幹部候補生学校 卒業式

3月16日に挙行された海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式を撮影・取材することができました。
江田島での厳しい教育と訓練を乗り越えた若き海軍士官たちの旅立ちの模様をレポートします。


青空に赤茶色のレンガが映えて美しい!!ここは江田島の海上自衛隊幹部候補生学校です。旧海軍兵学校だったこの場所は、今も変わらず海軍士官(海自幹部)を育成する学校ですが、本日3月16日に第69期一般幹部候補生課程第71期飛行幹部候補生課程の卒業式が挙行されます。私は光栄にもその卒業式に臨席するために江田島を訪れているのです。

毎年この時期に多くの幹部候補生がこの幹候校を巣立っていくのですが、今年の卒業式は私にとっては特別な卒業式です。
というのは、当HP開設時からの愛読者であるHN「函館の少年」ことT君が、第69期一般幹部候補生課程を修了して卒業生のひとりに名を連ねているからです。実は私、過去に見学や取材で幹候校を何度も訪れたことはありますが、卒業式に臨席するのは初めての経験です。初めての卒業式臨席がT君が卒業する年になるなんて、何か不思議な運命的なものを感じます。この江田島の地で1年間、厳しい教育と訓練を乗り越えたT君と同期生たちの晴れ姿がとても楽しみです。

卒業式の開始まで少し時間があるので幹候校の敷地内の施設をいくつか見学、そのうちのひとつ学生館です。その名のとおり、候補生たちの居住の場です。館内には自習室や寝室(1部屋に4人)、浴室、食堂などがあり、加えて、1階には候補生たちの生活指導係である「赤鬼」「青鬼」(正式名称は幹事付)の執務室である学生隊本部が入居しています。部屋の整理整頓や毛布・シーツの畳み方などに不備があった際、それらが容赦なく吹き飛ばされて壊滅的な被害が発生する「江田島台風」が襲来するのもこの建物です。

この学生館は1998年に完成したもので、それ以前は幹候校のシンボルである赤レンガ庁舎の2階部分が候補生の居住空間でした。当時の候補生は旧海軍時代と同様の大部屋で、冷暖房もない過酷な生活環境のもとで寝起きをしていました。
卒業式の会場に向かうのか、2人の女性候補生が駆け足で出てきました。私の前を通りすぎる際、爽やかな笑顔で敬礼してくれました。

卒業式の開始時刻が近づいたので赤レンガ庁舎前の広場へ。式に臨席する海上幕僚長を出迎えるために候補生たちが一列になって整列しています。あぁ、なんて美しい列なのでしょう!身長順に整列しているので、凸凹のない流れるように美しい列が形成されています。そして候補生ひとりひとりの立ち姿のなんと美しいことか、しかもまるで置物のように微動だにしない…これが海軍時代から続く「江田島教育」で心身ともに磨き抜かれた若者の姿なのです。海軍式教育の素晴らしさが具現化された光景といえるでしょう。

私の周囲には候補生の親御さんたちがいるのですが、かくも凛々しい息子・娘の姿を見てさぞや感激していることでしょう。ちなみに私も親のような気持ちで列の中にT君の姿を探したのですが、人数が多すぎて発見できませんでした
(苦笑)
候補生の後ろにある松に注目!曲がって伸びる松も、ここ幹候校では厳粛な空気に触れて候補生同様にまっすぐ伸びています

午前9時25分、海幕長・村川海将が到着、栄誉礼に続いて整列している候補生たちの敬礼(手を挙げずに顔を向ける敬礼)に対して、歩きながら候補生ひとりひとりに対して答礼を行います。海幕長に敬礼している候補生は、海幕長の動きに合わせて顔を動かします。
海幕長の後ろには四つ星と錨があしらわれた海幕長旗が続き、幹部候補生学校長の南将補と教育部長の久保1佐が随伴します。

海自最高位の海幕長が醸し出すオーラと朝日に輝く階級章に圧倒されたのか、候補生たちは皆緊張した表情です。離れた場所で撮影している私にも、候補生たちの緊張感がカメラのファインダー越しにひしひしと伝わってきます。

午前10時から大講堂にて卒業式が行われます。この大講堂も海軍時代からの建物で、名だたる帝国海軍軍人らが卒業証書を受け取り巣立っていったこの場所で、T君をはじめとする今年度の候補生たちも卒業式に臨むのです。まだ式は始まっていないのですが、ピンと張り詰めた空気を感じます。これが伝統の重みというものなのでしょうか…。

この大講堂は1917(大正6)年に海軍兵学校の儀礼の場、精神教育の場として建設されました。完成から100年以上経った今でも幹候校と第1術科学校の入校式・卒業式で使用されているほか、海軍を題材にした映画・ドラマのロケが行われることがあります。
壇上奥の高くなった場所は玉座で、海軍時代に天皇や皇族が儀式に臨席する際に席が設けられた場所です。海軍時代と同じ形式で行われる幹候校の卒業式では、この玉座に座った天皇に敬意を払う所作が随所に残っています
(代表的な所作がのちほど出てきます)

壇に向かって候補生と教官、一部の来賓が座り、その後方には候補生たちの親御さんや親戚の方々が座ります。
私のような候補生の身内ではない臨席者は2階のテラス部分に座ります。私の周囲には江田島市民や自衛隊支援者、各地の地方協力本部や部隊の招待者のほか、式典用の音楽を演奏する呉音楽隊の隊員も陣取っています。特に今年度は去年7月の西日本豪雨で大きな被害を受けた江田島市を激励する意味もあって、例年より多くの江田島市民が招待されているということです。

この大講堂の外観は白亜の石造りで重厚な雰囲気ですが、内部はご覧のような優美かつ温もりのある雰囲気となっています。建築から100年の歳月を過ぎても変わらぬ美しさから、当時の海軍がいかに兵学校施設の建設に力を入れていたかが窺えます。

卒業式は候補生への卒業証書の授与から始まります。本日卒業するのは一般幹部候補生課程の190人第71期飛行幹部候補生課程の44人(合計234人)ですが、課程別に五十音順に候補生の名前が呼ばれ、学校長から卒業証書が授与されます。壇の袖に整列している候補生は名前が呼ばれると「ハイっ!」力の限りの大声で返事をしたあと前に進み出て学校長に正対、学校長から差し出された証書に右手→左手の順で手を添え、学校長が証書から手を離した瞬間に素早く証書を縦向きに起こします。

壇上に高官たちがずらりと座っていますが、前列には村川海幕長のほか杉本呉総監、中畑1術校長、後列には梶元練習艦隊司令官、西脇4護群司令、佐藤1潜群司令、伊藤広島地本本部長らがいます。一方、私の席からは見えない反対側には湯崎広島県知事や新原呉市長、明岳江田島市長、地元選出国会議員(秘書が代理出席)らが座っています。
国会議員の欠席にはガッカリだ…。

卒業証書を受け取った候補生は身体を進行方向に向け、歩きながら証書を半分に丸めて左の脇で抱えるように持ち替え、そののち壇上から降ります。どの候補生も名前を呼ばれてから証書を受け取り、壇から降りるまでの一連の所作が流れるように美しい!もちろん事前に何度も立て付け(予行練習)をしているのでしょうけど、候補生たちの溌溂とした姿と美しい所作に心が洗われる思いがしました。と同時に、自分自身の品の無さやだらしなさが恥ずかしく思えて胸が痛みました(苦笑)

南学校長は卒業する候補生234人全員に卒業証書を手渡します。もちろん証書を手渡す際には言葉を発することはありませんが、候補生たちに心からのお祝いと激励をしていることをその表情が雄弁に語っています。「よく頑張ったな、これからも頑張れよ!」と候補生ひとりひとりに語りかけているように私には思えました。学校長にとって候補生は我が子のように可愛いいのかもしれません。

そして、ついにT君の順番です。「〇〇〇〇(T君の本名)!」と名前が呼ばれると、T君はそれまでのどの候補生よりも大きな声で「ハイ!!」と返答、学校長の前に進み出て卒業証書を受け取りました。この瞬間、T君は晴れて幹候校を卒業したのです。
T君の晴れ姿を写真に収めようと私はシャッターを押し続けたのですが、突然ファインダーの視界が曇ってしまいました。なぜ視界が曇ったのか…T君が卒業証書を受け取った瞬間に私の涙腺が崩壊大粒の涙が目から溢れてきたのです。自分の事のように、いやそれ以上に嬉しくて嬉しくて…撮影しながら心の中で何度も「T君おめでとう!」と連呼せずにはいられませんでした。

T君の親御さんも函館から駆け付けているのですが、私が涙を流すくらい嬉しいのだから、親御さんはこの晴れ姿を見て言葉に表せないくらい感激しているのではないでしょうか?それはT君の親御さんに限ったことではなく、候補生全員の親御さんやお身内の方々に当てはまると思います。こんな立派な若者に成長すれば、幼少期からの子育ての苦労も報われたと感じることでしょう。息子・娘を立派に成長させたいと考えている子育て中のご夫婦、ぜひとも将来の進路に自衛隊、とりわけ海上自衛隊をご検討ください

卒業証書の授与が終わりに近づいたころ、制服の左胸にウイングマーク(航空徽章)を付けた候補生が現れました。飛行幹部課程の候補生たちです。彼らが幹候校に入校するまでの経路は一般幹部課程とは大きく異なります
飛行幹部は高校卒業後に航空学生として入隊、小月教育航空隊にて基礎教育と術科教育を2年間受け、さらに固定翼・回転翼・戦術航空士の要員別に各地の教育航空部隊で技術を磨いてウイングマークを取得(=教育過程を修了)、その後に幹候校に入校します。この時点で入隊から既に6年近くが経っていることから、飛行幹部の幹候校での教育期間は半年で、毎年9月に入校してきます。

航空学生は毎年70人程度が採用されますが、本日卒業する飛行幹部は44人。つまり26人が約6年間の教育期間に脱落したことになります。空のエキスパートを養成する航空学生ですが、飛行幹部になるのもかなりハードルが高いということが分かります。

候補生234人全員の名前を読み上げていたのはこちらの幹部(右)、非常に聞き取りやすく、よく通る声でした。式が終わるまでに声がかすれたり、声量が落ちたりすることがなかったのは流石の一言。卒業式という候補生の晴れの場で名前を間違うことは厳禁だけに、大きなプレッシャーもかかっていたと思われますが、それを感じさせない仕事ぶりに海自幹部のタフさを垣間見た気がしました。
この幹部は幹候校の教官だと思われますが、2尉の階級章を付けているので、もしかしたら「赤鬼」「青鬼」のどちらかなのかもしれません。一方、左側の3佐の幹部は進行役で、この幹部もよく響く美声で卒業式を見事に仕切っていました

卒業証書の授与に続いて成績優秀者の表彰が行われます。一般幹部課程の防大出身者、一般幹部課程の一般大出身者、飛行幹部課程の3部門における成績優秀者上位5名が表彰を受けます。海軍時代の「恩賜の短剣」の授与に相当する名誉ある表彰です。
↑の候補生は防大出身組のトップで、一般幹部課程全体でもトップ(=クラスヘッド)とのこと。厳しい教育と訓練が行われる幹候校でトップの成績を収めるなんて、何てすごい若者なのでしょう。クラスヘッドである現役の幹部を何人か知っていますが、皆さん頭脳明晰かつ人格円満な素晴らしい人ばかり…この候補生も恐らく頭脳と人格を両立させた素晴らしい若者なのだと思われます。

候補生を生活指導で震え上がらせる「赤鬼」と「青鬼」はクラスヘッドが就任する習わしになっていることから、この候補生も4年後に「鬼」としてこの江田島に戻ってくる可能性が高いです。本人は自分が「鬼」になるなんてとんでもないと思っているでしょうけど…。

海軍時代とは異なり、成績優秀者の表彰では「恩賜の短剣」は授与されません。当然ですが…。しかし、表彰における所作は海軍時代と同じです。学校長から表彰状を受け取った候補生は壇下の自席に戻るのですが、回れ右をするのではなく、身体を正面に向けたまま後ろ歩きで階段を降りて自席に戻ります。顔は後ろを向いていますが足元が見える訳ではないので、ほぼ感覚で階段の幅と高さを推測しながら階段をくだるのです。撮影しながら転びやしないかと少し心配になりましたが…。

では、なぜ候補生は後ろ歩きで席に戻るのか…それは壇上に玉座があるからです。玉座に座る天皇や皇族に背中を向けるのは失礼ということで、兵学校の卒業式では「恩賜の短剣」を授与された候補生が後ろ歩きで自席に戻っていた所作が、幹候校でもそのまま引き継がれているのです。式のほとんどの所作が海軍時代を踏襲していますが、この壇上からの後ろ歩きが最も象徴的な所作といえます。ちなみに表彰を受ける候補生は、この後ろ歩きを1週間前からみっちりと指導されるそうです。

幹候校の卒業式では例年、チリ共和国海軍から士官学校勲章が成績優秀者に贈られています。今回授与されるのは、もちろん先ほどのクラスヘッドの候補生です。この勲章はチリ海軍の士官学校を優秀な成績で卒業した士官に贈られるもので、海自とチリ海軍の友好親善を目的に幹候校の卒業式でも成績優秀な候補生に贈られています。伝達ではチリ共和国駐日特命全権大使のフリオ・フィオル閣下自らが候補生の制服の左胸に勲章を装着、閣下とクラスヘッドの候補生は固い握手を交わしました。

旧海軍では兵学校卒業時の成績=ハンモックナンバーは絶対的なものであり、首席や次席で卒業した「恩賜組」をはじめとする成績上位者は例外なく将官にまで上り詰め、軍令部や海軍省、艦隊・部隊の要職を占めました。このようなハンモックナンバーの偏重が人事の硬直化を招き、先の大戦における敗戦の遠因になったとの反省から、海自では成績上位者が必ずしも栄達するわけではないと言われています。しかし、現在の将官や将官予備軍の幹部、主要部隊指揮官の経歴を調べてみると幹候校での卒業席次の上位者が多いのも事実です。成績上位者は驕ることなく努力を続けていけば栄達し、卒業席次が上位でなかった者もその後の勤務で努力をすれば挽回は大いに可能というのが、現在の海自におけるハンモックナンバーの実情ではないかと私は考えます。

村川海幕長が候補生を幹部自衛官に任命します。「〇〇〇〇以下6名、2等海尉に任命する」「〇〇〇〇以下228名、3等海尉に任命する」。この海幕長の任命によって候補生たちは2等海尉と3等海尉となり、晴れて海上自衛隊幹部となったのです。
幹部への任命に対し候補生の代表が服務の宣誓を行います。「技能の修練に務め、部隊団結の核心となることを誓います」

候補生が全員3尉になるのではなく数人が2尉になることに驚いたのか、私の前に座っている年配のオジさんが「同じ教育内容で1年間学んだのにいきなり差をつけるなんておかしい、3尉の幹部がやる気をなくすぞ!」と憤慨していました。一部の候補生を2尉に任命するのは別に差を付けた訳ではなく、大学院の修士課程修了者はその経歴から2尉に任命されることになっているのです。

幹部候補生学校長・南将補が式辞を述べます。

「海軍兵学校の伝統を継承する本校の学生として厳しい教育・訓練を乗り越え、卒業の日を迎えたことに心から敬意を表する。そのうえで学校長として餞の言葉を贈る。その1点目は自信と誇りを持てということ。本校では幹部自衛官の厳しい職務に耐えうるよう、諸君に対して様々なプレッシャーを与え続けてきた。精神的にも肉体的にも限界に近い状態で多くの困難を乗り越えてきた経験は何物にも代えられない人生の財産である。諸君はこれから多くの苦労や困難に直面するかもしれないが、ここ江田島で培った経験を糧に自信と誇りを持ってそれらを乗り越えてもらいたい。次に、諸君は本校において徹底して技を教え込まれてきたが、まだしばらくの間は技の習得期間が続く。しかし中級幹部・上級幹部となるにつれていずれは職務において独自性や独創性が求められることになる。その時に自分が目指すべき道を確立するためにも、今からその時に備えて少しづつ努力を行って欲しい。本日の卒業は諸君の努力の賜物であるが、諸君を支えてくれた家族や多くの人々への感謝の気持ちを忘れないで欲しい。そして幹部自衛官として活躍することでそれらの人たちへの恩返しをして欲しい。ここ江田島は、いつまでも諸君の心のふるさとである」。

続いて、村川海幕長が訓示を述べます。

「我が国を取り巻く安全保障環境は大きく変わりつつある。本日卒業する諸君が直面する20年後、30年後の安全保障環境を予測することは極めて困難である。私が本校を卒業したのは今から37年前だが、当時の世界は米ソ冷戦の真っただ中であり、アメリカ太平洋艦隊と手を組みソ連の極東艦隊と対峙するための訓練に明け暮れた。米ソ冷戦の時代は終わったが、平成の世界は予想だにしなかった様々な問題が顕れた。新たな領域におけるそれらの問題は、私が卒業した時には予想だにしなかった事である。ただし情勢がいかに変化しようとも、四方を海に囲まれた我が国の安定基盤は開かれ安定した海運が基盤であることは不変である。今後諸君らは海上自衛隊の様々な配置を通して我が国防衛の任にあたるが、すべての基本は部隊の精強を図り、即応体制を確立し、その能力を最大限発揮させることを忘れずに、いかなる配置においてもその職責を全力で果たしてもらいたい。そしていかなる困難に直面しても、ここ江田島で高い目標を掲げ全力で挑戦したことを忘れないで欲しい。私は諸君が若きリーダーとして静かなる自信を持って困難に打ち勝ち、国家や国民のために部隊の中核となって活躍することを心から期待している」。

来賓の在日米海軍司令官グレゴリー・フェントン少将が挨拶を行います。米海軍の少将ともなると勲章の数が凄い!ざっと見ても20個近くがぶら下がっているように見えます。重くはないのだろうかと要らぬ心配もしてしまいました。左胸には勲章とともにウイングマークが付いているので、少将はパイロットだったようです。パイロットとして数々の輝かしい功績を挙げて、あのように多くの勲章を貰ったのだと思われます。少将の袖の階級章は海自にはないベタ金のみ、これは米海軍では少将が二段階に分かれているためで、フェントン少将の階級は准将または下級少将とも呼ばれます。一方、ベタ金+一本線(海将補と同じ)の少将は上級少将とも呼ばれます。

さて、肝心の挨拶の内容ですが、少将がすべて英語で話したために内容は分かりません
(苦笑) おぼろげながら分かったのは、「アジア地域の平和と安定のために米海軍と海自の連携を深めていこう」みたいな事を話していたようでした(たぶん)。印象的だったのは、挨拶の最後にカタコトの日本語で「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」という山本五十六大将の名言を紹介したこと。恐らく、候補生たちに指揮官としての心構えを山本大将の言葉を引用して説いたのだと思われます。この引用を通して、私は少将が日本に対して造詣が深く、なおかつ日本を愛していることを感じ取りました。

卒業式のすべての式次第が終了しました。候補生、もとい新任幹部たちは会場からの割れんばかりの拍手に送られながら大講堂を出ていきます。私も撮影の手を止め「卒業おめでとう!」の気持ちを込めて力いっぱい拍手したのですが、拍手をしているのは私のような臨席者や候補生の家族、来賓だけでなく、昨日まで候補生を厳しく指導していたであろう教官たちも白手袋を外して拍手をしているのです。そしてその表情のなんと優しいことか…心に突き刺さるいい光景です。またしても涙腺が大崩壊…

新任幹部は大講堂を出たあと真新しい2尉・3尉の制服に着替えて学校長主催の午餐会に参加し、家族らと祝いの膳を囲みます。

残念ながら私は新任幹部の家族ではないので午餐会には参加できません。赤レンガ庁舎内に設けられた控室にてお弁当をいただきます。赤レンガ庁舎の通路を歩いて控室に向かうのですが、途中に目にした赤レンガ庁舎の造形美に惚れ惚れしてしまいました。
この赤レンガ庁舎は海軍兵学校の生徒館として1893(明治26)年に建設され、以来今日まで海軍士官養成の場として使い続けられています。海軍時代から1998年までは2階が候補生の居住の場として使われていましたが、学生館の新設により居住の場はそちらに移り、現在は1階、2階ともに教場や自習室、会議室として使用されています。

イギリス人建築家による設計で、当時の建築技術の粋を集めて建築しただけあって、完成から120年以上が経過してもその美しさは色褪せることはなく、海軍兵学校時代の空気を今に伝えています。目にも鮮やかな赤レンガは、イギリスから一枚一枚紙に包んで軍艦で運ばれてきたと長らく説明されてきましたが、近年の調査によって一部のレンガは地元・広島県産であることが判明しています。

赤レンガ庁舎2階にある学校長室の入り口、右手奥にある扉は副校長室の入り口です。毎朝の甲板掃除で候補生たちが丹念に磨き上げているので、床も壁も日光が反射するほどピカピカです。

壁に飾られている書は東郷平八郎元帥による揮毫で、「機先を制する」とは「相手の行動を予測し、その出鼻をくじく」という意味です。海戦(砲撃戦)は先に有効弾を与えた方が断然有利となることから、「機先を制する」ことは海戦の勝利に直結します。海軍士官が最も大切にすべき言葉として東郷元帥はこの書を揮毫したのだと考えられます。私の記憶では、この場所には山本五十六大将による「常在戦場」の揮毫が飾られていたような気が…50歳を超えると様々な記憶が曖昧になるので困ったものです
(苦笑)

控室でいただくお弁当ですが、午餐会で出される物と同じです。さすがに候補生の卒業と新任幹部の船出を祝うお弁当だけあってとても豪華、午餐会に参加した気分を味わえます。今ごろ新任幹部たちはご家族や来賓らとこのお弁当を食べていると思われますが、卒業式終了後に学校長主催の午餐会が開かれるのも、兵学校から続く伝統のひとつです。

このお弁当の蓋には「祝 卒業 海上自衛隊幹部候補生学校」と記された紅白の紙が添えられていたのですが、錨のマークも入っていてとても素敵な紙だったので記念に持ち帰りました。このお弁当、午餐会出席者は恐らく無料だと思いますが、私のような外部から卒業式に招待された者は有料です。事前に集金が行われ、ほっともっとのお弁当が3~4個買えるほどの代金を支払いました
(笑)

昼食を終え、練習艦隊に乗り込む新任幹部たちをお見送りするため表桟橋の方向へと歩いていたら、ちょうど午餐会を終えたT君に出会いました。この精悍かつ溌溂とした3尉が「函館の少年」ことT君です。(活動に支障が出るので私の顔はご勘弁を…)
T君と会った際、私はT君と握手しながら「卒業おめでとう!」とお祝いの言葉を伝えたのですが、感極まって涙腺が崩壊しそうになり、言葉が続きませんでした。たくさんのお祝いの言葉や激励の言葉を伝えたかったのに全く言葉が出てきませんでした。

T君は中学2年生の時から当HPを愛読していて、掲示板にも海自愛に満ちた熱心な投稿を寄せてくれていました。横須賀サマーフェスタの会場でお会いしたこと、高校1年生の時に海自幹部を目指すとの意向を私に伝えてくれたことを、つい昨日の出来事のように覚えています。ぜひとも海自幹部になって欲しいという応援の気持ちの一方で、海自幹部になるには数々の高いハードルが待ち受けているのを知っているだけに、「果たして大丈夫だろうか…」という不安な気持ちもありました。しかし、T君は防大合格・卒業、幹候校卒業という非常に高いハードルを見事にクリアして、本日晴れて海自幹部となったのです。本当によく頑張りました。おめでとう!

午後1時40分、江田島湾に停泊中の練習艦隊に乗り込むため、新任幹部たちが赤レンガ庁舎から表桟橋まで行進します。
あぁ、これが有名な卒業式の行進か…映像や写真で何度も見たことはあるものの実際に現地で見るのは初めての経験です。行進曲「軍艦」の演奏に合わせて赤レンガ庁舎から一列になった新任幹部たちが私がいる方向へ向かってきます。この光景を見て海上自衛隊が帝国海軍の末裔であることを強く感じる一方で、幾多の海自幹部、さらには帝国海軍士官が同じコースを行進して江田島を巣立っていったことに思いを馳せました。あの山本五十六大将や山口多門少将らもこうして江田島を巣立って行ったのですね。

兵学校時代と寸分違わないであろうこの景色ですが、見送りの家族が皆スマートフォンを掲げて撮影している点は、まさに平成的な景色です。家族がいるエリアだけが平成31年で、それ以外が兵学校時代と同じ景色というある意味不思議な一枚になりました。

先頭のグループは2尉に任命された6人、続いて一般幹部課程、飛行幹部課程の順に行進、並びの順は男性→女性+身長高→身長低となっています。何かの本で「列の順は成績順」という説明を見たことがありますが、この行進を見る限りそれは誤りです。もしかしたら兵学校時代は「恩賜の短剣」受領組を先頭にした成績順だったのかもしれません。

これも何かの本で知ったのですが、兵学校時代はこの見送り時に雪が降ると卒業生から海軍大将が出ると言われていたそうです。
ちなみに本日は春を思わせる穏やかな晴天…大将(海自では海幕長)になるだけが海軍士官人生ではありませんから
(笑) だいたい3月も下旬になろうかというこの時期に江田島で雪なんて降らないし、年間を通しても江田島に雪が降ることなんてほぼありません。それだけに「江田島に雪が降る」という奇跡が、同じく奇跡的な確率でしか輩出されない海軍大将に結びついたのだと考えられます。

新任幹部の列が私の前を通り過ぎます。感極まって涙ぐむ者、神妙な表情の者、そして喜色満面の笑顔の者…表情は十人十色ですが皆さん一様にいい表情をしています。特に列の中盤以降は喜びを爆発させた笑顔満開の新任幹部が次々と現れ、中には家族に手を振る強者までいました。T君はやや神妙な表情で私の前へ、私に視線を送り小さく頷きながら通り過ぎていきました。その表情には「お見送りありがとうございます。練習艦隊でも頑張ってきます」との決意が込められていたのが私には分かりました。

見送りの家族や来賓から、拍手とともに「おめでとう!」「よく頑張った!」「頑張れよ!」などと盛んにお祝いと激励の声が投げかけられています。それに対して新任幹部たちは敬礼でそれに応えて通り過ぎていきます。嗚呼、なんて感動的な光景なのでしょう…。雰囲気に押されるように撮影する手を止め、私も拍手をしながら新任幹部たちに激励の言葉を贈らずにはいられませんでした。
卒業おめでとう!練習艦隊でも頑張れよ!そして、我が国の海上防衛を頼んだぞ!!

女性幹部も満面が満開です。あっ、卒業式の開始前に学生館の前ですれ違い、素敵な笑顔で敬礼をくれた候補生ではないですか!
女性の幹部が増え、女性艦長や女性隊司令が誕生するようになった昨今ではありますが、それでも女性が自衛隊幹部を志して防大や幹候校に入ることは大きな勇気が必要だったと思います。特に女性で幹候校の厳しい教育と訓練に耐えたことは本当に凄いことだと思います。心から敬意を表するとともに練習艦隊での奮闘をお祈りいたします。
ちなみに本日卒業した234人の中で女性は27人で、内訳は一般幹部課程が24人飛行幹部課程が3人となっています。

新任幹部は表桟橋から交通船に乗り込み、沖合に停泊している練習艦隊=「かしま」「いなづま」「やまゆき」「すずつき」へと向かいます。支援船に興味をお持ちの方はお分かりだと思いますが、画像に写っている交通船は普段は小型艦や潜水艦の出入港を支援している曳船YTです。このほか交通船YFも動員されています。新任幹部が交通船に乗り込んだ表桟橋は幹候校における正門で、陸地側の門は実は裏門にあたります。海に面した桟橋が表門という事実が、まさにこの場所が「海軍の学校」であることを実感させます

表桟橋上に設置された見送り用の台に海幕長と学校長が登壇すると、いよいよ交通船が練習艦隊に向けて出航します。
「帽振れーーー!」の合図とともに音楽隊が「蛍の光」を演奏し、交通船は勢いよく排ガスを吐き出しながら動き始めます。そして船上に整列している新任幹部たちは、表桟橋やその周囲にいる人々へ制帽を振って別れを惜しみます。「蛍の光」が流れる中で新任幹部が船上から帽振れをするこの光景は、兵学校時代から変わらぬ巣立ちの光景であり、まさに海軍的なワンシーンでもあります。

私の前方にいた交通船(YT91とYT98)は旗艦「かしま」へ向かって航行します。船上には新任幹部が直立不動の整列を続けています。いくら江田島湾が穏やかとはいえ船は揺れるもの。しかし、その揺れを感じさせないほど美しい整列を保っている新任幹部たちに拍手を送りたい気持ちになりました。これぞ鍛錬の賜物といえるでしょう。T君の姿はここからは判別できませんが、「かしま」に乗ると聞いているので、私の目の前を航行しているYT91かYT98、もしくはYFに乗っているものと思われます。

「かしま」の露天艦橋には司令官の梶元将補が立ち、新任幹部が乗る交通船の航行を見守っています。なぜ司令官が立っていると分かったかというと黄色い双眼鏡ストラップを纏った人の姿が露天艦橋に見えるからです。将官用の双眼鏡ストラップが黄色なのは、将官の象徴であるベタ金に近い色調であることと、遠くからでもその存在を認識してもらうためです。「かしま」から遠く離れた私が艦上の司令官を認識できたことを鑑みると、黄色い将官用ストラップの効果は絶大であるといえます。

「やまゆき」にも交通船が向かっています。「かしま」と違って「やまゆき」で実習を行う新任幹部の人数は少ないのですが、その分きめ細やかな指導を受けることができるのではないでしょうか?練習艦隊のうち一般幹部課程卒の新任幹部が乗艦する「かしま」「いなづま」「やまゆき」はこれから約2ヵ月間、国内9カ所をめぐる近海練習航海を実施します。これは5月下旬から約半年間に渡って実施される遠洋練習航海に向けての準備航海、いわばウオーミングアップの航海です。
この「やまゆき」は近海練習航海のみの参加で、遠洋練習航海は「かしま」「いなづま」の2隻で実施されます。長らく遠洋練習航海は「かしま」+練習艦+護衛艦の3隻編成でしたが、艦艇の不足と経費節減を理由に3年前から2隻での実施となっています。

私にとっては学生時代から30年以上に渡って親しんできた「やまゆき」が、T君が参加する練習航海に加わっている事に運命的なものを感じます。停泊中の「やまゆき」は「君に代わってT君を見守り応援するよ」と私に語りかけているようでした。

「すずつき」には飛行幹部課程卒の新任幹部が乗り込みます。「すずつき」は第8護衛隊司令を指揮官として単艦で外洋練習航海を実施します。期間は4月29日のまでの45日間で、東南アジアのタイを訪問します。飛行幹部は固定翼・回転翼のパイロットまたは戦術航空士なのですが、海自(=海軍)のパイロットや航空士であるならばシーマンシップは必要不可欠として、海の荒鷲たちにも船乗りとしての実習が科せられるのです。特に回転翼のパイロットは飛行長配置で護衛艦勤務もあるのでシーマンシップは不可欠です。

「すずつき」の艦首部分に注目!出航に備えて錨を海中から揚げる途中で、鎖に付着した海底の泥を高圧洗浄しています。そしてこのあと「海の荒鷲といざゆかん」との8護隊司令からの発光信号が送られてきました。荒鷲たちの奮闘をお祈りします。

「かしま」への新任幹部の乗艦が完了し、甲板上に美しい登舷礼が形成されました。「かしま」は遠洋練習航海用の練習艦であることから美しさと力強さを併せ持つ艦容をしているのですが、その甲板上に登舷礼が形づくられると何ともいえない優美さを感じます。上甲板が下り坂になっている部分(オランダ坂)はかなり傾斜があるので、そこにいる新任幹部は結構立ちづらいのではないでしょうか。

「かしま」から練習艦隊司令官からのメッセージが発光信号で送られてきました。メッセージの内容ですが「鹿島立ち」の文言が入った優美な和歌だったのですが、メモできなかったので忘れてしまいました(すみません…)。この発光信号も兵学校時代からの伝統なのかもしれませんが、メッセージが和歌という点にユーモアやセンスを重視する海軍らしい一面を感じました。
ちなみに引率役の幹部(1尉)に「発光信号読めますか?」と尋ねたところ、「艦に乗っていた時代は読めたけど、艦を降りてしばらく経つので読めなくなった」と笑いながら答えてくれました。外国語と同じで使っていないと忘れてしまう性質のもののようです。


発光信号の送信が終わって「いよいよ出航か」と表桟橋の雰囲気が最高潮に達したのですが、艦隊の先陣を切って出航すべき旗艦「かしま」がいっこうに動き出す気配がありません。「おかしいなぁ?」と思って望遠レンズで「かしま」艦上の様子を探ったところ…あれ、艦首部分の登舷礼が消えている…。しかも数人の運用員が艦首から左舷側の海面を覗き込んでいます。どうやら錨か鎖で何らかのトラブルが起きていることは間違いなさそうです。うわっ~、これは大変だぞ!(汗)

そうこうしているうちに私の周囲の人たちも「かしま」の異常を感じ取り、「おい、どうなっているんだ?」「事故が起きたのか?」などと懸念の声を上げるようになり、表桟橋周辺は不穏な空気に包まれます。どこから情報が入ったのかは分かりませんが、「錨を揚げるための装置が故障したらしい」との情報が私の周囲に流れてきました。ええっ?本当にそうだとしたら「かしま」は出航どころか、最悪この江田島湾に数日間停泊したままになってしまいます。そんなことになれば前代未聞の出来事です。「かしま」、大丈夫か?

練習艦隊司令官がいつまでも艦隊の出航を遅らせる訳にはいかないと判断したのでしょうか、「いなづま」「すずつき」「やまゆき」の順に出航、懸命の復旧作業が続く「かしま」を追い越して航行していきます。作業に伴う事故を防止するためか、あんなに美しかった「かしま」艦上の登舷礼はいったん解除となり、新任幹部の姿が甲板上から消えてしまいました(涙)
幹候校の卒業式という重要なセレモニーの場、しかも海幕長が見ている前で艦が出航できない「かしま」艦長の心情を想像するといたたまれない気持ちになりました。もし今の私が艦長だったら、焦りまくってさらに事態を悪化させることは間違いありません。

小心者のサラリーマンである私とは違い、「かしま」艦長はこの時冷静に事態を把握し、状況打開のための手段を講じていました。

「いなづま」「すずつき」「やまゆき」の出航に合わせて再び「帽振れ」の号令がかかり、壇上の海幕長・学校長が制帽を回して艦隊を見送ります。両人とも将官だけに、制帽の桜葉模様と袖に縫われたベタ金の階級章が眩しいです…

海幕長と学校長が壇上から練習艦隊を見送るのは恒例の風景ですが、大戦末期に兵学校長を務めた井上成美中将栗田健男中将もこんな風に卒業生を見送ったのだろうかと当時に思いを馳せました。ただ、よくよく考えてみると、栗田中将の在任時は戦局が絶望的な状況だったので、このような優雅な見送りは行えなかったのかもしれません。
実は私、旧海軍軍人の中では井上成美を尊敬しているのですが、井上中将は兵学校長という役職が大変気に入り、やり甲斐も感じていたようで、のちに海軍次官に起用された際も米内大臣に「私を江田島の校長先生に戻して欲しい」と幾度も懇願したそうです。

「やまゆき」が「かしま」を追い抜いたあと、表桟橋には「これにて見送り行事を終了します」とのアナウンスが流れました。
あらら、「かしま」の出航を見送らないまま解散ですか…
(汗) アナウンスを聞いて来賓や家族は帰路に就きはじめ、海幕長と学校長も見送り台から降りてしまいました。私はというと「かしま」を残したまま帰路に就くことができず、取り残されたかのようにひとりで「かしま」を注視していたのですが…突然、「かしま」が「ブォーーーーーーン」という大きな汽笛を鳴らしたあとゆっくりと動き出したのです。

「かしま」が動いた!! 声にならない叫びが口を衝きます。私の叫びが聞こえたのか、汽笛で気づいたのか、家族や来賓らが怒涛の勢いで戻ってきました。数人が勢い余って私に衝突、私は危うく海に落ちそうになりました。
転落防止用の柵があって助かった…
後で分かったのですが、「かしま」が動かなかったのは装置の故障ではなく、粘度が高い江田島湾海底の泥が錨と鎖の上に堆積し、抜けなくなってしまっていたのです。「かしま」艦長はこの事態を把握し小刻みな前進後進を繰り返すことで見事抜錨に成功、僚艦に大きく遅れることなく出航にこぎ着けました。想定外の事態を冷静に対処した「かしま」艦長、お見事です!

「かしま」の甲板上にはいつしか登舷礼が再形成されています。3隻の僚艦との遅れもご覧のようなほぼ問題ない程度の距離です。
まぁ、各地の撮影ポイントで練習艦隊を狙っている方々は「いなづま」が隊列の先頭なので随分驚くとは思いますが…。
艦隊はまずは柱島沖を目指し、そこから近海練習組(「かしま」「いなづま」「やまゆき」)と外洋練習組(「すずつき」)に分かれ、それぞれ別ルートで最初の寄港地である神戸を目指します。近海練習航海組は神戸で艦上レセプションや一般公開を予定しています。

「かしま」の出航が遅れる予想外の事態が起きたものの、候補生たちは卒業して新任幹部となり、無事江田島を巣立っていきました。
私の隣で「これから航海が始まるのに幸先悪いわ…」とか言っている人がいましたが、幸先悪いのではなく最初に厄を落とすことができたと前向きに考えるべきでしょう。T君をはじめとする新任幹部の皆さん、今日から長い練習航海が続きますが体調に留意して頑張ってください。ちなみに私ですが、練習艦隊を追いかけてこれから神戸へ向かいます
新任幹部の皆さん、神戸でお会いしましょう!

江田島で学び・鍛えられた234人が迎えた巣立ちの日、真摯かつ溌溂とした新任幹部の姿に心が洗われました。