とはいえ、外から見える部分に秘匿すべき機密はありませんが…。唯一、外から見られて困る箇所と云えば艦内出入口のハッチの厚さですが、ご覧のようにカバーを掛けて隠しています

ちなみに、この艦は「そうりゅう」型のネームシップ・「そうりゅう」です。数々の新機軸を盛り込み、帝国海軍の空母の名を襲名したことも相まって就役時に大きな注目を浴びた「そうりゅう」ですが、早いもので艦齢は9年となり、同型艦も既に8隻が就役しています。このうち呉には「そうりゅう」をはじめとする6隻、横須賀には3隻が配備されています。来年3月には10番艦「しょうりゅう」が就役予定です。

午前10時からの艦艇見学に事前申込みしていたので基地の門で手続きを済ませて集合場所へ。見学者は約30人ほどです。この程度の人数で良かった…。数年前には門の前に観光バスが何台も連なり、百人単位の団体客が押し寄せたことがありました。ツアーコンダクターらしい人もいましたので、何処かの旅行会社が広島・呉方面のツアーにこの艦艇公開を組み込んでいたようです。

その時の団体客はここが自衛隊施設であることの認識が薄いためか、目に余る行動が多々あり、見ていて不愉快になった記憶があります。その直後に呉総監部が日曜の艦艇見学をFAXでの事前申込制にし、車での来訪も禁止したのですが、手続きの煩雑化と利便性を悪化させることで、意識の低い人を排除したり見学者の数を抑制する狙いがあったのだと思われます。

本日の公開担当艦は練習艦「しまゆき」です。「ゆき」型DDの最終艦(12番艦)で、1987年2月17日に就役しました。「ゆき」型DDの多くがまだ護衛艦隊に所属していた1999年2月に、練習艦と護衛艦の装備格差を解消して教育効果を上げることを目的に、異例ともいえる艦齢わずか12年で練習艦に種別変更されました。それに伴い、母港も佐世保から呉に変更になっています。

「ゆき」型が老朽化したした現在では、「ゆき」型の練習艦は珍しくありませんが、2011年3月に「しらゆき」が練習艦に変更されるまでの12年間は、「しまゆき」は4桁の艦番号を背負う唯一の「ゆき」型として異彩を放つ存在でした。また2013年3月に、防大女子1期生(40期生)の大谷三穂2佐(当時)が艦長に就いたことでも注目され、メディアの取材が殺到したのも記憶に新しいところです。

「しまゆき」ですが、公開は上甲板のみでした。呉の日曜公開は艦橋や艦内を公開する頻度が結構高いので、今回も大いに期待していたのですが…残念!「しまゆき」は今回も含めると5回も一般公開に参加しているのですが、何故か1度として艦橋に上がることができないという、私とは逆の意味で奇跡的な関係になっています。

前甲板にいた案内役の乗組員(海士長)は女性隊員でした。凛とした表情が素敵な隊員さんでしたが、年寄り 高齢の見学者にとっては艦に女性が乗っているのが珍しく思えるのか、気の毒なくらい質問攻めにあっていました。今や練習艦のみならず護衛艦、さらにはイージス艦にも女性が乗っているというのに…。ちなみにこの隊員、左腕の階級章の上に桜の徽章が輝いていました。海士でも曹候補生の海士です。女性で曹候補生…かなり優秀な人ですよ。

「しまゆき」の後方には2隻の練習艦がいます。「やまゆき」(左)「せとゆき」(右)です。この2隻、かつては共に第8護衛隊や第12護衛隊を編成した呉ではお馴染みの護衛艦でした。特に「やまゆき」は1985年の就役以来26年もの間、呉を母港としており、長らく呉を代表する存在でした。2011年に横須賀(第11護衛隊)に転籍しましたが、練習艦への種別変更に伴って一昨年呉に戻ってきました
一方、「せとゆき」は90年代半ばに佐世保から呉に移って来て、それ以来25年近くずっと呉に‟住み続けて”います

同型である両艦ですが、こうして見るとマストに備え付けられた装備品の位置に違いがあることや、艦橋構造物上部の形状が異なることが明瞭に分かります。昔の呉を知る者としては、今は舞鶴にいる「まつゆき」が練習艦となって呉に戻って来て欲しいです。

隣のFバースには訓練支援艦「くろべ」がいます。あまり古さを感じさせない艦ですが、就役は1989年3月なので、艦齢は29年に達する‟お婆さん”です。当時私は広島在住の大学生だったのですが、在泊艦を眺めようと原チャリ(YAMAHA JOG)に乗ってアレイからすこじまを訪れたところ、特異な形状のマストを有する新造艦(くろべ)がいて驚いたことを鮮明に覚えています。あれから30年も経つのか…

当時は先輩の訓練支援艦として「あづま」という艦がいたのですが、護衛艦の攻撃用装備の主体が砲からミサイルに移り変わったために「あづま」の訓練支援に限界が生じ、「あづま」を補完する存在として「くろべ」が建造されました。「あづま」は1999年に退役しましたが、かなり特徴的な艦容を有していて、沖合に停泊していても一目で「あづま」と分かるほど。個人的には大好きな艦でした。

実は、Eバースにはもう1隻練習艦がいるのです。遠洋練習航海用練習艦であると同時に、練習艦隊旗艦でもある「かしま」です。
実は私が今回呉に遠征した理由のひとつは、この「かしま」を撮影することなのです。見てください、この特徴的な艦容を!高度にマニアック化した私のマニア心をくすぐる艦の筆頭と云える存在です。練習艦なので母港は呉なのですが、1年の半分を遠洋航海に出ており、帰国したあとはメンテナンスのためにドック入りすることもあり、呉にいる姿を撮影するのは結構難しい艦なのです。

就役は1995年で、任務の性質上、常に美しく保たれているために古さを感じませんが、艦齢は既に23年に達しています。先代「かとり」が同じ艦齢(23年)の時に代艦である「かしま」が計画されているので、「かしま」にも代艦の計画が浮上してもいい時期ではあります。

基地内では「かしま」を撮影できるアングルは限られるので、基地を出て海上からの撮影を敢行します。ということで、呉中央桟橋へ向かいます。ターミナルで遊覧船のチケットを購入して、いざ海上へ。
あれ?遊覧船が大きく、立派になっている!! チケットを見ると運航会社は「バンカー・サプライ」と記されているので、以前と同じ会社のままです。ということは、遊覧船事業でひと儲けしたので船を大型化させたということですね
(笑)

五大基地のうち、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4ヵ所で遊覧船が運航されており、いずれも大きな人気を呼んでいます。中でも横須賀の業者は何度も船を更新し、その度に船は大きく豪華になっています。相当な利益が上がるのでしょう。このような海自基地の観光資源化は、私が学生だった30年前は全く想像できませんでした。

遊覧船が出港してすぐ、右舷側に2隻の掃海艇の姿が見えました。掃海管制艇に種別変更されている「ゆげしま」(左)「ながしま」(右)です。なかでも「ながしま」は、先月下旬に種別変更されたのに伴って13年ぶりに呉に戻ってきたばかりです。前所属は函館の第45掃海隊で、おととし6月のマリンフェスタ大湊以来の再会です。

大湊で乗艦した際には船体の痛みっぷりの激しさからか、案内役の乗組員から「本艇は今年度末で退役だよ…」との説明を受けたのですが、ところがどっこい、退役どころか掃海管制艇という新たな人生を歩み始めました。いいぞ、頑張れ!「ながしま」!!
古参の掃海艇を種別変更する掃海管制艇ですが、「うわじま」型最後の2隻である「ゆげしま」「ながしま」が最後となります。次型式「すがしま」型は種別変更されず、101掃海隊も解隊される予定です。

遊覧船の船上はこんな具合。天気も良好ということもあり、大半の乗船客は露天の2階部分に詰めかけ、かなりの混雑具合です。
驚くべきことに、こんなに混雑しているのに三脚を立ててビデオカメラで艦を撮影している人がいるのです。しかも、他の乗船客が身を乗り出して少しでも画面に見切れようものなら、「どけ!」と恫喝する有様。叱り飛ばされた少年は船を降りるまでショボンとしていました。年齢は私と同じくらい。いい歳して何してるんだ!
(怒)

ガイドさんも2階にいます。海自OBらしくとても詳しい説明をしてくれるのですが、口調が物々しいというか講談調でちょっと笑えます。船内には自衛艦旗の小旗が備え付けられていて、乗船者が自由に使うことができます。艦上で作業中の隊員がいると、ガイドが「皆さん、艦旗を振って励ましましょう!」と煽動(?)します。

狙い通りのベストアングルで「かしま」を撮影することができました♪
高度にマニアック化した(くどい!)私のマニア心はズキズキと疼きまくりです
(笑)「かしま」には他の自衛艦にはない優雅さと気品を感じます。やはり世界各地を巡航する練習艦隊旗艦という役割が、そのような雰囲気を醸し出しているのでしょう。

こうして見ると、乾舷が異様に高いことが分かります。これは長期航海に不慣れな実習幹部のために、外洋での航海で艦が安定するための船体形状(乾舷が高く幅が広い)を採用しているのです。加えて、艦内容積の拡大や諸外国を巡るのに相応しい威風堂々とした艦容という効果も期待されました。帝国海軍の「香取」型練習巡洋艦も同じような船体を採用していて、練習艦においては艦名以外の点にも帝国海軍との共通性が観てとれます。

「かしま」を後方から撮影。上甲板と訓練甲板(後部甲板)を繋ぐ傾斜=オランダ坂と、壁面をくり抜いた艦尾構造がよく分かります。
オランダ坂は1950年代から60年代に建造された艦によく見られた構造ですが、90年代に建造された「かしま」がこれを採用しているのは、実習幹部や乗組員が艦上体育を行う際に、艦の全周をランニングすることができるよう配慮したためです。

後部甲板は訓練甲板と呼ばれ、遠洋航海中には様々な訓練や競技会、イベント、レクリエーションに使用されます。おめでたい紅白幕が張られているのは、今夜この訓練甲板で練習艦隊主催のレセプションが開催されるためです。「かしま」は国内巡航・遠洋航海の寄港地でレセプションを開催し、現地の方々との交流を図るとともに、実習幹部の国際感覚と社交性を涵養しています

「せとゆき」と「やまゆき」も後ろから撮影。「ゆき」型の段々畑のような艦尾構造と、極めて複雑な船体のラインに萌えます(笑)
この2隻は本年度の遠洋練習航海には参加せず、国内に残って術科学校の学生や教育隊で学ぶ海士らの教育にあたります。ちなみに、練習艦は過去に1隻の例外なく全艦が呉を母港としていますが、これは呉の対岸にある江田島に幹部候補生学校第1術科学校が所在するためです。まさに呉は海自教育のメッカといえます。

雑誌「世界の艦船」1993年12月号は、呉地方隊を特集していて、教育拠点である呉を「海上自衛官の心のふるさと」と紹介。同誌によると、海上自衛官は幹候校や1術校、潜訓で学んでいるうちに広島弁が染み付いてしまうとのこと。本当かなぁ?私は広島出身以外の隊員が「~じゃけん」と話すを聞いたことはありませんが…。

訓練支援艦「てんりゅう」も素敵なアングルで撮影することができました。こうして見るとなかなか精悍な佇まいではありませんか。先に紹介した「あづま」の代艦として2000年3月に就役しました。
遊覧船のガイドさんが、艦名は「天竜川」から付けられたと説明していましたが、訓練支援艦の命名基準は「峡谷の名」なので、誠に残念ながら説明は誤りです。「てんりゅう」は天竜峡が艦名の元で、同じく「くろべ」は黒部峡谷から名付けられています。

訓練支援艦に新造艦を充てることは世界的に見ても異例で、海自がいかに練度向上に力を入れている海軍であるかが分かります。長らく護衛艦隊の直轄艦として運用されていましたが、艦の効率的な運用と支援体制の強化を目的に2008年に第1海上訓練支援隊が新編され、「くろべ」「てんりゅう」は同隊の所属となりました。

からすこじま埠頭にはDE「あぶくま」音響測定艦「はりま」が停泊しています。「あぶくま」がこの埠頭に出船で泊まっているのは珍しい、初めて見ました。EバースもFバースもかなり空いているのに、なぜ「あぶくま」はからすこじま埠頭にいるのでしょうねぇ?

本来ならこの場所は音響測定艦「ひびき」の定位置なのですが、本日は出港していて姿がありません。かつてはこの埠頭に「ひびき」「はりま」が2隻揃って停泊している姿を頻繁に見ることができましたが、中国海軍の活動が活発化したここ数年は、2隻揃って停泊している姿を見ることが殆どなくなりました。それだけ海自が中国海軍の潜水艦の動向に目を光らせているということでしょう。音響測定のさらなる強化に向けて、約30年ぶりに3番艦が建造されることが決まっており、3年後の2021年3月に就役する予定です。

「おやしお」型潜水艦の後ろ姿です。葉巻型船体の特徴的な形状が明瞭に分かります。「おやしお」型は全11隻が建造されましたが、このうち1番艦と2番艦は練習潜水艦に種別変更されています。種別変更されても水上艦とは異なり、艦内に実習講堂を増設するといった改装はなく、装備はそのままで役割が教育と実習に変わるだけです。25年ほど前までは、練習潜水艦はセイル側面に4桁の艦番号を表示していたので一目瞭然でしたが、今は艦番号を記さないので、どの艦が練習潜水艦なのかは全く分かりません。

潜水艦の要員教育や実習には豊富な経験が必要なため、指導役を務める練習潜水艦の艦長は他艦の艦長がスライドする形で就任します。初めて艦長職に就く2佐が充てられる水上艦の練習艦とは、この点でも異なります。潜水艦の特殊性が窺えます。

遊覧船を降りたらちょうどお昼前。ということで、昼食にします。
今回の呉遠征の第2の目的は海自カレーを食べること。中央桟橋の近くに所在するビルの2階にある食堂へと向かいました。
入口のディスプレイがマニア心をくすぐるこのお店は、呉ハイカラ食堂というお店です。メディア等で紹介されたかなり有名なお店で、大和ミュージアムや海自呉史料館の近くなので休日は観光客で大賑わいとなります。私も15分ほど席が空くのを待ちました。

このお店は29種類ある呉海自カレーのうち、潜水艦「そうりゅう」のカレーを提供しており、入口のディスプレーの中には「そうりゅう」の部隊帽や記念盾も含まれています。まさに「そうりゅう」推しのお店なのですが、入口に飾られている潜水艦は、どう見ても「はるしお」型です
(笑) 艦首にソーナーがないので「ゆうしお」型かも…。

こちらが呉ハイカラ食堂の名物、「潜水艦そうりゅう テッパンカレー」です。わぁ!めちゃくちゃ美味しそうではないですかぁ!!
「そうりゅう」カレー(自衛艦旗がカワイイ)に加えて、同じく海軍発祥の料理である肉じゃが、さらには潜水艦=鯨ということで鯨肉のフライが付いています。加えて、海自の金曜カレーには必ず付いてくる牛乳まであるではありませんか!なかなかの凝りようです。

では、さっそくいただきます♪ う~ん、とても上品なお味です。去年12月の阪神基地隊行事で食べた「しまかぜ」カレーをさらに辛くした感じ。フルーツのマイルドなコクとスパイシーさが見事にマッチした逸品です。味もさることながら、艦で乗組員が使うプレートに盛り付けられているのもGoodです!このお店、内装やテーブル・イスも潜水艦を模していて、艦艇ファンは一度は行くことをお勧めします。

カレーでお腹を満たした後は、呉遠征第3の目的である場所へ向かいます。ここ数年、呉への遠征はJR(新幹線&特急)を利用していましたが、今回はこの目的のために愛車で呉に来ています。遠征第3の目的は、昭和20年7月の呉空襲で沈んだ帝国海軍艦艇ゆかりの場所を訪ねること。先日、映画「この世界の片隅に」を見たのを機に、艦たちの終焉の地を訪ねたくなったのです。

最初は呉市警固屋にあるこの記念碑。碑文には「巡洋艦青葉終焉之地」と刻まれています。そう、「この世界の片隅に」で一躍脚光を浴びた重巡「青葉」が大破・着底した場所です。当時の海岸線はかなり埋め立てられていて、ちょうど記念碑があるこの場所が「青葉」が着底していた場所にあたります。背後の山の形状が、着底した「青葉」を海側から撮った写真と同じであることに感動しました。

この季節、ツツジの花に彩られる音戸大橋を渡って倉橋島へ。この島の北西方向の海上には小さな島が浮かんでいます。その島の名は三ツ子島。この島の名にピンときた人はかなりの海軍通です。
この島、燃料不足で動けない空母「天城」「葛城」が係留され、「葛城」は中破、「天城」は大破して横倒しになったあの場所です。

戦いに敗れた帝国海軍の象徴的な一枚として有名な「天城」横転の写真ですが、画像緑色部分の辺りで横転していたようです(場所・範囲は推定)。一方、「葛城」は島の北側(呉寄り)の場所に係留されていて、その場所は矢印で示した辺りになります。
三ツ子島は無人島で、現在は島の南側にメキシコ産工業塩の保管施設があることから、対岸の倉橋島から見ると、まるで氷に閉ざされた極地の島のような不思議な景色が広がっています。

倉橋島から橋で能美島に渡り、さらに車を走らせること30分。江田島湾に突き出した小さな岬に民家風の建物があります。この建物の名は軍艦利根資料館、この岬のすぐ近くで大破・着底した重巡「利根」にまつわる各種史料を展示する資料館です。「この世界の片隅に」の影響もあり、最近俄かに注目を集めています。

昭和20年7月の呉空襲では、呉とその周辺の島々に退避していた帝国海軍艦艇12隻が沈没または大破・着底しましたが、資料館が設けられているのは重巡「利根」だけです。調べたところ、「利根」が空襲を受けた際にはこの地域にも攻撃が及び、住民に多くの死者が出たことから、慰霊と悲劇を後世に語り継ぐために慰霊碑と資料館を建設したようです。慰霊碑は資料館の建物の裏側にあり、慰霊碑がある一帯は利根公園として整備されています。

資料館に入りました。スペースの中央に「利根」の100分の1スケールの模型が置かれ、周囲に「利根」で使われていた様々な備品や乗組員の遺品などが展示されています。「利根」は大破・着底後2年近く無残な姿を晒したままで、昭和22年から23年にかけて浮揚工事ののち旧海軍工廠で解体されました。どのような経緯でこれらの備品が保管されていたのかは分かりませんが、よくぞこれだけの備品が戦後の混乱期を切り抜けて残っていたものです。

100分の1模型ですが、あまりに精巧な出来栄えに、しばしの間、見入ってしまいました。「利根」は鮮明な写真が少ないので、この模型は「利根」型重巡の詳細を把握できる一級史料だと思います。製作したのは神戸市の空田重男さん。乗組員の遺族に模型で「利根」を偲んでもらおうと、製作にあたったとのことです
(昭和53年4月完成)

展示品をいくつかご紹介。こちらは「利根」の艦内で使われていたヤカン士官用の食器(スプーン・ナイフ・フォーク)です。
「利根」の調理兵はこの鍋で料理を作り、乗組員はこのヤカンでお茶や水を飲んだのでしょうね。じっと眺めていたら、「利根」の調理室や食堂(兵員室)の賑わいが聞こえたような気がしました。

一方、士官用のスプーン・ナイフ・フォークですが、すべて柄の部分に帝国海軍のマークである桜錨が刻まれています。こちらは艦長や司令官が優雅に洋食のフルコースを味わっている光景が目に浮かびました。ヤカンにしろ食器にしろ、終戦直後の物資不足・金属不足の中で、換金や流用されずによくぞ残っていたものです。
それだけ呉の人々は帝国海軍の艦艇を愛し、艦が解体されて姿を消しても備品を大切に保管してきたということなのでしょう。

館内で最も目を引く展示品がこれ、浴槽です。現代の海自艦艇の浴室にも、これと似たような浴槽が置かれています。
戦闘や訓練で疲れた乗組員を熱いお湯で癒したであろうこの浴槽、浴室の賑わいが今にも聞こえてきそうな佇まいです。ただ、この大きさはせいぜい2人しか入浴することができません。大勢の乗組員が入浴する兵員用の浴槽にしてはサイズが小さいので、もしかしたら艦長・司令官用の浴槽(1人用)なのかもしれません。

説明プレートには「能美町 藤田義雄」と記されています。恐らく、能美町在住の藤田義雄さんが戦後ずっと自宅で保管していて、この資料館が開館する際(昭和62年)に寄贈したと考えられます。どのような経緯で藤田さんがこの浴槽を入手したのか、この浴槽が辿った数奇な運命を紐解くだけでも一つの物語になりそうです。

資料館の目の前に波穏やかな江田島湾が広がります。燃料不足で動くことができない「利根」はこの海上に退避していましたが、昭和20年7月24日と28日に敵艦載機の猛攻撃に遭い、至近弾計13発直撃弾計6発を受けて乗組員128人が戦死。艦は大破して浸水、左舷側に傾いた状態で着底したのでした。そして、22年4月までの1年9ヶ月間、この湾内で無残な姿を晒し続けます。

真珠湾攻撃を皮切りに大戦緒戦で大きな戦果を挙げ続けた南雲機動部隊(第1航空艦隊)の目として、縦横無尽の活躍をした「利根」でしたが、江田島湾で動くこともできないまま敵艦載機の攻撃に晒されたのはさぞ無念だったことでしょう。燃料不足で母港(舞鶴)に戻ることすらできずに生涯を終えざるを得なかった「利根」と戦死した乗組員の心情を思うと、胸が締めつけられる思いがします。

軍艦利根資料館の見学を終えて呉に戻ります。往路は呉→倉橋島→能美島という陸路で約1時間の行程でしたが、復路は江田島の小用港からフェリーで呉に向かうルート、所要時間は約20分です。小用と呉を結ぶフェリーは45分に1本の割合で運航されており、車両(4~6mクラス)の運賃は1500円です。このフェリーの船名は「古鷹」、重巡「古鷹」と同じく江田島の古鷹山から命名されています。

呉とその周辺部にはご紹介した「青葉」「天城」「利根」以外にも、「伊勢」「日向」「大淀」「北上」などが沈没または大破着底しています。今回は時間の都合上、それらの艦の終焉の地を訪ねることはできませんでしたが、次回の呉遠征の際には是非とも訪れたいと考えております。ちなみに、私がフェリーに乗船した小用港、ここは戦艦「榛名」が大破着底した場所でもあります。

呉に戻った後に向かったのは呉クレイトンベイホテル、ホテルで優雅におやつタイムを楽しみます♪ ということで、海自カレーです(笑)
このホテルが提供するのは、呉の最新鋭にして最大の艦・DDH「かが」のカレー。その名も「一期一会 護衛艦かがカレー」です。
食器はお昼に食べた「そうりゅう」カレーのようなプレートではありませんが、高級ホテルのカレーらしい上品な盛り付けです。

ルーの中に黒い粒が多数含まれていますが、これは黒胡麻ひじきということです。味はやや辛めの大人のカレー、食べたあと一呼吸置いてスパイシーな風味が口内に広がります。黒胡麻とひじきの風味もしっかり効いています。辛めのルーとトンカツの相性もピッタリで、知らず知らずのうちに食が進みます。あっという間に完食してしまい、思わず「おかわり!」と言いそうになりました。

夜ごはんももちろん海自カレーです(爆) 海軍さんの麦酒館というお店で潜水艦「はくりゅう」のカレーをいただきます♪
あっ、これは実家のお母さんが作ってくれるカレーだわ!
「かが」とは対照的なやや甘口で家庭的なカレー、隠し味に白桃を使っているそうです。牛肉・ニンジン・ジャガイモといった具が大きく、しかもたくさん入っているので食べごたえは十分。中でもジャガイモは油で揚げており、独特の食感と風味は癖になりそうです。

「はくりゅう」カレーと一緒にこのお店の名物である海軍コロッケも注文したのですが、こちらもなかなかの美味。海軍麦酒をあおりながら至福のひとときを過ごしました。海軍さんの麦酒館は、JR呉駅から徒歩5分程度の場所にあります。海自カレーと海軍コロッケを味わいに是非とも訪れてみてください。ごちそう様でした!

私が学生だった約30年前にはこれといった観光資源がなく、海軍の遺産と海上自衛隊しかないとの嘆きすら聞こえていた呉ですが、今やその海上自衛隊と海軍の遺産を目当てに多くの観光客が訪れるようになりました。本当に我が事のように嬉しいです。
加えて、最近は「この世界の片隅に」のファンが、ロケ地をめぐる聖地巡礼でも呉を訪れるようになっています。今ほど呉が注目されている状況はかつてなかったと云えるでしょう。

1年9ヶ月ぶりの呉遠征は盛りだくさんの内容で、春うららかな休日を存分に楽しむことができました。艦艇を撮影でき、カレーが美味しく、戦跡めぐりも楽しめる。そして、すずさんも住んでいる。そんな呉の魅力を再発見した今回の遠征でした。
よし、会社を定年退職したら呉に移住するぞ!(定年まであと約10年)

艦艇撮影・戦跡めぐり・海自カレー…春の休日を楽しみながら呉の魅力を再認識、いい街です!