Vol 1  祝!HP完成!!                                               2008年1月20日
 やっと念願のホームページをアップすることができました!!
 なにぶんPCやらITやらに疎いもので、去年の8月から制作に取りかかったものの、いつしか季節はめぐり、アップできたのはお正月になってしまいました…(苦笑) で、アップはしたもののレイアウトが破綻していたり、誤字脱字が見つかったりと、いきなりサイトを運営する大変さを実感しております。

  このコーナーでは当サイトの管理人であり「自称・海上自衛隊研究家」のHARUNAが、海上自衛隊への想いを熱く語るほか、海自を取り巻く社会情勢や出来事、さらには海自へ対する提言(何とおこがましい!)などを日記風に書き連ねていこうと思っております。時には海自と関係のない事も書くかも知れません(笑)要は何でもありのコラムです。人に読ませるのも恥ずかしい駄文を連ねて行くかもしれませんが、お付き合いいだだけたら嬉しいです。
 またサイトの方はこのコーナー以外に、管理人が撮影した海自艦艇の写真を展示した「艦艇写真ギャラリー」、海上自衛官の階級章や徽章等を紹介した「階級章・徽章ギャラリー」がありますのでこちらの方もご覧いただければ幸いです。いずれも写真を中心とした構成で、管理人の拙い文章はありませんのでお楽しみいただけると思います(笑)

 未完成のコンテンツも多い「発展(?)途上のサイト」ですが、内容の充実に努めていきますので、このコーナーならびに「J-NAVY World」をよろしくお願いします。


 Vol 2 我が祖父は海軍の鬼兵曹                                        2008年1月25日      
 
 本日、新テロ特別措置法に基づき補給艦「おうみ」がインド洋に向けて佐世保を出港しました。昨日には「おうみ」の護衛にあたる護衛艦「むらさめ」が横須賀を出港しており、両艦は約5ヶ月におよぶ給油活動の任に就きました。
 
 派遣部隊の指揮官である佐伯精司・第1護衛隊司令が出港式典で印象的な挨拶をしています。「憲法違反と言われた一国民として我々にも意地と誇りがあります」(毎日新聞)。この前後がどのような内容だったかが不明なのでので佐伯司令の正確な意図は分かりませんが、おそらく「新テロ特措法の国会審議の中で野党から憲法違反と言われたのが悔しかった。意地と誇りにかけて任務を完遂する」と言うことなのでしょうか。いずれにしろ並々ならぬ決意が伝わってきます。派遣部隊が事故なく無事任務を果たすことを心から願っております。

 さて、記念すべき(?)第2回目は私の祖父についてお話します。
 「プロフィール」のコーナーでも触れていますが、祖父は旧日本海軍の機関兵曹でした。その祖父に育てられた父は大の日本海軍ファン、その父に育てられた私は海自ファン、即ち祖父は我が家系に脈々と流れる「海軍DNA」の原点なのです(少々大げさですが…)。

 左の写真は我が家の応接間に飾られているものです。
当時の最新鋭戦艦「陸奥」の全乗組員による集合写真で、大正12年4月の撮影です。
 祖父は前から5列目の1番主砲塔の少し左側に写っているのですが、眼光鋭いいかめしい顔面に見事なヒゲをたくわえた風貌は、まさに「鬼軍曹」です。精神注入棒を手に水兵を厳しく鍛えている姿が似合いそうです(笑)
  
 祖父の並んでいる列は兵曹の最前列(前の列は士官の列)であり、階級も一等兵曹であることから、今の海自でいうCPOに相当する立場で、実際に水兵や若手兵曹を指導する立場にあったと考えられます。


 我が家に残る経歴表(右下の写真)によると、祖父は佐世保海兵団での教育を修了後、最初に戦艦「比叡」に配属されています。その後、駆逐艦「白雪」、特務艦「鶴見」、佐世保鎮守府防備隊などを経て戦艦「陸奥」に乗り組み、昭和13年ごろ重い病気を患ったことから海軍を辞めているようです。この間、大正14、15年、昭和2年に練習艦隊に配属され少尉候補生を鍛えながらの遠洋航海に参加しているほか、この時期の激動する世界情勢に対応して、たびたび中国や東南アジア方面への警戒行動に出ています。

 祖父が海軍に在籍した大正〜昭和10年代前半は、太平洋戦争前の平時であり、海軍にとって最もいい時期にあたることから、私が子供の頃祖父から聞かされた海軍の話は、「アメリカに行って楽しかった」「フィリピンでバナナやパイナップルを腹いっぱい食べた」「陸奥の乗組みだったので女性に人気があった」といったような楽しい事柄ばかりでした。今思えば、それが幼い私の中に、海軍を好意的に捉え、艦船さらには海上防衛に興味を抱く素地を作り上げたのではないかと思います。
 こうして私は、軍事・兵器を絶対悪とする当時の反戦教育をもろともせず「海軍大好き少年」の道を爆走して行くのでした(笑)
 
 次回は私に「海軍教育」を施した父についてお話します。


 Vol 3  「江田島教育」を実践した父                                       2008年1月28日
 
 前回、このコーナーでインド洋での給油活動再開に伴って派遣部隊が出港した事を話題にしましたが、折りしも昨夜放送があった「NHKスペシャル」が、給油活動の中断が日米関係に及ぼした影響をテーマにしていました。
 
 NHKの取材班は、ワシントンにある日本大使館に勤務する防衛駐在官・吉田正紀海将補が、アメリカ海軍や国防総省、各国の駐在武官に給油活動が中断された事情説明に追われる姿を密着取材していました。インタビューの中で吉田海将補は、「インド洋方面におけるアメリカ軍の作戦や部隊運用などの情報が入手しづらくなり、入手できた情報も精度が落ちた」と、給油中断が日米関係に微妙な影を落としていることを認めていました。
 防衛駐在官の活動は普段目にすることはないだけに非常に興味深く、また国際社会において、インド洋での給油活動は単なる油の補給以上の意味を持っていることを実感しました。
 
 余談ですが、吉田海将補が自宅に各国の武官を招いてパーティーを開催する場面がありましたが、とても重厚な外観の広い邸宅でした。防衛駐在官の官舎ってすごい!また、海将補の冬制服に金色の駐在官飾緒を付けた吉田海将補はとてもカッコ良かったです。

 さて、今回は私の父についてお話します。
 この父こそが私の中の「海軍DNA」を覚醒させ、仕事そっちのけで海自艦艇の写真を撮りまくり、ついにはこのようはサイトまで開設してしまった原因を作った人物です(笑)
 
 父が少年時代の私をどのように育てたかの一例をご説明しますと…。
  ・朝5時に起床、体操のあと約3キロのマラソン。
  ・布団や毛布は端を揃えてたたむ。→少しでもズレていると怒って投げつけてくる。
  ・家の掃除は徹底的に。特に人目の付く玄関や廊下は3回磨く。応接間は同じ箇所を3回掃除機をかける。
  ・5分前行動の厳守。
  ・就寝前は正座し、目を閉じて一日を反省してから寝る。
  ・叱られる際は直立不動、さらには「歯を食いしばれ!」のセリフのあとグーで殴られる。
 

 これを聞いて「あれっ?」と感じた方はかなりの海軍通です。
 これって江田島の海軍兵学校の教育と似ていませんか?
 
 海自の幹部候補生学校は、兵学校の施設をそのまま使用し、教育方針も兵学校をそのまま踏襲しているのですが、私が記者として幹部候補生学校を取材した際には、妙な懐かしさとともに父の事を思い出しました。
 父は旧海軍に在籍していた訳ではありませんし、自衛官でもありません。おそらく父は帝国海軍軍人であった祖父から同じような教育を受けたのでしょう。(だからって息子に同じことするかぁ〜!)
父は常々こう言っていました。
「男は海軍に入らなければ一人前になれない。今の日本に海軍はないので代わりに俺が鍛える!」
むちゃくちゃな理論です(笑)
 書斎はほとんどが日本海軍に関連する本ばかり。好きな軍人は山本五十六元帥と井上成美大将。私に教えを説く際には何かにつけこの両提督を引き合いに出していました。おもちゃはあまり買ってくれませんでしたが、艦船模型だけはたくさん買ってくれました。
 
 こんな環境で育ったのですから私は立派な「海軍大好き少年」になってしまいました。しかしながら、小学校の教室の黒板に戦艦や空母の絵を書きまくり、阿川弘之の「山本五十六」で読書感想文を書く私は、教師たちには「危険思想を持った軍国少年」と映ったらしく、父はたびたび教師に呼び出されて注意を受けていたようです(自業自得です)。

 父は何故か海自にはほとんど興味を示さないのですが、護衛艦「ひえい」だけは、祖父が戦艦「比叡」に乗り組んでいたことから親しみを感じているようです。
 私が作った護衛艦「ひえい」の模型を戦艦「比叡」の模型と並べて書斎に飾っています。外出する時には、庇にスクランブルエッグが付いた「ひえい」の部隊帽を必ず被っています。おかげで近所の人からは「ひえいオジサン」と呼ばれています。
 
父は「ひえいオジサン」、
息子は「管理人HARUNA(はるな)」
という訳です。やれやれ…(笑)
 

 Vol 4  気になる艦名復活!                                             2008年2月4日

 早いもので2008年も1ヶ月が過ぎました。そして我がサイト「J−NAVY World」も開設1ヶ月を迎えました!「艦船ギャラリー」をはじめとして徐々にコンテンツも増えておりまして、何とか海自ファンの方々にお見せしても恥ずかしくない内容になりつつあるのかなと思っております。そろそろ検索サイトに登録申請しようかなぁ…。

 で、今回の話題は私が昨年の海上自衛隊の出来事で最も驚いた事についてです。
 それは「イージスシステム情報の流出」でも「航海日誌の誤破棄」でも「しらねの炎上」でもありません(これらも相当驚きましたが…)。私が驚いたのは「ひゅうが」「そうりゅう」の復活です。

 護衛艦「はるな」の代艦となるヘリ空母 16DDHの進水を前に、私はその艦名を予想してみました。
 私の予想した艦名は「あまぎ」もしくは「あかぎ」でした。
 
 16DDHは実質的にはヘリ空母なのですが海自的には新型の護衛艦(DDH)ということ、そして現在就役している4隻のDDHが山岳名から命名されていることから、「旧海軍の山岳の名を持った空母と同じ艦名になる」と考えました。そこで思いついたのが「あかぎ」「あまぎ」でした。ただ「あかぎ」はあまりにもイメージが強烈なので、まず1番艦は「あまぎ」、「あかぎ」は2番艦になると考えました。旧海軍でも「赤城」は「天城」と姉妹艦でしたし(天城は空母に転用されず廃棄)、太平洋戦争末期には雲龍型空母の2番艦に「天城」の名が付けられています。さらに「あまぎ」と「あかぎ」は良く似た名前なので、同型艦は同じ系統の名前とする海自の命名基準にもピッタリではありませんか!

 ところが、進水数日前になって艦名は4文字という情報が伝わってきました。
 4文字…私がまず考えたのは「かつらぎ」、もしかしたら山梨県の飛龍山から「ひりゅう」にするのではとも考えました。

 結果はご存知のとおり「ひゅうが」でした。
 まったくの想定外でした…。

 護衛艦の命名基準に「旧国名」という項目はないのですが、よく見ると「地名」という項目があります(知らなかった…)。「ひゅうが」はこの基準から命名されたのです。
 考えてみれば艦名が「ひゅうが」となった事も納得できます。戦艦なのに空母的な機能を持っていた「日向」と、「空母的な機能を持った護衛艦」である16DDHとは合い通じるものがありますからね。


さらに「日向」はレイテ沖海戦で「おとり部隊」に加わっていたものの巧みな繰艦で無事帰還、終戦直前の呉大空襲では猛攻撃にさらされながらも奮戦し、大破着底してもなお主砲を空に向けて応戦し続けた誠にアッパレなフネです。海自が16DDHに大きな期待をかけてこの名を付けたのも頷けます。

 私の部屋にはまだ作っていない戦艦日向の模型が…。「ひゅうが」復活記念に作ってみようかな(笑)

 「そうりゅう」はスターリング機関を備えた新型潜水艦の名前として復活しました。
 潜水艦はこれまで「○○しお」という名前が付けられてきました。命名基準にも「龍の名前」なんてありません。なのに何故「そうりゅう」なの?なんと、去年11月に潜水艦の命名基準が改正され、新たに「瑞祥動物」が加わっていたのです。ということは、2番艦以降に「ひりゅう」とか「たいほう」とか「ずいかく」といった艦名が続々と復活するかもしれません。
 
 それにしても「ひゅうが艦長」「そうりゅう艦長」という肩書き、カッコ良すぎます!!初代艦長となる自衛官の方が羨ましいです(笑)

 Vol 5 潜水艦の特別なしきたりと乗組員の誇り                                 2008年2月12日

 「艦艇写真ギャラリー」に潜水艦「おやしお型」と「はるしお」型の写真をアップしました。
 ということで、今回のテーマは潜水艦です(何と強引な展開だろう…)。
 この潜水艦、同じ海上自衛隊の艦艇でありながら護衛艦などの水上艦艇とはあらゆる面で趣が異なります。
 
 まず、なんと言ってもその隠密性です。遠くから見ただけでは艦名が分かりません(苦笑)
 
 
←この並んだ2隻の艦名、分かります?

恐らく第2潜水隊の「おやしお」と「うずしお」あたりではないかと思われますが、正確なところは不明です。
水上艦艇と違って艦番号と艦名の表示がありませんし、司令塔以外は甲板上にこれといった構造物がないので同型艦だと全く見分けがつきません。

竣工時には潜水艦にも艦番号と艦名の表記があるのですが、定係港に着くと真っ先に消されてしまいます。

海自の潜水艦は、日本近海の海中に身を潜めて警戒監視にあたることが主な任務なので、どの艦が出港していて、どの艦が母港で整備・休養にあたっているかは極力伏せておく必要があるのでしょう。その堂々とした容姿を海原に浮かべることで抑止力の一端を担っている水上艦艇とはまさに対極にあると言えますね。

 私は取材で何度か潜水艦に乗艦したことがあるのですが、その時とても驚いた事があります。
 
潜水艦の艦内はとても狭いのですが、艦長には狭いながらも個室が用意されています。

←これが潜水艦の艦長室です!

護衛艦の艦長室とは比べものにならないくらい狭く、簡単なテーブルとロッカー、ベッドがあるだけでギュウギュウです…。でも、浴室にさえ浴槽を設置できないほど狭い潜水艦にあって個室を用意されているのは、まさに艦の最高責任者である艦長の特権ですね!
 
潜水艦内の個室はこの艦長室ひとつだけです。では、艦長の上司にあたる潜水隊司令が乗り込んで来たらどうなるのか? ちなみに、潜水艦の艦長の階級は二等海佐、隊司令は一等海佐です。

艦長が個室を隊司令に譲るのかと思いきや、なんと!隊司令が他の幹部と一緒に3人部屋を使用し、ろくに体を起こすこともままならない窮屈な3段ベッドで寝起きするのです。


←これが、隊司令が潜り込む3人部屋と3段ベッドです
(狭っ!)

この狭いスペースで隊司令は書類の作成といった事務仕事をこなすほか、着替えなどの身の回りの事柄もここで済ませます。(というか、大人が3人いたら身動きできないのでは…?)
ちなみに水上艦では、隊司令には艦長室と同じ広さの司令室が用意されます。
この事は自衛隊という階級社会においては異例中の異例です。
陸上自衛隊に置き換えると、演習場で中隊長がテント内のベッドで眠り、連隊長が寝袋をまとって地面で眠るようなものです。絶対にありえませんが…。
 
何故このような独特なしきたりがあるのか尋ねました。
潜水艦は単独行動が基本であり、艦長は潜水艦隊司令官の直接指揮のもと艦の全面的な指揮権を握っています。一方、潜水隊司令は水上艦の護衛隊司令とは異なり艦の指揮権はなく、艦長の教育・指導が役割なのです。つまり、潜水艦内では階級は下でも指揮をとるのはあくまで艦長であることから、このようなしきたりがあるというのです。
 
もうひとつ、潜水艦で忘れてはいけないものがあります。
 
乗組員の左胸に輝く「潜水艦徽章」、通称「ドルフィンマーク」です。(写真右)
潜水艦は特殊なフネですので、乗組員になるには、適正試験をパスした後、呉の潜水艦教育訓練隊での厳しい教育と4ヶ月に及ぶ乗艦実習を修了しなければなりません。そして修了の暁に手にするのが「潜水艦徽章」で、これを持っているのは海自全体の4%の隊員しかいません。それだけに「選ばれし者」という強い意識があるのか、潜水艦本体はもとより艦隊司令部、群司令部、教育隊など潜水艦に関わるありとあらゆる施設にこのドルフィンマークが刻みこまれています。

乗組員の方々も一様に「潜水艦は誰でも乗れる艦ではない。ドルフィンマークを手にしているのは大きな誇り」と話します。この誇りがあるからこそ、狭い艦内で長期間の任務に就くことができるのでしょうね。

ちなみに、ドルフィンマークに描かれている動物はイルカ(ドルフィン)ではなくシャチです(笑)