Vol 36  頼りにするなら普段から大切にしてよ!                                  2009年2月5日

ソマリア沖で出没する海賊対策として政府・与党内で検討されていた海自艦艇の派遣ですが、先月28日に派遣が決定、同日、浜田防衛相から海自に準備指示が下されました。
そしておととい、派遣される艦艇は第4護衛隊群所属の護衛艦「さざなみ」「さみだれ」であることが発表されました。
前回のこのコーナーで書いたように、現在海自の艦艇運用はギリギリの状態であるため私は派遣には大反対なのですが、政府が決定を下したのなら仕方がありません…。

しかし、インド洋とソマリア沖両方に艦艇を派遣するとなると海自は本当に大変です。
現地で活動する合計4隻の艦艇(護衛艦3・補給艦1)のほかに交代の艦4隻が必要になりますし、任務を終えて帰国した艦艇は乗組員の休養と艦の整備に入り当分の間は非稼動状態となります。これに通常スケジュールでドック入りしている艦、訓練や練習艦隊の随行で長期間海外に出る艦を差し引くと、本来の任務である海上防衛に携わる艦艇の数は極めて限られてきます。

「護衛艦だけでも47隻もあるのに少ないとはどういうこと?」とお思いになるかもしれませんが、艦艇は「高練度の即応状態」「練成状態」「整備・休養状態」「ドック入り」という4つのサイクルで活動しているので、高い練度を持って海上防衛の最前線で活動できる艦艇は全体の4分の1に過ぎないのです。(護衛隊群が4個編成されているのはこのためです)
国際貢献や海賊対策の重要性は分かりますが、我が国の海の護りが手薄になりはしないかと不安にならずにはいられません…。

そんななか、先日新聞を読んでいたら海自派遣を強く要望していた海運業界の関係者のコメントが目に留まりました。
「何のために海自はあるのか。一刻も早くソマリア沖に展開すべきだ」「日本人・日本船が海賊に狙われているのに海自が何もしないのは何事か」「海自艦艇は休みなくフル回転し日本船団を守れ」といった内容でした。

このコメントを読んで、私は正直、「何を勝手なことぬかしてんのよ!」と思わずにはいられませんでした。

我が国の輸入品の多くがソマリア沖を通過する商船でもたらされることは分かっていますし、海賊に襲われる恐怖を感じながら船を運航しなければならない船員の心労もお察しいたします。
しかしながら、日ごろ海上自衛隊に敬意を払おうとしない日本の海運会社が、さも当然と言わんばかりにソマリア派遣を叫ぶのには納得がいきません。

洋上を航行する船の世界共通のマナーとして、軍艦とすれ違う民間船は軍艦に対して敬礼を行うというものがあります。
船舶においては艦尾に掲げた国旗を半分下げる行為が敬礼にあたります。敬礼を受けた軍艦は答礼として艦尾の海軍旗を半分に下げ、その後再び元の状態に戻します。それを見て民間船も国旗を元に戻して一連の敬礼は終了します。
この世界共通のマナーを日本の民間船は全く行っていません。
海自艦艇と至近距離ですれ違ってもまるで視界に入っていないかのように全くの無視です。海自艦艇側では艦橋の航海指揮官や見張り員が敬礼を見逃すまいと目を凝らし、さらには答礼の準備もしているのですが、日本の船舶が敬礼することはほとんどありません。ちなみに外国船はたとえ小さな貨物船であっても「軍艦」である海自艦艇に対してきちんと敬礼を行います。

私は日本の海運会社に対して、常日頃はマナー違反で横着かつ無礼な態度をとっているにも関わらず、困った時にだけ声高に救援を求める姿勢に失笑を禁じえません。非常時に頼りにするのなら普段から最低限の礼儀を示すべきではありませんでしたか?

平時においては冷遇し粗末に扱うくせに困った時には大いに頼りにするというのは、海自と海運会社の間だけの問題ではなく、日本政府さらには国民全体と自衛隊の関係についてもあてはまる問題だと私は考えます。

ソマリア沖に海自艦艇を送り込む政府も海運会社と五十歩百歩です。
このコーナーで度々述べているように、国家財政の悪化に伴い1990年代半ば以降、海自は艦艇、航空機さらには人員まで年々削減されています。その結果、艦艇はギリギリの運用を余儀なくされ、人員面で余裕を失った組織は不祥事を立て続けに起こすという弊害も顕れています。
反面、インド洋での補給活動や国際貢献活動など多くの実任務が課せられるようになりました。国際社会において日本の貢献が求められる際、政府は「Show The Flag」とも例えられる艦艇派遣を最も目に見える貢献の形として選択することが多いためです。

このように海自は一昔前には考えられなかったような実任務が与えられるようになったにも関わらず、政府はお金が無いからという理由で装備も人員も容赦なく減らしています。これは普段は粗末に扱うくせに困った時には頼りまくる海運会社の姿勢と何ら変わりがありません。
国際貢献という大義名分のもと危険な海域に艦艇を送り込むのなら、それに備えて装備面でも人員面でも海自を充実させておくべきではないでしょうか?国際貢献に海自を使うのは「きちんと水と肥料を与えて育ててから」だと私は考えます。

日頃の備えが足りないのは人員や装備と言うハード面だけではありません。法律というソフト面においても全くの準備不足です。
海自を海外に派遣する際には毎回その法的根拠が問題となりますが、今回のソマリア派遣はお粗末としか言いようがありません。

ソマリア沖派遣の根拠となる海賊対策新法はこれから国会に提出するような有様で、当面の応急措置として海上警備行動を発令して艦艇派遣の根拠としました。しかし自衛官には海賊を取り締まる権限がないため護衛艦に海上保安官を同乗させ司法警察業務にあたらせることにしています。また武器使用基準は警察官職務執行法7条で対処するとのことですが、具体的な武器使用基準は定まっていません。急いでソマリア沖に艦艇を出すためにあらゆる現行法を強引に適用しています。
特に武器使用基準が定まっていないのは致命的な問題です。重火器を持つ海賊から民間船を守る際には戦闘の発生も考えられますので、艦艇が出港するまでに早急に隊員が現地で安全に活動できる内容の武器使用基準が策定されることを切に望みます。

それにしても我が国は、なぜもっと早くから海賊対策の法整備を行ってこなかったのでしょう。1996年に国連海洋法条約を批准していながら、これまで海賊を取り締まるための法整備をしていなかったことは国家としての怠慢ではないでしょうか。
財政が苦しいので艦艇と人員を削減し、海自が活動するための法整備は国会で紛糾するから先送り、なのに日本を遠く離れた海域での実任務を課す。四方を海に囲まれた海洋国家・日本の政府が海軍(=海自)をこんな風に扱うようでは世界の笑いものです。

海上自衛隊を実任務に就かせ存分に働いてもらうためには、時間をかけてハード(装備・人員)とソフト(法律)両面で環境整備をしておく必要があります。それをぜすして過酷な任務に就かせるのは、いたずらに海自という組織を疲弊させ、ひいては隊員の生命が危険にさらされるということを政府は肝に銘じていただきたいと思います。


 Vol 37 武勲艦の名を継ぐ「あぶくま」型護衛艦                                  2009年2月22日

前回は政府と海運会社に喧嘩を売るような内容でしたので、今回は穏便な内容でいきますね…(苦笑)

ソマリア沖の海賊対策に第一陣として派遣される護衛艦が「さざなみ」と「さみだれ」に決まった事は既にお伝えしていますが、「さみだれ」艦長の松井二佐に私はかつて取材で大変お世話になったことがあります。
それは今から13年前、護衛艦「おおよど」が地元の港に寄港した際に、私が担当していた夕方のニュース番組内で「おおよど」の艦内から生中継を行ったのですが、その時に「おおよど」側の窓口として交渉や調整等に尽力していただいたのが副長だった松井二佐(当時は三佐)でした。
生中継ということで狭い艦内に中継用カメラや照明、モニター等の大量の機材を持ち込み、さらには埠頭に停めた中継車から延びる様々なケーブルを艦内通路に張り巡らすという大がかりな設営になってしまったのですが、松井二佐の指揮により乗組員の協力を仰ぎながら作業はスムーズに進み、さらには艦長の徳丸二佐(現第4護衛隊群司令・海将補)の出演まで実現させてくださいました。

その松井二佐が約160人の「さみだれ」乗組員を率いて日本から遠く離れたソマリア沖で海賊対策という危険な任務に就くわけですが、中継の際に見せた沈着冷静かつ的確な指揮で任務を完遂してくれると思います。頑張れ!松井二佐。頑張れ!「さみだれ」。

今回のテーマは松井二佐とお会いした「おおよど」をはじめとする「あぶくま」型護衛艦についてです。

「あぶくま」型は1989年から93年にかけて6隻が建造されました。
200番台の艦番号が示すように護衛艦の中でも近海警備用のDEに分類されるタイプです。
排水量2000t、全長109m、幅13.4mという小型の護衛艦ですが、DEとしては最大のサイズで、かつて存在した「やまぐも」型DD(汎用護衛艦)や「みねぐも」型DDに匹敵する大きさになりました。

近海警備用であるDEの主な任務は、平時においては哨戒、有事の際には一番槍として現場に急行して敵艦隊との初期遭遇戦闘を行い、さらに海上防衛の主力である護衛隊群が現場に到着するまでの時間稼ぎ=前哨防護戦闘を担当します。

日本近海での初期戦闘を担当するということで、元来DEの兵装はDDよりも限定的で簡略化されたものでした。

しかしながら、「あぶくま」型は前級・前々級のDEでは装備されなかったアスロックハープーンを備え、対潜ヘリの搭載能力が無いことと対空兵装が限定的な内容である点を除けばDDと遜色ないバランスのとれた対潜・対水上戦闘能力を備えています。

この「あぶくま」型、外観はいたってシンプルそのものです。
「ゆき」型や「きり」型の「いかにも俊敏で重武装を誇る駆逐艦」みたいな雰囲気はありませんし、DEとしての前タイプである「ゆうばり」型のような「必殺一撃・北の当たり屋」といった物々しい雰囲気もありません
文字通りの「護衛艦」という呼び方が良く似合うフネであり、シンプルなのに高品質な「無印良品」のようなフネだと思います(笑)

とはいえ、この「あぶくま」型は海自艦艇史に名を刻むエポックメイキングなフネでもあります。
意外にも、海自艦艇で初めてレーダ対策を取り入れてステルスデザインを採用したフネなのです。船体をよく見ると舷側は傾斜がつけられており、紛れも無くステルス性を意識したデザインとなっています。残念ながらステルスデザインは船体のみで、艦橋や煙突等の上部構造物は従来通り垂直面を持ったままとなっています。恐らく実験的な導入だったのでしょうね。

この「あぶくま」型で特筆すべきもうひとつの点は、科員居住区のベッドが二段化された点です。それまでの艦艇の科員ベッドは寝たままで上半身を起こすこともできない三段ベッドでしたので、就役当初は乗組員に大変喜ばれ、他の艦艇の乗組員からは大いに羨ましがられたということです。

ここまで、「あぶくま」型護衛艦の概要と特徴について述べてきましたが、私が思うに、この「あぶくま」型の最大の特徴・魅力は外見や数値で表されるスペックではありません。
6隻の艦それぞれが背負っているその艦名こそが最大の魅力です。

○1番艦「あぶくま」 ○2番艦「じんつう」 ○3番艦「おおよど」 ○4番艦「せんだい」 ○5番艦「ちくま」 ○6番艦「とね」
各艦名を漢字で書くとこうなります。「阿武隈」「神通」「大淀」「川内」「筑摩」「利根」
艦船マニア、とりわけ旧日本海軍をよく知る者にとってこの艦名は痺れます!いずれも太平洋戦争において大活躍した重巡・軽巡の名前だからです。

「阿武隈」
は第一水雷戦隊の旗艦として真珠湾攻撃に向かう第一航空艦隊(空母部隊)の護衛にあたったほか、キスカ撤収作戦にも旗艦として参加し撤収を成功に導きました。
「神通」
は最新鋭駆逐艦が揃う第二水雷戦隊の旗艦として司令官・田中頼三少将の指揮の下、ルンガ沖夜戦など数々の海戦で戦果を挙げ米軍に恐れられました。

「大淀」
は潜水艦部隊旗艦用として設計された大型軽巡洋艦で、その優れた通信能力から最後の連合艦隊旗艦となり、一時期連合艦隊司令長官は「大淀」艦上から作戦を指揮しました。
「川内」は第3水雷戦隊旗艦として数々の海戦に参加、ブーゲンビル島沖海戦で米艦隊のレーダー射撃の集中砲火を浴びながらも魚雷で応戦、沈没しながらも米艦隊に損害を与えました。
「筑摩」「利根」は、20センチ主砲4基8門を艦首に集中配置し後甲板に水偵6機を搭載する航空巡洋艦であり、その優れた偵察能力から艦隊の目として、真珠湾攻撃以来常に空母部隊と行動を共にしました。

護衛艦は「きりさめ」や「やまぎり」など海自で初めて採用された幾つかの艦名を除いては、ほとんどの艦が旧海軍艦艇の艦名を受け継いでいますが、この「あぶくま」型のように同型艦すべてが武勲艦の艦名を背負っているのはとてもすごい事だと思います。
DDが旧海軍の駆逐艦と同じ「気象現象」から命名されているのに対し、DEは軽巡洋艦と同じ「河川の名前」から命名されており、過去のDEには「もがみ」「みくま」「いすず」といった艦もありました。「あぶくま」型6隻の艦名もこの命名基準に沿っただけのことかもしれませんが、この6つの名を選んだ海幕の担当者のセンスはお見事です。(座布団3枚進呈です…笑)

一方、艦の方でもこの艦名にはかなりの思い入れがあるようで、とりわけ護衛艦「とね」は乗艦用のタラップに漢字で「利根」と艦名を表記しているほか、見学者に配布するパンフレットには重巡「利根」と護衛艦「とね」が並走するCG画が掲載され、「利根」と「とね」の結び付きを強調しています。
私は生中継を行った「おおよど」をはじめ「あぶくま」型の数隻に取材で乗艦しことがありますが、どの艦でも艦長以下乗組員が武勲艦の名を受け継いでいることに誇りを感じていて、艦名が士気高揚に一役買っているという印象を受けました

外見はシンプルで「無印良品」のようなフネなのに輝かしい艦名を受け継いでいる、この見事なまでのギャップこそが「あぶくま」型護衛艦の魅力ではないでしょうか。
財政難により護衛艦の新規建造がDDに一本化され、また旧地方隊の10番台護衛隊には旧式となったDD「ゆき」型が配備されていることから、今後DEが新規に建造される可能性はほとんどないと考えられます。それだけに「あぶくま」型6隻の存在は貴重であり、艦船マニアにとってはオタク心をくすぐられるフネなのです。

海自ファンの皆さん、艦艇公開等で「あぶくま」型に乗艦する機会があったら、案内役の隊員さんに「日本海軍の巡洋艦○○と同じ艦名ですね」と言ってみてください。とても喜ばれると思いますよ♪


 Vol 38 さようなら!護衛艦「はるな」                                          2009年3月6日

3月というのは卒業や転勤などで少々もの悲しい「別れの季節」なのですが、海上自衛隊においても、3月は長年海上防衛の最前線で働き続けてきた艦艇が老朽化等により退役となり、艦籍からその名が抹消される文字通り「別れの季節」となっています。

私にとって艦艇の退役は、古くからの友人と永遠の別れをするかのようなとても辛い事なのですが、特に今年は身を切られるような寂しさと悲しみに襲われています。
それは何故か?…私が最も愛する護衛艦「はるな」が間もなく退役の時を迎えようとしているからです。

「はるな」にお別れをしに行こう、そして「はるな」が護衛艦から巨大な鉄の塊となってしまう前に、その美しい最期の姿を撮影しておこうと考えた私、先週末、年度末で超多忙な会社の業務をほったらかしにして舞鶴に遠征しました。

休日の艦艇公開が行われていた舞鶴基地の北吸岸壁、「はるな」は去年のGWに訪れた時と同様、岸壁の中央部にその巨体を横たえていたのですが、予想以上に変わり果てた姿を目の当たりにして私は全身が凍りつきました。

「はるな」は5月に会った時の「はるな」ではありませんでした。
艦橋周り、マスト上、ヘリ格納庫、さらには甲板上に備えられていたありとあらゆる装備品が取り外されていました。

撤去されたのは外から見える箇所の装備品だけではありません。
機関や推進装置等をはじめとする艦内装備、さらには乗組員用のベッドや机といった備品の大半も既に搬出されており、重量が軽くなった分「はるな」は喫水線が1メートル近くも浮き上がっているのです。

さらに私に追い討ちをかけたのは、「はるな」の最大の特徴であり、力強さと美しさを醸し出していた背負い式配置の主砲までもが砲身を外されていたことです。これには正直参りました。まさかここまで撤去が進んでいるとは思いませんでした…。
「はるな」はまさに廃艦寸前、艦首に記された艦番号と艦尾に翻る自衛艦旗によりかろうじて護衛艦であることに踏みとどまっているような状況でした。

岸壁にいた案内役の隊員さん(別の艦の乗組員)に聞いたところ、「はるな」はリムパックから戻った直後から退役の準備が始まり、去年12月頃から本格的に装備品の撤去が始まったとのことでした。
真っ先にCICの設備が、去年火災でCICを損傷した護衛艦「しらね」に移植するために撤去・搬出され、その後、順次装備品が撤去されて最後の仕上げに主砲の砲身が取り外されたということです。現在は、間近に迫った自衛艦旗返納式に向けて艦内の清掃と乗組員の私物が搬出されている段階で、実際、私と隊員さんが話しているすぐそばで「はるな」の乗組員が艦に自家用車を横付けして私物を運び出していました。

もはや「はるな」は我が国を守るために戦うことはおろか自力で航行することもできない身になっていたのです。加えて「はるな」に乗り海上防衛の最前線に立ち、ある時は猛訓練に明け暮れた乗組員も8割近くが艦を去っていました。
現在、退役に向けた作業を行っているのは自衛艦旗返納式に参加するために艦に残された70人ばかりの隊員たちで、その他の隊員は「はるな」退役後に横須賀から舞鶴に配備替えとなる「しらね」に去年12月に転勤となっていて、現在は横須賀で習熟訓練と舞鶴配備に向けた準備に追われているということです。

ほとんどの装備品が取り外され、艦上から乗組員の姿が消えた「はるな」。
思い起こせば去年のGW、リムパック参加のためこの岸壁からハワイに向けて出港した「はるな」は、大勢の乗組員が甲板上に整列して帽振れをするなか航海の途につきました。マストには海将補旗がひるがえり、艦橋上では金色の肩章が眩しい第3護衛隊群司令が停泊中の艦艇から敬礼を受けていました。力強くそして優雅に舞鶴湾を航行する「はるな」は、岸壁で見送る者に見事なまでの造形美を見せつけていました。
あれから10ヶ月、大きく変わり果ててしまった「はるな」に私は寂しさを感じずにはいられませんでした。


とはいえ、落ち込んでばかりはいられません。「はるな」の退役直前の最期の姿を写真に収めるべく大分からはるばる遠征して来たのですから。私は元気をふりしぼって撮影に取りかかりました。

幸運なことに天気は晴れ。この時期の舞鶴にしては奇跡的とも言える晴天でした。今思えば、これは神様が最後に「はるな」を撮影するための舞台を整えてくれたのでしょうね。

艦首から艦橋下から、そして艦尾から…私はさまざまな角度から夢中でシャッターを押しまくりました。そして、写真を撮り進めているうちに私はあることに気付きました。
ファインダー越しに見る「はるな」はとても美しいのです
岸壁に足を踏み入れた私を凍りつかせるほどに変わり果てた姿の「はるな」ですが、ファインダーを覗きながら構図を決めて撮影していると、不思議なことに「はるな」は装備品を撤去する前と変わらぬ美しさで私の前に佇んでいるのです。
主砲や各種兵装が取り外され、さらには喫水線が浅くなって腰高なスタイルになっているのに「はるな」の造形美はいささかも色褪せてはいないのです。少なくとも私はそう感じました。
加えて、長年厳しい任務に就いてきた老朽艦が放つ「いぶし銀のオーラ」が、その美しさを際立たせているようにも感じました。
改めて「はるな」の造形美に舌を巻く一方で、その美しさが死(=廃艦)への覚悟を決めた武士の最後の微笑みのようにも感じられて、私を余計に悲しくさせました。

私は頬を伝う涙を拭うこともせず無心でシャッターを押しまくりました。他の艦艇には目もくれず「はるな」ばかりを撮影し、その枚数はゆうに300枚を超えていました。枚数が何百枚になろうと、同じようなアングルからでも、似たような構図になろうとも私はシャッターを押し続けずにはいられませんでした。写真を撮ることが「はるな」とのお別れの儀式のような気がしてならなかったからです。

岸壁には見学者の案内役を務める隊員さんが結構な数いたのですが、「はるな」の周りでいい歳をした男が泣きながら何時間も写真を撮っている姿は随分奇異に感じられたのではないでしょうか?(というか、明らかに不審者です)
でも隊員さんたちは半ベソ状態の私と目が合うと優しく微笑んでくれて(単に笑われていただけかも…)、「『はるな』の最後の姿は撮れましたか?」などと優しい言葉をかけてくれました。舞鶴の隊員さんはとてもいい人ばかりです。

撮影が終わった後も私は岸壁で「はるな」を眺めていました。というか、「はるな」から離れることができませんでした。
しかし、悲しいことにお別れの時がやってきました。時刻は午後4時前、艦艇公開の終了時刻が近づいたのです。
後ろ髪を引かれる思いで帰途についた私、門を出る前に私は岸壁の方を振り返り、十数日後には自衛艦旗を降ろしているであろう「はるな」に向かって心の中で叫びました。
「さようなら!『はるな』。長い間日本を守ってくれてありがとう。君のことは絶対に忘れないよ!」


その時「はるな」の自衛艦旗が風で大きくはためきました。それはあたかも私に手を振ってお別れをしてくれているようでした。


 Vol 39 航空巡洋艦「はるな」型の芸術的造形美                                  2009年3月22日

今月18日に海自初の全通式甲板を持つ新型DDH、護衛艦「ひゅうが」が就役しました。

その関心たるや凄まじいもので、「ひゅうが」が就役した18日の当サイトのアクセス数は過去最高の147、検索サイトで「ひゅうが」のページに入ったもののトップページには来ずに退出した非カウント訪問者数を含めると396人の訪問がありました。その後も1日のアクセス数が軽く100を超える日が続いており、改めて「ひゅうが」に対する関心の高さに驚いております。

この3連休は艦船マニアが横須賀に怒涛の如く押し寄せて「ひゅうが」を撮影しまくったんでしょうね…。

そんな「ひゅうが」一色の中、今回のテーマも「ひゅうが」就役の陰でひっそりと退役した護衛艦「はるな」についてです。というか、「ひゅうが」「ひゅうが」と狂喜乱舞している艦船マニアが気に入らないので敢えてこのテーマです(笑)
私がどのように「はるな」型に魅了され、そして愛着を感じるのかを記してみたいと思います。

まずは「はるな」の経歴からご紹介しますと…。

「はるな」は昭和45年3月に三菱重工長崎造船所で起工され、47年2月に進水、48年2月22日に竣工・就役しました。
防衛予算的な呼び方をすれば、「はるな」は昭和43年度計画艦です。
昭和43年といえば私が生まれた年であり、「はるな」と私はちょうど同じ時期にこの世に生まれるための「計画」や「設計」をされていたことになります(笑)。このことは私が「はるな」に愛着を感じる大きな要因となりました。

ちなみに就役後の配備先は横須賀(第1護衛隊群直轄艦)でした。
「はるな」と言えば舞鶴のイメージが強いのですが、実は就役から8年間は横須賀のフネでした。(その後、→佐世保→舞鶴と転籍しました)
当時、「はるな」は海自最大の護衛艦であり、初のヘリコプター搭載護衛艦(DDH)でもありました。
それまでになかった新しいタイプの護衛艦、しかも大きさが最大という点において、「はるな」の誕生は「ひゅうが」と全く同じ状況だった訳で、「はるな」も「ひゅうが」のように大勢のマニアに注目されながら横須賀に配備されたのでしょうね(当時、海自マニアがいたかどうか分かりませんが…)。

私が「はるな」を知ったのは小学校5年生が6年生の頃だったと思います。
以前にもこのコーナーで書きましたが、父が実践した「江田島教育」の成果により私は小学生の頃から「帝国海軍少年」だったのですが、当時ほとんど興味がなかった海自艦艇の中にあって「はるな」と「ひえい」だけは大いに魅力を感じていました。
当時、愛読していた雑誌「丸」の出版社が帝国海軍や海自の艦艇を特集した「丸スペシャル」という月刊の写真集を発行しており、私は「はるな」型の号(1982年4月号)を購入したほどです。

←これが当時購入した「丸スペシャル」。
約70ページの写真集で表紙以外は白黒写真ですが、とても迫力あるカットや詳しい解説などが掲載されており、現在でも第一級の資料としての価値がある雑誌です。

なぜ「はるな」型護衛艦は、海自艦艇には全く興味がなかった当時の私を写真集を買ってしまうほどまで惹き付けたのか…?
それは帝国海軍の艦艇との共通性や連続性を強く感じさせるフネだったからです。

海自マニアとして海上自衛隊を深く知った今でこそ、海自には帝国海軍の伝統や文化が至る所に息づいていることを知っていますが、小学生・中学生の頃の私はそんな事とはつゆ知らず、海自は自衛隊であって帝国海軍とは全く繋がりのない組織という認識でした。
加えて、戦艦や空母が大好きな「大艦巨砲主義」の少年にとって、海自の護衛艦は甚だ頼りなく弱々しいフネにしか見えませんでした。

しかし「はるな」と「ひえい」は違いました。言うまでもなく、両艦は太平洋戦争において日本戦艦中最古参でありながら、高速を生かして最も活躍した「金剛」型戦艦の3番艦「榛名」2番艦「比叡」の名を受け継いでいます。

今でこそ「こんごう」(金剛)や「きりしま」(霧島)、「ひゅうが」(日向)、「あたご」(愛宕)、「あしがら」(足柄)などの帝国海軍の大型艦の艦名が復活していますが、当時は「はるな」と「ひえい」しかありませんでした。
『海上自衛隊にも「榛名」と「比叡」がある』。その眩しいほどの艦名に「大艦巨砲主義」の少年が惹きつけられたのも当然の成り行きと言えますね。

さらに、「はるな」型の独特なスタイルも帝国海軍艦艇の雰囲気を色濃く残しており、私の心に突き刺さりました。
「はるな」「ひえい」を初めて見た時、私が真っ先に思ったことは『まるで航空巡洋艦「利根」か軽巡「大淀」みたいなフネだな…』。

主砲を艦の前部に集中配置し後半分を航空施設に充てる設計思想は「利根」型航空巡洋艦そのものですし、箱型の巨大な格納庫を背負った姿は軽巡「大淀」そっくりです。まさに現代版の航空巡洋艦です。
加えて、背負い式に配置された二基の主砲も帝国海軍の戦艦や巡洋艦を彷彿とさせるデザインであり、近年の護衛艦ではこのような主砲配置を採用している艦はありません。「ひゅうが」に至っては主砲そのものがありません(ヘリ空母ですから…)。

「はるな」型は元々、「ひゅうが」のような全通甲板を持つヘリ空母として建造を目指したものの諸事情で断念に追い込まれ、その代案として艦の後半分を航空施設に充てたデザインは、ある意味苦し紛れに採用されたものです。
しかしながら、そのことで「はるな」型は「利根」や「最上」「大淀」を思わせる航空巡洋艦風のスタイルとなり、私が海自艦艇の魅力に目覚めるきっかけを与えてくれたフネとなりました。私の海自マニア人生は、まさに「はるな」から始まったのです。私と同様、「はるな」型によって帝国海軍から海上自衛隊に転身したマニアの方も多いのではないでしょうか。

もうひとつ、私が力説したいのは「はるな」型の造形美です。

←の写真は、「はるな」を最も美しく撮影することができた一枚です。
このアングルから見ると、艦首から1番主砲、2番主砲、艦橋、マック構造のマスト、ヘリ格納庫までが綺麗なピラミッド状を呈していることがお分かりになるでしょう。

嗚呼、なんという美しさ…。海自、いや世界中の海軍を見渡してもこのような美しいシルエットを持つ艦艇はありません。「はるな」型は世界で一番美しい軍艦だと私は考えています。

就役当初、「はるな」型はマック型のマストが目立つ程度のシンプルな外観だったのですが、昭和62〜平成元年に実施されたFRAM工事で艦橋上部を中心に様々な装備が追加され現在の艦容となりました。

つまり、「はるな」型の美しさは、就役当初からの独特なスタイルとFRAM工事により追加された部分が織り成すハーモニーであり、就役から30年以上という時間によって熟成され磨き上げられたものなのです。

今後建造される新型のDDHは、「ひゅうが」のような全通甲板を持つ空母スタイルであることは間違いありません。
ということは、背負い式配置の主砲や巨大な箱型格納庫、さらにはガスタービン艦では採用不可能なマック構造のマストを備えたDDHは二度と建造されることはありません。そう、「はるな」型の美しさは新たに生み出されることはないのです。

「はるな」退役により「はるな」型の護衛艦は「ひえい」1隻となりました。「ひえい」も数年後には「ひゅうが」型2番艦と入れ替わりで退役する予定ですが、それまではこのサイトで力一杯応援いこうと思っております。
頑張れ!「ひえい」。老骨に鞭打って頑張ってくれ!!

「はるな」を追い出す形で就役したからではないのですが、私は「ひゅうが」に美しさを感じることができません。「空母型をしたデカいフネ」としか思えないんですよねぇ…(苦笑)。「ひゅうが」の設計者には「はるな」的な美しさを盛り込んで欲しかったなぁ…。


 Vol 40 就役間近!新型砕氷艦「しらせ」                                       2009年4月4日

先月18日に護衛艦「はるな」が退役しましたが、その12日前、同じ舞鶴基地で掃海艇「あわしま」が退役、18年の生涯を閉じました。

「あわしま」は1991年4月、海自初の海外派遣となるペルシャ湾機雷掃海任務に参加した6隻の艦艇のうちの1隻です。当時、私は広島で新聞記者をしていたのですが、任務を完遂して帰国した「あわしま」が軍艦マーチが流れる中、掃海母艦「はやせ」らと共に呉基地の桟橋に接岸した時の様子は、今も私の記憶に鮮明に焼き付いています。

今年の春は海自初のDDHである「はるな」、海外派遣任務の端緒を拓いた「あわしま」という、海自の歴史に名を刻んだ2隻のフネが相次いで生涯を閉じたことになります。
一方で、去るフネがあれば新たに竣工し就役するフネもある訳でして、「はるな」「あわしま」が自衛艦旗を降ろした舞鶴基地の対岸にある舞鶴海軍工廠 ユニバーサル造船舞鶴事業所では、話題の新型艦艇が竣工前の最後の仕上げに入っています。

その艦艇とは…去年7月に退役した砕氷艦「しらせ」の後継艦、新型「しらせ」です。

先月、護衛艦「はるな」の最期の勇姿を撮影する為に舞鶴に遠征しましたが、新型「しらせ」を撮影する事も遠征のもうひとつの目的でした。

舞鶴到着後にすぐさま前島埠頭に向かったのですが、私が埠頭に着いた途端、雨上がり後の霧に煙る舞鶴湾に鮮やかなオレンジ色の船体をした新型「しらせ」が現れました。まさにドンピシャのタイミング!

←その時に撮影したのがこの写真。
色が色だけに、旧「しらせ」と一見そっくりな印象を受けますね。

新型「しらせ」は来月竣工・就役の予定で、それに先立って去年12月18日から公試運転を実施しており、私の前に現れた新型「しらせ」はちょうど公試運転から戻ったところだったのです。
新型「しらせ」の基本性能を紹介いたしますと、基準排水量12500トン全長138メートル出力30000馬力最大速力19ノットCH-101輸送ヘリ2機・観測ヘリコプター1機を搭載し、乗組員は179人観測隊員80人分の居住設備も備えています。

海自の砕氷艦は文部科学省の予算で建造されるのですが、新型「しらせ」は2年間に渡って財務省に予算要求したものの財政難により認めてもらえず、復活折衝でようやく予算は認められたものの、排水量は当初計画していた20000トンから大幅に縮小されて12500トンとなりました。
旧「しらせ」が11600トンでしたので、12500トンの新型「しらせ」は排水量だけをみれば旧「しらせ」よりひと回り大きくなっただけです。しかし、新型「しらせ」を実際に目の当たりにすると旧「しらせ」よりもはるかに大きくなった印象を受けます。
そして特筆すべきなのは、新型「しらせ」には様々な新技術が投入されており、まさに「21世紀の砕氷艦」と言うべきフネなのです。

では、新型「しらせ」の細部を見ていきましょう。

船体は旧「しらせ」よりもグラマーなむっちりしたものになりました。この船体が排水量の割りに大きな印象を与える要因になっています。

最も変わったのが艦首で、旧「しらせ」は先端が尖っていましたが、新型はご覧のように独特な曲面形状となっています。これは砕氷能力を向上させるために導入された形状であり、喫水に近い位置には砕氷を支援するための散水装置の吐水孔が並んでいます。また砕氷の際に船体の塗装が剥離して南極の環境を汚染するの防ぐために、喫水付近はステンレス外装となっています。

他に艦前部で大きく変わったのは艦橋構造物で、旧「しらせ」よりも一層増えて5層となりました。また煙突も旧型が丸みを帯びた一本煙突だったのに対し、新型は角型を2本並列に配置しています。

次に艦の中央部です。

こうして見ると乾舷が非常に高いことがよく分かります。
煙突はまるで「たかなみ」や「あたご」のようにカドが尖った形になっています。砕氷艦なのでステルスデザインという訳ではないでしょうけど…(笑)
丸みを帯びたグラマーな船体と尖った煙突・艦橋構造物の対比がとても美しいですね。

煙突後方の格子状になっている部分はコンテナ搭載用のセル・ガイドで、ここに12フィートコンテナを56個搭載することができます。
このセル・ガイドの導入により貨物積載時間の短縮荷役の効率化が期待できます。ちなみに貨物搭載能力は1100トンで、旧型よりも100トン増加しています。

最期は艦後部・艦尾まわりです。

とても大きくて素敵な「お尻」です…(笑)グラマーになった船体は特に後ろから見ると実感できます。この新型「しらせ」のお尻は海自艦艇の中で最も美しくセクシーだと思います。

艦後部にはヘリコプター格納庫発着甲板が設けられています。
新型「しらせ」では、旧「しらせ」で想定していたCH-53大型輸送ヘリの運用は最初から想定していないため、発着甲板は全長が若干短くなりました。

格納庫の上に角のように据え付けられている物体はデッキ・クレーン(3番・4番)の基部で、この二つのクレーンはリーチが28メートルにも達する大型クレーンです。


ここまで新型「しらせ」を外観上の特徴から解説してきましたが、外からは見えない艦内設備にも新機軸が盛り込まれています。

主機は、旧型と同様ディーゼル・エレクトリック方式ですが、南極の大気汚染を防止するために発電用ディーゼルには二酸化炭素等の排出が少なくなるよう設計された機種が導入されています。
また、南極の観測基地で排出される廃棄物(使用しなくなった観測機材、生活廃棄物、糞尿等)はすべて持ち帰らなければならないのですが、新型「しらせ」は充実した廃棄物処理用設備を備えており、南極からの廃棄物持ち帰りに大きな威力を発揮しそうです。
このように新型「しらせ」は、砕氷能力や貨物搭載能力という砕氷艦としての基本性能が優れているだけではなく、南極の環境保護に配慮したエコ・シップでもあるのです。冒頭に記したとおり、まさに「21世紀の砕氷艦」なのです。

新型「しらせ」は来月就役し(横須賀地方隊直轄艦)、11月に第51次観測隊を乗せてに南極への初航海に出ます。
新型「しらせ」の登場により南極の観測活動は飛躍的に進歩・向上するのは間違いありません。その意味では、新型「しらせ」の誕生は日本の南極観測の新しい時代の幕開けを告げるものと言えそうです。

ところで艦名の「しらせ」ですが、日本人で初めて南極探検に挑んだ白瀬矗陸軍中尉の名前から命名されたと思われがちですが、正しくは白瀬中尉が発見した白瀬氷河からの命名です。(日本海軍・海自には艦名に人名を冠する風習はないのです)
旧型、新型と海自史上異例とも言える二代続けての同艦名ですが、艦名を一般公募していたものの、白瀬中尉の地元である秋田県にかほ市の熱烈な要望活動に応える形で決定したいきさつがあります。(私は「みずほ」がいいなぁと思っていたのですが…)

要望ですんなりと艦名が決まるのなら、先月退役した「はるな」もすぐにでも使っていただきたいものです。さしあたり「ひゅうが」型DDHの2番艦あたりにいかがでしょう。榛名山の地元である群馬県高崎市が防衛省に要望活動をしてくれないでしょうか…。高崎市が動かないのなら私自ら要望活動に乗り出そうかな…(笑)