Vol 16 HARUNA、「あたご」と対面す 2008年5月14日 |
GWに遠征した舞鶴ですが、GW明けに女子高生が殺害される事件が発生し、連日の報道により一躍「舞鶴」の名が全国に轟いてしまっています。 不謹慎な言い方かもしれませんが、とても身近に感じてしまう事件です。というのは、被害者が在籍していた高校は私が滞在したホテルの道路を挟んだ向かい側にあり、私の部屋の窓からも校舎が見えました。また、事件発生前に被害者が通ったと報じられている場所の中には私が通った場所もあります。滞在していた舞鶴で、しかも私が宿泊し行動していたのとほぼ同じ地域でこのような凄惨な事件が起きてしまうなんて驚きです。 で、事件発生前に舞鶴に行っていたということで、会社で私は犯人扱いです(苦笑) 上司や後輩から『逃げきれんぞ』『自首するなら今のうちですよ』などと言われてしまう始末。シャレになりません…。 被害者のご冥福を心からお祈りするとともに、事件の一日も早い解決を願っております。 さて、私の舞鶴遠征ですが、退役間近の護衛艦「はるな」の撮影が目的だったことは前回お伝えしましたが、実はもうひとつ大きな目的がありました。その目的とは、漁船との衝突事故を起こし、公平性を欠いた報道により『1400億円の殺人船』のレッテルを貼られてしまったイージス護衛艦「あたご」と対面することです。 事故後、海上保安庁による現場検証のため横須賀に足止めされていた「あたご」ですが、先月下旬にようやく母港・舞鶴に戻ったということで、海自マニア・艦船マニアの私としてはいてもたってもいられませんでした。 それは、事故を起こしたイージス艦を見たいという野次馬根性的なものではなく、艦としての生涯が始まったばかりで、これから国民の海の盾になろうとしていた矢先に不幸な事故を起こしてしまった最新鋭艦が母港でどのように扱われているかが気になったためです。よもや舞鶴市民から石を投げつけられたりしていないかと本気で心配になりました。 舞鶴へ向かう私の心境はさながら、事件を起こした友人が警察から保釈されて実家に戻ってきたので面会に行くといった趣でした。 舞鶴到着後、早速、舞鶴所属艦艇が繋留されている北吸岸壁を見渡せる前島埠頭に直行しました。 おぉ、いました! ニュース映像で何度も見た艦番号177、そして重厚な艦橋構造物、ステルス性が増したマスト…「あたご」です。 人目を避けて沖合いに停泊させられているのではないかと心配していましたが、「みょうこう」と並んでごく普通に岸壁に係留されています。 遠目ではありますが、石を投げている人もいないようです。よかった、よかった…。 そして自転車を飛ばして北吸岸壁へ。 前回も述べましたが、ここは観光地か?というほどの大賑わい。 岸壁内の駐車場は満杯で、通路は停める場所を探す車であふれています。場所がないのに苛立ったのか、通路の脇で撮影している私に罵声を浴びせるばか者まで出る始末…。 さらには見学の受付けに順番待ちの長い列ができていました。 (車の向こうに見える人の列が受付け待ちの列です) ゴールデンウィークにわざわざ艦艇を見に来る物好きがこんなにたくさんいるとは…。 海上自衛隊、大人気です!国民に愛されています! 「あたご」は岸壁の最も先端部分に繋留されていました。 後ろ姿ではありますが、初のご対面。 デカイ!! 間近で見る「あたご」は、まさに『黒がねの城』です。 これでは漁船が衝突すれば木っ端微塵です。 隣に繋留されている「みょうこう」よりひと回り大きいような印象を受けます。 よりステルス性を追求したためか、煙突まわりや格納庫の壁面など艦体のいたる所が鋭く尖っています。 海自の艦艇は優美さを醸し出しているフネが多いのですが、「あたご」は優美と言うよりは「ゴツい」といった感じ。これぞ『軍艦』といった雰囲気です。 しばらくその姿ながめていると「あたご」様が私に語りかけて来ました。(以下、妄想) 『私、とんでもない事故を起こしてしまったんですけど…。こんな私でよければこの姿をサイトにアップしていただけませんでしょうか…』 「あたご」様からのご要望でもありますので、「はるな」同様「あたご」も撮影しまくりです。 それにしてもデカイ!! 近くから撮影すると艦全体が入りきれないし、かといって離れて撮影すると 艦尾側からの撮影を終え、意気揚々と艦首側へ向かって歩いていた私に案内役の隊員さんが駆け寄って来ました。 『申し訳ないのですが、艦首へは行けませんよ!』 えっ…!? よく見ると、「あたご」の艦尾の脇には工事現場にあるようなパイロンとバーが置かれ、見学者は艦尾部分より前方には近づけなくなっていました。 『なぜ艦首へ行けないの?』 私の怒りに満ちた形相に、若い隊員さんは少々びびりながら『すみません。上からの命令なんです…』。 命令とあらば仕方がありません。 やはり、人命に関わる重大な事故を起こし批判にさらされたフネだけに、上級司令部も不測の事態を心配して見学者を近づけないようにしたのでしょう。あるいは漁船と衝突した際の傷がまだ艦首に残っていて、それを見られたくなかったのかも知れません。いずれにしろとても残念でなりません…。 ということで、艦首側からの撮影は断念せざるを得なかったのですが、気が付けば私の周りには多くの見学者がいて、私同様「あたご」を写真に収めています。 そして、年配の方、主婦、さらには子供に至るまで艦尾の艦名表示を見て『あっ!「あたご」だ』と言っています。中には案内役の隊員さんに『イージス艦はどこ?「あたご」はいる?』などと尋ねている人もいます。 「あたご」、めちゃくちゃ有名です。 どうやら、事故発生後に連日洪水の如く流されたニュースにより、「あたご」は老若男女にその名を知られる最も有名な海自艦艇となってしまったようです。なんか複雑な気分だ…。 見学者のほとんどが「あたご」を興味深そうに眺めたり記念写真を撮るなど友好的な雰囲気であり、間違っても『人殺し〜!』などといった罵声を浴びせるような人はいませんでした。そういう意味では「あたご」に対してヒステリックだったのはマスコミの方であって、一般の国民は冷静に事故を捉えていたのかも知れません。 北吸岸壁での撮影後、俯瞰位置からの撮影スポットとして有名な文庫山学園に行ってきました。 重厚な艦橋構造物がいいカンジで撮影できました! 「みょうこう」と並んでイージス艦二隻が係留されている姿は力強いですね。まさに「日本海の守護神」「日本海の盾」と言った雰囲気です。 この風景を眺めながら私はこう思いました。 ―「あたご」は大変な事故を起こしたけど、日本周辺で最も情勢が不安定な日本海側の守りの要として頑張ってもらわなければならない。「あたご」は今の日本に不可欠なフネなのだ―と。 頑張れ「あたご」!負けるな「あたご」!! 母港・舞鶴での扱いが心配だった「あたご」ですが、心配は杞憂に終わったようです。 北吸岸壁では艦の中央部から艦首にかけては近づくことができなかったものの、艦尾までは何の問題もなく近づけて自由に写真を撮ることができました。何よりも人目を避けて沖合いに停泊させたりしていない所に舞鶴地方総監部と3護群司令部の配慮を感じました。 岸壁を訪れた見学者は友好的な態度で「あたご」に接していましたし、ましてや石を投げたりする人は皆無でした(笑) 「あたご」がごく普通に舞鶴の風景に溶け込んでいるのが嬉しかったです。 そして、私が滞在中に接した舞鶴市民の方々―書店のオヤジさん、遊覧船の船員さん、貸し自転車屋のお父さん、ホテルの従業員さん―といった方々がそろって『「あたご」は大変だったけど舞鶴に戻ってこれて良かった』と話すのです。 舞鶴市民の「あたご」に対する愛情をひしひしと感じました。 「あたご」の乗組員は、このような市民の愛情によって心の傷を癒し任務への意欲を再び燃やしてくれると私は信じます。 舞鶴・・・いい街です。 私の中では呉の次に好きな海自の街となりました。夏も舞鶴へ行こうかな。部長、お休みください!(笑) |
Vol 17 舞鶴軍港めぐり 2008年5月26日 |
前回、前々回と舞鶴遠征記をお送りしましたが、この舞鶴遠征により私HARUNAは旧海軍の鎮守府に由来する海自4大基地をすべて訪問したことになります。(ようやく達成しました♪) 舞鶴はイージス艦が2隻も配備され、大陸の危険な国々を睨む「日本海の守り」という戦略的重要性の割には、他の3ヶ所(横須賀・呉・佐世保)と比べて知名度は低く、一般的には「海軍の街」というよりも「引き揚げの街」「岸壁の母の街」のイメージの方で認知されている感じがします。 しかしながら、舞鶴の地を初めて訪れた私は「旧海軍の歴史・遺産がしっかりと息づいた街」という印象を受けました。 旧海軍の歴史の香りが漂うという意味では呉と似た雰囲気を感じました。呉と舞鶴には米海軍の基地がないので、横須賀や佐世保より旧海軍の香りが強く残っているのだと思います。 さすがに「大和ミュージアム」や「海自呉史料館」を擁し、「帝国海軍」と「戦艦大和」で強力に町おこしを進める呉ほどのインパクトは舞鶴にはありませんが、通りに「三笠」「敷島」「朝日」など日本海海戦で活躍した艦艇の名を冠した駅前の商店街や、まるで昭和初期にタイムスリップした錯覚さえ覚えてしまう赤レンガ倉庫群、海軍機関学校の雰囲気を今に伝える舞鶴地方総監部庁舎と海軍記念館など、旧海軍の歴史が派手ではなくいぶし銀の如く息づいている雰囲気がとても気に入りました。 そして、前回も述べましたが、市民が舞鶴を母港とする艦艇に高い関心を持ち、さらにはわが子のように愛情を持っていることに心打たれました。 さらにもうひとつ、私が舞鶴で感激したものがあります。それは、舞鶴湾を巡る観光遊覧船です。 この遊覧船、まるで私のような海自マニア・艦艇ファンのためにあるといっても過言ではありません。 私は舞鶴へ行く前にネットでこの遊覧船を知り、「もしかしたら海上から艦艇を撮影できるかもしれない」程度の期待で乗船したのですが、これがとんでもない代物でした! 大変お世話になった虚葬゚港遊覧船さんへのお礼の意味を込めてざっとレポートいたします。 これが遊覧船。 乗り場は「しおじプラザ」と言う岸壁に設けられており、ここから舞鶴教育隊沖→舞鶴航空基地沖→ユニバーサル造船→海自北吸岸壁というルートを約30分かけて回ります。 通常は土曜・日曜・祝日に午前1便、午後2便が運航されていますが、GW中は1時間おきの運航に増便されるほどの人気ぶりでした。 写真では分かりませんが、この船の後方は屋根がない構造になっており、まさに撮影にはうってつけです。 私が首からカメラを下げているのを見た船員さんは、「写真を撮るなら右舷後方の席がお薦め」とアドバイスをしてくれました。(とてもいい人だ!!) 出港して間もなく舞鶴教育隊のすぐ沖合いを通過します。 練習員が使うカッターがダビッドに吊り下げられて整然と並んでいました。まさにここが「海軍の教育機関」であることを感じさせる風景ですね。 舞鶴教育隊のある場所はかつて旧海軍の舞鶴海兵団があった場所で、若者を立派な「水兵」に養成するために、昔も今も変わらず日々厳しい訓練と教育が行われています。頑張れ!練習員!! ほどなく、舞鶴クレインブリッジが見えてきました。 「舞鶴」という地名にちなんで、二羽の鶴をイメージして設計された橋で、日本海側最大の斜張橋です。 夜はライトアップされており、夜の闇に浮かぶライトアップされた姿はとても幻想的な風景でした。 舞鶴クレインブリッジを眺めながら、遊覧船は左に変針します。変針後見えてきたものは…。 舞鶴航空基地です。 舞鶴を母港とする護衛艦(DDHとDD)に搭載する哨戒ヘリコプターの基地で、2001年3月に完成した海自で最も新しい航空基地です。 この基地に所在する部隊は館山にある第123航空隊の舞鶴分遣隊、いわば出先のような扱いでしたが、今年3月の航空集団の部隊改編で第23航空隊というれっきとした単独の部隊となりました。 対潜哨戒ヘリコプターSH60Jが10〜12機配備されています。 そして、舞鶴航空基地を過ぎてすぐ目に飛び込んできたものは…。 4月17日に進水したばかりの砕氷艦・新型「しらせ」です。 現在、ユニバーサル造船の艤装岸壁において休日返上で艤装工事が進められています。 近い! さすがに1万トンを越える艦船を至近距離で見るととんでもなく迫力があります。特に「しらせ」の艦体は氷を押し割る構造のために乾舷が非常に高くなっているので、迫力満点です。 そして、艦体のオレンジ色が舞鶴湾の海に映えてとても美しい! ユニバーサル造船のドックと岸壁では、護衛艦「みねゆき」(左)と「あまぎり」(右)が定期点検を受けていました。 ユニーバーサル造船を過ぎると、いよいよ海自舞鶴基地のエリアです。 最初にタグボートや油船などの支援船が見えてきます。 目立つことのない「縁の下の力持ち」的な役割のフネですが、海軍基地にはなくてはならない存在です。 私は裏方を担うこういう小さなフネたちも結構好きなんです♪ そしてこの支援船の脇を通り抜けると、そこから先は艦船マニアにとってのワンダーランドが広がっていました。 「あぶくま」「すずなみ」「はるな」「みょうこう」そして「あたご」まで、北吸岸壁に係留されている艦艇を海の上から至近距離で見ることができます。まさにワンダーランドです。 遊覧船の席は海面から数十センチの高さしかありません。したがって、そこから写真を撮るとこのように水面すれすれの位置から艦艇を仰ぎ見るような構図となりますので、岸壁から撮影した写真とは比べものにならないほど迫力ある写真が撮れます。 最近、「艦艇写真ギャラリー」にアップした舞鶴艦艇の写真のうち海側からのショットは、実はこの遊覧船から撮影したものです。 それにしても近い! さすがの私も「こんなに近づいて大丈夫か?おい!」と思わずツッコミを入れたくなるほどでした(笑) というか、こんな至近距離での遊覧船の運航を許可した舞鶴地方総監部は偉い!! このような「軍港めぐり」の遊覧船は呉でも定期的に運航されていますが、さすがに舞鶴ほどの至近距離まで艦艇に近づきません。そういう意味ではこの遊覧船は「舞鶴の宝」だと私は思います。 海自ファン・艦艇ファンの方々は是非一度この遊覧船に乗ることをお勧めいたします。しかも運賃は1000円、とてもリーズナブルです。そして写真を撮るなら右舷最後方の席がお勧めです。 ちなみに私は2泊3日の舞鶴滞在中に4回乗船しました(笑) お問い合わせは、虚葬゚港遊覧船 0773−77−0344 です。 |
Vol 18 掃海隊群は帝国海軍の直系部隊 2008年6月12日 |
先週末、久しぶりに実家に戻りました。 Vol2〜3で述べましたが、私の祖父は帝国海軍の軍人、その祖父に育てられた父は筋金入りの海軍ファンです。というか、ほとんどタイムスリップしてきた海軍軍人です。しかも、スマートな士官というよりも叩上げの鬼兵曹で、相変わらず私が畳んだ毛布を見て「端が揃ってない!」「端が揃わないのは精神が歪んでいる証拠だ!」とか吠えるし、汚れた靴で玄関を汚せば「舷門を汚すな!」と言って怒ります。全く気が抜けません。私は実家に戻るたびに旧海軍の艦艇か江田島の兵学校にいるような気分になります(笑)。我が家にはいまだ「海軍」が息づいております。 「海軍」が息づくという点では海上自衛隊も同様です。 以前もこのコーナーで書きましたが、私は『海上自衛隊は現代版の日本海軍』だと思っております。 自衛隊が軍かどうかの議論はさておき、海上自衛隊を知れば知るほど、陸上自衛隊や航空自衛隊とは少々毛色が異なる組織であると感じずにはいられません。 軍艦旗と同じデザインの自衛艦旗、部隊内で使用されている用語やラッパ譜をはじめとして、江田島の幹部候補生学校における教育内容、さらには「はるな」「きりしま」「あたご」といった艦名に至るまで、旧軍との関係を断ち切って誕生した「自衛隊」であるにも関わらず、旧海軍との濃い繋がりを感じさせる点が多々見受けられます。 そればかりか、海自自身が『帝国海軍の末裔』を自認し公言しているほどです。 間違っても、陸上自衛隊が自らを『帝国陸軍の末裔』などと言う事はありません(笑) この違いについてよく言われているのが、海自の前身である海上警備隊が発足する際に艦艇の運用経験者(=元海軍軍人)が多数集められたためという点です。 確かに、「海上警備隊」という新しい組織を作ったところで構成員の大半が旧海軍の軍人であれば、いきおい艦艇の運用方法から部隊の生活習慣に至るまで帝国海軍のしきたりが踏襲されることになります。 そしてもうひとつ、私が海自を『21世紀の日本海軍』と考える根拠があります。 それは、海自には終戦時の武装解除を免れた帝国海軍の部隊が存在しているためです。 こんな風に言うと「海自には戦艦や空母はいないぞ!」とか「帝国海軍の艦艇はほとんどが太平洋に沈んだではないか!」と突っ込まれそうですが、でも、ちゃんと帝国海軍の部隊が名前を変えながらも存在しているのです。 その部隊とは、機雷の除去を任務とする掃海隊群です。 最新鋭の汎用護衛艦の10分の1程度の大きさしかない掃海艇で構成され、護衛艦隊や潜水艦隊と比べて今ひとつ地味な存在のこの部隊こそが帝国海軍直系の部隊なのです。 その理由について説明しますと…。 帝国海軍は終戦後の10月13日までに完全に武装解除され、その1ヶ月半後の11月30日には海軍省が廃止されて77年の歴史に幕を降ろしました。 一方、その頃の日本周辺海域には米軍が撒いた機雷が1万3000個もあり戦後復興の大きな妨げとなっていました。そこでGHQは帝国海軍の掃海部隊だけは温存し、終戦1ヵ月後から掃海作業に従事させていたのです。 その掃海部隊は海軍から第二復員局→運輸省→海上保安庁→海上警備隊→海上自衛隊とその所属を変えながら、その後40年間の長きに渡って日本近海の機雷処分にあたりました。 朝鮮戦争中には隠密裏に朝鮮半島の元山沖や仁川沖に派遣され掃海作戦を実施、犠牲者を出しながらも危険な任務を達成したことでアメリカと国連の大きな信頼を得ることができ、その後の講和条約の発効を有利に導きました。 このように掃海隊群は帝国海軍時代から一度も歴史が途切れることのない直系の部隊であり、なおかつ日本の戦後復興に大きな役割を果たした部隊なのです。 元海軍軍人たちによって立ち上げられ、さらには帝国海軍の部隊が姿を変えて存在する海上自衛隊。このような歴史を鑑みると、海自は紛れもなく『現代版の日本海軍』と言えるのではないでしょうか。 そして、掃海隊群の素晴らしさは輝かしい歴史と伝統だけではありません。 その掃海技術は間違いなく世界一です。 なにせ終戦直後から40年間も日本近海の掃海作業に従事し7000個もの機雷を処分したのですから、この経験から培われた技術は他国海軍の追随を許しません。世界一の海軍を自認している米海軍でさえも、海自掃海部隊の技量には遠く及ばないと私は思っています。 1991年に湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣された際には、各国の海軍より見劣りのする旧式の装備だったにも関わらず、高い技量を遺憾なく発揮して34個の機雷を処分、『Japanease Navy』の実力を各国に見せつけるとともに、国際社会における日本の立場を高めました。 そしてこのペルシャ湾派遣を機に、掃海隊群は艦艇と装備の近代化が一気に進み、今や高い技量と最新の装備双方を備えた世界1のマインスリーパー部隊となっています。 私はかつて掃海隊群の訓練を取材したことがあります。 それは今から約7年前に周防灘で実施された訓練で、掃海隊群だけではなく地方隊所属の掃海艇までもが参加するかなり大規模な訓練でした。 凄かったのは、当時の掃海隊群の首脳は91年のペルシャ湾派遣の最前線で活躍した方々だったことです。 群司令はバーレーン駐在連絡官だった河村雅美海将補、幕僚長は派遣部隊の次席指揮官(第14掃海隊司令)で掃海現場で作業の指揮を執った森田良行一佐、作戦主任幕僚は森田一佐とともに現場指揮にあたった(第20掃海隊司令)木津宗一一佐でした。 ←(写真は左から河村群司令、森田幕僚長、木津作戦主任幕僚) この取材で感じたのは、掃海隊群は護衛艦部隊や潜水艦部隊などよりも「有事即応」「常在戦場」の意識が強いということでした。 インタビューで河村群司令と森田幕僚長は「機雷の処分は常に実戦である」「掃海部隊に『有事』『平時』の区別はない」という言葉を口にしていました。つまり、機雷の処分は有事・平時に関係なく突然その機会が訪れ、加えて処分作業は一歩間違えば死者をも出す恐れがある「実戦」だと言うのです。まさに「常在戦場」です。 その一方で、部隊の雰囲気は緊張感の中にも和気あいあい、家族的な雰囲気すらあります。掃海艇は小型で乗組員も40〜50人程度と少なく、隊員同士の団結が護衛艦などよりもが強いことが要因だと考えられます。 世界一の技量と隊員たちの強固な団結力、そして常に実戦を想定している即応体制。掃海隊群は帝国海軍の血を引くだけでなく現代の海軍部隊のあるべき姿を体現している部隊と言えそうです。 もうすぐ夏。艦艇の体験航海や基地・艦艇公開といったイベントが目白押しです。 海自ファン・艦船マニアの方々、今年の夏は小さな掃海艇たちにも注目してみてくださいね! |
Vol 19 老兵なれども輝きは失せず 2008年6月16日 |
先日、古本屋で長らく入手したかった雑誌を買うことができました。 『世界の艦船』2007年2月号です。 『世界の艦船』は海自に関連する特集の号は大体買っているのですが、何故か当時この号は買い損なっていました。 で、何故入手したかったかというと…別に「緊迫の北朝鮮情勢」に興味があった訳ではありません(笑) 表紙の写真、護衛艦がズラリと並んで航行している様子にご注目!! 何と!「はつゆき」型護衛艦が全隻(正確には練習艦籍の「しまゆき」以外)、122から132までの艦番号順に横一列に並んで航行しているのです。 艦船マニアの方はお分かりだと思いますが、奇跡のような写真です。 同型艦が全艦一堂に会して並んで航行する機会など世界的にみてもほとんど例がなく、しかも「はつゆき」型は海自史上最も同型艦が多い護衛艦です。母港も横須賀・呉・佐世保・舞鶴と散らばっており、よく全艦が集まれたものだと感心してしまいます。 記事によると、この写真は2006年10月8日に佐世保沖で実施された「地方隊護衛艦合同術科競技」の一コマとのこと。 「はつゆき」型が全艦揃っているだけではなく、横一線や傘型などの様々なフォーメーションで航行している様子は、まさに日ごろ鍛えた高い航海技術の賜物です。 最も就役が早かった「はつゆき」は艦齢が26年に達しており数年後の退役が予想されることから、このような写真は二度と撮影できないと思われます。それだけにこの写真は価値があります。艦船写真史上最高の傑作ではないでしょうか。 私がこの「はつゆき」型を初めて見たのは中学2年生か3年生の頃だったと思います。 当時愛読していた雑誌「丸」の巻頭カラーページに、「最新鋭護衛艦の訓練風景」といった見出しとともに「はつゆき」の勇姿が紹介されていました。 その姿に雷に撃たれたような衝撃を受けました。 「なんて近代的で美しいフネだろう…」 当時、既に私は父の影響もあって海軍ファン・艦船マニアの道を爆走していたのですが、興味の対象は帝国海軍の軍人と艦船であって、海自といえば現代版航空巡洋艦の「はるな」と「ひえい」程度しか知りませんでした。 戦艦「大和」や空母「瑞鶴」などの帝国海軍の艦艇に慣れ親しんだ「大艦巨砲主義」の少年にとって、海自艦艇はちっぽけでどこか弱々しく映っていたのです。 しかし、「はつゆき」は違いました。 排水量は約3000tと「大和」や「瑞鶴」とは比べるべくもないのですが、弱々しさは微塵も感じさせません。 力強さの中に優雅さをも兼ね備えています。 太い一本煙突、後甲板に設けられたヘリ発着甲板、艦首から艦尾までの流れるような艦体ライン、そして艦の各所に設置された兵器の数々、これら全てが目新しく、それまでの海自艦艇とは一線を画すフネであると直感的に感じました。 実際、「はつゆき」型はそれまでの対潜一辺倒だった護衛艦の設計を改め、対空・対水上・対潜とバランスのとれた兵装を有し、「COGOC」方式のオール・ガスタービン機関やコンピュータで高度に制御された戦闘システム、新開発の短SAM発射機など当時の最新技術が投入された海自艦艇史に名を残すエポックメイキングな護衛艦です。 当時の防衛計画で進めていた護衛艦隊の「八艦八機体制」(八八艦隊構想)の中核艦として計画され、1982年から87年までの5年間に海自最多の12隻が建造されました。 この「はつゆき」型の登場により海自が諸外国にひけをとらない「一流海軍」になったと言っても過言ではありません。 その性能の素晴らしさから、当時海自内でも「はつゆき」型の登場はかなりの驚きをもって迎えられたようです。 「はつゆき」型の艦長経験がある元海将補の渡邉直氏は著書『艦長を命ず』の中で、艦長となった喜びを次のように記しています。 『すごい艦だ!このような素晴らしい艦をお預かりした以上、俺はこの艦を十分に使いこなしてみせるぞ…』 「はつゆき」型が次々と就役し最新鋭艦として脚光を浴びていた頃、私は中学生から高校生になっていました。 「はつゆき」型に魅了されていた私は進路選択の際に第一志望校として防衛大学校を選びました。もちろん、将来「はつゆき」型護衛艦の艦長になるためです。 各種の模擬試験でも「防衛大学校」でA判定を連発、入学願書も取り寄せました。 でも受験は断念しました…担任の教師に「お前は文系だから大砲やミサイルを扱う護衛艦の艦長にはなれない」と言われて泣く泣く諦めたのです。(艦長に文系・理系は関係ないことを後で知りました。騙された〜!!) 「はつゆき」型の魅力、それは3000tの艦体に重武装をギュッと詰め込んだスタイルではないでしょうか。 後ろから見た場合によく分かるのですが、艦橋・煙突・ヘリ格納庫・ヘリ発着甲板をいかにも窮屈そうに詰め込んだデザインとなっています。 その割には水面から上甲板まではあまり高さがない(=低乾舷)ために、いわゆる「トップヘビー」な印象を受けます。 「トップヘビー」と言えば、旧海軍の「吹雪」型(特型)駆逐艦が有名ですが、「吹雪」型も2000tほどの艦体に考えられないような重武装を実現した駆逐艦でした。 「小さなボディに重武装」という点で、「はつゆき」型と「吹雪」型は相通じるものがありますね。しかも双方とも「ゆき」に因んだ艦名ではありませんか!(ちなみに吹雪型の4番艦は「初雪(はつゆき)」です) まさに『現代版特型駆逐艦』とも言える「はつゆき」型ですが、艦船マニアにとっては非常に魅力的なスタイルも、実際に運用すると余裕のない設計による不都合が多々あったようで、12番艦「しまゆき」就役後、整備計画は排水量を約500t拡大した改良型の「あさぎり」型に移行しました。 その後、汎用護衛艦は「むらさめ」型、「たかなみ」型へと進化し、排水量も4600tにまで達しています。 しかしながら、これら最新鋭汎用護衛艦も極論すれば「はつゆき」型の拡大発展型であり、数年後には初期の艦が退役する老兵「はつゆき」型は今もなお、中学生の私に強烈なインパクトを与えたあの輝きを失ってはいないのです。 今年の夏も「はつゆき」型は各地のイベントに引っ張りだこだと思います。 艦長になれなかった私ですが、せめてイベントや体験航海の「一日艦長」にしてくれませんでしょうか…。 地方総監部・地方協力本部の隊員でこのコラムをご覧になった方がいらっしゃいましたら、何卒よろしくお願いします(笑) |
Vol 20 ミナト神戸は潜水艦のふるさと 2008年6月22日 |
「神戸」という地名を聞いてどのようなイメージを思い浮べますか? ほとんどの人が「異国情緒漂うお洒落な港町」というイメージをお持ちだと思います。最近では年末の夜を彩る「神戸ルミナリエ」やジャイアントパンダがいる「王子動物園」を思い浮かべる方も多いかも知れませんね。 そんな神戸ですが、私をはじめとして海自ファン・艦船マニアは一般的なイメージとは全く異なるイメージを持っています。 それは…「日本で唯一潜水艦を生み出す街」「潜水艦のふるさと」というイメージです。 どういう事かと言いますと、神戸市内にある川崎造船神戸工場と三菱重工神戸造船所が海上自衛隊の潜水艦建造を一手に請け負っているのです。つまり潜水艦は神戸の特産品なのです。 建造だけではなく、年次検査(年1回)や定期検査(3年に1回=自動車の車検に相当)といった検査・修理もこの二ヶ所の造船所で行われます。まさに潜水艦にとって神戸は「故郷」であり、身体の不具合を探し修繕する「病院」なのです。 実は私、先週大阪に出張したついでに神戸に足を延ばして来ました。 その時撮影した写真をもとに「潜水艦のふるさと・神戸」についてあれこれ書いてみたいと思います。 まずは川崎造船神戸工場からご紹介。 川崎重工業の船舶部門が2002年に分離・独立して誕生した会社で、1886年に払い下げられた「官営兵庫造船所」を起源とし、戦前は巡洋戦艦「榛名」や空母「瑞鶴」、重巡「足柄」など帝国海軍艦艇を多数建造した歴史を誇ります。 海自国産初の潜水艦「おやしお」を建造したのもこの造船所です。 現在は、潜水艦のほか海保の巡視艇や5万5000t級の大型貨物船などを建造しています。 商業施設の「神戸モザイク」とほぼ隣接しており、観覧車のわずか十数メートル横にドック入りした潜水艦が係留されている様子はとても不思議な光景です(笑) ←川崎造船が誇る世界最大の浮きドック(3ドック)に入渠している「はるしお」型潜水艦。 潜水艦は機密の塊みたいなフネなので、艦の詳細が分からないように目隠しのネットが張られています。 こうして見ると、普段は水面下に隠れている部分がいかに大きいかが分かります。まるで映画の一シーンのような雰囲気です。 それにしても浮きドックの壁面の厚さは凄い!世界最大だけのことはあります。 ←こちらは3ドックの隣にある2ドック。 ちょうど「おやしお」型潜水艦が入渠したばかりで、排水作業が行われているところです。 かなり海水が排出されて艦体下部が顕れはじめていますが、最大の機密が隠されている艦尾のスクリューには、その構造が判別できないようシャンプーハットのようなカバーが掛けられています。 護衛艦などの水上艦艇がドック入りしても、これほどまで徹底して特定の部分を隠すことはありません。改めて潜水艦の特殊性・機密性を実感させる光景です。 続いては三菱重工神戸造船所です。 川崎造船の南側に位置しており、間に「兵庫埠頭」という埠頭があるので隣接している訳ではないのですが、雰囲気的にはライバル同士が睨み合っている感じです。 神戸は三菱重工の基幹造船所で、潜水艦や深海潜水調査船といった特殊技術を必要とする船舶の建造を得意としています。 ほかにも自動車運搬用大型コンテナ船などの船舶に加え、原子力発電プラントや宇宙開発用ロケット関連装置といった三菱らしい製品を生産しています。 1955年にアメリカから貸与された海自初の潜水艦「くろしお」を、就役前に海自仕様に改装したのがこの三菱神戸です。 そして現在は、スターリング機関とX舵を採用した次世代潜水艦「そうりゅう」(07年12月進水、09年3月竣工予定)の建造がここで進められています。 ←第3船台で修理を受けている「はるしお」型潜水艦。 こうして見ると、まさに『陸(オカ)に打ち上げられた鯨かシャチ』といった雰囲気です。 川崎造船同様、ここでも外からスクリューが見えないように艦尾部分には目隠しのネットが張られています。 艦体の後部に大きな穴が開いています。決して対潜ミサイルが命中した痕ではありません(笑) 恐らく艦内から大型設備を搬出するために開けた穴だと考えられます。かなり大がかりな修理のようです。 ←第3船台を横から見たところ。 「はるしお」型の艦首部の形状がよく分かります。奥の第2船台では「おやしお」型潜水艦が大規模な修理を行っています。 本来ならば、この第3船台の手前にある艤装岸壁で「そうりゅう」が係留されて工事が行われているはずですが、不思議なことに姿がありません。なぜ?Why? 推測するに、私が来ることを事前に知った海自が最高の機密である新型潜水艦「そうりゅう」の姿を撮影され、サイトにアップされるのを嫌って見えない場所に移動させたと考えられます(笑) 神戸へ行った目的のひとつは艤装中の「そうりゅう」を撮影することだったので残念無念です。 上記の写真は神戸港内を巡る遊覧船から撮影したのですが、三菱神戸の構内のどこかに「そうりゅう」がいるのではないかと思い、遊覧船には3回乗船しました。つまり神戸港内を3周もしたのですが「そうりゅう」は見つかりませんでした。(遊覧船の船員さんから不思議そうな目で見られましたが…) ちなみに、遊覧船は造船所に入渠した潜水艦を近くで見ることができることをセールスポイントにしています。パンフレットに大きく記されているだけではなく、桟橋のアナウンスも潜水艦見物を声高にPRしていました。 呉や舞鶴と同様、神戸でも海自艦艇が観光資源のひとつになっています。 ところで、検査や修理の期間中(通常2〜3ヶ月)、潜水艦の乗員は造船所内の宿舎(ドックハウス)に居住します。家族を呼び寄せることも可能で、ドック期間中に家族で過ごす神戸生活が過酷な潜水艦勤務の疲れを癒し、潜水艦部隊全体の士気を高めているとも言われています。 さらには、独身隊員の中には神戸滞在中に知り合った女性と結婚する人も多いとか。若者よ!神戸美人を彼女や奥さんにしたいなら潜水艦の乗組員を目指そう!!(乗る前に相当厳しい訓練が待ってますけどね) |