Vol 41  新米三尉を海軍士官に鍛える練習艦隊                                 2009年5月3日

既に特設ページを設けて報じていますが、先月16日に練習艦隊が遠洋練習航海に出航するのを見送ってきました。

私は東京・晴海埠頭で行われる練習艦隊の出航式典を見るのは初めてだったのですが、鳥肌が立つくらい感動的でした。
軍艦マーチ(正確には「行進曲 軍艦」)が演奏される中、司令官・幕僚・実習幹部が参列者の前を敬礼をしながら行進し艦隊に乗り込む姿は颯爽かつ壮観であり、その光景は海上自衛隊が紛れもなく帝国海軍から続く組織であることを実感させるものでした。
出港時の実習幹部による登舷礼は見事なまでに美しく、「蛍の光」が流れる中、各艦が岸壁を離れる時には晴海埠頭はもの悲しくなるぐらいの荘厳な空気に包まれていました。

私の祖父も大正15年に練習巡洋艦「磐手」の乗組員として、今年と同じ地中海方面への遠洋練習航海に出ているのですが、当時も今と同じような感動的な雰囲気の中で旅立ったのでしょうね…。
海自ファン・艦船マニアの皆様、ぜひ一度、練習艦隊の晴海出港をご覧になることをお勧めします!

出航式典の模様は特設ページで既にお伝えしていますので、ここでは練習艦隊についてあれこれ語ってみたいと思います。

練習艦隊はその名の通り、江田島の兵学校 幹部候補生学校を卒業した幹部や術科学校・教育隊で教育を受けた隊員の実習を担当する部隊です。司令部は呉基地にあり、司令官(海将補)を首席幕僚(一佐)以下約40人の幕僚が補佐しています。

練習艦隊司令部はかつては横須賀にありましたが、横須賀の機能分散と艦隊の効率的な運用を目的に、幹部候補生学校と第1術科学校のある江田島に近い呉基地に94年1月に移転しました。

現在の所属艦艇は、旗艦「かしま」(TV3508)、「しまゆき」(TV3513)、「やまぎり」(TV3515)、「あさぎり」(TV3516)の4隻です。
このうち「かしま」と、「しまゆき」「やまぎり」「あさぎり」のうちの1隻が遠洋練習航海に参加し、残った艦が国内での教育・実習にあたります。

旗艦「かしま」は二世代目の遠洋練習航海用の練習艦で、全長143m、基準排水量4050t、95年1月に就役しました。
実習幹部用の講堂・居住区・訓練シュミレーターなど充実した教育設備を持つほか、訪問国でVIPが来艦することが多いことから、豪華な内装の司令官公室と応接室を備えています。
このほか、艦橋前部に備えられた2基の礼砲、将官接遇用の内火艇、実習がしやすいようにスペースを広くとった艦橋、女性隊員用の居住区など、練習艦隊旗艦という任務の特性に応じた特徴的な装備を備えています。世界中を見渡しても「かしま」のような優れた練習専用艦を持つ海軍は海自のみです。

私はこの「かしま」が大好きです!(恐らく「はるな」型の次に好きだと宣言できるほどです)
何が私のマニア心をくすぐるのかというと…「かしま」という艦名です。この名は私にとって「はるな」と同じくらい痺れる名前なのです。

話は戦前のことになりますが、長らく旧式の巡洋艦を遠航に充てていた帝国海軍は、昭和15年に2隻の遠航用練習艦を就役させました。しかし、世界情勢の悪化により両艦が遠航に参加したのはたった1度だけ、しかもそれが帝国海軍最後の遠航となってしまいました。この悲劇の練習艦の艦名が「鹿島」「香取」だったのです。
ちなみに「かしま」の一世代前の練習艦は「かとり」でした。こんな所にも帝国海軍の伝統が見事なまでに息づいているのです。

「かしま」と「鹿島」、同じなのは名前だけではありません。私には良く似ているように見えます。「鹿島」を現代風にアレンジすると「かしま」になると言った雰囲気ではないでしょうか。(「鹿島」の画像はこちら
「かしま」「鹿島」とも艦の前部から中部にかけて乾舷が異様に高い船体構造をしており、これが両艦を似ていると印象付ける要因となっています。この船体構造は、航海経験が浅い実習幹部が外洋の荒波に揺られて船酔いしないよう、船体の安定性と復元性を高めるために採用されました。
このほか、上記の「かしま」の設備(シュミレーターと女性隊員居住区は除く…笑)は「鹿島」にも備えられており、まさに「かしま」は「鹿島」の生まれ変わり、言い換えれば、海自が帝国海軍の末裔であることの象徴のようなフネなのです。

その「かしま」では、かつて「鹿島」でも行われていたであろう厳しくハードな指導が行われています。
練習艦隊は遠航で、江田島を卒業したばかりの新米三尉を「海軍士官」にするべく徹底的にシーマンシップを叩き込みます

三尉に任官したとはいえ、実習幹部は船乗りとしては素人同然。ましてや階級が下の曹士を指揮することなど不可能です。
そんな実習幹部の娑婆っ気を抜き、船乗りとして必要な知識と経験を身体に染み込ませ、極限の状況でも曹士に的確な指示が出せるようなリーダーシップを養うことが遠航の目的なのです。

ですから、幕僚や乗組員の指導は猛烈そのものです。
実習幹部がもたついたり、うまく指示を出せなかったり、同じ間違いを繰り返したりと未熟な面を出そうものなら、「てめぇー、艦を沈める気か!」「そんな指示では艦は火だるまだぁー!」「そんなんで部下がついてくるのか!」「お前が指揮官になったら部下を殺すぞ!」みたいな凄まじい罵声が飛んできます。
まさに練習艦隊はフネの形をした道場、修行場なのです。
しかしながら、猛烈な罵声を浴びせるだけが練習艦隊の指導ではありません。
理解や習得が進まない実習幹部に対しては、年齢が近い若手幹部がマンツーマンで懇切丁寧に指導していますし、時には司令官や艦長が直接実習幹部を指導することもあります。
また、航海の節目節目には様々なイベントや下ネタ満載の余興が用意されており、厳しい指導で凹みまくっている実習幹部もこの時ばかりは大はしゃぎです。このように硬軟織り交ぜたメリハリある指導こそが練習艦隊の教育なのです。

もうひとつ、遠航が実習幹部にもたらすもの。それは国際的な視野、感覚です。
訪問先の国では各国の首脳や海軍のトップ、在外公館の大使といったVIPとじかに接する機会がふんだんにあります。そのような貴重な機会に実習幹部ひとりひとりが外交官として友好親善を深めるとともに、海軍の役割や国際性といった「ネイビーの特質」を学ぶのです。そしてそれが遠航後から30年以上続く海自幹部人生の基礎・土台となるのです。

実習幹部にとって遠洋練習航海は江田島以上にきつくてツラい修行期間かもしれません。しかし、20代前半の若者がこれまで記したような充実した教育を受け、貴重な経験を積むことを私は非常に羨ましく思います。大学を卒業して官庁や企業に入っても、これほど充実した新入社員教育をする所なんてないのですから…。

将来の海上防衛を担うことになる実習幹部たちは、歯を食いしばって厳しい指導を乗り越え、豊かな国際感覚を身に付けた心身ともに逞しい海軍士官となって晴海埠頭に戻ってくることを心から期待しております。
頑張れ!負けるな!実習幹部。

練習艦隊の出港を見送りながら思ったのは「遠航に随行して実習幹部たちの奮闘を取材したい!」ということでした。こんなサイトのために海自が便宜を図ってくれるとは思いませんが、もしよろしければ遠航の途中から私を「かしま」に乗せてください!!(笑)



 Vol 42 ついにベールを脱いだ新型潜水艦「そうりゅう」                             2009年5月7日

GWも間もなく終わりますが、今年は「高速道1000円効果」により各地の行楽地は大賑わいだったようですね。

舞鶴で護衛艦「はるな」と久しぶりの再会を果たし、漁船と衝突して傷ついた「あたご」を見舞った去年のGWから早や1年。当初の予定では、今年のGWは海自5大基地の中で唯一訪れたことがない北方艦隊の拠点・大湊へ遠征する予定でした。ところが仕事の都合で日帰り不可能な場所への遠出を控えなくてはならなくなり、泣く泣く断念しました(涙)

ヘコんでいても仕方ないので、5月3日に日帰りで呉に行ってきました。日帰りという条件内では佐世保という選択肢もあったのですが、呉を選んだのはある大きな目的があったからです。
その目的とは…先月23日に呉に配備された新型潜水艦「そうりゅう」を撮影することです。

先月中旬に「ひゅうが」の撮影を目論んだものの、その時「ひゅうが」は既に習熟訓練の期間に入っており、横須賀基地の遥か沖合いに出ておりました。「そうりゅう」も同じような危険性があったのですが、呉配備後すぐにGWが来ることから「習熟訓練はGW明けから」と予想した私、朝5時に始発の特急電車に乗り呉へ向かいました。(私の愛車にはETCが付いていないのです…笑)

かくして私が予想した通り、「そうりゅう」はその真新しい姿を潜水艦桟橋に横付けしていました。

驚いたことに、配備先に到着後すぐさま消される艦番号と艦名がまだ残っています。GW期間中は私のようなマニアにお披露目ということで名刺代わりに番号と艦名を残しておいてくれたのでしょうか?
理由はともあれ、とても貴重な姿を撮影することができました。

この「そうりゅう」、海自の潜水艦史に新たな歴史を刻む画期的な艦なのです。
第一にその艦名。言うまでもなく帝国海軍の空母「蒼龍」と同じです。
このところ「あたご」や「あしがら」「ひゅうが」と帝国海軍の大型艦の名が続々と復活していましたが、ついに空母の名が復活しました

ご存知のとおり、海自の潜水艦には第1号の「くろしお」以来「○○しお」という名前が付けられてきました。しかしこの命名法ではすぐにネタ切れを起こしてしまいます。
現在、海自が保有する潜水艦18隻のうち殆どの艦名が3順目、つまり3回目の使用になっています。
例えば、「くろしお」は1955年に米軍から貸与されたSS501、1974年に就役した「うずしお」型5番艦のSS570、そして現在第1潜水隊群第5潜水隊に所属しているSS596といったように使用されています。
さすがに4順目となるのが気が引けたのか、それともいい加減飽きたのかは分かりませんが、おととし命名基準が改正されて新たに「瑞祥動物の名」が加わりました。「そうりゅう」はその第1号なのです。

帝国海軍の空母「蒼龍」は、真珠湾攻撃に参加した6隻の空母のうちの1隻で、「飛龍」とともに第2航空戦隊を形成し太平洋やインド洋で赫々たる戦果を挙げました。太平洋戦争緒戦における日本の快進撃をもたらした武勲艦です。
しかしながら、ミッドウェー海戦で米軍の急降下爆撃を受けて大炎上、沈没時に乗組員の懇願を断って艦に残った艦長・柳本柳作大佐が、軍刀を手に艦橋に仁王立ちして火だるまになりながら艦と運命を共にした逸話は伝説と化しています。

このような歴史と逸話を持つ艦名だけに、進水時に艦名が「そうりゅう」と発表された時には大きな驚きの声が挙がりました。しかしながら潜水艦に瑞祥動物の名(=空母の名)を付けるのはある意味、的を得た命名なのです。
終戦直前には小型の潜水艦である特殊潜航艇に「蛟龍」や「海龍」というものがありました。米海軍では「シーウルフ」など動物の名を冠した潜水艦がありますし、戦艦が姿を消し主力が潜水艦に移り変わったことから、戦艦の名が潜水艦で復活しています。
海自にとっても潜水艦は帝国海軍における空母並に極めて重要な存在ですので、空母の名が潜水艦で復活することは妥当なのではないでしょうか

「そうりゅう」が画期的なのはその名前だけではありません。そのほかにも幾つかの新機軸が盛り込まれた潜水艦なのです。

←の写真は「そうりゅう」を左後方の位置から撮影したものですが、一目で分かるのが、従来と舵の形がまったく違う点です。
X型と呼ばれる新しいタイプの舵で、従来の舵よりも旋回半径を小さくすることができるほか、舵を切った時の船体の揺れを抑える効果もあります。また水中での微妙な動きが可能になります。

後ろから見た「そうりゅう」は、X舵のためかとても俊敏で運動性能が良さそうに見えます。全長は84mで「おやしお」型から2mしか長くなっていませんが、随分とスマートになった印象を受けます。同じ葉巻型の船体ながら「そうりゅう」は角ばっておらず、随所に曲線が用いられたデザインになっているためでしょう。斜め後ろから見た雰囲気は、「はるしお」型のイルカ、「おやしお」型のシャチに対して「そうりゅう」は海に棲む龍だと感じました。その点からもまさにうってつけの命名だと思います。
新機軸のもう一つの目玉は、海自初のAIP(非大気依存型推進機関)潜水艦という点です。

海自の潜水艦は通常動力型なので潜航中は蓄電池推進ですが、充電のため定期的に海面に浮上しディーゼルエンジンを回す必要があります。この海面に浮き上がった充電作業中が敵に探知される危険性が高い「魔の時間帯」なのです。この通常型潜水艦の脆弱性を解消すべく導入されたのがAIPです。
「そうりゅう」はAIPとしてスウェーデンで開発されたスターリング・エンジンを搭載。このエンジンは簡単に言うと、シリンダー内の気体を膨張・収縮させることで動力を得る外燃機関です。内燃機関とは異なり燃焼時に酸素を必要としないので、潜航中でも運転することができます。つまり「そうりゅう」は潜航したままで蓄電池に充電することができるのです。
これにより連続潜航時間は大幅に延び、一説には低速航行を維持していれば2週間程度は潜航が可能と言われています。さすがに原子力潜水艦並とまではいきませんが、通常動力型でこれほどの長期間連続潜航ができるのは飛躍的な進歩と言えます。
潜水艦は隠密性が命ですから、潜航時間の長期化は即ち潜水艦の戦略的価値そのものの向上なのです。

スターリング・エンジンで潜航時間が飛躍的に延び、X型舵で優れた水中運動性能を与えられた「そうりゅう」は、通常動力型としては世界一の性能を持つ潜水艦であり、それまでの海自潜水艦とは明らかに一線を画す艦です。海自がこの艦に大きな期待を込めて「蒼龍」=「そうりゅう」の名を与えたのも頷けます。

先日、「ゆうしお」型潜水艦の艦長を2回経験した幹部の方とお話する機会があったのですが、その幹部の方が言うには「『そうりゅう』の艦長は大きなプレッシャーが掛かって大変だろう」とのことでした。その理由は、戦技の成績が悪ければ「名前負けしている」とか「宝の持ち腐れ」との批判が飛んで来るからというのです。
艦長ならびに乗組員の方々は、これから始まる訓練を通して「そうりゅう」の優れた性能を100%引き出せるよう練度を高め、強力な抑止力となることを切に望みます。頑張れ!「そうりゅう」!

現在建造中の2番艦の名は「うんりゅう」(雲龍)となることが決まっています。
3番艦以降の艦名はまだ未定ですが、今後「ひりゅう」(飛龍)や「りゅうじょう」(龍襄)さらには「しょうかく」(翔鶴)、「ずいかく」(瑞鶴)といった艦名が復活することを期待しております!ただいくら「○○りゅう」でも「ふくりゅう」(伏龍)の復活はご勘弁願いたいと思います。(苦笑) (「伏龍」は別名・人間機雷と呼ばれた特攻兵器です。詳しくはこちら


 Vol 43 名将・中村悌次提督が息づく海上自衛隊                                 2009年5月30日

最近、私が読んだ本の中で最も興味深かったのがこの本です。

『生涯海軍士官』(中央公論新社刊)、著者は元海上幕僚長の中村悌次氏です。

副題に「戦後日本と海上自衛隊」とあるように、帝国海軍の青年士官として太平洋戦争を戦った中村氏が、戦後海上自衛隊に入隊し、草創期の海自で組織づくりや人材育成、艦艇の調達、防衛計画の立案などに奔走し、今日の海自の基礎を築いた過程をインタビュー形式で綴った内容となっています。海自がどのような事情と経過を経て今の姿になったのかがよく分かる第一級の資料です。

中村氏は大正8(1919)年、京都府の出身で、昭和11年に海軍兵学校に入校(第67期)、14年に首席で卒業し、重巡「高雄」、駆逐艦「夕立」、戦艦「長門」で勤務した後、横須賀鎮守府第十八突撃特攻長として本土決戦に備えている最中に終戦を迎えました。
中でも「夕立」乗組時には、帝国海軍随一の駆逐艦長である吉川潔中佐の下でガダルカナルでの激戦に参加し赫々たる戦果を挙げています。

戦後、誕生したばかりの海上警備隊に入隊、艦隊で海に出ることを望んだものの、海兵首席卒業の俊才ということで、一時期を除いて殆どの期間を海幕や統幕での勤務に費やしています。
草創期の海自に対する国民、政治家、官僚の無理解は凄まじいものだったようです。
「海軍軍人」である中村氏は、有事に備えて万全の海上防衛体制を敷きたいと考えていても、自衛のための戦いであっても戦(いくさ)を悪とする戦後日本の風潮により、政治家や官僚は平時を前提にした防衛力しか考えようとしない。よって中村氏が求める体制や装備はことごとく実現しない。「あれもできない」「これも実現しない」というがんじがらめの状況の中で、中村氏は「海自は何のために存在するのか」を常に問い続けながら多くの仕事をこなしました。

本文中で語られる中村提督の苦悩が私の胸を打つ一方で、今や世界有数の海軍となった海自は、中村氏のような草創期の提督たちの汗と涙の結晶なのだと思い知らされました。

中村提督は制服組トップの海上幕僚長を1年半務めたあと、昭和52年9月に海上自衛隊を退官しました。退官後は歴代の海幕長OBのように防衛関連企業に天下ることはなく、戦史研究や講話活動に精力的に取り組んでいたとのこと。この退官後の生き方も中村氏が名将とされる所以ではないでしょうか。
そんな中村提督が退官して32年の歳月が流れました。現在、海上幕僚監部や艦隊、総監部等の最高責任者として奮闘している16人の海将は、ちょうど中村提督が海将として部隊・艦隊の指揮を執っていた頃に入隊した幹部たちです。

現代日本における16人の提督(海将)の氏名と役職、入隊時期などを表にまとめてみました。
役職 氏名 特技 前配置/前々配置 学歴
海上幕僚長 赤星慶治 哨戒機操縦士 佐世保地方総監/航空集団司令官 防大17期
海上幕僚副長 加藤耕司 艦艇 舞鶴地方総監/掃海隊群司令 防大20期
自衛艦隊司令官 泉 徹 艦艇 幹部学校長/舞鶴地方総監 防大17期
護衛艦隊司令官 河野克俊 艦艇 掃海隊群司令/海幕防衛部長 防大21期
航空集団司令官 倉本憲一 哨戒機操縦士 教育航空集団司令官/幹部学校長 防大19期
潜水艦隊司令官 永田美喜夫 潜水艦 阪神基地隊司令/大湊総監部幕僚長 防大20期
横須賀地方総監 松岡貞義 哨戒機操縦士 航空集団司令官/大湊地方総監 防大18期
呉地方総監 杉本正彦 艦艇 潜水艦隊司令官/海幕監理部長 防大18期
佐世保地方総監 加藤保 艦艇 海上幕僚副長/統合幕僚副長 防大17期
舞鶴地方総監 宮浦弘児 経理・補給 補給本部長/海幕装備部長 防大19期
大湊地方総監 河村克則 哨戒機操縦士 自衛艦隊幕僚長/第5航空群司令 防大21期
海自幹部学校長 武田寿一 艦艇 大湊地方総監/自衛艦隊幕僚長 防大19期
補給本部長 柴田雅裕 艦艇 佐世保総監部幕僚長/掃海隊群司令 名古屋工大51年
技術開発官(艦船担当) 安達考昭 技術 海幕技術部長/補給本部副本部長 東北大大学院53年
教育航空集団司令官 方志春亀 回転翼機操縦士 舞鶴地方総監/佐世保総監部幕僚長 防大20期
統合幕僚副長 高嶋博視 艦艇 護衛艦隊司令官/海幕人事教育部長 防大19期

赤星海幕長をはじめとする防大17期の3人が中村氏が護衛艦隊司令官だった昭和48年の入隊、松岡横須賀総監ら防大18期の2人が呉地方総監だった昭和49年の入隊、倉本航空集団司令官ら防大19期の4人が自衛艦隊司令官だった昭和50年の入隊、そして加藤海幕副長ら防大20期の3人と河野護衛艦隊司令官ら防大21期の2人、一般大卒の柴田補給本部長が海幕長だった昭和51年・52年の入隊となっています。

中村氏が海将となり部隊・艦隊の最高指揮官として働いていた頃に入隊した彼らは、当時初級幹部もしくは候補生として海自幹部としての道のりを歩み始めたばかりであり、恐らく部隊や艦隊、幹部候補生学校等において中村海将から直接もしくは間接的に薫陶を受けたことでしょう。
その幹部たちが今日海将となり、我が国の海上防衛のみならずインド洋派遣やソマリア海賊対策といった実任務までこなすようになった海自を引っ張っています。中村氏が築いた土台の上に新たな歴史を作り上げているのです

インド洋における給油活動やソマリア沖での民間船護衛が、中村氏が想定していたような海自の任務かどうかは分かりません。ただ、艦船・人員ともに未だ不十分で大きな制約を抱える海自が、海上防衛と平行して海外での実任務を黙々と、なおかつ着実に遂行しているのは中村氏が海自に遺した有形・無形の財産のお陰だと、私は上記の本を読んで感じるようになりました。

様々な制約がある中で任務をこなす海自の姿は現役時代の中村提督の姿と重なります。そういう意味では今の海自には中村イズムが浸透している、16人の海将をはじめとして中村提督から薫陶を受けた幹部らが中村イズムを実践し、さらにそれを次世代に継承しようとしていると私は考えます。
草創期の海自で組織づくりに奔走したのは中村氏だけではありません。多くの将官・幹部が血の滲むような努力を重ねて来たことでしょう。にも関わらず、海自関係者には「中村悌次」という名前に特別の反応を示す人が多いということです。
「中村氏は偉い。特別だ」と言われ、今なお海自内で静かに語り継がれているのは、氏の残した業績もさることながらその人格、そして制約だらけで八方塞がりの状況においても常に海自の将来を考えて心血を注いだ生き方が共感を得ているのでしょう。

日本の提督と言えば、殆どの人が山本五十六大将や井上成美大将、山口多聞少将といった太平洋戦争を戦った帝国海軍の将官たちを思い浮かべると思います。しかし、戦後長らく日本の海上防衛のために人知れず汗と涙を流した中村氏も山本大将や井上大将らと同様、後世に語り継がれるべき提督ではないでしょうか
皆様、「生涯海軍士官」を是非ご一読を!


 Vol 44 訓練に励む艦隊の重要拠点〜佐伯基地分遣隊                            2009年6月9日

今回のテーマは私の地元にある海自基地についてです。

海上自衛隊の港湾基地と言えば、横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊という帝国海軍の鎮守府・要港部に由来する五大基地を思い浮かべると思います。かなりマニアの方々は阪神(神戸)や函館、下関、沖縄という基地隊という組織が置かれている基地もご存知なのではないでしょうか。
五大基地は艦艇の母港・支援組織であるとともに、日本を5分割した各警備区の防衛拠点、さらには地域における海自の出先機関として自治体との調整にあたるなどの重要な役割を担っています。
一方、基地隊は我が国における戦略上・警備上、極めて重要な港湾都市に置かれています。阪神(神戸)は阪神・関西地方の警備と神戸で整備を行う潜水艦の支援、下関は関門海峡の掃海・警備といったように、各港湾・地域の特色に応じた任務を与えられています。基地隊には掃海隊群に所属しない掃海隊が配備されており、2〜3隻の掃海艇が母港としています。

海自には、さらに基地分遣隊という組織が置かれた小さな基地があります。稚内、新潟、父島、由良、佐伯、奄美の6ヶ所です。
訓練等で行動中の艦船が補給・休養のために入港するほか、地方総監部の出先として自治体との調整を行っています。佐伯以外は油船など数隻の支援船を持つ程度で、母港とする艦艇を持っていません。

私が住む大分にある海上自衛隊の基地が佐伯基地分遣隊です。
東九州唯一の海自基地であり、呉を母港とする艦船が外洋に出る際に通過する豊後水道に面しているため、九州にあっても呉地方隊の隷下組織です。
分遣隊長(二佐)のもと総務科、警備科、補給科、通信科の4科があり、約50人の隊員が勤務しています。

左の画像は佐伯基地分遣隊の庁舎ですが、この古風な雰囲気の建物は帝国海軍の佐伯航空隊の庁舎だったものです。佐伯航空隊は豊後水道の哨戒を専門に担当した内戦航空隊で、艦上爆撃機36機が配備されていました。
こんな所にも帝国海軍の遺産が脈々と引き継がれているのですが、残念ながら来年には新しい庁舎に立て替えられ、この庁舎は解体されるということです。

この佐伯基地分遣隊、6ヶ所の基地分遣隊の中でもひときわ重要な任務を担っています。

艦隊や護衛隊群レベルの大きな訓練や演習が実施される四国沖の訓練海域に近いことから、多くの艦艇が訓練の前後、または訓練中にも補給・休養のために佐伯港に入港します。その数は年間約300隻。佐伯基地分遣隊はこれらの艦艇に対して補給をはじめとする様々な支援を行っているのです。
仕事で佐伯市に行った際に何気なく埠頭の前を通ると、「ひえい」「きりしま」といった大物が人知れず接岸していてかなり驚きます。(笑)しかも、水上艦艇だけではなく潜水艦もしばしば入港しています。歴代の分遣隊長に潜水艦乗りの幹部が多く就いているのはこの辺りに理由がありそうです。(ちなみに今の隊長は潜水艦の艦長を2度も経験した熟練の潜水艦乗りです)

また、訓練支援も重要な任務のひとつで、そのために分遣隊として唯一、多用途支援艦「げんかい」が配備されています。

多用途支援艦は五大基地に1隻づつ配備されていますが、呉だけは「げんかい」を四国沖の訓練海域に近い佐伯に前方配備しているのです。

「げんかい」は、護衛艦や潜水艦が四国沖または瀬戸内海周辺で実施する訓練において、水上標的の操作や着弾観測といった支援を行うほか、豊後水道の航路警戒や事故発生時の救難に携わっています。
また地元のイベントに駆けつけて体験航海や一般公開を行うなど、文字通り多用途な任務に就いています。

かつては由良や父島にも訓練支援用の特務艇(特務艇81号型=ひうち型の前タイプ)が配備されていましたが、退役と同時に配備もなくなり、今や艦艇を持つ分遣隊は佐伯のみとなっています。いかに佐伯の役割が重要かがお分かりになると思います。
このように重要な役割を担っている佐伯基地分遣隊ですが、佐伯市周辺の人以外は大分に海上自衛隊の基地があることを知る県民は少ないようです。大分は別府、湯布院、玖珠の3ヶ所に陸上自衛隊の駐屯地があるほか、西日本最大の面積を誇る日出生台演習場もあることから、大部分の県民には「自衛隊=陸自」というイメージがあるためでしょう。

これもあまり知られていない事ですが、佐伯は帝国海軍の時代から非常に重要な港でした。

海自同様、帝国海軍も豊後水道と外洋の結節点にあり天然の良港である佐伯を艦隊作業地とし、訓練や演習の拠点としたほか、太平洋戦争中には作戦行動前の艦隊集合地点としての役割も与えていました。

佐伯基地分遣隊に隣接する公園の一角に立派な記念碑(左の画像)が立っています。碑文にはこう書かれています。「連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地」
1941年12月8日に真珠湾の米艦隊を攻撃した機動部隊の空母5隻(赤城、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)と護衛の巡洋艦・駆逐艦は、一旦この佐伯に集合して準備を整えた後、攻撃実施20日前の11月18日に最終集合地点の単冠湾に向け出港しました。
佐伯は帝国海軍、さらには日本の運命を決める作戦の起点だったのです。

この記念碑がある公園内には佐伯航空隊や帝国海軍関連の史料を展示した平和祈念館もあります。10年ほど前には、真珠湾攻撃に参加した元搭乗員と攻撃を受けた米戦艦「アリゾナ」の元乗組員が対面し、友好を誓い合うセレモニーもこの公園でありました。一帯は帝国海軍の栄光と平和の尊さを後世に伝える場所となっています。
五大基地のような圧倒的な存在感はなく、どちらかと言えば佐伯市内でひっそりと存在している佐伯基地分遣隊ですが、その任務の重要性は言うまでもなく、地域における役割、さらには帝国海軍以来の歴史という点においては五大基地に匹敵する基地なのではないでしょうか?
佐伯基地分遣隊は今年の夏も、基地を開放してのイベントや「げんかい」の体験航海を計画しています。横須賀や呉、佐世保のイベントには何度も行ったという海自マニアの皆様方、是非とも佐伯基地分遣隊を訪れてはいかがでしょうか。


 Vol 45 遠征しても基地に艦がいない怪現象とは…                                2009年7月9日

7月がやって来ました!!艦艇マニアにとっては1年で最も楽しく、忙しい季節です。

掲示板に書き込んでいるように、これから1ヶ月間、毎週末艦艇イベントに出撃することになっています。体力と財力を著しく消費することになりそうですが、この時期に撮影した画像の枚数と出来栄えが夏以降サイトが充実するかどうかを左右するので、暑さに負けずに頑張りたいと思っております。
特に今年は超注目艦の「ひゅうが」をはじめ、イージス艦「あしがら」「こんごう」「ちょうかい」、DDH「くらま」、護衛艦「いがづち」「おおなみ」など、昨年以上に大物を撮影する予定なので力が入らずにはいられません。正直、撮影が楽しみで仕事が手に付かない日が続いております(笑)

そんな「7月の陣」の第1弾として、先週末私用で上京したついでに横須賀基地で撮影をしてきました。
実は、そこで私は去年の夏から心の中に漠然と広がっていた不安が現実となっていることを感じずにはいられませんでした。
基地を留守にしているフネ
(特に護衛艦)が多くなっているのです。つまり撮影に行ってもフネがいないのです。

横須賀基地の吉倉桟橋にいたのは就役したばかりの砕氷艦「しらせ」、ソマリアへの出撃を目前に控えた護衛艦「はるさめ」、そして試験艦「あすか」の3隻のみでした。
私としては「ひゅうが」や「いかづち」「たかなみ」「むらさめ」といった護衛艦がいることを期待していたのですが…。彼女たちは何処へ?

撮影に訪れたのが金曜日という平日だったためで、翌日の土曜日にはもう少し多くのフネがいたのかも知れません。
しかしながら、前回横須賀を訪れた4月中旬も、休日だったにも関わらず吉倉にいたのは「きりしま」と「はたかぜ」2隻のみ。さらにその前、3月は「きりしま」と「むらさめ」の2隻のみ(あと補給艦がいましたが…)、さらにその前の11月は「しらね」と「はたかぜ」の2隻。なんと、私の横須賀遠征は4回連続で吉倉に3隻以上の護衛艦がいたことがないのです。
これは単なる偶然なのでしょうか?私が運の悪い男で、フネがいない時に限って遠征しているということでしょうか?

この現象は横須賀だけではありません。実は呉基地に遠征してもこのような「空振り」が続いています。
5月のGWに遠征した際は、祝日ということもあって「ひえい」をはじめ「やまゆき」「まつゆき」「せとゆき」、さら練習艦1隻、訓練支援艦2隻がいたのですが、護衛隊群に所属する護衛艦は「ひえい」以外は1隻もいませんでした。
「さみだれ」と「さざなみ」はソマリア沖へ、「あけぼの」はインド洋へ派遣されているので仕方がないのですが、「いなづま」と「うみぎり」はどこへ行ったのでしょう?
ひどかったのは1月と去年7月の遠征で、あの広い呉基地にいたフネは1隻のみという凄まじい状況でした(ちなみに唯一いたフネは、1月は訓練支援艦「くろべ」、去年7月は潜水艦救難艦「ちはや」でした)。はるばる大分から電車代や高速代を使って遠征したのに基地がもぬけの殻では泣くに泣けません…。
私は学生時代に広島市に住んでいたのでその頃から呉には頻繁に通っていたのですが、その時代を含めても呉基地があのように「もぬけの殻」になった光景を見た記憶がありません。明らかに去年から何かが変わったと考えざるを得ません。

去年から変わったものとは何か? 考えられるのは去年3月に実施された護衛艦隊の大改編の影響ではないでしょうか。

護衛艦隊の大改編では、ドック入りの時期が近い艦同士で護衛隊群を再編成した結果、同じ群に所属する艦でも母港はバラバラという状況を生み出しました。このため、群単位の訓練はおろか護衛隊単位の訓練でも所属艦が遠路はるばる航海をして集合しなければならなくなりました。このことが航海の長期化=基地を留守にするフネの増加につながっていると私は考えます。

例えば第4護衛隊群は、「ひえい」「さざなみ」「いなづま」「さみだれ」「うみぎり」の母港が呉、「きりしま」「はたかぜ」が横須賀、「はまぎり」が大湊という編成になっているのですが、去年の春以降たびたび私の地元・大分や北九州などで一般公開をしています。恐らく四国沖や九州周辺海域で集合訓練をしている合間に一般公開もしているのでしょう。

なかでも「きりしま」「はたかぜ」「はまぎり」は4群に所属する前は九州でのイベントに来ることは殆どなかっただけに、4群所属となったことで横須賀や大湊という母港を離れてはるばる九州周辺まで訓練に来ることが多くなったのは間違いありません。

逆のパターンもあります。昨年夏のヨコスカサマーフェスタ、吉倉桟橋に横須賀のフネは1隻もおらず、一般公開をしていたのは呉の「ひえい」「いなづま」「さざなみ」だったという笑うに笑えないことがありました。

この時、4群は横須賀に集合して訓練を行っていたのですが、その後も「ひえい」「いなづま」「うみぎり」などは横須賀に寄港しているのを頻繁に目撃されています。呉を母港とするフネたちも大改編以降、横須賀を拠点に横須賀周辺や伊豆大島周辺の太平洋上で訓練を行う回数が増えたと言えそうです。
このコラムを書いている7月9日時点では、「ひゅうが」をはじめとする1群が佐世保周辺でかなり長期間に及ぶ訓練をしていて、その合間に長崎や大分、日向市で体験航海や一般公開を実施します。先週私が横須賀に行っても「ひゅうが」や「いかづち」がいなかったのはこのためです。4群と1群を例に挙げましたが、2群と3群も同じような状況だと思われます。母港を長く離れることを余儀なくされる乗組員はさぞご苦労されているのではないでしょうか…。頑張れ!負けるな!海の男たち!!

航海が長期化するとなると、気がかりなことがあります。
以前、このコーナーでも述べましたが、プライバシーのない狭い艦内生活が嫌われて海自は陸海空の自衛隊の中で最も人気がありません。そのうえ母港を長期間離れる航海が頻繁にあるのでは、海自の募集難に拍車がかかってしまうのではないでしょうか。
長い航海はその分燃料も消費しますし、何よりも私は未だにどの艦がどの群に所属しているか覚えきれていません(苦笑)。ですから個人的には、護衛艦隊は近い将来、大改編前のような編成に戻すべきではないかと考えております。

いよいよ夏の艦艇イベントが本格的に始まります。母港を遠く離れてイベントを実施してくれている艦の乗組員に感謝しつつ、思いっきり撮影を楽しみたいと思っております。乗組員の皆さん、よろしくおねがいします!