復興へ!日常が戻った呉 (2018年9月 呉遠征)

9月22~23日に呉へ遠征、豪雨からの復興支援を兼ねて戦跡と海自カレーを巡る企画の第4弾!

穏やかな晴天の下で青い空蒼い海を眺めていると、とても幸せな気分になれます♪ それは恐らく、私が海軍軍人として海を愛し、海と共に生活した祖父のDNAを受け継いでいるためでしょう。
いま私がいるのは国東半島の突端にある竹田津港で、フェリーによる本州と九州の短絡ルート玄関口として、知る人ぞ知る港です。

私は7月の西日本豪雨で被害を受けた呉を再び観光で応援し、併せて現在の復旧状況を把握しようと1ヶ月半ぶりの呉遠征を計画、ここ竹田津港からフェリーに乗って山口県周南市の徳山港へ向かおうとしているのです。←に写っているのが徳山と竹田津を結ぶスオーナダフェリーです。この船が竹田津到着後に折り返しの徳山行きとなり、私はその便に乗船します。徳山-竹田津間の所要時間は2時間、運賃は乗用車(5m未満)+1人で1万2400円です。

スオーナダフェリーは、ご覧のような小さくて可愛らしいフェリーが就航しています。この船、船名を「ニューくにさき」といいます。
1994年の就航で、総トン数は725t、旅客定員380人、現在スオーナダフェリーが所有する唯一のフェリーです。1日5往復(終夜運航)をこの1隻のみで運航しており、文字通り、休む間もなく徳山-竹田津間をピストン輸送しています。
小さいのに頑張り屋さんなのです!

かつてスオーナダフェリーにはもう1隻のフェリー(進光丸)があり、2隻で10往復の運航を行っていました。しかし、乗客の減少によって2011年2月に現在の5往復にまで減便進光丸は売却されてしまいました…
(涙) 私にとってスオーナダフェリーは、学生時代から現在に至るまで利用し続けている愛着のあるフェリー会社だけに、厳しい経営環境でも何とか頑張って欲しいと切に思います。

スオーナダフェリーで徳山上陸後、山陽道東広島呉道路を走って呉に到着、さっそく海自カレーを食べに行きます♫ まずは呉の有名店である居酒屋「利根」で、DE「とね」のカレーを食べます。店名「利根」の元ネタは重巡「利根」なのかどうか分かりませんが、同じ「利根(とね)」繋がりということで、このお店は2015年に海自カレーが始まって以来、一貫して「とね」のカレーを提供しています。

一見するとキーマカレーのように見えますが、実はキーマカレー風のビーフカレーです。隠し味にトマトを入れていて、食べると肉の旨味に交じってほのかな酸味も感じます。ちなみにこの夜、「利根」は座敷席もカウンター席も客で大賑わい。私の入店で満席となるほど。「利根」は元々人気店ではありますが、豪雨で客足が遠のいていた呉の飲食店に活気が戻っているのが嬉しくなりました。

今夜も海自カレーをハシゴします。続いては、居酒屋「利根」から歩いて約5分、中通り商店街にある「多幸膳」を訪れました。このお店はお好み焼き店で、広島風お好み焼きはもちろん、呉の地元グルメである呉焼きが美味しいと評判の人気店です。呉焼きとは、焼きそばを生地で半月状に包み込んだ呉独自のお好み焼きです。カレーを注文する前に食べてみたのですが、なかなかの美味でした。

この店が提供しているのは呉基地業務隊のカレーです。特徴はとにかくルーが複雑な味であること。ツンと来る香辛料をはじめ、肉や野菜の旨味、フルーツの甘さ、酸味、さらには乳製品のコクまで感じます。それもそのはず、このカレーには隠し味としてソースや蜂蜜、ブルーベリージャム、チーズが投入されているのです。多彩な隠し味はさすが陸上部隊のカレー、とても印象的な一皿です。

翌朝、まずは宿泊先の近くにある呉線堺川踏切へ。ここは先月の遠征で、豪雨による呉線の不通によって廃線のように赤錆びたレールを撮った場所です。到着するや否や、警報機が鳴りはじめ、ほどなく広発岩国行きの普通列車がやって来ました。呉線に列車が戻ってきたんだ…駆け抜ける227系電車の姿に胸を打たれました。

呉線は豪雨によって土砂崩れ等の被害が多発したため、全線(海田市-三原)で不通になっていました。しかし、JR西日本の懸命な復旧工事によって8月2日に海田市-坂間で運転を再開、そして9月9日に坂-広間で運転が再開され、呉市中心部に列車が戻ってきたのです。線路を列車が走るのは当たり前の景色ですが、その「当たり前」がいかに大切な事であるかを実感しました。呉線を走る列車は、呉に日常が戻った象徴的な景色と云えるでしょう。

おぉ、観光客がいるではないか…。先月の遠征時に人っ子ひとりいなかった大和ミュージアム前の広場にも観光客の姿が戻っています。豪雨前の休日に比べれば数は少ないのですが、この観光客の姿にも呉に日常が戻ったことを実感しました。嬉しい~♪

夏休み期間中の書き入れ時に前年比8割減という悲惨な状況に追い込まれた大和ミュージアムですが、秋の行楽シーズンに一人でも多くの観光客が訪れて欲しいものです。私が見て感銘を受けた企画展「戦艦『長門』と日本海軍」は、当初は来年1月20日までの予定でしたが、豪雨による交通マヒで来館できなかった人のために、会期が3月24日まで延長されました。貴重な資料が目白押しなので、ぜひ来館してご覧になっていただきたいと思います。とりわけ「長門」の軍艦旗と「陸奥」の装甲鈑は一見の価値ありです!

呉基地をめぐる遊覧船にも乗ったのですが、ご覧のとおりほぼ満員の状態です。特に眺めがいい2階部分は座席部分は満席、立見席も立錐の余地がないほどのお客さんで溢れています。ここにも観光客の回帰を見てとれますが、場所を移動できなかったり客が写り込んだりと、撮影がしにくいのは何とも痛し痒しです…(苦笑)

隣にいるカップルは「インスタ映えを狙っちゃお~」とか言ってるし、こと遊覧船に関しては8月の観光客が少ないゆるい雰囲気の方が良かったです…。まぁ、遊覧船の運航会社は満員になるほどの観光客が戻ってきてホッと胸を撫で下ろしているでしょうけど。
ちなみに私、「インスタ映え」という言葉が大嫌いです!艦艇に魅了されて写真を撮るのではなく、己がSNS上で目立つために海自艦艇を被写体として利用することに腹立たしさを感じます。

リア充への攻撃を始めたら止まらなくなるので、ここで気分を変えてこの日の在泊艦艇を紹介します(笑) 残念ながら「かが」「いなづま」「さみだれ」「さざなみ」「とわだ」といった艦は出港中で不在でしたが、「うみぎり」が撮影しやすい絶好の位置に停泊していました。
鋭く尖った艦首、船体に刻まれたナックルライン、林立する二本のマスト、巨大な箱形格納庫…「きり」型DDは魅力に溢れています

今でこそ旧式となり地域護衛隊(12護隊)に所属している「うみぎり」ですが、90年代初頭は「きり」型の最終艦として艦隊の中核を担う眩しい存在でした。当時の母港は横須賀で、93年の春に「はまぎり」「せとぎり」と共に呉に来航して一般公開を実施、乗艦した私は「呉にもこんな艦が欲しいな…」と心を躍らせたのを覚えています。あれから25年、「うみぎり」はいま呉の一員として頑張っています

右舷後方から見た「うみぎり」です。やはり、「きり」型は斜め後ろから見るフォルムが美しいですねぇ…♫ 実は25年前の一般公開で撮影した写真が残っているのですが、斜め後ろの位置から撮った写真が多く、当時の私が既に今と同じように「きり」型の斜め後方から見た姿に心を撃ち抜かれていたことが分かります。

ヘリ甲板に対潜ヘリが載っているのに注目!ヘリ搭載艦は母港に入港する前にヘリを所属する陸上基地に戻すのですが、この「うみぎり」には何故かヘリが載っています。ヘリの周囲には飛行長と第5分隊の乗組員がいて整備作業を行っています。恐らく「うみぎり」は明日にでも出港して、対潜訓練を実施すると思われます。飛行長も隊員も仕事中なのに、遊覧船のガイドは「皆さんで手を振りましょう!」と煽動、客は手を振ったものの、案の定、無視されました
(笑)

先月「さみだれ」がいたJMUのエリアには練習艦「しまゆき」がいます。しばらくの間、整備作業を受けるようです。艦艇は海上という非常に腐食が起きやすい場所で活動するので、こまめに整備を受けなければ、艦の能力を十分に発揮することができません。艦の整備は毎年受ける年次検査と、4~5年に1度の頻度で受ける定期検査の二種類があるのですが、この「しまゆき」はどちらでしょうか?

年次検査は兵装や部品の点検・交換といった内容ですが、定期検査は艦を進水直後の状態まで分解して徹底的なオーバーホールを行うもので、期間は5~6ヶ月にも及びます。この「しまゆき」は、構造物の周囲に多くの足場が設けられているので、定期検査を受けている可能性が高そうです。JMU呉事業所は海軍工廠時代と変わらず、呉所属艦の整備に大きな役割を果たしています。

遊覧船を降りたあと、愛車を約1時間走らせて呉市安浦にあるゴルフ場「呉カントリークラブ」にやって来ました。もちろんゴルフをプレイするためではありません。ここで海自カレーを食べるのです。このゴルフ場、呉市中心部からかなり離れており、車でなければ到達は困難を極めます。車を使ったとしても、現在は豪雨によって国道からのアクセス道が通行止めとなっているために大きく迂回しなければならず、「しまゆき」カレーを提供している大崎下島の海の駅「とびしま館」と並ぶ、最高の到達難易度となっています。

このゴルフ場自体も豪雨で大きな被害を受けたため休業を余儀なくされており、8日前の9月15日に営業を再開したばかりです。豪雨被害から懸命の努力で営業を再開したことに敬意を表し、併せて微力ながらも応援させていただこうと考え、訪れた次第です。

ここで食べられるカレーは、潜水艦「まきしお」のカレーです。見るからに美味しそうな雰囲気を醸し出しているではありませんか!食べるとすぐに煮込んだ牛肉の旨味とフルーツの甘みが口内に広がるのですが、これがとても上品かつ爽やかな味なのです。
これだけでも高評価に値するのですが、さらに二呼吸・三呼吸遅れてスパイスの刺激が押し寄せて来ます。このスパイシーさと爽やかな甘さの調和が絶妙で、これまで食べて来た21種類の海自カレーをごぼう抜きし、一躍「マイ№1海自カレー」に躍り出ました。

7月1日から提供が始まったものの、豪雨による営業休止で僅か6日間しか提供されず「幻のカレー」となっていました。これだけ美味しいカレーだけに、関係者はさぞ無念だったことでしょう。営業再開となった今、ぜひとも多くの人に食べてもらいたいカレーです。

実は「呉カントリークラブ」を訪れたのには、もうひとつ理由があります。同じ安浦町内に興味を惹かれた構造物があるのです。
それがこちら、安浦漁港の防波堤です。何だか変わった形の防波堤ですねぇ…まるで船のような形をしています。フネ好きの方ならもうお分かりですね。この防波堤は北九州市の若松港と同様、戦時中の艦船を再利用した軍艦防波堤なのです。正確にはこの船は輸送船なので、さしずめ輸送船防波堤といったところでしょうか。

この輸送船は名を「第一武智丸」
(手前)「第二武智丸」(奥)といい、太平洋戦争中の鋼材不足を克服するために建造されたコンクリート船なのです。コンクリートは重くて水に浮かばないイメージがありますが、技術を駆使すれば船を造ることができるのですね…驚きました。当時の日本の造船技術が優れていた証拠とも云えます。

「第一武智丸」を船首から船尾方向を眺めた様子です。手前の錨鎖用の設備が、このコンクリートの塊が紛れもなく輸送船だったことを物語っています。近くで見ると、こんなにゴツいコンクリートの船体がよくぞ水に浮いたものだと感心せざるを得ません。コンクリート船は舞鶴海軍工廠の所属だった林邦雄・技術中佐が研究と設計を行い、その有益性が評価されて採用になりました。

「武智丸」は昭和19年から20年にかけて4隻が建造され、瀬戸内海において資材や雑貨等の運搬に従事していました。この頃になると瀬戸内海には至るところに米軍が機雷を撒いていたのですが、船体がコンクリートの「武智丸」には機雷が反応せず、鋼鉄製の貨物船や輸送船が触雷して沈んだり大破するのを横目に、「武智丸」は悠々と瀬戸内海を航行していたという武勇伝も残っています。

「第一武智丸」の上甲板です。中央の大きな穴は船倉で、海水が充満しています。奥の一段高くなった場所に艦橋構造物が設置されていました。艦橋やクレーン等の各種設備は防波堤となった際にも大半が残っていたそうですが、その後の金属価格の高騰によりすべて持ち去られてしまい、今はコンクリートの船体が残るのみです。

戦前、安浦港には防波堤が無く、台風が襲来する度に漁船に被害が出ることに住民は頭を痛めていました。昭和22年、当時の漁協組合長が関係機関に働きかけた結果、県が「武智丸」を防波堤として据え付けることを決定、当時のお金で800万円もの巨費を投じて2隻の「武智丸」が安浦港に沈設されました。昭和40年代に撤去の計画が持ち上がりましたが、船体が非常に強固で重いため撤去は立ち消えとなり、今なお安浦港を高潮から守り続けています。

呉市中心部に戻る途中、呉線の安登駅に立ち寄りました。ご覧のような小さな駅舎の無人駅ですが、周囲にはまとまった集落が形成されているので、1日平均で450人程度の利用があります。安登地区の住民にとっては重要な公共交通機関であるのは言うまでもありませんが、実はこの駅、豪雨の影響で今は休止状態にあります。

7月の豪雨で呉線が全線不通になったことは既に述べましたが、海田市-広間で運行が再開された後も、この安登駅を含む広-三原間は依然として不通のままとなっています。なので、駅舎と駅前広場には利用者の姿はなく、駅の入口に掲示されている時刻表には代替バスの時刻表が貼られています。つまり駅舎は今、代替バスの待合室でしかないのです。列車が来ず、利用客の姿もない駅には何とも言えない寂しい空気が漂っています…
(涙)

安登駅の構内には227系電車が停まったままとなっています。 
この列車はあの豪雨の中を懸命に走っていたのでしょうけど、ここ安登駅に着いたタイミングで運行が取り止めとなり、さらに各地で線路に被害が出たことから、三原方面にも海田市方面にも行くことができなくなり孤立してしまったと思われます。2ヶ月半もの間放置されているにも関わらず、車両はほとんど汚れていません。恐らく、JR西日本の職員が定期的に整備・点検をしているのでしょう。

安登駅を含む安浦-安芸川尻間の運行再開は11月になる見込みです。この駅に1日も早く賑わいが戻ることを願わずにいられません。呉市の中心部では日常がほぼ戻っている一方で、安浦をはじめとする郊外の地域では、まだまだ豪雨の爪痕が色濃く残り、市民生活も豪雨前の日常を取り戻せていないのが実情です。    

安登駅は道路マニアの間では非常に有名な場所でもあります。その理由は、駅前に日本一距離が短い県道が存在するからです。その県道とは広島県道204号安登停車場線で、安登駅前から国道185号交点までの総延長10.5m幅18.7mの道です。おおよそではありますが、画像中の黄色エリアが県道204号となります。どう見ても国道185号と駅前広場が繋がっているようにしか見えません。

「日本一短い県道」という栄冠については、長野県上田市の県道162号とこの県道204号との間で論争があります。上田の162号は実延長こそ7mと安登の204号よりも短いのですが、国道との重複区間があることから総延長は137mあり、204号よりも長くなります。つまり、見た目の短さは上田の162号が日本一ですが、県道としての実の長さでは安登の204号が日本一短いということになります。

呉市中心部に戻り、アレイからすこじまへ。艦船マニアの超定番撮影スポットであるアレイからすこじまですが、実は呉市内に残る貴重な戦争遺跡のひとつでもあるのです。普段あまり意識しませんが…。アレイからすこじまは今は綺麗に整備された公園ですが、戦前、公園とその一帯は呉海軍工廠の一部で、からすこじまの岸壁と桟橋は主に潜水艦用・魚雷搬出用の施設として使用されていました。

公園の南側にクレーンが残っていますが、これは当時実際に魚雷の積み降ろしに使用されていたクレーンが静態保存されているのです。伊号潜水艦をはじめとする帝国海軍の潜水艦に搭載されていた魚雷は、このクレーンによって各艦に補給されていたと考えると胸が熱くなります。まさに歴史の生き証人です。一応、中に入れますが、危険なので立ち入るのはやめた方がいいと思います。

使われていない古い桟橋は、潜水艦用の桟橋だったものです。今は公園の一部としてひっそりと佇んでいますが、この桟橋に伊号潜水艦が横付けしていたかと思うと、胸だけでなく全身が激熱となりそうです。耳をすませば、出入港や補給作業によって潜水艦乗組員で賑わう当時の桟橋の活気が聞こえてきそうです。桟橋上の中央には魚雷を運搬するトロッコの軌道も残っています。

アレイからすこじまの正面には海自の潜水艦桟橋(Sバース)があり、からすこじまは戦前・戦後ともに潜水艦と深い関わりがあることに歴史的な繋がりを感じます。海軍工廠の遺産といえば、ここから少し離れた現JMUの敷地内に、巨大なクレーンが93年頃まで残っていました。大きさと赤錆びたその姿は迫力満点で、加えて歴史の重みで何ともいえない独特の雰囲気を漂わせていました。

アレイからすこじまの道路向かいにある赤レンガの倉庫群も呉海軍工廠の遺産です。今は戦後に買い取った民間企業が倉庫として使っていますが、空襲による損傷を修復した以外は大きく手を加えられておらず、ほぼ当時の姿のままで残っています
↑の倉庫は手前から8号庫・9号庫・10号庫で、真ん中の9号庫は戦後に8号庫と10号庫を修復した際に新たに建てられたものです。

8号庫は水雷倉庫工廠電気部の工場として使用され、10号庫は弾丸倉庫や8号と同様に工廠電気部の工場として使用されていました。よく見ると二階の窓が塞がれていますが、恐らく空襲で至近距離に着弾があった際に備えての爆風避けだと考えられます。
これらの倉庫群はおととし、呉の歴史的魅力を語り継いでいる点が評価され、文化庁の日本遺産に認定されています。

上記の3棟から少し離れて4号庫が建っているのですが、その4号庫がお土産店&休憩所としての機能を備えた澎湃館として9月2日にオープンしました。入口は赤レンガの重厚感ある佇まいはそのままに、倉庫群のイメージを損なわないデザインの看板と装飾が設置されています。からすこじまの周囲は休憩や買い物ができるお店が少なかっただけに、澎湃館のオープンは非常に嬉しいです♫

4号庫は8号・9号・10号と共に、呉を代表する企業である大之木グループの会社(呉貿倉庫運輸)が倉庫として使っていましたが、元々は工廠の兵器庫として建設され、大戦中は工廠電気部の事務所となっていた建物です。私は大学生だった30年前からこの倉庫を見続けてきましたが、このような形で利用されることになるとは夢にも思いませんでした。とても素晴らしいことだと思います。

澎湃館(4号庫)の内部へ。開館にあたっては外観・内部ともに現状を極力残すことを心掛けたということで、壁や柱の大部分は海軍工廠の倉庫・事務所だった時代の物です。まさに歴史を肌で感じる店内です。赤レンガ倉庫は企業の倉庫であるため、これまで内部を見ることができませんでしたが、澎湃館の開館で倉庫内部を見ることができるようになったのは非常に意義があると思います。

店内には海自グッズの販売スペースのほか、呉のお土産販売スペース、休憩用スペース、海軍史料スペース、自撮りスペース、カフェがあります。まさに海自マニア・艦船ファンにとっては夢のような空間です♪ 同時に呉の新たな観光拠点となりそうです。ところで、澎湃館の「澎湃」の意味ですが「水や波が漲って逆巻く様子」「物事が盛んな勢いで沸き起こる様子」とのことです。

オリジナル海自グッズの販売スペース、商品棚は艦の個人用ロッカーをイメージしています。「かが」「さみだれ」「さざなみ」「しまゆき」「はくりゅう」「呉警備隊」という6部隊のTシャツやパーカー、タオル、マグカップ等が販売されています。どの商品も澎湃館オリジナルのグッズで、なかなかにマニア心をくすぐるデザインと商品ラインナップです。購買意欲をくすぐられた私は、「かが」のパーカー「しまゆき」のTシャツ、さらにレトルトの海自カレーを3パック購入しました。澎湃館オープンのご祝儀代わりです(笑)

グッズは上記の6部隊ですが、私としては呉所属艦イチオシの「とわだ」のほか、「いなづま」「うみぎり」「かしま」といった艦のグッズも制作・販売して欲しいです。お店のアンケートにもその旨を記入したので、海自グッズの今後の展開に期待が膨らみます。

資料の展示スペースには、海自カレーの歴代パンフレット全店コンプリートの記念品が展示されています。呉の海自カレーは2015年にスタートし、2015年の記念品は海曹士が艦で使っている食事用プレート、2016年がコーヒーカップ、2017年が金属製カレー皿だったようです。今年の記念品はピンバッジですから、かなりのスケールダウン感は否めません。過去3年間で予想以上に達成者が出てしまって予算的に苦しくなっているのかもしれません

私は今年、コンプリートを目指して海自カレーを食べ歩いていますが金属製カレー皿が欲しいので去年食べ歩きをすればよかったと少し後悔…。とはいえ、海自カレーによって呉の飲食店を知り、大崎下島や倉橋島などあまり縁がなかった場所に行ったりと貴重な経験をしているので、頑張って食べ歩きを続けたいと思います。

資料コーナーの一角に、飛行服を着た海軍士官の写真零戦21型の模型が飾られています。この人の名前は大之木英雄さんといい、この澎湃館を運営している大之木ダイモの社長や大之木グループの会長を務めていた人で、おととし94歳で永眠。大之木ダイモの現社長・大之木小兵衛氏の大叔父にあたります。学徒出陣で海軍に入隊して戦闘機搭乗員となり、特攻要員としての訓練中に終戦を迎えました。戦後は家業の大之木組に入社し、大之木グループを広島を代表する企業にまで育てあげました。

大之木ダイモが澎湃館を開館させたのは商売という観点だけではなく、先代社長が海軍ゆかりの人物であったことも大きな理由と思われます。澎湃館は単なるお土産ショップ・休憩所ではなく、大之木英雄さんの平和への願いを具現化した施設なのです。

レジカウンターには澎湃館のオープンを祝うイラストが飾られています。作者がわざわざ来店して、館のスタッフに手渡したのでしょう。あっ、一番右のイラストは「しまゆき」ちゃんではないですか!練習艦「しまゆき」の舷門近くに飾られているあの娘です。作者はひざきりゅうたさんというお名前で、開館前の8月20日に訪れたようです。

一方、左端は私が大好きな銀時さんのイラストです。4護隊の4人(かがちゃん、いなづまちゃん、さみだれちゃん、さざなみちゃん)に加え、澎湃館のキャラクター(名前未定)も描かれています。記されている日付は「2018.9.23」、あれっ!今日じゃないですか!驚く私に店員さん曰く、「銀時さんはつい数分前までいましたよ。外を探せばまだ近くにいるのでは?」。8月に続いて今回も私と銀時さんは同じ日に呉にいたのです。お会いしたかったなぁ…。

午後3時になったのでおやつタイム!澎湃館で買ったグッズが入った大きな紙袋を引きずりながら、赤レンガ倉庫群の並びにある港町珈琲店へ。このお店が提供する海自カレーをいただきます。ドロッとしたルーが特徴のこのカレーは、潜水艦「くろしお」のカレーです。とにかくルーの粘度が半端ない!仮に航行中の「くろしお」が波浪で50度、60度傾いたとしても、このルーは絶対に皿からこぼれません。結構辛めで濃厚な味、粘度が高い(=水分が少ない)味も辛さもギュッと凝縮されているような感じです。

大きな肉とニンジンが入っているのも特徴ですが、肉はトロトロに柔らかくてコラーゲンたっぷりの牛スジ肉です。昨夜食べた呉業務隊のカレーにも牛スジ肉が使われており、海自にはカレーに牛スジ肉を使用する艦や部隊が結構多いのかもしれませんね。

夕食の海自カレーは少し意外なお店へ。東片山町(二河公園の近く)にある焼肉店「富士」で、訓練支援艦「てんりゅう」のカレーをいただきます。煙を立てながらジュージューと威勢よく肉を焼くグループ客の狭間で、ひっそりとカレーを食べました(笑)

このカレー、先の「くろしお」とはとても対照的。ルーのサラサラ感が半端ないです!「てんりゅう」が少しでも時化た海を航行しようものなら、間違いなく皿からこぼれるでしょう。それくらい粘度がありません。牛肉やジャガイモ、ニンジンといった具が大きいのも特徴、どちらかといえば、カレー粉入りの超ツユだく肉じゃがにご飯が入っているといった趣です。焼肉の締めに食べることを想定しているためか、ご飯の量はかなり少なめ。お腹いっぱいになりたい人は、500円プラスして牛肉をトッピングするのがいいと思います。

翌朝、帰路に就こうとしていると呉駅の喧騒が聞こえてきました。列車が入線・発車する走行音、発車メロディ、そして利用客の声…7月の豪雨から2ヶ月あまりの間消えていた呉駅の日常風景が戻っていることに何ともいえない嬉しさを感じました。

列車が運行を再開し観光客が戻った呉市は、ほぼ豪雨前の日常が戻った…と言いたいところですが、天応安浦といった郊外ではまだ家が土砂に埋まったままだったり、呉線の広-三原間は依然として不通だったりと、同じ呉市内でも豪雨被害で日常が戻っていない地域が多々あるのも紛れもない現実です。一刻も早く呉市全体の復旧が完了することを切に願うとともに、学生時代から愛する街・呉を微力ながらも応援し続けることを改めて決意した遠征となりました。頑張れ呉!負けんな広島!!

呉線を走る電車の姿に豪雨被害から立ち上がった呉の底力と執念を見せつけられた気がしました。