Vol 46 「海自萌え」の本質をプロファイル 2009年9月3日 |
かなり久しぶりの執筆になってしまいました。最後のVol45の執筆が7月9日付だったので約2ヶ月ぶりです。 この間ですが、7月はほぼ毎週各地の艦艇イベントに遠征していましたし、8月に入って本職の方が猛烈に忙しくなり、お盆返上で真夏の空の下を駆けずり回るという日々が続いておりました。 7月のイベントは、天候不順に悩まされましたが、「ひゅうが」や「あしがら」「くらま」などのマニア心をくすぐるフネに乗艦し、その美しい姿を存分に撮影することができましたし、何よりも海自マニアの方々と交流することができたのはとても楽しくて、いい夏の思い出となりました(詳細は「写真特集」参照を)。 今振り返ると、海自マニアとなって以来最高に充実した夏の1ヶ月でした。 さて今回ですが、夏のイベントでマニアの方々とお話しているうちに私のマニア度がかなり特殊、というか特徴的である事に気づいたので、ここで一度己を見つめ直し、自己分析をしてみようと考えて上記のような一風変わったテーマとなりました。 私の何が特殊なのかと言うと、私の興味の対象はとても狭い、言い換えればかなり偏っているということです。 具体的に説明しますと、海自マニアというのはいわゆる「フネ好き」であり、軍事オタクというカテゴリーに所属する生物なので、海自艦艇のほかにも興味の対象が広がっているようです。(この夏、この事に気づきました) 例えば、同じ「九州海自応援同盟」のASA-P氏は、自身のブログ「ASA-Pの艦船撮影記」で地元の佐世保基地に出入りする艦船やイベントで撮影した艦艇の画像を公開していますが、その中には海保の巡視艇や大型フェリーなども含まれており、彼が艦船に対して幅広く興味を持っていることが分かります。 実際、ASA-P氏と一緒に岸壁で艦艇の入港待ちをしていると、目の前を通り過ぎるフェリーや客船、さらには貨物船にまでカメラを向けています。 一方、もう一人の同志・熊本艦隊氏は、艦艇イベントのほかに対潜ヘリや陸自の輸送ヘリの体験搭乗に頻繁に出かけており、いわゆる航空マニアの一面も持ち合わせています。 実は、マニアの方々とお話をしていて多かったのが、この航空マニアの一面を持つ方々で、「○○の航空祭には行きますか?」みたいな会話が飛び交っておりました。 そして最後、当HPですっかり面白キャラとして定着した感があるM.Hさんは鉄道マニアとの掛け持ちです。艦船も列車も同じ乗り物ということなのか、この組み合わせも割と多いようです。 鹿児島港で、M.Hさんはじめ数人の方々が「『はやぶさ』の撮影どうしますか?」みたいな会話をしていたので、私はてっきり近くの港にミサイル艇「はやぶさ」が来ているものと思っていたら、その日一日限りで復活運転をする寝台特急「はやぶさ」の事でした(笑) で、私ですが、海保の巡視艇にも大型フェリーにも飛行機にも鉄道にも全く興味がありません。 私の興味の対象は海上自衛隊のみなのです。同じ艦艇でも外国海軍のフネには全然興味が沸きません。最近、横須賀の観光の目玉になっている軍港めぐりの遊覧船は米海軍基地のすぐそばを通過するのですが、イージス巡洋艦や空母「ジョージ・ワシントン」がすぐ目の前にいても、私はそれらに背を向けて対岸にある海自の吉倉桟橋の方を撮影しているほどです。 その一方で、海自のフネには猛烈に萌えまくります。護衛艦や補助艦艇は言うまでもなく、タグボートや交通艇・油船といった支援船にまで心が躍ります。よくASA-P氏から「HARUNAさんは本当に海自にしか興味がないですねぇ〜」と笑われるのですが、私のような海自一本槍という艦船マニアは意外に少ないようです。 では、なぜ私は脇目もふらず海上自衛隊に萌えまくるのか。その理由を分析してみたいと思います。 真っ先に考えられるのが、私の祖父が帝国海軍の軍人だったことです。Vol1で紹介していますが、私の祖父は戦艦「比叡」や「陸奥」に乗り組んでいた帝国海軍の機関兵曹でした。この祖父の海軍DNAが私の中に息づいていて、私を海自萌えに走らせているのはまず間違いないでしょう。実は、私の顔は両親にも兄弟にも似ておらず、よく親戚の方々から祖父に似ていると言われます。まさに隔世遺伝というやつです。 私が海軍DNAを感じるのは、艦艇だけではなく海自の文化全体に萌えてしまう時です。司令官・艦長・航海長といった役職の響きに痺れ、「出港用意!」の号令に心が躍り、さらには艦内で鳴り響くラッパやサイドパイプの音に懐かしささえ覚えてしまいます。私の中の海軍DNAが海自を通して、かつて祖父の生活・人生の大部分を占めていた海軍文化を懐かしんでいるのかも知れません。 2点目はその祖父の息子であり、大の帝国海軍ファンである父による教育の影響が考えられます これもVol2をはじめ度々このコーナーで紹介していますが、祖父に海軍教育を施された父はそれを私にも施しました。 5分前行動、縁を1ミリずらさずに毛布を畳むこと、厳密なほどの整理整頓と徹底的な掃除、就寝前に目を閉じて一日を反省することなど、父の教育は江田島教育そのものでした。 一般の国民から見れば特殊で別世界のように感じる海自の生活様式は私にとってはごく普通の光景であり、幼少の頃から親しんできた生活そのものです。海自に萌え、さらには海自文化に懐かしささえ感じるのはこうした幼少期の体験も影響していると考えられます。 加えて、私の実家の本棚は帝国海軍に関する本で埋め尽くされ、応接間には巨大な戦艦「陸奥」の写真が飾られています。こんな家で育てば海軍(=海自)一本槍のマニアになるのも当然の成り行きかも知れません。 この2点が私を「海自萌え」に突っ走らせる大きな原因であることは間違いなのですが、ただこれらの事は前々から分かっていたことでもあります。ところが、私は最近になってこれらとは違う第3の理由があることに気づきました。 きっかけは、某国営放送が放送しているユニークな趣味人を紹介する番組で、心理学者がその趣味に没頭する理由を心理学的にプロファイルするのを見たことです。 その時のマニアは、機関車を愛する鉄道マニアだったと思いますが、心理学者は「機関車の力強い姿を通して父親の姿を追い求めている」との結果を出しました。それが当たっていたかどうかはさておき、それを見た私は「実は自分も海自に父親の姿を重ねているのではないか」と感じてしまったのです。 私の父は帝国海軍の鬼兵曹(=祖父)に育てられ・鍛えられたとあって、70歳を越えた今も積極果敢で、背筋もピンと伸びたしゃきっとした高齢者です。しかし、さすがに年齢には勝てない面もあり、白髪や皺がめっきり増え、身体は痩せ、さらには意味不明というか理不尽な文句を私に言い放つ姿は、「オヤジ、歳とったなぁ〜」と実感させられ、少々淋しい気持ちになります。 あれほど大きくて力強い存在だった父が小さくて弱々しく感じてしまう…この事は40歳を過ぎた男なら誰もが皆、父親に対して抱いてしまう感情なのかも知れません。 父に対してこのような思いを抱くようになった時期と、このHPを開設しマニア度が一気に深まった時期がほぼ重なることからも、私が海自に大きくて力強かった頃の父親の姿を求めている可能性は高いと思います。すなわち、護衛艦の力強い姿に私を厳しく育てていた頃の父の強さと大きさを感じ、群司令や司令・艦長の姿に父の凛々しかった頃の姿を重ねているのかも知れません。 上記の事柄をまとめると、@祖父から脈々と受け継がれている海軍DNA+A父が施した江田島教育+B強く凛々しい父親の姿を重ねる深層心理=一本槍な「海自萌え」 という計算式が成り立ちます。つまり、私の海自マニア度は、血統と教育と深層心理という三要素が絡み合って出来上がっているのです。これでは海自以外の艦船や飛行機、鉄道などには興味が沸かない訳です…(笑) 中には私と同様、海自一本槍なマニアの方もいらっしゃると思います。その方は私と同じように、心の奥底で海自に何かを重ね合わせて見ているのかも知れませんよ。一度自己分析をしてみるのも面白いかもしれません。 自己分析をした結果、最後にとても気になることに気づきました。それは私が父になった場合の事です。 おそらく私は、間違いなく自分の子供にかつての父と同じように江田島教育を施すと思います。そして恐らくこう言うと思います。 「お前は将来、護衛艦の艦長になれ!」 こんな父を持つことになる私の子供は大変だわ…(笑)ちなみに私はまだ独身です…。 |
Vol 47 2009年を振り返って 2009年12月31日 |
今日は大晦日。早いもので2009年も今日一日、というか、あと僅か数時間を残すのみとなってしまいました。 1年前、このコーナーで2008年を振り返るコラムを書いたのがついこの間の事のように感じます。そのくらい、この1年はあっという間に過ぎ去ったという印象があります。こんなふうに感じてしまうのは私が歳をとったからなのでしょうか…。 大晦日ということで、2009年を振り返ってみようと思うのですが、考えてみれば、この「出港用意!」を執筆するのは9月以来約4ヶ月ぶりです。昨年末に「『出港用意!』を精力的に執筆する!」と宣言しておきながらこの有様。公約を果たせず申し訳ありません…。 実は私、4月に会社で人事異動を喰らい、それまでの比較的時間に余裕のあった内勤部署から、外回りの現場最前線の部署に行かされてしまいました。新しい職場は、早朝から外回りをさせられた挙句、夜遅くまで大量の文書作成に追われます。さらに業務で土日も潰れることが多いという最悪な環境なのです(涙)何とかイベントや遠征に出かける休みは確保したものの、サイトをなかなか更新できないという状況が続きました。 今年の初めにインド洋とソマリア沖という二正面作戦を余儀なくされる海自を心配したものの、自分が仕事とサイト更新という二正面作戦に苦戦する状況に陥ってしまいました(苦笑)。まずは年の終わりに、閲覧者の皆様方にお詫び申し上げます。 さて、年末になると新聞やテレビの報道番組が「今年の10大ニュース」みたいな特集を組むのが恒例ですが、それに倣って、私、管理人・HARUNAの10大(重大)ニュースで今年1年を振り返ってみようと思います。といっても、印象に残ったイベントや遠征を振り返るだけですが…(笑) まずは第1位。やはりなんといっても一番印象深かったのは、「2009自衛隊観艦式」です。 詳細を5回に渡ってレポートするほど見所とハプニングが満載でした。さすが3年に1度の海自最大イベントです。 参加艦艇は29隻、海面警戒などの支援艦艇を含めても40隻で、過去最大規模だった2002年から23隻も減っています。年々艦艇を削減されているにも関わらず、インド洋とソマリア海賊対策という二つの実任務を背負わされた海自の苦しい艦艇運用が影を落とした観艦式でした。 一方で、「ひゅうが」「そうりゅう」という新しいタイプの艦艇が参加して話題をさらうなど、海自艦艇がこれまでにない質的な変化を遂げていることを実感させられました。 式当日は朝から断続的に雨が降り、相模湾の式典海域は大時化。予行までの爽やかな秋空が一転して大荒れの天気となったことで、私は自分が雨男であると確信しました…(涙) 続いて第2位。私を海上自衛隊に興味を抱かせてくれたフネである護衛艦「はるな」の退役です。 「はるな」にお別れをしようと、退役2週間前に舞鶴に駆け付けました。しかし、そこにいた「はるな」は、砲身や各種装備品を取り外されて変わり果てた姿となっていて愕然としました。 退役直前の艦艇とはかくも寂しい姿になってしまうのかと思い知らされたのですが、そんな状態でも「はるな」の造形美は色褪せてはいませんでした。 入れ替わりで就役した「ひゅうが」は、優れた性能を有しているものの造形美という点では?なので、「はるな」型の美しさを堪能できるのは、2番艦の「ひえい」が退役する再来年3月までとなります。寂しい…。 報道によると、今年、女の子の名前で一番人気だったのは「はるな」とのこと。こうして護衛艦「はるな」の名は女の子の名前として後世に引き継がれていくのですね。もちろん、私に娘ができたら名前は「はるな」です! 第3位は、「はるな」と入れ替わる形で就役した新型護衛艦「ひゅうが」の一般公開です。 7月に宮崎県日向市で一般公開がありました。いわゆる「お国入り」です。 さすが話題の艦とあって、艦艇マニアのみならず老若男女、幅広い世代の人たちが大勢詰め掛けていました。 「ひゅうが」を目の当たりにした私の感想は…「こりゃ、空母だわ」。 性格的には多目的護衛艦と言うべき艦なのですが、艦型、装備などどれをとってもヘリ空母そのものでした。しかし、乗組員は「主砲を持たない特殊な形の護衛艦」と説明し、決して「空母」とは言いませんでした(笑) ちなみに9月に進水した2番艦は、大方の予想通り「いせ」と命名されました。配備先は呉になる予定で、呉遠征の楽しみがひとつ増えそうです。さらに先日、「ひゅうが」型の拡大発展型の22DDHの予算も承認されました。22DDH、私は「ふそう」「やましろ」の復活を期待します。 第4位は、ソマリア沖の海賊対策から帰国したばかりの護衛艦「さみだれ」に乗艦したことです。 「さみだれ」は「さざなみ」と共に3月30日から7月22日までの間、ソマリア沖で商船護衛の任務にあたりました。 その「さみだれ」に、帰国してから約2ヶ月後の10月上旬に乗艦したのですが、艦内にはソマリアの空気が色濃く残っていると感じました。 さらに乗組員から聞いた生々しい証言―海賊と一触即発の事態に至ったこと、劣悪な食糧に悩まされたこと、海賊に銃を向けた瞬間の極度の緊張―等々、メディアが報じない過酷な任務の実態を知ることができました。 現在、ソマリア沖では第3陣の「はまぎり」と「たかなみ」が任務にあたっていますが、「さみだれ」は第1陣、しかも活動の根拠となる法律は未整備という状況の中での任務遂行、五島司令をはじめとする乗組員の健闘に心からの敬意を表したいと思います。 第5位は練習艦隊の遠洋練習航海出航式です。 晴海埠頭での式典を見るのは初めてだったのですが、とても感動しました。 前途洋々たる実習幹部の船出なのですが、意外にも式典は厳かな雰囲気。艦隊の出港時には蛍の光が演奏されて、まるで卒業式のようでした。 艦隊が目の前を通り過ぎる時には、撮影を中断し、手を振りながら「頑張れよ!」と叫ばずにはいられませんでした。 この時に遠洋練習航海に参加した実習幹部は、今は立派な若手幹部として各地の部隊で活躍していることでしょうね。 式典には実習幹部のご両親が多数詰め掛けていました。立派に成長して晴れて「海軍士官」となった息子さん、娘さんを見送るお気持ちはどんな感じなのでしょうね。感動的な式典を見て、自分の子供を海自幹部にするぞと心に誓いました(笑) 第6〜10位はまとめてご紹介。 第6位は、梅雨明けの鹿児島で行われた「くらま」「ちょうかい」「あしがら」の体験航海です。(写真左) 参加艦艇の豪華さに加え、各地から艦艇マニアが集結。中には当HPの閲覧者もいて、岸壁はさながらマニアのオフ会状態となりました。撮影、体験航海、マニアとの交流という三拍子揃った楽しいイベントとなりました。 第7位は、新型潜水艦「そりゅう」の就役直後の姿を激写したことです。(写真中) 旧空母の艦名、AIP機関やX舵という新機軸を盛り込んだ最新鋭潜水艦ですが、5月のGW中に呉に遠征したところ、艦番号と艦名表記が残ったままの姿で停泊していました。これにはビックリしました!名刺代わりというところでしょうか? 第8位は、大雨の中での大在埠頭体験航海です。(写真右) 今年も「こんごう」「いかづち」というビッグネームが参加してくれたにも関わらず、当日は猛烈な雨。全身ずぶ濡れになりながら撮影をしました。今思えば今年のイベントでことごとく雨に祟られたのは、この時が発端だったような気がします。 第9位は、新型砕氷艦「しらせ」の就役です。(写真左) 当HPでは、新型「しらせ」を舞鶴の造船所で儀装工事中の時から注目してきましたし、就役の準備に少しだけですが協力したこともあって、就役はまるで自分の息子が成人したかのような気持ちでした。現在、初めての南極観測支援任務に就いています。 最後、第10位は大賑わいだったヨコスカサマーフェスタ。(写真右) 私が今年参加したイベントで唯一雨が降らなかった日です(笑)元々は雨という予報でしたが、見事にハズれて夏空が広がりました。不況のせいか、はたまた海自が国民に注目されているのか会場は大混雑。反面、公開艦艇は海自の苦しい事情から3隻のみでした。来年は多くの艦艇の公開を期待したいところです。 私からみた海自10大ニュースをご紹介してきましたが、こうして見ると私にとって印象深かった出来事は、海自のこの一年を象徴しているといっても過言ではないようです。 今年はHPの訪問者数も増加し、イベントでは閲覧者の方々から声を掛けられ激励されることも多々ありました。更新が遅れ気味になったものの、管理人として本当に楽しい一年でした。 来たる2010年が海上自衛隊にとって不祥事や事故のない一年になることをお祈りする一方で、当HPもさらに充実させ、一人でも多くの国民に海上自衛隊への理解が進むよう頑張る所存です。 閲覧者の皆様には、この一年のご愛顧に心から感謝するとともに、来年も変わらぬご支援をよろしくお願い申し上げます。 それでは皆様、よいお年を! |
Vol 48 心優しき鬼が棲む江田島・幹部候補生学校 2010年3月20日 |
今年最初の「出港用意!」は海自幹部への登竜門、江田島の幹部候補生学校がテーマです。 実は当HP、一般大学から幹部候補生学校に合格した学生さんがご覧になっているようで、時折メールで「幹部候補生学校とはどんな場所か?」「どのような心構えで入学すればよいのか?」といった問い合わせをいただきます。 間もなく幹部候補生学校入学の時期を迎えますので、入学予定者の方々はこのコラムを読んで覚悟を決めてください。(笑) 幹部候補生学校の前身は帝国海軍の海軍兵学校であり、赤レンガ建築で有名な旧生徒館をはじめとして海軍時代と同じ施設で海軍時代そのままの厳しい教育が行われています。 午前6時の総員起こしに始まり、甲板掃除〜朝食〜国旗掲揚・課業行進〜教務(授業)〜昼食〜教務〜別課(クラブ活動)〜入浴・夕食〜自習〜巡検〜消灯(就寝)という1日のスケジュールはまさに分刻み。候補生は常に全力で身体を動かし頭脳をフル回転する生活を強いられます。 さらに幹候校がすごいのは、上記のいわゆる学校生活の厳しさに加え徹底した生活指導を実践している点です。敬礼や身だしなみ、5分前行動は言うに及ばず、徹底した整理整頓、塵ひとつ・染みひとつ許さない清掃、果ては食事の際の箸の上げ下げにまで厳しい指導が入ります。 これらの厳しさは一般にもよく知られていますし、軍事雑誌等でも広く紹介されているのでこの程度にとどめます。今回私が紹介したいのは、学生たちの生活全般に目を光らせ、候補生に最も近い位置から厳しい江田島教育を実践する「鬼」の存在です。 最初に入学予定者から問い合わせのメールが寄せられると記しましたが、それに対して私は「江田島には鬼がいるので覚悟してください」と返信しています。そう、江田島にはこの世のものとは思えない恐ろしい鬼がいます。しかも2匹もいるです!! 鬼とは言っても、昔話で桃太郎が退治した鬼が江田島にいる訳ではありません。鬼は通称であってその正式名は学生隊本部幹事付という名の教官です。幹事付A(アルファー)と幹事付B(ブラボー)の2人がいて、その猛烈な指導ぶりから赤鬼・青鬼と呼ばれ候補生から恐れられています。幹事付は候補生より4期上の幹部(階級は二尉)から選ばれて配属され、候補生の生活全般に関わりながらまるで小姑のように細かく厳しい指導を行います。 その指導は強烈そのものです。かつて私が幹候校を取材で訪れた時のことですが、ある候補生が幹事付のそばを通ったにも関わらず敬礼をしませんでした。すると幹事付は…。 幹事付:「そこの候補生待てぇー!!上級者がいるのになぜ敬礼しない!」。 候補生:「はいっ、気付くのが遅れました…」。 幹事付:「遅れたで済むかぁ!常に周囲に気を配らんかぁぁぁ!!」。 その凄まじいの剣幕に候補生は今にも泣き出しそうな表情でした。そばにいた私も思わず足がすくんだほどです。 赤鬼・青鬼は怒鳴るだけではありません。総員起こしののち候補生はグラウンドで点呼と体操を行うのですが、赤鬼と青鬼はその間に候補生の寝室を点検し、毛布の端が少しでもズレていたり整理整頓が不十分だと毛布や私物を室内や廊下にぶちまけます。通称「飛ばし」「江田島台風」と呼ばれる指導で、体操から寝室に戻った候補生は毛布や私物が辺り一面に飛び散った惨状に呆然とする暇もなく、唇を噛み締めながら必死に整理整頓にかかります。 このほか鬼たちは、巡検の際にトイレにかすかな汚れを見つけては怒鳴り、服装点検で制服に小さな糸くずが付いているのに気付いて怒鳴り、候補生の作業態度が緩慢だと言っては怒鳴るなど、候補生を見れば怒鳴りまくります。候補生にとっては油断も隙もないとても恐ろしい存在で、幹事付と接する際の候補生の表情には怯えさえ漂っています。 幹事付がこのような「アメなしムチのみ」の厳しい指導を行うのは、言うまでもなく将来の海上自衛隊を背負って立つ「海軍士官」を養成するためです。 毛布の端を1ミリもずらさずに畳むのも、身だしなみを整えるのも、掃除や整理整頓を徹底的にするのも、上級者に敬礼を欠かさないのも、すべては与えられた任務を120%果たすための方法論を頭ではなく身体で覚えこませようとしているのです。 また海自幹部は有事の際、常軌を逸した戦場で冷静かつ正確な判断を求められます。幹事付が厳しい指導で候補生に圧力をかけるのは、プレッシャーがかかる局面や追い込まれた状況で冷静な判断を下す練習をさせているのです。つまり幹部候補生学校での生活自体が戦場であり、「常在戦場」の精神を候補生に植え付けているのです。まさに赤鬼・青鬼は「江田島精神」の注入者であり、帝国海軍以来の伝統の継承者なのです。 取材を通して私はふと考えました。幹事付に厳しく指導される候補生は確かに大変ですが、心を鬼にして候補生を怒鳴る幹事付の方が候補生以上に大変なのではないかと。 私が取材で接した幹事付は、実は鬼と例えるのが失礼なほどの爽やかで凛々しい素敵な幹部でした。そして自身が4年前は候補生として赤鬼・青鬼から怒鳴られながら指導を受けている訳ですから、候補生の大変さや幹事付を恐怖の存在に感じる心情は痛いほどよく分かっているということでした。「こんな事されたらヘコむわなぁ〜」「こんなに怒鳴れば怖がられるだろうなぁ〜」と内心思いつつも、「海軍士官」を育てるという任務を全力で遂行しているというのです。 鬼のひとりがこう言いました。「僕らは『麦踏み役』です。だから真剣に候補生を踏み続けます。恨まれても憎まれてもいいんです。候補生が逞しい幹部に育ってくれたなら…」。 なんて心優しい鬼なのでしょう。ただ闇雲に厳しいだけではなく根底に優しさが流れる厳しい教育、これこそが今の日本で失われつつある真の教育の姿なのではないでしょうか。 幹事付は心身ともに激務なため任期は一年で、任期を終えた2人の鬼はそれぞれ護衛艦の航海長や水雷長、応急長などに異動します。赤鬼・青鬼は成績優秀者の配置のようで、歴代の海幕長や将官の中にこの幹事付の経験者が数多くいます。 最後にもうひとつ鬼の話題を。一般にはその存在をほとんど知られていませんが、実は江田島には第3の鬼がいます。その鬼の正式名称は陸戦教官です。 幹部候補生学校では9月に野外戦闘訓練を行っています。江田島内の演習場で基礎訓練を行った後、東広島市の原村演習場で3夜4日に及ぶ訓練を実施します。この訓練では候補生は頭にヘルメットを被り、緑色の戦闘服を着て64式小銃を手に陸自隊員さながら演習場の原野を駆け回ります。海自に陸戦隊があるわけではないので、訓練は気力と体力の練成と極限状態における指揮統率能力を高めることが目的です。 教官は二佐から一尉クラスの幹部が数人いるのですが、迷彩服をまとったその逞しい姿や図太い声は本物の陸自の隊員かと思えるほどの迫力です。候補生が潜伏、匍匐前進、突撃という一連の攻撃を行うのに対し、教官たちは「それで隠れているつもりか!」「気合が入っていない!」などと怒号を浴びせます。結果、候補生たちは炎天下のもと何回、いや何十回も攻撃を繰り返す羽目になります。何度突撃を繰り返しても怒鳴られた挙句にやり直し。しごきに近いこの陸戦訓練は候補生が卒業後に「一番キツかった」と振り返るほどの過酷さです。 もちろんこの陸戦教官たちも指導という任務のもとで厳しいのであって、皆さん人間味溢れる素晴らしい幹部の方々でした。取材から数年後、護衛艦に異動した陸戦教官の一人とお会いしました。彼は「海軍陸戦隊以来の伝統」(この伝統もすごい!)を叩き込むべく熱心に指導したと言うのですが、「同じ艦に勤務する当時の候補生からいまだに怖がられる」と苦笑いしていました。 今回ご紹介した幹事付、陸戦教官といった鬼たちをはじめとして江田島には優しい教官はいません。しかしその厳しさの根底には「立派な幹部に育てたい」という深い愛情があり、皆さん敢えて憎まれ役となるような厳しい教官を演じているのです。 この春、幹部候補生学校に入学する方々、特に一般大学から入学する方は分刻みの日課や教官の指導の厳しさに驚き、辛いと感じるかもしれません。しかし、それは素晴らしい教育が行われているのであって、そのような教育を受けられることをむしろ誇りに思って頑張って欲しいと思います。 4月に幹部候補生学校に入学する皆さん、厳しい指導を乗り越えて心身ともに逞しい幹部になってください。当HPも応援しています! |
Vol 49 名艦たちの退役と防衛大綱 2010年8月13日 |
お盆です。 8月もすでに半ばですが、まだまだ各地で艦艇イベントが計画されており、マニアにとっては当分は心躍る時期が続きます♪ 本来ならば、イベントで撮影した画像やイベントのレポートをアップすべき時期ではありますが、イベント会場でお会いしたマニアの方々から「出港用意!」の新作を楽しみにしているとのお言葉を多数いただいておりまして、ここは何を差し置いても一本新作を執筆せねばと思った次第です。 そんな新作のタイトルは「名艦たちの退役と防衛大綱」。なんだか「世界の艦船」の特集記事みたいな雰囲気です(笑) もちろんこのようなタイトルにしたのは理由があります。 マニアの方々なら既にご存知かと思いますが、今年は例年になく速いペースで艦艇の退役が実施され、その数は異例とも言える6隻にも達しています。年度末には「ひえい」の退役も予定されており、合計7隻が「この世を去る」ことになります。 しかも退役した(する)フネたちは、「ひえい」をはじめ「さわかぜ」「はつゆき」「ゆうばり」「ゆうべつ」「うわじま」「ミサイル艇3号」と、どれも艦艇史に名を刻む名艦ばかり。マニアとしては一抹の寂しさを感じずにはいられません…(涙) 今回の「出港用意!」はこれら退役する艦艇たちを追憶するとともに、その背後にある海自の危機について論じてみたいと思います。 ←の画像は先月末に横須賀で撮影したものです。 「はつゆき」(左)と「さわかぜ」で、既に艦首の艦番号が消され主砲の砲身をはじめとする装備品が取り外されています。 両艦は6月25日に自衛艦旗返納式が実施され、「はつゆき」は28年、「さわかぜ」は27年の生涯を閉じました。 「はつゆき」は海自が諸外国の海軍にひけを取らない兵力を有する契機となった「はつゆき」型護衛艦のネームシップ(1番艦)です。 今や世界でも例を見ない高い対潜戦闘能力を持つ海自ですが、その歴史はこの「はつゆき」から始まりました。 一方、「さわかぜ」は第2世代ミサイル護衛艦「たちかぜ」型の3番艦で2007年からは護衛艦隊旗艦を務めていました。退役により「たちかぜ」型は全滅、同時に建制上の護衛艦隊旗艦も廃止となりました。 「はつゆき」と「さわかぜ」が除籍されたのと同じ日、北方防衛の拠点・大湊ではマニアに愛された極めてユニークな艦が自衛艦旗を降ろしました。「ゆうばり」と「ゆうべつ」です。 この2隻は北方海域におけるソ連の脅威に対抗するために建造された小型のDEですが、水上打撃力を重視して艦尾にハープーンが2基並んで装備されており、非常に物々しい雰囲気を持った艦です。 さらに海自唯一の中央船楼型の船体、海自最後となったボフォース対潜ミサイルなどオンリーワンの特徴を備えており、ディープなマニアほど心が惹かれる「いぶし銀」の魅力を持った艦でした。 「ゆうばり」は27年、「ゆうべつ」は26年で生涯を閉じましたが、両艦の退役はわが国に対する海の脅威が、北方から中国と北朝鮮が不穏な動きを見せる西方海域に移ったことの象徴のように感じられます。 退役近しということで、昨年の観艦式一般公開では真っ先に撮影に行ったのですが、まさかこんなに早く退役するとは…。親切に艦内を案内してくれた「ゆうべつ」の先任伍長さんも転勤になったのでしょうね…。 このほか、「ミサイル艇3号」は海自初にして唯一の水中翼ミサイル艇「1号」型の3番艇で、退役により「1号」型も全艇が姿を消しました。また「うわじま」は中深度機雷の除去を可能にした中型掃海艇「うわじま」型の1番艇でした。 どの艦艇も1番艦や最終艦、特徴的な装備を有するなど海自艦艇の中でひと際目立つ存在だっただけに、退役は残念無念と言うしかありません。 考えてみれば、艦艇の退役は年度末に行われるのが普通ですが、今年度は6月に行われました。6隻という数も異例ですが退役の時期も極めて異例です。 実は、異例づくめとなった今年度の退役の背景には、防衛力の整備指針である防衛大綱の存在があります。簡単に言えば、この防衛大綱のせい(?)で愛すべき艦艇たちが早い時期に大量にこの世を去ってしまったのです。 防衛大綱とは中長期的な視点(概ね10年程度)でわが国の安全保障政策や防衛力の具体的な水準・規模を定めた指針です。これを基に5年間を展望した中期防衛力整備計画が策定され、さらに毎年の防衛予算で中期防衛力整備計画を実現するための装備品の調達や廃止が行われます。 海自は防衛大綱が改訂されるたびに予算・人員・艦艇の数を減らされてきたのですが、2004年末に策定された現大綱では護衛艦の定数は47隻にまで減らされています(ちなみに1980年代は約60隻でした)。この大綱で定められた47隻を実現させるために、今年度護衛艦4隻を含む6隻もの艦艇が一気に退役となってしまった訳です。 では、なぜ6月という時期に退役なのかというと、海自の高級幹部によると、後継艦がない純粋な削減なのでいつまでも老朽艦に隊員を乗せておくよりも、早めに退役させて定員割れが続く艦に人員を振り向けることを優先したということです。早く異動させればその分隊員が新しい艦に早く慣れるというメリットも考慮されました。 このように防衛大綱は今後の自衛隊の装備・人員といった戦力に大きな影響を及ぼすのですが、新しい防衛大綱が今年の年末に発表される予定で、現在有識者から成る懇談会が改訂のための議論を進めています。 私は新しい防衛大綱の行方を固唾を飲んで見守っています。というか、護衛艦をはじめとする海自の戦力をこれ以上削減してはならないと危惧しております。ここ数年、海外派遣任務の常態化などにより護衛艦の不足は深刻な状態で、海自は護衛艦隊を改編したり海外での訓練を減らすなどして何とかやりくりしているのが実情です。 少し前、潜水艦を現在の18隻体制から20隻台に増強することが大綱に盛り込まれるとの報道がありましたが、ぜひとも護衛艦も増強していただきたいと願わずにはいられません。 海自は、「47隻はギリギリの数であり、何がなんでも47隻を死守する」(高級幹部)との方針ですが、私は何としても50隻台に増強すべきであると考えています。 日本に迫る直接の脅威は去ったとの判断のもと策定された現大綱は、テロなど新たな脅威への対応を謳う一方で自衛隊の縮小・コンパクト化を打ち出しました。 その結果、海自の場合は任務の多様化による護衛艦のコマ不足が顕在化、さらに東シナ海における中国海軍の活発化という新たな脅威が生まれているのに佐世保の第16護衛隊を今年度廃止するという極めてちぐはぐな現象が起きてしまっています。 防衛大綱は約10年もの期間の指針となるものですが、その10年間には今では想定できないような新たな任務や脅威が発生する可能性があるのです。ですから今の実情に応じた戦力ではなく、将来の新たな任務や脅威にも十分対応できる余裕ある戦力を盛り込むべきだとここで強く主張しておきたいと思います。 今の海自の苦境の元凶とも言える現防衛大綱ですが、日本初の「空母」として、マニアのみならず一般国民にまで関心が高い「ひゅうが」型護衛艦という副産物を生み出しました。「ひゅうが」型のあの大きさと形は現大綱における護衛艦の量的不足を質で補おうとした結果でもあるのです。 そんな「ひゅうが」型ですが、建造中だった2番艦「いせ」は儀装が終了し、先月後半からは海上公試で就役に向けた各種試験を行っています。この「いせ」のぎ装員長(就役後は初代艦長)は「はるな」最後の艦長だった星山一佐です。 艦の雰囲気は初代艦長で決まると言われますが、星山一佐は「はるな」の伝統と気風を「いせ」に植え付けてくれるものと大いに期待しています。 今年度退役した6隻の乗組員たちも、新たな艦に移っても退役した艦の伝統や気風を後世に伝えていただきたいと切に望みます。 「はつゆき」「さわかぜ」「ゆうばり」「ゆうべつ」「うわじま」「ミサイル艇3号」、長い間のお務めご苦労様でした! |
Vol 50 最前線の部隊指揮官・護衛隊司令 2010年12月12日 |
去年3月から実施されているソマリア沖・アデン湾における海賊対処活動ですが、今月1日に第7次隊として護衛艦「ゆうだち」と「きりさめ」が佐世保を出港しました。両艦は2〜3週間かけてソマリア沖に到着し、第6次隊の「せとぎり」「まきなみ」から任務を引き継ぎます。 第7次隊の指揮官は、7月下旬に開催された別府港でのイベントでお世話になった伊藤一佐(第7護衛隊司令)です。 海外に派遣される部隊が出港するとのニュースを耳にするたびに、私は無事の任務達成をお祈りするのですが、今回はお世話になった方が指揮官という立場で派遣されるので、その想いはひとしおです。 伊藤一佐、そして両艦の艦長をはじめとする約390人の隊員のご無事を心から願っております。 今回の「出港用意!」は、海外派遣部隊の指揮官を務めるなど最前線の部隊指揮官として奮闘する護衛隊司令がテーマです。 護衛隊司令とは複数の護衛艦で構成する護衛隊の指揮官です。海上自衛隊においては護衛隊が水上艦艇部隊の基本単位なので、その指揮官である護衛隊司令はまさに最前線の部隊指揮官という事になります。 もう少し具体的に説明すると、護衛艦などの水上艦は作戦行動においては単艦で行動することはあまりなく、多くの場合は同型艦などと一緒に行動し協力しながら任務にあたります。その水上艦艇の最小の集団が護衛隊であり、その指揮を執るのが護衛隊司令なのです。 海自幹部のみならず艦艇マニアもが憧れる護衛艦の艦長も最前線の指揮官というイメージがありますが、艦長は艦が最大限の能力を発揮できるように練成し、任務遂行中はそれを完璧に達成するべく艦の実務を取り仕切る実務責任者と言えます。 護衛隊司令と艦長の関係は、作戦や行動の立案・指揮を護衛隊司令が行い、艦長は司令からの命令・指示を完璧に遂行すべく己の艦を動かし、その行動に全責任を負うという形になります。 現在、海自の水上艦艇実力部隊である護衛艦隊には14個の護衛隊があります。 内訳は、ヘリコプターを使った対潜作戦を主任務とする第1〜4護衛隊、弾道ミサイル防衛と艦隊防空を主任務とする第5〜8護衛隊、沿岸哨戒や前哨防護戦闘を主任務とする地域配備型の第11〜16護衛隊となっています。 護衛隊司令が座乗する艦のマストには↑の画像のような司令旗が掲げられます。この旗を掲げる艦はいわゆる旗艦という事になります。実際には旗艦とは呼ばれず司令艦または司令座乗艦などと呼ばれています。司令は座乗した艦では艦長同様に個室(司令室)が与えられるほか、艦橋では左舷側に司令席が設けられます。 護衛隊司令の職に就くのは一等海佐です。 ただ、さすがに責任重大な指揮官職だけに、一佐に昇任してもすぐに護衛隊司令になれる訳ではありません。三段階に区分されている一佐職の(二)に該当する役職で、最短でも昇任から2年程度経過しなければ就くことができない役職です。 一方、同じ一佐職でもDDHやイージス艦の艦長は一番下の(三)に該当する役職なので、昇任後すぐに就くことができますし、場合によっては一佐昇任間近の二佐が就くこともあります。 どのような幹部が護衛隊司令に就いてるかといえば、年齢的には40歳代後半から50歳代前半の方が多いようですが、伊藤一佐のように45歳で就いている例もありますし、一佐の定年間近である55歳という方が就いている事もあります。 経歴ですが、海幕や統幕の班長・室長が異動してくる「市ヶ谷タイプ」と、DDHやイージス艦などの大型艦の艦長もしくはその経験者が異動してくる「海の男タイプ」の2つのタイプがあるようです。 前者は中央勤務が長く、艦長職も小型艦を1隻経験したのみという場合が殆どですが、防衛計画の立案や予算編成といった海自の根幹を成す業務を経験しているだけに、その指揮ぶりは大局的な見地に立ったものになるのではないでしょうか。後者は豊富な艦艇勤務の経験に加え、小型艦から大型艦まで数隻の艦長を務めた経験から、より実戦に即した指揮を執るものと思われます。 部隊指揮官としての護衛隊司令の仕事ぶりは、元海将補で護衛隊司令の経験もある渡邉直氏の著書「司令の海」(かや書房)に詳細に記されていますが、これを読むと群集合訓練で護衛隊対抗戦闘の指揮を執ったり、正体不明の潜水艦を発見して追尾したり、領海ぎりぎりまで迫る不審船に対処したりと、まさに最前線の指揮官と呼ぶにふさわしい奮闘ぶりが描かれています。 近年、海自艦艇が海外に派遣されるようになると、その指揮官も護衛隊司令の中から選ばれるようになりました。 ソマリア沖・アデン湾における海賊対処活動では、水上部隊指揮官は護衛隊司令が務めていますし、2001年から今年1月まで行われていたインド洋での補給活動でも、開始当初は護衛隊群司令が指揮官だったものの間もなく護衛隊司令に代わりました。 派遣される艦艇が2〜3隻と護衛隊に似た編成となるので、護衛隊司令が指揮する方が好都合という事かも知れません。また、護衛隊司令は幹部として脂の乗り切った年齢でもあるので、過酷な任務の指揮官として適しているという判断もあるのでしょう。 海上防衛の最前線で指揮官として奮闘する護衛隊司令ですが、部隊の指揮と並ぶもうひとつの大きな仕事が艦長の教育です。 護衛艦乗組員の頂点に立つ艦長ですが、その艦長でさえも学ぶべき事が多く、また艦長として高い次元を目指すには適切なアドバイスを与え、欠点を指摘して改善を指導してくれる“先生”が必要となります。その“艦長の先生”が護衛隊司令なのです。 護衛隊司令は座乗する艦を定期的に替え、乗った艦で艦長の指導にあたります。その方法は様々ですが、代表的なのが訓練を実施させて浮かび上がった問題点について指導するといった方法です。 他にも指定作業と呼ばれる抜き打ち訓練(内容は司令が指定)を行って緊急事態への対処方を試すほか、この指定作業を達成するまでの時間を艦同士で競わせることもあります。 また、訓練を行っていない通常の航海などにおいても、司令は艦長の仕事ぶりで気になった点があれば適宜指導を行います。 護衛隊司令が座乗している艦の艦長にとっては、艦における全ての行動が指導の対象であり、司令と一緒に艦にいる限りはいつ何時でも教育と指導が行われるという事になります。艦長にとって護衛隊司令は頼りがいのある上司であると同時に、気の抜けない怖い先生なのかも知れませんね。 おととし3月に護衛艦隊の大改編が行われましたが、各級指揮官の中でも護衛隊司令は改編の影響を最も大きく受けています。 大改編で変わったのが護衛隊を構成する護衛艦の顔ぶれですが、ドック入りの時期が近い艦同士を選ぶ形で護衛隊を再編した結果、隊内の各艦の母港がバラバラになるという事態になりました。 例えば第1護衛隊(所在地:横須賀)は「ひゅうが」「むらさめ」が横須賀、「あけぼの」が呉、「しまかぜ」が佐世保を母港にしています。伊藤一佐率いる第7護衛隊(舞鶴)は「みょうこう」のみが舞鶴艦で、「ありあけ」「きりさめ」「ゆうだち」は佐世保の艦です。 その結果、どういう事になったかと言うと、司令は艦長の教育等のため座乗する艦を変えるたびに遠距離移動を強いられることになりました。上記の1護隊の場合は司令が横須賀と呉と佐世保を行ったり来たりすることになりますし、7護隊の場合は舞鶴と佐世保を往来することを強いられます。伊藤一佐の前任の7護隊司令は約1年間の任期中、官舎と隊の事務所がある舞鶴にいたのは僅か2ヶ月のみ。あとの10ヶ月間は佐世保もしくは洋上だったということです。つまり、護衛隊司令は忙し過ぎて家にも帰れないという状況になっているのです。 このように護衛隊司令という役職は、業務の重大さもさることながら、労働環境も非常に過酷な激務と言うことができるでしょう。 にも関わらず、護衛隊司令の任にある幹部の方々は、護衛隊こそが海上防衛を担う最前線部隊との覚悟のもと、その職責を果たすべく懸命に働いています。わが国の周辺海域で、そして日本から遠く離れた海外派遣先で指揮官として護衛艦を率いて奮闘している14人の護衛隊司令に心から敬意を表したいと思います。 私たち艦艇マニアは、護衛艦の一般公開や体験航海の際には眩しい存在である艦長ばかりに注目してしまいますが、司令が座乗している艦を訪問した際には艦橋の左舷側にある赤いカバーの掛かったイスと、そこに座る護衛隊司令にもぜひ注目してみてください。 |