厚木航空基地探訪&横須賀地方総監着任

少し遅めの夏休み(8月27日~30日)を活用して久しぶりに東京・横須賀方面への遠征に出ました。
「入場が難しい場所」を探訪し、「滅多に見ることができない行事」を目撃。さて、私は何を見たのか?

久しぶりの関東遠征です。前回の遠征が2019年度練習艦隊の帰国行事(2019年11月)でしたので、何と!3年9ヵ月ぶりの関東遠征ということになります。長い空白ができた要因は新型コロナウイルスですが、「5類移行」で世の中が正常化しつつあるのを機に、私の関東遠征も再開となった次第です。記念すべき再開第1発目の取材地として訪れたのは横須賀でも市ヶ谷でもありません。意外に思われるかもしれませんが、神奈川県の厚木航空基地です。実は、当HPの閲覧者&取材協力者であり、かつ戦跡探訪仲間でもある海自幹部・OH3佐が、8月からこの厚木航空基地に勤務しているのです。そのOH3佐から基地案内のオファーをいただきました(感謝)

厚木航空基地ですが、海上自衛隊の航空基地であると同時にアメリカ海軍の航空基地でもあります。「厚木航空基地」は海自側の名称で、アメリカ海軍側の名称は「厚木海軍飛行場」となります。艦艇ばかり追っている私にとって航空基地は縁が薄い場所、しかも日米共同使用の基地ということで好奇心のアンテナが疼きまくっています(笑) 持参した書類・証明書で手続きを終え、いざ基地内へ!
※諸事情により基地正門の撮影ができませんでした。よって、正門の画像は「写真素材 フォトライブラリー」で購入した画像を使用しています。

正門を入ってすぐの場所に銅像が安置された小さな広場があります。この広場の名はマッカーサー・ガーデン。終戦から15日後の1945年8月30日、輸送機に乗って海軍厚木飛行場(当時)に降り立ったダグラス・マッカーサー連合軍総司令官を顕彰する場所です。
マッカーサーがパイプを加えて輸送機・パターン号を降りる写真は、日本の敗戦と連合国による占領を象徴する1枚として非常に有名ですが、その写真が撮影された場所が、ここ厚木の滑走路なのです。その意味では、厚木航空基地は戦跡でもあると言えます。

台座には「日本の民主主義の生みの親 マッカーサー」との文字が刻まれています。確かに敗戦によって日本は民主化され、民主化を進めた連合国軍のトップがマッカーサーですから間違ってはいないのですが…ただ「日本の民主主義の生みの親」という表現には少々違和感を抱いてしまいます。とはいえ、私自身はマッカーサーの日本への多大な功績は認めております


マッカーサーガーデンがらほど近くの場所に、海自航空部隊の中枢・航空集団司令部があります。庁舎前の旗竿には航空集団司令官の海将旗が翻っています。現在の司令官は松本完海将で、私と同じ歳。もし私が防衛大に入校していたら同期(35期)だったであろう方です。実は私、航空集団司令部の庁舎は豪華かつ重厚な建物を想像していたのですが、想像から大きく外れたシンプルな佇まい。私の地元にある陸自普通科連隊の連隊本部とソックリです。とはいえ、現在の海上作戦センターに移転する前の自衛艦隊司令部もこんな感じの庁舎だったので、かつてはこのような庁舎が海自陸上司令部のスタンダードだったのかもしれません。

OH3佐ですが7月1日にめでたく3佐に昇任、そして8月21日から航空集団司令部で幕僚として勤務しています。つまり、ここがOH3佐の現在の職場です。ちなみにOH3佐はパイロットでも戦術航空士でも気象予報士でもありませんが、幹部としての特技(専門)が艦艇・航空機といった種別を問わずに必要とされる特殊分野です。その専門能力を買われて航空集団司令部での勤務となりました。

厚木航空基地はとても広大です。航空集団司令部から徐行で(基地内は徐行が義務)車を5分ほど走らせた場所に、航空集団を構成する航空群のひとつ・第4航空群の司令部があります。こちらは地方都市にある中小企業の本社といった佇まい。ただ、旗竿に翻る海将補旗屋上に設置された数多くのアンテナ類が、ここが中小企業の本社ではないことを雄弁に物語っています。
第4航空群には最新鋭のP-1哨戒機を運用する第3航空隊のほか、第4整備補給隊厚木航空基地隊硫黄島航空基地隊が隷下部隊としてあります。首都圏に所在する航空群だからか、歴代の航空集団司令官には将補時代にこの第4航空群司令を経験した人が多い気がします。現在の松本海将がそうですし、前司令官の二川海将(統幕学校長)も4空群司令の経験者です。

4空群司令部の前で車を停めたOH3佐、庁舎内に入って何やら手続きをしています。何の手続きをしているのだろう…?

第4航空群の司令部は滑走路の至近距離に位置するので、周囲には格納庫と思しき形状の巨大な建物が並んでいます。左奥の格納庫は庁舎を併設していますが、その入口には第61航空隊の看板が掲げられています。おぉ、ここが61空か…!
第61航空隊は航空集団直轄の部隊で、C-130R輸送機を運用する輸送航空部隊です。北は八戸から南は那覇、南鳥島まで全国の海自航空基地を結んで人員と物資の輸送を行っています。海自で輸送航空を担当するのはこの第61航空隊のみ、レア部隊です

厚木基地内には航空集団直轄部隊として、第61航空隊のほかに第51航空隊(航空機等の試験評価&運用指導)・航空管制隊(海自航空管制部隊の統括&教育訓練)が所在します。また、航空集団隷下ではありませんが、航空プログラム開発隊(開発隊群)と厚木システム通信分遣隊(システム通信隊群)も所在します。所在部隊の顔ぶれから厚木が海自航空の総本山であることが覗えます。


巨大な格納庫や管制塔が建ち並ぶ一角に旅客ターミナルと思しき建物が…名称は厚木飛行場エアターミナルのようです。

なぜ「海軍」の航空基地に旅客ターミナルがあるのでしょう?そんな私の疑問を表情から読み取ったのか、OH3佐は「この建物の中にお見せしたい場所があります」と私を内部に案内します。果たして、この建物の中には何があるのでしょう…?

エアターミナルの2階にこんな施設がありました。広報資料館です。海自航空部隊の資料館は鹿屋航空基地(鹿児島県)にあるものが有名ですが、厚木基地にも資料館があったんですねぇ。この資料館は普段は一般公開されておらず、航空祭など基地が開放されるイベントの開催時に公開されるとのこと。また、今回の私のように海自関係者がアテンドするゲストに対しては随時公開されるようです。

資料館は第4航空群が管理しており、先ほどOH3佐が群司令部を訪れていたのは、この資料館の見学手続きの為だったのです。
4空群の管理下にあるためか、入口前の敷物には航空徽章と4空群のマーク(旧マーク)が描かれています。P-1のシルエットをあしらった「P.R Gallery」の看板も素敵!入口を見ただけですが、艦艇部隊とは違ったおしゃれ感航空部隊ならではのセンスを感じます。

資料館に足を一歩踏み入れると、そこには心躍る光景が広がっていました。かなり本格的な資料館ではないですか!!
この資料館は、2003年にエアターミナルを新設した際に、厚木航空基地の理解促進を目的に開設されました。展示内容は、帝国海軍から海上自衛に至るまでの基地の歴史所在航空部隊の紹介海自航空部隊の任務紹介ジオラマ・航空機模型・航空装備品・制服の展示などで構成されています。これだけの資料を揃えた施設がひっそりと存在していたことに驚きを禁じ得ません。

OH3佐は、航空集団司令部に異動になって僅か1週間ということもあり、この資料館の存在は知っていても見学した事はなかったそうです。つまりOH3佐にとっても初めて見る資料なのです。私と一緒に「お~」「面白い!」などと歓喜の声を上げていました
(笑)

資料館のメイン展示ともいえるのが、厚木航空基地のジオラマです。赤い線で囲まれたエリアが基地の敷地なのですが、ジオラマで見ると厚木航空基地がとんでもなく広大な敷地を有していることが視覚的に実感させられます。基地の総面積は約507万平方メートル東京ドーム108個分に相当する広さです。南北に延びる滑走路は約2400メートルの長さを有します。

厚木航空基地が名前に反して厚木に所在しないことは、航空機マニアの間では有名なトリビアとなっています。ちなみに総面積の約78%が綾瀬市残り22%が大和市で、厚木市はかすりもしていません。では、なぜ「厚木」の名を基地名に冠したのか?

①宿場町として栄え全国的にも名が知れた「厚木」の名前を使った

②敢えて違う場所の名前を冠して基地所在地の秘匿を図った

③所在地に因んで「大和基地」とすると仰々しい名称になる、加えて戦艦大和と名前が被ってしまう…など諸説あります。
私の推察ですが、基地のある場所は行政上は綾瀬市・大和市であっても、一帯が昔から「厚木」と呼ばれていたため、地域名としての「厚木」を採用したというのが実情ではないでしょうか?
基地を訪問の際には、くれぐれも厚木駅や厚木ICで降りないようにしてください。

厚木航空基地は太平洋戦争史、とりわけ終戦の前後の時期において強烈な存在感を歴史に刻んだ場所です。帝都防衛の拠点として昭和17年に完成、昭和19年3月に帝都防空航空隊の第302海軍航空隊が木更津から移駐してきました。302空は司令・小園安名大佐指揮のもと、戦闘機「雷電」「月光」等によって帝都に迫りくる米軍爆撃機と戦闘機の迎撃に奮闘したのです。

一方で、昭和20年8月15日の玉音放送の後には小園大佐は降伏を受け入れずに徹底抗戦を主張、隊員たちもそれに同調する行動をとったため厚木基地は反乱状態に陥りました。この反乱状態は5日間で鎮圧されるのですが、厚木と302空の名前を残念な形で広く知らしめてしまいました。終戦を境にして光(帝都防空での奮闘)と影(反乱)が交錯する場所、それが厚木なのです。

302空が迎撃で運用していた夜間戦闘機「月光」の機体の一部が展示されています。おぉ、これはかなりのお宝です!
前縁スラットというパーツで、左側の翼の前面の縁の部分のようです。かなり腐食が進んでいますが、腐食の程度がやや低い右側端の部分は、月光の機体色である濃緑色が浮かび上がっています。このスラットは2013年5月に、厚木基地内の地下壕で発見されました。なぜ地下壕にこのスラットが残されていたのか?放置品なのか?予備部品として保管されていたのか?そもそも地下壕は何の用途だったのか?などなど様々な憶測を呼びましたが、当時の記録が全く残っていないことから真相は闇の中といった状況です。


1984年に公開された東宝映画「零戦燃ゆ」の最終盤に、終戦に伴い航空基地で戦闘機を解体するシーンがあります。厚木でも同じように機体の解体が行われたと考えられます。私はその点を鑑みて、302空の奮闘と栄光を後世に伝えるために搭乗員や整備兵が解体した機体の一部を地下壕に隠した―そのように推測します。かなり願望とロマンが込められた推測ではありますが…

ひときわ目を引く展示品がコチラ。この資料館のアイコンとも言える展示品です。マネキンが着用している制服はやけにボタンの数く、形状も幹部・海曹・海士の制服とは全く異なります。この制服はパイロット・戦術航空士を目指して学ぶ海自航空学生の制服です。航空学生は採用時は2等海士(自衛官の定員に含まれる曹候補者)、その後教育・訓練期間中に昇任して海曹となりますが、制服はマネキンが着用している詰襟&七つボタンの制服を一貫して着用します。いわば、航空学生を特別に処遇する制服です。この制服は旧海軍の飛行予科練習生(予科練)のものと同じデザインで、この点からも海自と旧海軍の連続性が見て取れます。

哨戒機P-3Cの模型にも心が躍りますが、現在のP-3Cとは塗装が異なることにお気付きでしょうか?P-3Cは2005年頃までは白とグレーのツートンカラーを纏っており、垂直尾翼には当時8つあった航空隊ごとにド派手な部隊マークが描かれていました。↑の画像には第5航空隊(左2段目)、第2航空隊(左3段目)、第8航空隊(左5段目)、第4航空隊(右奥2段目)のマークが視認できます。個人的には今の塗装よりも当時の派手な塗装の方が好みで、一番のお気に入りは第6航空隊(厚木)のオリオンを模したマークでした。

厚木に所在する第4航空群の大きな特徴は、隷下に硫黄島航空基地(硫黄島航空基地隊)と南鳥島航空基地(南鳥島航空派遣隊)を抱えている点です。資料館には硫黄島・南鳥島の航空写真とともに、部隊の概要と本土から遠く離れた島で勤務する隊員の姿を紹介するパネルが設置されています。我が国の海上防衛の最前線といえる部隊であり、パネルの内容に目が釘付けになりました。

硫黄島は太平洋戦争の激戦地として有名な島ですが、本土からは約1200キロ離れています。南鳥島に至っては、本土から約1800キロも離れた絶海の孤島です。このような過酷な場所で海上防衛と国境警備に従事している隊員たちには、本当に頭が下がる思いです。この場を借りて御礼申し上げます。毎日の勤務、大変お疲れ様です!どうか健康に留意して勤務してください。
ちなみに私、ゆくゆくは海上自衛隊に関する本を執筆・出版するのが夢なのですが、真っ先に題材としたいのが硫黄島や南鳥島のような僻地部隊とそこに勤務する隊員の姿です。海自広報室さま、何とぞ取材協力をお願いします!
出版社さま、書籍化をお願いします!

制服階級章といった服飾の展示もあります。制服マニア&階級章マニアでもある私には、堪らない展示です♪
2等海尉の制服が展示されていますが、左胸の徽章が航空徽章(ウイングマーク)であるのはさすが航空基地の資料館といった感じです。とはいえ、ウイングマーク所持者で、あれだけの数と内容の防衛記念章を貰っているのに階級は2尉というのは、現実には考えられませんけど…。 かなり強引に設定を設けるとしたら、超絶な操縦技量を持つ航空学生出身のベテランパイロットが何らかの理由で昇進が止められて2尉のままでいる…といったところでしょうか?映画「トップガン」の新作「トップガン・マーベリック」で、大佐のまま昇進を固辞しているトム・クルーズと同じタイプの人ですね
(笑) そうだとしても、さすがに2尉というのはありえないか…。

制服の隣には階級章が…海幕長から2等海士まで全部揃ってます!星を4つ抱えた海幕長の階級章ですが、装着しているのが海幕長ただ1人(統合幕僚長が海自出身の場合は2人)なので、直接目にする機会はほぼ無いといえる超レアな階級章です。このような資料館や地方協力本部などでの展示くらいでしかお目にかかることはできません。以前に呉の制服販売店から聞いたのですが、そもそも海幕長が交代する2~3年に1回しか売れないシロモノなのでほぼ受注生産、店でも滅多に在庫を置かないとのことでした。

資料館の窓からはエプロンに駐機している航空機を眺めることができます。手前は第61航空隊所属の輸送機C-130R、奥は第3航空隊所属の哨戒機P-1です。P-1はベストセラー機P-3Cの後継で、2015年3月に第3航空隊に初配備されました。第3航空隊は2017年8月にP-3Cの運用を終了、P-1への移行を完了させました。P-1を運用する航空隊は長らく第3航空隊のみでしたが、2019年に鹿屋の第1航空隊にも配備されました。P-3Cとは異なり国産機で、技術研究本部川崎重工が開発、生産も川崎重工が担っています。

一方、C-130Rは老朽化で退役したYS-11の代替機で、2014年度に6機が導入されました。元々は米海軍の空中給油機&輸送機KC-130Rの未使用中古機でした。導入にあたっては機体や電子機器のオーバーホールが施され、不要な空中給油装置の撤去も行われました。海上自衛隊としては初めての中古航空機の導入事例となります。中古とはいえYS-11から飛行性能や積載能力、利便性は大幅に向上。とりわけ硫黄島基地や南鳥島基地への物資輸送が大幅に強化されるという好結果をもたらしました。

資料館はエアターミナルの2階にあります。2階の大部分は数多くの椅子や自販機が並ぶ待合室で、階段を降りた1階にも小規模な待合室があります。吹き抜け部分に掲げられた第4航空群の旗が素敵です♪真ん中にある富士山が描かれたマークが第4航空群、四隅にあるのが第3航空隊(左上)、第4整備補給隊(右上)、厚木航空基地隊(左下)、硫黄島航空基地隊(右下)の部隊マークです。
第4航空群のマークはセンスがいい!富士山と葛飾北斎の神奈川沖浪裏を彷彿とさせる高波、P-1哨戒機のシルエットがデザインされていて、関東=厚木所在の航空群ということが一目で伝わってきます。このマークが描かれたグッズが欲しいなぁ…。

さて、このエアターミナルに入る前に私が抱いた疑問=なぜ「海軍」の航空基地に旅客ターミナルがあるのか?の回答ですが、輸送機に搭乗して硫黄島や南鳥島、全国の航空基地に出発する隊員のための搭乗手続き&待機用の施設だったのです。


ターミナル1階部分には小規模ながら搭乗受付と手荷物受付のカウンターがあります。今にも航空会社のお姉さんが現れそう(笑)
カウンター内にあるホワイトボードに、輸送機のスケジュール・出発・到着時刻・運航状況等が記されるようです。左のボードが硫黄島・南鳥島以外の基地への便、右のボードが硫黄島・南鳥島方面用です。画像では分かりにくいのですが、手荷物受付のカウンターには色分けされた各航空基地への手荷物タグが並んでいます。ちなみに硫黄島行のタグは水色、南鳥島行はピンクです。手荷物の重量制限は1人あたり10kgのようで、ボードにも「10kg 厳守!」と太字で記されています。カウンター前には計量器も置かれています。

こうして見ると、離島などにあるローカル空港とそっくり。きょう(8月27日)は日曜日で輸送機の運航がない為にひっそりと静まり返っていますが、運航日には各地の航空基地に向かう隊員らで賑わうのだと思われます。私もこのターミナルから輸送機に乗って、硫黄島や南鳥島に行ってみたいです。所用時間はどのくらいなのでしょう?乗り物酔いしない体質なので長時間でも大丈夫ですが…。


ちょうどお昼になったので昼食を食べることにします。OH3佐の案内でやって来たのは「NEX」という看板が掲げられた建物。一見、米海軍部隊の庁舎のように思えますが、実はこの建物はスーパーマーケットなんだそうです。「NEX」の看板をよく見ると「WELCOME」の文字が…確かにここは商業施設ですね!このスーパーは米海軍の軍人とその家族用で、日本人(海自隊員)は入場することはできますが、税金等の関係から商品を購入することはできないということです。

ちなみに「NEX」とは「Navy Exchange」の略で、米海軍が運営する小売りチェーンストアです。厚木基地内には様々な米軍用店舗がありますが、大部分の店舗でこの「NEX」の看板が掲げられています。日本でいうと防衛省共済組合みたいな組織でしょうか?

NEXスーパーの内部はこんな感じ。日本国内の至る所にあるスーパーと全く同じ見た目で、ここが「イオン」「ゆめタウン」だと言っても信じてしまう人もいるかもしれません。しかし陳列されている商品はアメリカ製、掲示されている値札やポップは英語表記で金額もドル表示(当然と言えば当然ですが…) 見た目は日本のスーパーと酷似していますが、店舗内を漂う空気はアメリカの空気でした

商品は食品や衣料品、雑貨、家電等の日用品がメインですが、変わった物では日本人形や漢字が記されたTシャツ&ジャンパー、模造の日本刀、置き物など「THE日本」といった趣の商品があります。アメリカ帰国時のお土産としての需要があるのでしょう。

NEXスーパー内にあるフードコートで昼食を摂ることにします♪ 先に述べたように、日本人(海自隊員)はスーパーでの商品購入はできませんが、フードコートの利用はOKです。ただし、代金の支払いはドルのみです。入居している店舗は4店舗。「SUBWAY」「Popeyes」「TACO BELL」「Pizza Hut」といった、日本でもお馴染みのお店が顔を揃えています。日曜日のお昼時とあって多くの人がいますが、私とOH3佐を含めて数人の日本人がいるものの大半がアメリカ人。休日の米軍人が家族と一緒に訪れているようです。

肝心の昼食ですが、「TACO BELL」でタコスのセットを注文しました。価格は7.95ドル、この日(8月27日)のレートは1ドル=146.22円でしたので1162円です。タコスのセットにしては少々お高め…これも円安の影響といえるでしょう。
(涙) どの店舗の、どの商品もアメリカ人向けの量で販売されているため、私が購入したタコスのセットもとんでもなく量が多かったです。アメリカ人の食欲、恐るべし!

OH3佐の車に乗って基地内を巡ります。とにかく敷地が広大なので、車でなければ基地内の様々な場所を見て回ることは不可能です。厚木航空基地は日米共同使用の基地ではありますが、米軍用の建物や施設が圧倒的に多く、基地内で見かける人は高確率でアメリカ人です。まさに「フェンスの内側はアメリカ合衆国」「日本の中のアメリカ」「アメリカの飛び地」といった雰囲気です。

【左上】アメリカの「国技」ともいえるアメリカンフットボール。立派なフットボール場があります。完璧に整備された芝生が美しい!
【右上】こちらも部隊庁舎に見えますが、実は映画館です。もちろん「NEX」が運営しています。上映中の作品はなんでしょうねぇ?
【左下】在日米軍基地に欠かせない店=マクドナルドです。日本の店舗と似たような外観ですが、米国マクドナルドの運営なので、日本マクドナルドが運営する日本の店舗とはメニューが異なります。OH3佐によると「フライドポテトの味も全く違う」とのこと。
【右下】ゴルフ場もあります。海自隊員もプレー可。海自内では厚木勤務を機にゴルフにハマってしまう人が多いとか…。


アメリカ軍の基地らしくチャペルもありますが、キリスト教の施設にも関わらずコテコテの和風建築というアンバランス。それもそのはず、このチャペルは元々は海軍の武道場だった建物で、厚木航空基地内に現存する唯一の旧海軍時代の建築物です。チャペル正面に設置されている看板には、宗派・グループごとの礼拝スケジュールが記されています。質実剛健な外観の元武道場と十字架&英語表記の看板という不思議な光景…基地内の数多の施設の中でも強烈なインパクトと異質なオーラを放っている場所です。

終戦後に接収されて長らくアメリカ軍の管理下に置かれた厚木基地では、建て替えや施設の配置変更等で旧海軍の建物が次々と壊されていったと思われますが、この旧武道場だけは80年もの歳月を生き永らえています。和のテイストを随所に盛り込んだ意匠がアメリカ人の心に突き刺さり、取り壊すことができなかった=保存すべき建物と考えた―建物が残った理由を私はそのように考えます。

厚木航空基地探訪、最後に訪れたのは基地に勤務する海自隊員のオアシス・厚生センター(PX)です。入口には富士山を模した「厚木厚生センター」の看板があります。先ほど訪れたスーパーマーケットに掲げられていた「NEX」の看板のような都会感・おしゃれ感はありませんが、これはこれで何とも言えない味わい深さがあります(笑) センター内にはコンビニ(セブン・イレブン)やグッズショップ、理髪店、保険代理店などが入居していますが、日曜日であるためコンビニ以外は閉まっていましたグッズショップに行きたかった…

税金の関係でNEXスーパーでは日本人(海自隊員)の買い物は不可でしたが、厚生センターのコンビニでは米軍人が飲料やお菓子を買い求めていました。逆パターンはOKなの?ちなみに私、基地訪問の記念に第4航空群のパッチを購入しました♪

基地内の探訪を終えた後、基地から北東に約2キロの場所にある深見神社(大和市深見)へ。創建は478年(雄略天皇の時代)と伝えられ、「相模国十三座」のひとつでもある由緒ある神社ですが、何と!この神社の境内に海軍航空隊の遺構があるのです。
御神木であるハルニレの木の脇にひっそりとお社が建っています。自ら存在を消したがっているような趣さえあるこの社、名称は「厚木空神社」です。祀られているのは第302海軍航空隊の戦死者で、名前のとおり、かつては厚木基地内にあった神社です。

進駐軍によって厚木空神社は破壊されるのではないか―そう危惧した302空の士官がマッカーサー到着3日前の8月27日夜、宝剣と戦死者の霊爾簿を密かに持ち出してこの深見神社に駆け込み、宮司に境内での祀りと祭儀をお願いしたそうです。神社はそれを承諾し、深見地区の戦没者も合祀して境内社のひとつとしました。1人の士官の勇気ある行動と神社の計らいによって厚木空神社は破壊を免れ、場所は変わったものの今日まで厚木の地で302空の戦死者を慰霊・顕彰し続けているのです。


厚木空神社の深見神社内での名称は「靖国社」です。よって社の前方に置かれた石碑も「靖国社」となっていますが、裏面に「厚木空神社」と記されています(画像左) この石碑の在り方を例にとっても、厚木空神社は初見で私が感じたように、存在を消したがっているとしか思えません。実はこの違和感は大正解で、深見に移った厚木空神社は極力目立たないように存在することを余儀なくされた経緯があります。302空は帝都防空の主力部隊であり、当時激減した熟練搭乗員を擁した精鋭部隊でした。爆撃のため飛来したB-29を多数撃墜した302空の戦死者を祀った神社は、進駐軍に気付かれないよう存在感を消すことを余儀なくされたのです。

社の脇には元隊員が建立した顕彰碑があり、裏面には302空の功績が記されています
(画像右)輝かしい功績だけでなく、表現はかなりマイルドではありますが、玉音放送後の反乱についても表記があります。毎年4月に慰霊祭が行われており、かつては全国各地から元隊員が集まっていたそうです。しかし高齢化により元隊員の参加はなくなり、現在は深見神社の奉賛会が慰霊祭を継続しています。

「もう1ヶ所、とびっきりの戦跡をご案内します」とOH3佐。車を15分ほど走らせ、座間市の芹沢公園にやって来ました。東京近郊にまるで山間部のような場所がある事に驚きましたが、さらに驚いたのは、崖の法面に地下壕の入口らしき大穴があったこと。実は、この一帯には太平洋戦争末期に海軍が掘った地下壕が存在し、その総延長は約1500mにも達します。現在は「芹沢の地下壕」と呼ばれており、迎撃戦闘機「雷電」を製造する地下工場だったと言われています。「雷電」を造る地下の秘密工場…なんてロマン溢れる壕でしょう!ちなみにOH3佐は、お子さんと芹沢公園の遊歩道を散策中に、偶然この壕を見つけたそうです。

昭和19年、「雷電」の生産を目的に座間・大和・海老名に跨る一帯に高座海軍工廠が設けられました。その場所に工廠を設けたのは、「雷電」を運用する302空が所在する厚木基地に至近の地だからでしょう。しかしながら、軍需工場は格好の空襲目標となることから工廠にほど近いこの場所に地下壕を掘削し、その中に生産施設の一部や物資倉庫、発電施設等を避難的に移していたようです。


芹沢の地下壕は大半が埋められたり崩落してしまっていますが、残存状態が良い2本の壕が公開されています。安全上の問題から内部に立ち入ることはできませんが、壕内はライトアップされており、入口の柵の前から内部の様子を窺い知ることができます。
壕の内部を覗き込んだ時、壕内に緑色の物体があることに気付きました。おや?飛行機らしき物体があるぞ!?
ずんぐりむっくりしたプロポーションは…間違いなく「雷電」。 ミニチュアの「雷電」が置かれているようです
(笑)この壕の管理者は座間市教育委員会ですが、お役所らしくないというか、なかなか粋な事をしてくれているではありませんか!座間市教委、Good Job!

OH3佐によると、この芹沢の地下壕には都市伝説があるそうです。壕には戦後の調査が及んでいない場所があり、そこには工廠で製造した多数の「雷電」が眠っている―というもの。海軍マニア・戦跡好きには堪らない都市伝説です♪ 壕の直径から判断するに、この壕の内部に完成形の「雷電」を格納することは物理的に不可能かと…。しかし、私も壕の何処かに「雷電」が眠っていることを信じたいです。壕の内部に置かれたミニチュアの「雷電」は、ロマン溢れる都市伝説を可視化・具現化しているのかもしれません。

所変わって、ここは横須賀。厚木探訪の翌々日、‟ある行事”を撮影するために横須賀へ赴きました。今回の関東遠征は3年9ヶ月ぶりであると述べましたが、その時の遠征は総監部庁舎横の逸見岸壁で挙行された2019年度練習艦隊の帰国行事の取材でした。

その逸見岸壁にはカナダ海軍のフリゲート艦「オタワ」と「バンクーバー」が停泊しています。両艦は海洋進出を強める中国を牽制するため、補給艦と共にインド太平洋地域に展開中で、横須賀には昨日(8月28日)午前に入港した模様です。今後は約5ヵ月間に渡って、日本近海や南シナ海方面で海上自衛隊や同盟国の海軍との共同訓練を実施する予定です。もはや横暴とも言える姿勢で強引に国際秩序を変更しようとする中国に対し、日米英だけでなくカナダ海軍もはるばる太平洋を横断して睨みを効かせる…素晴らしい行動だと称賛すると同時に、「我が国の同志」として心から応援したい気持ちでいっぱいです。頑張れ!カナダ海軍!!


撮影目的の“ある行事”までかなり時間があるので、軍港めぐりの遊覧船に乗る事にします。遊覧船が出港して僅か数分後、勢いのあるラッパの音色が耳に飛び込んできました。パカパパ~ パカパパ~ パカパッパ パッパパ~♪

げっ!「まや」が出港しているぅぅぅ(汗) 遊覧船上で艦艇の出入港に出くわすなんてこの上ない幸運なのですが、実は私、時間つぶしのために乗船し、かつ停泊している艦艇を撮っても面白くないという考えもあって、カメラをバッグにしまったままでした。慌てふためきながらカメラ取り出し、おっとり刀で撮影を始めたのは言うまでもありません。 常に即応体制をとっておくことは大切です(苦笑)

コロナ禍に加え、艦艇公開における募集対象外年齢者の排除もあって遠征が激減したため、私が「まや」を撮影するのはこれが初めてです。その初撮影が航行シーンなのですから、テンション上がりまくりです♪ 乗船して良かったぁ!!遊覧船が「まや」に後続していると、長浦港の方向から訓練支援艦「くろべ」が現れました。呉を母港にしている「くろべ」に横須賀で会えるのも大変な幸運ではありませんか!「まや」と「くろべ」が同時に出港ということは、これから外洋に出て対空訓練を実施するのかもしれません。

航行する「まや」と「くろべ」を絡めて、まるで観艦式か展示訓練の時のような1枚が撮れました。そういえば、近年このような構図の画像を撮影できていません
(涙) 展示訓練や体験公開はほぼ絶滅し、昨年実施された観艦式も一般人の乗艦はありませんでした(式の模様はネット配信で公開)。航行する多数の艦艇を洋上から撮影する機会はほぼ無くなったと言っても過言ではなく、寂しさを通り越して無力感すら抱く今日この頃…今にして思えば、2015年頃までが艦艇を撮影する様々な機会があった時期でした。

吉倉桟橋には新艦種FFMの「もがみ」「くまの」が停泊しています。実はこの2隻の撮影も初めて、というか、「もがみ」型を生で見るのも撮るのも初めてです。「もがみ」型は既に4番艦までが就役しており、その気になれば佐世保を母港としている「のしろ」「みくま」を撮影できるのですが…。この3年9ヶ月の間、いかに私の取材・撮影活動が沈静化してしまっていたかを改めて実感します。

それにしても、変なカタチだ…
(汗) 想像していたよりも大きくて立派な艦ですが、独特過ぎるのっぺりした艦容に大きな衝撃を受けました。いかにも‟今どきのフリゲート艦”といった見た目ですが、「はるな」型DDHDDG「あまつかぜ」といった“昭和の艦”に慣れ親しみ、心を躍らせたオールドマニアの私においては、この艦容には正直心が躍りません。心が躍らないのは独特の艦容だけが原因ではなく、私自身が齢を重ねて大きな変化を好まない、大変革を受け入れたくない体質になっているからかもしれません。

複雑な感情を抱きながら「もがみ」「くまの」を撮影していると、背後に艦艇の気配が…補給艦「ときわ」が入港してきました
そう、私の心を躍らせるのはこういう艦なのです!ステルス性など微塵も考慮していない艦橋構造物と船体、前甲板のコンビナートのような補給用施設の数々、上甲板にある構造物を一切隠そうとしない潔さ…これぞオールドマニアが垂涎する艦艇の姿です。

「ときわ」の就役は1990年3月なので、艦齢は30年を超え33年に達しています。海自では最長寿の部類に入る艦齢であり、今や戦後の安全保障の一大転換点として語られるペルシャ湾掃海派遣(1991年)に参加した艦でもあります。言うまでもなく、ペルシャ湾に参加した他の艦艇=掃海母艦「はやせ」・掃海艇「あわしま」「さくしま」「ゆりしま」「ひこしま」は2013年までに全て退役しており、ペルシャ湾の証人が2020年代になっても現役で稼働しているのは驚くべき状況といえます。
財政難ゆえに、現役でいざるを得ないのですが…

16時40分、今回の横須賀来訪の目的である行事が総監部前の広場で始まったので、ヴェルニー公園から撮影します。
その行事とは…本日(8月29日)付けで第50代横須賀地方総監に発令された伊藤海将の着任セレモニーです。今回の遠征自体は将官人事が発表される前から決めていましたが、幸運にも在京中に発令日がバッティングするという不思議な相性の良さが発動されました。8月人事で横須賀総監に異動するだろうとは思っていましたが、まさか発令日が今日とは…。もちろん伊藤総監には「ヴェルニー公園から撮影します」と事前にメールで伝達済み。さすがに「敷地内で間近に撮影させて欲しい」とは言えませんでした
(苦笑)

横須賀音楽隊による演奏が流れる中、公用車を降りた伊藤総監。伊藤総監を先導するのは同じく本日付けで幕僚長に発令された國見将補です。國見将補は航空集団司令官の松本海将と同期、つまり私の同期だったかもしれない防大35期生です。もし私が担任教師に騙されずに防大に入校し、さらに海将補まで昇進できたなら(可能性は極めて低そうですが…)、幕僚長として伊藤総監をお支えしていたかもしれない―そんな誇大な妄想を抱きながらシャッターを切り続けました。もうほとんど病気ですな…

ヴェルニー公園からセレモニーを撮影しているのは私だけではありません。15人くらいのマニアと思しき人たちが、総監部の方向にカメラを向けています。中にはたまたま公園を訪れたところ、隊員が整列しているのを見て「何かが始まる」と足を停めた人もいましたが、大部分の人は明らかに16時40分に伊藤総監が到着するのを知っていて待ち構えていました。これらの方々は何故到着時刻を知っていたのでしょう?しかも、到着日時は幾度か変更になっているのです。横須賀では総監の着任時刻が広く告知されるのでしょうか?それとも横須賀のマニアたちは総監部との太いパイプをお持ちなのでしょうか?考えれば考えるほど不思議です。

もうひとつ気になるのは、この方々は横須賀地方総監の着任セレモニーを毎回撮影しているのか?それとも伊藤海将が総監として着任するから撮影しているのか?という点です。多国籍部隊CTF151の日本人初の司令官に抜擢されるなど、歴代の横須賀地方総監よりも知名度は抜群で、加えて舞鶴・呉地方総監時代には先頭に立って広報に力を入れてきた経緯もあります。私にはこれらの方々は伊藤新総監に期待して撮影に来ていると思えてなりません。横須賀のマニアの皆様、伊藤総監をよろしくお願いします。

伊藤新総監に対し栄誉礼が行われます。儀仗隊は指揮官(3尉)+1個小隊36人の編成で、女性隊員も4人含まれています。
ささーげーつつ!!の号令一下、儀仗隊は「捧げ銃」の敬礼を行います。出迎えのため整列している隊員は、幹部においては挙手の敬礼、海曹士においては姿勢を正す敬礼を行います。純白の夏服を着用していることもあり、まさに海軍の儀式といった光景です。

伊藤新総監を出迎える隊員たちは、総監到着30分前の16時10分には整列を終えていましたが、中でも音楽隊と儀仗隊は他の隊員に先駆けて整列を完了させていました。よって、音楽隊と儀仗隊に限って言えば40分以上も整列していたことになります。夕刻とはいえ8月下旬の炎天下に、長袖の第1種夏服を着用しての整列はさぞ大変だったろうと推察いたします。それを耐えてしまう隊員の強靭さに感銘を受けた一方、到着30分前には準備を完了させる必要があるほど総監の着任行事とは重みがあるのだと感じました。

栄誉礼巡閲を終え、伊藤総監は出迎えの隊員に敬礼しながら総監部庁舎入口へ。陸自・空自と異なり、海自の敬礼は脇を締めて腕をあまり上げない形ですが、伊藤総監はひときわ脇を締めて腕が垂直に近い状態になる敬礼を行います。昭和時代の海軍映画でよく見る敬礼ですが、伊藤総監の美しい海軍式の敬礼は遠くからでも一目瞭然です。総監部庁舎の屋上には三ツ星の海将旗が翻っていますが、今この時から伊藤総監の海将旗となりました。勢い良く風になびく海将旗は伊藤総監の着任を祝っているかのようです。

このあと伊藤総監は体育館で総監部・隷下部隊の幹部に対して訓示を行い、舞鶴・呉地方総監時代に掲げた勤務方針「伝統の継承」「変化への挑戦」を横須賀においても実践していく旨を伝達。また地元・神奈川新聞の取材に対しては、昨年度の入隊者が目標の6割に留まった事を挙げ、1人でも多くの若者に自衛隊の門を叩いてもらえるよう、広報・PR活動に力を入れる意向を示しました。
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撮影を終えて数時間後、伊藤総監からメールが届きました。「総監部への訪問、お待ちしています」。この瞬間、次回の遠征は横須賀地方総監部での伊藤総監表敬訪問に決定。したがって、次回のレポートは「伊藤総監 表敬訪問記」となります。乞うご期待!

厚木では航空基地と戦跡を探訪し、横須賀では総監の着任を目撃…3年9ヵ月ぶりの関東遠征は収穫いっぱい。