Vol 11 海自トップ 四つ星の将官・海上幕僚長                                  2008年3月30日

今月24日に赤星慶治海将が第29代海上幕僚長に就任しました。

前任の吉川榮治海将は、イージスシステム情報の漏洩と「あたご」衝突事故の責任を取る形で引責辞任となりました。情報漏えい、衝突事故ともに海上自衛隊の根底を揺るがす大事件ですので、その責任を取る形でトップの海幕長が辞任するのは止むを得ない事だとは思います。問題なのは、報道やネット上で「吉川海幕長時代に海自で不祥事が続発したのは、吉川海将に能力が欠如していたため」といった論調が散見されることです。確かに不祥事は続きましたが、それは単に吉川海幕長時代に立て続けに起きただけの事であって、それを吉川海将の能力と結び付けて考えるのは大間違いだと思います。

吉川海将は第3護衛隊群司令だった1998年3月、能登半島沖不審船事件自衛隊初の実戦である海上警備行動を現場で指揮した人物です。私個人としては、海自で唯一「実戦経験のある指揮官」である吉川海将は、任務が多様化し大きな変化の局面を迎えている今の海上自衛隊のトップ(海幕長)に最適な人材だと思っておりましたので辞任はとても残念です。

一方、新海幕長の赤星海将は熊本県出身の57歳。吉川海将より2期下の防大17期卒(73幹候)で、船乗りではなく翼を模した航空徽章が胸で輝くパイロットです。しかも、哨戒機P−3Cや対潜ヘリではなく、日本が誇る世界唯一の大型飛行艇US1-Aのパイロットです。US-1Aは救難や急患輸送が主任務であり、ある意味常に実戦状態に置かれている部隊ですので、そういった部隊の出身者が海幕長になるのはとても素晴らしい事ではないでしょうか。

航空部隊出身者の海幕長就任は第25代の石川亨海将以来7年ぶり、佐世保地方総監からの海幕長就任も石川海将以来の7年ぶりです。
赤星海将の一佐以降の主な経歴をみると、○海幕運用課運用第2班長、○第3航空隊司令、○第1航空群首席幕僚、○海幕総務課長、海将補昇進後は○第1航空群司令、○海幕監理部長、○横須賀地方総監部幕僚長、さらに海将となって○航空集団司令官、○佐世保地方総監と、歴代の海幕長同様に様々な要職を歴任しています。

ここで、海自のトップ・海上幕僚長に就く前に経験するポストについて考えて見たいと思います。
防大1期卒の佐久間一海将以降の海幕長12人の前職と職種をまとめると以下のようになりました。

氏名  在任期間 前職 前々職 職種
佐久間一 1989.8.31 - 1991.6.30 佐世保地方総監 幹部学校長 艦艇 防大1
岡部文雄 1991.7.1 - 1993.7.1 佐世保地方総監 舞鶴地方総監 パイロット 防大2
林崎千明 1993.7.1 - 1994.12.15 佐世保地方総監 大湊地方総監 艦艇 防大4
福地建夫 1994.12.15 - 1996.3.25 横須賀地方総監 幹部学校長 艦艇 防大5
夏川和也 1996.3.25 - 1997.10.12 佐世保地方総監 海上幕僚副長 パイロット(P-3C) 防大6
山本安正 1997.10.13 - 1999.3.31 横須賀地方総監 統合幕僚事務局長 艦艇 防大7
藤田幸生 1999.3.31 - 2001.3.27 海上幕僚副長 航空集団司令官 パイロット(回転翼) 防大9
石川亨 2001.3.27 - 2003.1.27 佐世保地方総監 教育航空集団司令官 パイロット(戦術航空士) 防大11
古庄幸一 2003.1.28 - 2005.1.12 海上幕僚副長 護衛艦隊司令官 艦艇 防大13
斉藤隆 2005.1.12 - 2006.8.3 横須賀地方総監 舞鶴地方総監 潜水艦 防大14
吉川榮治 2006.8.4 - 2008.3.24 横須賀地方総監 大湊地方総監 艦艇 防大15
赤星慶治   2008.3.24 - 佐世保地方総監 航空集団司令官 パイロット(US1-A) 防大17

12人の半分にあたる6人が佐世保地方総監からの海幕長就任となっています。次いで横須賀地方総監の4人、海上幕僚副長が2人となっています。
面白いのは、実質的な海自No2である自衛艦隊司令官と、職位・総監部の格においても佐世保と同等の呉地方総監からの海幕長就任が見当たらないことです。
自衛艦隊司令官→海幕長の異動は、海自発足直後から1980年代中ごろまではよくあるパターンだったのですが、1985年に長田博海将(海兵76期)が就任して以降見られなくなりました。一方、呉地方総監→海幕長は海自54年の歴史の中で一度も例がありません。

自衛艦隊司令官は、水上艦艇・潜水艦・航空機という実戦部隊の総指揮官、旧海軍で言えば『連合艦隊司令長官』ですので、その職責に敬意を払って海自内では海幕長と並ぶ2トップ的な位置づけなのではないかと思います。よって自衛艦隊司令官からの海幕長就任は途絶えていると私は考えます。

よく分からないのが呉地方総監です。格上の横須賀地方総監との違いは理解できますが、佐世保地方総監との違いは何に由来するのでしょうか?
この謎を解くキーワードは、横須賀と佐世保にあって呉に無いもの、つまり米海軍基地の有無ではないでしょうか。海自は米海軍と緊密な関係にあり、その関係を非常に重視していますので、連絡や調整等で米海軍との折衝が多々ある横須賀と佐世保の地方総監が海幕長へのステップになっていると考えられます。
一方で、自衛艦隊司令官の前職では呉地方総監が二番目に多いので、このあたりから横須賀・呉・佐世保の三地方総監の位置づけが何となく分かりますね。

歴代海幕長の経歴や上記の内容を総合すると、海幕長へのルートは、海幕の課長職海将補に昇進して群司令海幕の部長職→(地方総監部の幕僚長)→海将に昇進して司令官もしくは舞鶴・大湊地方総監横須賀地方総監もしくは佐世保地方総監海上幕僚長 というのが一般的な形のようです(もちろん今後例外も出てくるとは思いますが)。

赤星海将が海幕長に就任したばかりではありますが、上記の法則をもとに次の海幕長を予想してみるのも面白いかもしれませんね。実は私には次はこの方だろうという「意中の人」が既にいます(それが正解かどうか判明するのは1年半〜2年後ですが…)。

最後になりましたが、赤星新海幕長には事件・事故で大きく揺らいだ海自組織の立て直しと、国民の信頼回復に全力を尽くしていただきたいと思います。私もこのサイトの運営を通して全くの微力ではありますが応援しております。


 Vol 12 あっ!と驚く護衛艦隊の大改編                                       2008年4月13日

新年度がスタートしました。
サラリーマンの世界では新年度が始まる4月というのは、人事異動やら組織の改編やらでなんとなく慌しいものです。私も今月から従来の業務に加えて新たな業務を担当することになり、慣れない仕事に四苦八苦の日々が続いております。

そんな中、海上自衛隊も新年度に向けて先月26日に発足以来最大の組織改編を行いました。
その中心となるのが護衛艦隊の改編です。

護衛艦隊の改編については、1年ほど前から、DDHグループ(DDH、DDG、DD×2)とDDGグループ(DDG、DD×3)の2タイプの護衛隊に再編されるとの情報が出ておりましたが、果たしてどのような部隊構成になるのか非常に注目して3月26日を迎えました。
ところが不思議なことに、改編後の部隊の情報は全くと言うほど入って来ませんでした。「あたご」の衝突事故から日も浅いということもあり、海自も積極的に情報を出す気はないのかも知れませんね…。


ようやく、いつもお世話になっている『DSI日米国防組織情報』様の情報収集により、部隊の構成が判明しました。

第1護衛隊群(司令部:横須賀)
・第1護衛隊(横須賀)…しらね(横須賀) むらさめ(横須賀) あけぼの(呉) しまかぜ(佐世保)
・第5護衛隊(横須賀)…いかづち(横須賀) ずずなみ(舞鶴) さわぎり(佐世保) こんごう(佐世保


第2護衛隊群(司令部:佐世保)
・第2護衛隊(佐世保)…くらま(佐世保) ゆうぎり(大湊) あまぎり(舞鶴) あしがら(佐世保)
・第6護衛隊(佐世保)…はるさめ(佐世保) たかなみ(横須賀) おおなみ(横須賀) ちょうかい(佐世保)


第3護衛隊群(司令部:舞鶴
・第3護衛隊(舞鶴)…はるな(舞鶴) まきなみ(佐世保) せとぎり(大湊) あたご(舞鶴)
・第7護衛隊(舞鶴)…ゆうだち(佐世保) きりさめ(佐世保) ありあけ(佐世保) みょうこう(舞鶴)

第4護衛隊群(司令部:呉
・第4護衛隊(呉)…ひえい(呉) はまぎり(大湊) うみぎり(呉) はたかぜ(横須賀)
・第8護衛隊(呉)…いなづま(呉) さみだれ(呉) さざなみ(呉) きりしま(横須賀)


なんなのよ〜!この編成は!!

同じ護衛隊群内で所属艦艇をDDHグループとDDGグループに再編するのではと予想していただけに、この編成にはビックリです!それまでの護衛隊群と全くと言っていいほど顔ぶれが変わり、しかも護衛隊を構成する各艦の母港はバラバラです。
従来の護衛隊群においても母港が異なる艦で編成されていた群がありましたが(近年では3護群と4護群)、それでも護衛隊は同じ母港の艦艇で編成されていました。つまり、護衛隊単位で艦艇が各基地に配備されていました。それが今回「ガラガラ、ポン!」と言わんばかりのシャッフル状態です。

従来の護衛隊群は基本的には地域配備でしたので、伝統に地域性が混ぜ合わされた固有の雰囲気がありました。

例えば、1護群は首都・東京に近く、政治家をはじめとしたお偉いさんが頻繁に視察に来るため隊員の立ち居振る舞いが美しく、その影響で艦艇の動きも非常に美しく感じました。
2護群
は九州が自衛隊に高い関心と理解を示す土地柄であるため隊員の士気が高く、猛訓練で培った練度の高さとそれを誇りにする雰囲気が漂っていました。
3護群
は日本海側という厳しい自然条件の中で培われた根気強さと堅実さ、さらには「大陸の危険な国々」を睨む最前線部隊としての緊張感がみなぎっていました。
4護群
は最も歴史が新しいということもあり、訓練では柔軟な発想で部隊を運用し、航路の難所が多い瀬戸内海で鍛えた繰艦技術とあいまって、しなやかで柔軟かつしぶとい部隊という印象でした。
新しい編成を見る限り、こういった地域色が無くなってしまいそうで艦艇ファンとしては少々残念な感があります…。

さらに、この編成を見れば見るほど数々の疑問が沸いてきます。

まず第一に、直轄艦(群旗艦)が無くなったので、群司令と幕僚の面々はどの艦に乗るのでしょうか?(まさか自衛艦隊司令官のように陸上指揮ということはないでしょうが…)第二に、護衛隊司令はどこに赴任するのでしょう?一応、従来と同じように1護隊は横須賀、4護隊は呉といったように定められてはいますが、なにせ隊の所属艦が各基地に散らばっているので、司令が艦長の教育の為に坐乗艦を変えようとすると遠距離の移動を強いられます。さらに、護衛隊単位で訓練を行おうにも護衛艦隊の集合訓練並に各基地から所属艦が遠路はるばる集合しなければなりません。ものすごく不便だと思いますが…。なぜ不便を承知でこのような編成にしたのでしょうか…?

今回の大改編について海自は次のように説明しています。
「限られた数の護衛艦の中で練度の高い艦をより多く確保し、各種事態に即応するため従来の固定的な編成を改め、各艦の練度に応じて柔軟に部隊を編成することとした」

この海自の説明を詳しく読み解くと、改編の第一の目的は任務の多様化ということのようです。
従来の護衛艦隊の主任務はシーレーン防衛でした。そのために護衛隊群は、旗艦が同型艦(同タイプ艦)から成る複数の護衛隊を率いるという旧海軍の水雷戦隊と同じ編成を採り入れ、潜水艦掃討と米海軍第7艦隊の護衛といった作戦に特化した艦隊となっていました。
しかし世界情勢が大きく変化し、対テロ作戦への参加や国際貢献活動、弾道ミサイル防衛といった一昔前には考えられなかった任務が増えてくると、この部隊編成では運用しづらくなってきたので、対潜部隊(DDHグループ)と防空部隊(DDGグループ)という目的別に部隊を編成したということのようです。言うなれば、旧海軍の水雷戦隊から米海軍に見られる任務別部隊(タスクフォース)に模様替えしたという訳です。

そして、母港の枠を越えた部隊編成にした大きな理由は、上記説明冒頭の「限られた数の護衛艦の中で練度の高い艦をより多く確保し」の部分にあるように思えます。
ここ数年来、海上自衛隊は財政の悪化にあえぐ財務省から護衛艦の削減を求められています。古庄海幕長時代には通常任務をこなすことさえ不可能となるような大幅な削減を求められ、当時の石破長官・古庄海幕長と財務省との間で激しい議論の応酬があったと聞いています。この時海自側は財務省の要求をある程度まで押し戻したものの、護衛艦は毎年1隻を就役させるのがやっとの予算しか認められなくなり、「本格的な侵略事態発生の可能性の低下」「テロ等新たな脅威の出現」というもっともらしい大義名分のもと、正面装備たる護衛艦の削減、組織のコンパクト化を掲げた中期防衛力整備計画が策定されました。

このことから海自は、今後より一層の護衛艦削減が中期防に盛り込まれ、場合によっては8艦8機体制さえも維持できなくなる事態を想定して、今回のような改編を行ったと私は考えます。
おそらく、護衛隊群の新編成は各艦のドック入りの時期を考慮した結果であり、従来の護衛隊群のようにある一定の時期が来ると所属艦の多くが一斉にドック入りし事実上閉店状態となるのを避けたのではないでしょうか。とは言っても必ずドック入りや整備等により稼動できなくなる艦は出てきますので、その際は一時的に他の護衛隊群から艦を組み入れて、即応体制にある部隊の数を維持する考えだと思います。もちろん、任務によっては練度の高い艦を集めて部隊を編成するといった運用も考えられます。

こうして考えると、今回の改編は将来の護衛艦削減に対しての備えという側面を持っていると言えそうです。しかしながら、任務別に護衛隊を再編したことや柔軟な部隊編成には大きな利点があることも確かですので、この新体制で海自は頑張っていただきたいと思います。
艦艇ファンの私としては、住んでいる大分市から撮影に行きやすい呉や佐世保に、これまでなかなかお目にかかれなかった舞鶴や大湊の艦が来る機会が増えることを期待しています。私にとってはそれが改編の最大のメリットです(笑)


 Vol 13 護衛艦隊集合訓練は早々にお開き?                                   2008年4月20日

「あっ!と驚く大改編」が行われた護衛艦隊が、集合訓練実施のため佐世保基地に集結しました。

訓練は4月15日から18日まで実施され、「あたご」事故の直後ということもあり、訓練初日の15日は地元の新聞とテレビでは結構大きなニュースとして報じられていました。
護衛艦隊の集合訓練と言えば、全国5ヶ所の基地から護衛艦隊の主力艦が勢揃いし、数多くの艦艇が桟橋や沖合いにひしめき合って停泊している様子はそれはそれは壮観で見事なものです。また私にとっては舞鶴や大湊といった普段中々お目にかかれないフネに出会える絶好のチャンスでもあります。

ところが、ここ数年は会社のイベントやら実家の農作業の手伝いやらで、集合した護衛艦隊を見に行くことができませんでした(涙)今年は当サイトを立ち上げことや、大改編後の部隊編成を知りたいということもあり、様々な先約や行事をキャンセルして昨日(19日)佐世保に行って来ました。

午前7時に自宅を出発、愛車で高速道路を飛ばして午前9時半に佐世保に到着。はやる心を抑えながら佐世保港内が見渡せる埠頭へと直行しました。(ワクワク♪)

おや?何か今までの集合訓練と雰囲気が違う…(汗)

←立神桟橋はこんな感じで艦艇が停泊していました。

「ひえい」や「いなづま」「みょうこう」「すずなみ」といった他基地の艦艇が停泊しており、確かに護衛艦隊集合訓練ならではの光景なのですが、いかんせん艦艇の数が少ない…。訓練には21隻が参加していたはずですが…。

「あたご」と「しらね」の姿がないのは分かりますが(笑)、期待していた「はるな」とか「はるさめ」とか「きりしま」などの姿もありません。修理等でドック入りしていて不参加だったのでしょうか?それとも金曜日の夜に母港に帰ってしまったの…?

一方、倉橋岸壁の方はこんな様子…。


普段、ここは第13護衛隊と第16護衛隊というかつての佐世保地方隊所属の艦艇が停泊する岸壁ですが、13護隊と16護隊は少し離れた所にある赤崎岸壁に移動し、他基地からのお客さんに場所を提供していました。
左の写真は、左から「しらゆき」「てんりゅう」「あけぼの」。右の写真は、手前から「じんつう」「まつゆき」「はまゆき」です。

おぉ!「ゆき」型と「あぶくま」型が訓練に参加している〜!

旧式化により全艦が護衛艦隊から離脱していた「ゆき」型、そして地方隊専用設計の「あぶくま」型が、地方隊所属護衛隊の護衛艦隊への編成変えにより、集合訓練への参加となりました。今回の集合訓練の大きな特徴と言えますね!

この時点で確認できた艦艇は「しもきた」「ひえい」「いなづま」「はまぎり」「こんごう」「みょうこう」「ありあけ」「まきなみ」「すずなみ」「あけぼの」「てんりゅう」「しらゆき」「はまゆき」「まつゆき」「じんつう」の15隻。あと6隻は何処に…?

若干の期待はずれ感に襲われてしまった私ですが、そこは筋金入りの艦艇ファンです。すぐに「今いる艦をいっぱい撮影しよう!」とポジティブ思考に切り替えです(ずごいぞ!偉いぞ!俺。)特に午後からは倉橋岸壁が一般公開されるので、「しらゆき」「はまゆき」「じんつう」という、九州から離れた基地に所属するフネが至近距離から撮影できます。それだけでも十分です(何と前向きな!)

ということで、港内が一望できる駐車場に愛車を置き、近くのコンビニに朝食のおにぎりを買いに行きました。腹が減っては戦(=撮影)はできませんからね。まずは腹ごしらえです。

コンビニから愛車に戻って、ふと港内に目をやると…。

んっ…!?

「まきなみ」が出港している!!
おにぎりを放り投げ、愛機α700を手に夢中で埠頭の突端まで走り、「まきなみ」の出港シーンを激写です。

「まきなみ」は佐世保のフネですので、母港に帰投ということはありません。まだ訓練が残っていたので出港するのでしょうか?

いろいろと考えを巡らせていたその時、あの勇ましいラッパの音が聞こえてきました。
「パラパパァ〜パラパパァ〜パッパカパァ〜♪出港用意!!」

なんと、マストに海将補旗を掲げた「みょうこう」が出港を始めました!!

甲板上では整列した隊員が帽振れで僚艦との別れを惜しんでいます。

げっ!
これはもう疑う余地がありません。日曜日の夕方を待たずして各艦が母港に帰りはじめたのです。

停泊艦艇の数が少なかったのも、金曜日の夜のうちに帰投した艦があったからだとこの時確信しました。

夢中でシャッターを押す私のそばに停泊していた多用途支援艦「あまくさ」の艦内スピーカーから「第3護衛隊群司令に敬礼する!」というアナウンスが流れてきました。
「パッパラパッパッパァ〜♪」
ラッパの音とともに、艦橋のウイング部で「あまくさ」艦長が「みょうこう」に坐乗している鍛治3護群司令に敬礼です。

←群司令に敬礼する「あまくさ」艦長。

艦艇から艦艇への敬礼は何度見てもカッコいい!!しびれます!

「みょうこう」が出港したあと立神桟橋は一見平穏となりましたが、艦艇を双眼鏡で見てみると、甲板上で隊員が忙しそうに作業をしているし、時折濃い煙を吐くフネやマストに整備旗を揚げているフネがあります。

「これはもうすぐ出港するフネがあるな」と推測し待つこと30分、来ました!!
改編で第4護衛隊群第4護衛隊所属となった「はまぎり」です。

中々お目にかかれない大湊のフネです。

マストには隊司令旗が掲げられていました。第4護衛隊は呉が所在地ですが、隊司令は大湊に所在していた旧第7護衛隊司令からの横滑りなので、大湊のフネである「はまぎり」に坐乗しているのでしょうか?
前回も書きましたが、同じ隊の「うみぎり」や「はたかぜ」に坐乗するには遠距離移動を強いられるので大変そうです…。

このあと同じ4護群の「いなづま」も呉に向け出港しました。
「はまぎり」「いなづま」と4護群のフネが続いたということは…。
予想どおり、「ひえい」が出てきました!!

マストには海将補旗が揚がっています!
改編後も「ひえい」が4護群の旗艦であるようです。
「みょうこう」出港時と同様、「ひえい」艦上の徳丸4護群司令も各艦から敬礼を受けていました。(私もまたカッコ良さにしびれてしまいました…)

前回、「直轄艦がなくなったので群司令はどうするの?」と書きましたが、改編前と同様DDHに坐乗して群の指揮を執るようです。となると、「ひえい」は第4護衛隊司令指揮下の艦である一方で、第4護衛隊司令と第8護衛隊司令を指揮する第4護衛隊群司令が乗る旗艦という、かなりややこしい位置づけとなります。
う〜ん、いまだに大改編の真意が理解できません…(苦笑)
立神桟橋は一気に停泊艦艇が艦艇が少なくなり、静けさを取り戻しました。
かなりの数の艦艇が佐世保を去ったとはいえ、出港シーンを撮影できたのはラッキーでした。

しかし、ここから悲劇が始まりました…。
午後から始まる一般公開で沢山写真を撮ろうと目論んでいた倉橋岸壁の艦艇までもが出港をはじめたのです!



「しらゆき」が「じんつう」が「てんりゅう」が、そして「まつゆき」までもが私の目の前を駆け抜けて行きました。
彼女(=艦艇)たちは一様に「ごめんね!ゆっくり撮影したかったら横須賀(呉・大湊)まで来てね!」と言っているようでした…(涙)
出港は残念ですが、航行シーンを至近距離で撮影できる絶好の機会でもあるので、強風で海に落ちそうになりながらも岸壁の突端で必死にシャッター切りまくりです。各艦の艦橋にいた隊司令や艦長さんが「あのマニアの兄ちゃん大丈夫か?」といった心配そうな表情で私を見ていました…。

かくして、倉橋岸壁は「あけぼの」と「はまゆき」の2隻のみとなり、各地の基地から集合した艦艇が岸壁に並んで停泊している光景を写真に収めようとした私の計画は見事に崩れ去ったのでありました。

通常、護衛艦隊の集合訓練では、訓練終了後の土曜・日曜は各艦は集合した基地にとどまり、部隊対抗のスポーツ大会や市民との交流イベントなどがあったはずです。また、多くの隊員が街に繰り出し街全体が歓迎とお祭りムードになっていた気がします。
しかし今年の訓練では、各艦がそそくさと母港に帰還するし、佐世保市街地には護衛艦隊を歓迎するようなムードは感じられませんでした(あくまで私個人の印象ですが…)。艦艇の一般公開もあまり熱心にPRされていませんでしたし、やはり「あたご」の事故で海自と艦隊を受け入れる佐世保市双方に自粛ムードがあったことは否めません。

きょう(20日)に佐世保に行った艦艇ファンの方々はあまりの艦艇の少なさに驚いているのではないでしょうか?
私の佐世保遠征も当初計画とは全く異なる撮影になりましたが、これまであまり撮れなかった出入港シーンや航行シーンを収めることができたのはまさに「災い転じて福となす」といった感じでラッキーでした。上記以外にもとてもいい写真が撮れていますので、今後順次「艦艇写真ギャラリー」にアップします。お楽しみに♪

炎天下で出港シーンを撮り続けたので、顔が真っ赤に日焼けしてしまいました…。明日会社で笑われそうだなぁ(苦笑)


 Vol 14 怪しい艦(フネ)                                                 2008年4月27日

海上自衛隊はとても開かれた「海軍」だと思います。

こんな言い方をすると、『海上自衛隊は軍じゃない!』と叱られるかも知れませんが、名称や法的な位置付けはともかく、私個人としては海自は「21世紀の日本海軍」だと思っております。
「海軍」であるからには秘密(=軍事機密)も多々あるとは思いますが、近年の海上自衛隊は体験航海などのPRイベントを積極的に行っていますし、呉・佐世保・舞鶴の各基地では毎週末に艦艇が公開されています。
海自5大基地の周囲にはいずれも基地内に停泊している艦艇をウオッチングできる場所があるのですが、海自は艦艇を覗かれるのを防ぐための目隠しを設けるといったこともなく、基本的に「見せられるもの(または見えてしまうもの)は国民にどんどん見てもらおう」というのが基本的なスタンスのようです。

お陰で私のような艦船マニアも思う存分撮影ができる訳でして、アメリカや中国などではこうは行かないと思います。恐らく中国国内で潜水艦に至近距離からカメラを向けようものなら、たちまち身柄を拘束されるでしょう。

そんな「開かれた海上自衛隊」の中にあって、異常なほどの秘密のベールに閉ざされた艦艇があります。
音響測定艦「ひびき」と「はりま」です。

どぉーです!この見るからに怪しいカタチ(笑)

この船を二つ繋げたような形は「双胴船」と呼ばれる船型でして、海自ではこの「ひびき」型で初めて導入されました。

私がこのフネを初めて見たのは大学3年生の時(1989年)でしたが、この異様な形を目の当たりにして身体が凍りついた記憶があります(笑)そのくらいこのフネの登場はショッキングでした。

当時はまだ海自についての知識が乏しく、いったい何をする艦なのかは分かりませんでしたが、その形から特殊な任務につくのだろうということは想像がつきました。
機密性の高いフネと言えば、真っ先に潜水艦を思い浮かべると思います。
確かに潜水艦は、艦体には艦名を記さず、最大深度やソナーの性能などの多くの事柄が軍事秘密になっていますし、その行動も潜水艦隊司令官と一部の幕僚しか正確に把握していないという、まさに秘密の塊のようなフネです。

しかし、潜水艦は回数は非常に少ないですが艦内を公開する場合もありますし、報道取材も事前に手続きをしていれば多少の制約はあるものの問題なく行えます。

「ひびき」と「はりま」はそうはいきません。

まず一般人は艦内に入れません。つまり絶対に一般公開されないフネなのです。報道取材なんて門前払いです。
一般人だけではなく海上自衛官であっても関係者以外は乗艦厳禁です。「ひびき」「はりま」が母港とする呉基地のトップ、呉地方総監でさえ乗艦を断られたという、とんでもない逸話まであります。

厚い秘密ベールに閉ざされた「ひびき」と「はりま」の任務は、潜水艦の探知とその音響情報(音紋)の収集と言われています。高性能の曳航式ソナー・SURTASSを曳航しながら日本近海を航行し、潜水艦の音響情報を収集。収集したデータは対潜情報分析センターに送られ対潜作戦の基本資料としてファイリングされます。

音紋というのは潜水艦が発する音のことで、艦のタイプが違えば音紋は異なり、たとえ同型艦であっても建造時期や改修等で違いが出てくるということです。つまり音紋とは人間で言えば指紋にあたり、指紋が犯罪捜査で非常に有効なように、音紋を解析し蓄積する事は対潜作戦の立案に大きなメリットをもたらします。

「音響測定艦」というのどかな響きとはうらはらに、極めて戦略的なフネと言えますね。アメリカ海軍では「海洋監視艦」や「潜水艦探知艦」という物々しい名前で呼ばれているほどですから…。

元々、1980年代後半に当時の仮想敵であったソ連海軍の潜水艦の静粛性が向上した対策として建造された艦だそうです。

ソ連が崩壊し冷戦が終結したため、アメリカ海軍では潜水艦の脅威は低下したとして、音響観測艦に対空レーダーを装備してミサイル追跡艦に転用したり、民間の環境観測で使用されている艦もあるそうです。一方、日本近海ではソ連に代わって中国が太平洋の覇権を虎視眈々と狙い潜水艦を活発に活動させていますので、「ひびき」型の戦略的重要性は今なお高いと言えます。

上記のことを踏まえて、「ひびき」型の艦体をじっくりと観察してみましょう!

前から見たところです。
艦首部分がほとんどない独特のフォルムです。
艦橋のウイング部が異様に長いのが分かります。

先に述べたとおり、艦体は「双胴船」構造となっており、これはSURTASSの曳航中に艦を安定させるために、揺れに強いこの構造が採用されました。
また、自艦から出る音を極力抑えるために、機関は静粛性の高いディーゼルエレクトリック方式を採用しています。

次は後ろから。
「双胴船」の特徴的な構造がよく分かります。

最上甲板はヘリコプターの発着スペースとなっています。この艦でヘリの運用って何のため?もしかしたら対潜ヘリの運用を想定しての設計でしょうか?

艦尾中央部にはSURTASSの投入口が設けられています。その横に見える窓はSURTASSを投入・曳航する際の管制室と思われます。

投入口のアップ。
布製の扉で閉鎖されています。扉の向こう側がSURTASS曳航ソナーの格納庫になっていると思われます。

投入口の下の部分(塗装されていない部分)にはSURTASSを曳航した痕や曳航の際に海水によってできた赤錆が付着しています。

曳航の様子を艦橋等で確認するためのモニターカメラも設置されています。
管制室の内部には作業机と椅子が見えます。

気になるのが艦橋後方の多くの窓がある部分。
通常、自衛艦の艦橋構造物には窓がありません(あっても丸窓が1、2個程度)。なのに、ここには割りと大きめの四角い窓が多数並んでいます。この画像では分かりづらいのですが窓の脇には白いカーテンが備え付けられています。

自衛艦には不似合いの窓と白カーテン、そして艦橋のすぐ後ろという位置関係からして、ここがこの艦の心臓部とも言える音響測定に関わる設備が設けられているスペースと考えられます。
このように「ひびき」型はツッコミどころ満載のフネです(笑)
乗艦できず謎が多いが故に、あれこれ想像して楽しめるのが「ひびき」型の魅力と言えますね。実は私もこのフネが大好きです。そして音響測定艦に「ひびき」と名づけたセンスは最高です!海自艦艇で最も秀逸な艦名だと思います。(音響測定艦の艦名は海湾から名付けることになっています)

「ひびき」型について色々と考察を巡らせてきましたが、なにぶん外部に情報が全く提供されないフネなので、実は私たちが知らない機能を有していたり、思ってもみなかったような任務についている可能性もあります。

艦船マニアの私としてはいつの日か乗艦し、この不思議なフネの謎を解き明かしたいのですが…無理かなぁ。せめて艦内の写真が公開されないでしょうか…これも無理だと思いますが…。

と、思ったら、意外にも「ひびき」の重要な情報が海自の公式HPで公開されているではありませんか!!しかも写真付きで!恐らくこの写真が「ひびき」艦内で撮影され現在公にされている唯一の写真だと思われます。このコラムを読んで「ひびき」型に興味を持った方は是非ご覧ください。ここです。


 Vol 15 HARUNA、「はるな」と再会す                                         2008年5月6日

私はこのサイト上では「管理人・HARUNA」を名乗っております。
「プロフィール」の項でも述べておりますが、この「HARUNA」とは護衛艦「はるな」からの命名であり、「はるな」は私が最も好きな海自艦艇なのです。

私が父の影響で小学生の頃から海軍ファン&艦艇マニアだったことは既に何度も述べました。
当時は海自に対して全く興味がなかったのですが、旧海軍の戦艦と同じ名前を持つ護衛艦「はるな」と「ひえい」には興味を惹かれていました。名前だけではなく、航空巡洋艦を現代風にアレンジしたような艦のスタイルも大好きになり、当時わずかなお小遣いを貯めて写真集も買いました。
最近では、アイドルグループAKB48のメンバーに「はるな」という名前の子がいて、私はこの「はるな」も大好きです(笑)
(AKB48の「はるな」をご存知ない方はこちらをどうぞ)

そんな「はるな」大好きな私ですが、熱心な艦艇ファンの方はお気付きだったかもしれませんが、このサイトには「はるな」の画像が1枚もないのです!!
10年くらい前に「はるな」に乗艦したことはあるのですが、その時撮影した写真・フィルムは激しく劣化しており、スキャナで取り込んでサイトにアップすることができないのです。

「HARUNA」を名乗っているのにこれではマズイ!
ましてや「はるな」は今年度末に退役する予定なのですから。その美しく力強い姿を写真に収めなければ…。

ということで、ゴールデンウィークを利用して行ってきました!「はるな」の母港がある舞鶴に。

大分から飛行機、バス、JRを乗り継いで約5時間、東舞鶴駅に到着しました。大分から舞鶴に行くって結構時間かかるんです。疲れました…。

東舞鶴はコンパクトでスッキリしたデザインの高架駅で、駅前に商店街が延びていました。そしてその商店街の通りには「三笠」「敷島」「朝日」など日本海海戦で活躍した艦艇の名前が付けられています。

呉や横須賀のように海軍を観光資源として前面に押し出している感じではありませんが、海軍の伝統がしっかりと根付いているとてもいい雰囲気の街です。

翌日、天気は雲ひとつない晴天。絶好の撮影日和です。駅前で自転車をレンタルして、一路海自舞鶴基地の北吸岸壁へ!

ところが、北吸岸壁は大変な事になっていました…。

岸壁の入り口は車で大混雑。
目の前を走る国道27号に岸壁に入り待ちの車の列ができるほどで、それが国道の渋滞を引き起こしており、車のクラクションと怒号が飛び交う殺伐とした光景が広がっていました。

岸壁に入っても今度は見学の受付けに長い列ができている始末。
海上自衛隊、大人気です!国民に愛されています!!

舞鶴で最も人気のある観光スポットは海自の北吸岸壁ではないでしょうか。
そう思えるほどのすさまじい人の多さです。
ようやく受付けを済ませて岸壁へ。

おぉ、いました!

大きな格納庫を背負ったあの独特な後姿は紛れもなく「はるな」です。
人並みをかき分けながら「はるな」もとへ駆ける私。

はるなぁ〜会いたかったよ〜♪


約10年ぶりのご対面。

背負い式の2門の主砲、重厚な姿の艦橋構造物、そして巨大なヘリ格納庫、「はるな」さん、お年を召しても(艦齢35年)あなたは美し過ぎます!

そんな彼女(はるな)は私にこう語りかけて来ました。
(以下、妄想)

『あなた最近サイトを立ち上げたそうね。ほかの子(艦艇)の画像は沢山アップしているようだけど私(はるな)の画像がないわね。さあ早く私の姿を写してちょうだい。そして沢山画像をアップするのよぉ!!』(女王様風に)

「はるな」様からのご命令でもあります。
愛機α700で「はるな」の雄姿を撮影しまくりです。あまりに人が多いのでどうしても人が映りこんでしまうのが難点でしたが、舞鶴の美しい青空と海を舞台に「はるな」の美しい姿を写真に収めることができました。
画像は近日中に「艦艇ギャラリー」で大量に公開予定です。「はるな」ファンの皆様、今しばらくお待ちくださいませ。乞うご期待!!

と、まあ、これで「めでたしめでたし」と終わるところですが、このあと予期せぬ事態が起きたのです。

今振り返ると、その兆候は数多くありました。ただ私は撮影に夢中で全く気に留めなかったのですが…。


兆候その1、なぜか「はるな」の乗員は真っ白の夏服を着ています。ただこの日は気温が30度に達するほどの好天でしたので、『暑いから1ヶ月早く夏服を着ているんだ』としか思いませんでした。

その2、艦内スピーカーから『1分隊○○二曹、面会人、舷門まで』というアナウンスがひっきりなしに流れてきます。
さらに艦上では乗組員が奥さんや子供たちに艦の装備を色々と説明する姿があります。私は『ゴールデンウイークだから家族との交流の日なんだ』と解釈しました。

その3、ヘリ甲板で乗組員と家族が参加してのイベントが開催されているようでしたが、3護群の鍛治群司令がその様子を見守っているではありませんか。『さすが群司令、休日でも艦に出勤して旗艦のイベントに参加しているんだ』などと感心していました。

これらの兆候をことごとく見逃し、「はるな」の後方に停泊していた「すずなみ」や「はまゆき」を撮影していた私の耳にあのラッパの音が飛び込んできました。

「パラパパァ〜パラパパァ〜パッパカパァ〜♪出港用意っ!!」
狐につままれたような私。訳がわからないまま「はるな」の方に駆けて行くと…。

「はるな」が出港しているぅぅぅぅ!!

岸壁では乗組員の家族の人たちが手を振っています。
さらには舞鶴地方総監の方志海将までもが帽振れで「はるな」を見送っているではありませんか。これっていったい…?

その時ある家族の会話が聞こえてきました。
『お父さんハワイに行っちゃったね』

ハワイだとぉぉぉぉ!!
乗組員が夏服だったのも、家族の面会が多かったのも、休日なのに群司令がいたことも、この時すべて理解しました。
「はるな」はハワイ周辺海域で実施される米海軍との共同訓練と、その後に実施されるリムパックに参加するために4ヶ月に及ぶ訓練航海に出発したのです。

危ないところでした。北吸岸壁に行くのがあと1時間遅かったら、私は「はるな」と再会できずその姿を写真に収めることもできなかったでしょう。つまり大分から5時間以上かけて訪れた舞鶴遠征は全くの空振りに終わるところでした。

ハワイに向け航行する「はるな」の姿を見て私はこう思いました。
「はるな」様は私が来るのを待っていてくれたんだ。私が思う存分写真を撮ったのを見届けてからハワイに旅立ったのだと

私は心の中で「はるな」に叫びました。

ありがとう「はるな」!退役前の最後の晴れ舞台、頑張ってくれ!!
航海の安全を心から願っているよ!くれぐれも漁船には注意して!

こうしてHARUNAと「はるな」の10年ぶりの再会は幕を閉じたのでした。
「はるな」が行ってしまい私の心にはぽっかりと大きな穴が開いたようでした…。
「もう撮影は終わりにしようかな」と思ったその時、ある事に気付きました。
「はるな」がいなくなったことで、「はるな」の前方に停泊している「あたご」と「みょうこう」がとても撮影しやすくなっているのです。後ろからのとてもいいアングルで撮影できるではありませんか!

このあと私は「はるな」の事はすっかり忘れて「あたご」を撮りまくったのは言うまでもありません(笑)

次回はこの「あたご」との初対面についてお送りします。